後編
止まった烏と、進んでいく青年の話。
後編
三、彼にとっては命よりも大切な瞬間の話
―――人間というものは、思っていたよりも随分と貧弱な生き物らしい。
神様から二度目の命を授かってから、どれほどの時間がたっただろう。気づけば花が咲き、日差しが強くなり、葉に色が付いて、枯れていた。小さかった子供たちがいつの間にか大きくなり、ばらばらの家庭を築いていった。みんな、幸せそうだった。俺の姿が見えるものはいなくても。誰にも声が届かなくとも。あちこちに花開く笑顔は、俺にも小さな幸せを分け与えてくれて。
だがしかし真実は、幸せだと思い込みたいだけなのだということにも気づいていて。
「烏天狗になりたい、なんて…自分から言ったくせにな。あほみてぇ」
ため息とともに、久方ぶりの弱音がこぼれる。なるべく言わないようには務めていたつもりだが、こう長いこと話相手もいなければ独り言くらい吐き出したくなるものだ。
いつも通り、遠くで聞こえる子供たちの声に耳を傾け、鳥居の上で眠る。あの日から全く成長のない身体。鳥居の上に投げ出した足は、まだ小学生とも言えるほどに小さくて。
「…今更悔しがっても仕方ねぇんだけどさ」
諦めて背中の羽を収納し、何処ぞの野良猫のようにうつ伏せで横になる。自然に瞼がおり、眠りの世界へと誘われ(いざな)ようとする意識を、俺は拒まなかった。
―――最後に誰かと言葉を交わしたのは、いつだったか。香が引っ越してから、目に対する悪口が酷く増して。長らくふさぎ込んでしまったことを覚えている。誰もいない家の中で、蹲り、時々顔を上げては、香や彼のお母さんの名前を呼ぶことを繰り返していた。今覚えば、あの頃の俺は相当参ってしまっていたんだと思う。
でも、どうしてだろう。“あの日”、俺は昔のような元気さを取り戻していた。開けていなかったカーテンも、ゴミで溢れかえったワンルームも、そこにはなくて。そう、それはまるで、香がいた時のような。
『しきくん、あそぼう!』
…そうか。思い出した。あの日俺は確か、夢を見て。以前のように、香と神社で遊ぶ夢。思い切り駆け回って、転んで、土の上に寝転んで、大声で笑った。そんな夢。
『今日ね、多分しきくんにとってすっごくいいことがあると思うよ』
嬉しそうに話す香をよそに、俺はぶっきらぼうに返した。
ふぅん。いいこと、ねぇ。
彼のこぼれ落ちそうなほど大きな瞳は、陰ってしまいよく見ることができなかった。その時点で夢であることは認識していたはずなのに、なぜか俺は、あたかも香本人に言われたかのような感覚に陥って。
ほんとなんだろうな…嘘だったらゼッコーだぞ?
なんて、いかにもといった理不尽な約束までして。ゆーびきーりげーんまーん、うーそついたらはりせんぼんのーます。高らかに歌いながら小指を絡め、勢いよく離した。
あの日の俺は、その約束が本当であると信じ込んで。いや、信じ込みたくて、部屋を片付けたのだ。また香が遊びに来てくれることを思い描きながら。
『しーきくん、あーそーぼ』
そんな声が聞こえた気がして、目が覚めた。いつも通りの空と鳥居の感触。慌てて起き上がりあたりを確認しても、そこに彼がいないのは明白で。ため息とともに蘇るのは、あの日失った筈の鼓動の感覚だった。
「―――香」
「あの、もしかして…志月さんですか」
呟いた懐かしい名前。思いがけず重ねられた声に目を見開く。きっと聞き間違いだ。そう思って、明後日の空を向いた。あんなに寝たのにまだ眠気が取れていない。如何せん長い一日だ、もう少し寝ていてもさして支障はないだろう。再度眠りにつくべくまた横になる。
「…えーと、聞こえてない、ですか?」
けれど、遠慮がちに問うてくるのは紛れもなく先ほどの声で。
「…俺が見えてるのか」
戸惑いが隠せずに震えた己の声は、確かに彼に届いた様だった。途端に満面の笑みを浮かべたかと思えば、大きく頷いて。もちろんです、もちろんですと繰り返す。そのふんわりとした表情に見覚えがあった。
「あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。僕は―――」
「かお、る……?」
彼は、香だった。いや、口調に身長、体つき、何もかもが彼と似ても似つかないようだけれど、確かに。緩やかにカーブを描く癖のついた茶髪や、大きな黒い瞳はまさしく彼のそれで。
「……ふふ、やっぱり。お知り合いだったんですね」
可笑しそうに。されどどこか悲しげに、彼は笑った。それから、“僕は香月っていいます。残念ですけど、香は僕の祖父です”と。
「今日から丁度ひと月前、ですかね。祖父は亡くなりました。元々身体が強くなかったみたいですし、がんに侵されてからは早くて…。
ここに来たのは、生前に祖父が話してくれたからなんです。大好きな友達がいた場所なんだ、もう一度だけ行きたい。もう一度だけ、っていつも言っていて。体調を崩してから口数が少なくなってしまった祖父ですが、ここのこと―――もとい、貴方のことを話すときだけは、本当に楽しそうだったんです」
心がきゅ、と締め付けられる感覚がする。恥ずかしいような、切ないような、なんとも形容しがたい気持ちがしてむず痒い。
「……あいつが越したの、随分早かったのに」
「そう、なんですけどね。それだけ思い出深かったんだと思いますよ」
そう言って、香月と名乗った青年は話してくれた。彼の祖父、そして俺の唯一無二の親友である、神代 香が辿った一生を。
「祖父がこの村を出たのは九歳―――小学三年生の頃ですよね。曽祖父…彼の父親の仕事の都合でやむなく。相当辛かったみたいですよ。
新しい土地に移り住んだ後も、なかなか馴染めなかったみたいで。気弱な性格だったそうですし、何より貴方に突然別れを告げることになってしまった後悔が胸を締め付けて。長らくふさぎ込んでしまったとか」
同じだ、あの時の俺と。香の存在は、俺にとってとてつもなく大きなものだった。それゆえ失ってしまった時の絶望や無力感も大きく、精神を無遠慮に削っていった。
―――あいつも、俺と同じだったんだ。
「中学を卒業したあたり、ですかね。自立を目標に、貴方に会い行くことを決意したそうです。幸い昔から勉学には熱心に取り組んでいたそうですし、貴方に会えることが原動力になったのでしょうね。大学入学から一人暮らしを始めて、夏の長期休暇をきっかけにこの村への切符を手にしました。しかし―――」
「…俺は見つからなかった」
烏天狗になってしばらくは、天界で妖の生き方や破ってはいけない禁忌について学んでいた。俺にとっては短期間といえるその日数が、彼の人生の中では大きな割合だったとしてもそうおかしくはない。
「ご名答です。村中を探し回った祖父は、最後にこの神社にたどり着きました。…彼は境内に入ると特殊な力が使えていたのはご存知ですよね。“人ならざるもの”とも会話が可能だったらしく、貴方の行方を知っている者がいないか探し回って。昔からこの地に住む知り合いの妖を漸く見つけ出した祖父は、その一言を聞いた刹那泣き崩れたそうです」
「―――っ、」
彼はどんな思いだったろう。幼いころに再会を約束した友人が既にこの世から去っていて、ましてやそれが自分と別れてからそう経たない頃だったなんて。俺が香の立場だったら、きっと気が狂ってしまう。
「貴方が殺された理不尽な理由だとか、いつどうやって殺されたとか。事細かに説明を受けた祖父は、そのすべてを鮮明に想像してしまったのでしょう。暫くは立ち上がれずにその場で崩れ落ちてあなたの名前を呼んでいたそうです。何度も、何度も」
その話を聞いているうちに、申し訳なさと、再会が叶わなかったことの後悔と、香の優しさに対する温かい気持ちが入り混じって、俺は零れ落ちるものを抑えることが出来なかった。本当は、人間として生を持った状態で会いたかった。本当は、香と一緒に大きくなりたかった。
一度息が絶え、烏天狗として生まれ直した俺には心臓がない。故に、成長もなければ、血が出ることも死ぬこともない。香だけが大きくなり、子供、更には孫まで作って、病魔に侵されて亡くなったのだ。俺は一生このまま。あいつと別れた小三の夏の姿のままで。
「…僕、祖父に頼まれて此処に来たんです。自分の血が流れているお前なら、きっと見えるはずだから。どうか、志月くんを見つけてあげて、って。根拠のない自信だとつくづく思うんですけど、祖父はあなたが何らかの形で今もなお生きていると信じていたようなんです」
「……生きてはないさ。でも、香らしいな」
遠い昔に分かれた幼馴染の、太陽のような笑顔を思い出す。自分より他人を一番に考える、心の優しい彼は、最期まで自分のことを覚えていてくれたようだった。
「ふふ、初めて笑いましたね。会ってからずっと難しい顔をしていた」
「え…」
無意識だった。誰かと会話をすること自体が久々だから気づかなかったのかもしれない。笑っていたほうが素敵ですよ、とはにかむ香月。……恥ずかしいやつだなこいつ。
「一つ、おかしな提案をしていいですか。志月さん」
くるりと後ろを向いた彼は問う。着ている長めのローブが風になびいた。かつての親友の孫だというのに、その体躯は自分より遥かに大きい。
「ん、どうした」
改まった言い方には疑問を持ったが、自分に会うためにわざわざ遠くからきてくれたのだ。出来る範囲のことであれば協力してやるのが礼儀だろう。
「えーと……この年になって幼稚なことを言いますが笑わないでくださいね…?」
「ああ、約束しよう」
相当恥ずかしいようで耳まで真っ赤になっているが、言おうとしていることの想像が全くつかない。…そんなに言いづらいなら無理に言わなくていいとも思うのだが。
「僕と―――」
大きく息を吸い込んだ香月。揺れる祖父よりの大きな瞳。震える声は懐かしい言葉を紡ぎ、予想外のことに目を丸くする。
「鬼ごっこ、しませんか」
それは、親友と数えきれないくらい遊んだものの名前で。
「―――え、と」
「いやあのっ、いきなりそんなこと言われても迷惑ですよねごめんなさい!!僕を祖父の名前で呼んだ当たり相当仲が良かったのだろうなぁと思ったらつらくなっちゃって、それであの、彼の代わりと言ったらなんですが懐かしさに浸ってもらえたらなーとかちょっと考えただけなんで―――!!」
喜んで、と口にする前に。言ってきた張本人である香月に全力で否定されてしまった。なにもそこまで悪く思わなくても。ちぎれんばかりにぶんぶんと手を振っている。
「駄目だなんて、一言も言ってねぇけど?」
呆れ交じりのため息をつきつつ、承諾の証として立ち上がり、手をパンパンと叩く。最近はだらけてばかりだったが、体が鈍って無いことを願おう。状況が呑み込めていない様子の香月をそっちのけにして、走り始めるべく軽めの準備体操を始める。
「え、え??え???」
いやそんなぱちぱち瞬きをされましても。アンタが鬼ごっこしたいって言いだしたんでしょうが。と突っ込みを入れたい気持ちを抑えつつ、こきこきと指の骨を鳴らす。久々に腕が鳴る。
「やるからには徹底的に。―――覚悟しろよ?香月」
「ひっ、は、はい!!」
いっちょ、本気を出してやりますか。
にやりと笑った黒き鳥は、蒼穹に大きく飛び出した。
四、彼の中で生き続ける新しい思い出の話
「も、…ぜぇ、しきさん……っ、無理です…はぁっ、止まってくださいぃい!!」
顔を真っ青にした香月が降参の音を上げたのは、鬼ごっこ開始からわずか十分弱すぎた頃だった。両膝を地面についた彼は、苦しそうにぜぇはぁと肩を揺らしている。人間である香月の体力が無さすぎなのか、はたまた自分の体力が底無しなのか。…きっと後者だろう。この姿になってから誰かと本気で競うことなどなかったから気づかなかったが、俺はどこまでも化け物になってしまっているらしい。
「もう終わりかよ、つまんねーのぉ」
自分の身長の三倍を優に超える欅の木に軽々と飛び乗り、見下ろしながらばっさばっさと黒の翼をはためかせていれば、人間が天狗に勝てるわけないですよ!と切れ気味に返されてしまった。確かにその通りではある。…が。
「あれ、そういやお前当たり前のように俺と話してるけど、見つけた時なんで驚かなかったんだよ。いくら香から大方の話を聞いていたとはとはいえ、烏天狗になっていたことは予想外だったはずだろ?」
唐突に疑問が湧いてきた。俺が殺されて烏天狗になる決断をしたのは香が越してからだし、のちに本人が自分の死を知った時点で、孫である香月の中にあった「志月との遭遇率」は極端に低かったはずなのだ。だのにどうして、彼は。
「……相変わらず隠し事は通用しないみたいですね。そうです、確証があったからです。貴方がこうやって、烏天狗として存在し続けているという確証が」
そういう彼の表情はなぜか寂しげで。
「つまりそれって―――」
頭の中で渦巻いていたもやもやが次第に形を成していく。香月は香の孫で、俺のことは彼から聞いていて。同じく不思議な力が使えることには納得するが、自分の存在に驚かないということは、等しく「天狗になった俺のことを知っている存在」との接触があったということになるのではないか。ならば…
「今はまだ、教えられません。ごめんなさい」
問いかけようとした声を制止されてしまう。あいつと同じ、茶色の大きな目を潤ませた香月は、白く細い人差し指を口に当て、やわらかく微笑んだ。
「待っていただいてありがとうございます、志月さん。もう少しだけ遊びましょう?」
そのあとで、いつかわかる時が来ます、と。香月の唇がそう動いた気がした。
「鬼ごっこの後は木登りなんて、つくづく昔を思い出すなぁ」
休憩によってすっかり本調子になった様子の香月が、次に提案したのは木登りだった。なんでも、天狗である俺の普段の視界を見てみたいとかなんとか。本人から言わせてみればそういいものではないと思うのだが、彼にとっては相当面白いようで。何度かずり落ちそうになりながらも自力で俺のところまで登ってきた香月は、すがすがしい表情で空を仰いだ。
「うわー、気持ちいいですねぇー!!」
「……そうだな」
香と別れて以来だ。誰かとこんなに話して、こんなに遊んで、笑えたのは。嬉しくて、嬉しくて、涙がこぼれそうになったから上をむいた。俺を見てくれるやつも、俺と話してくれるやつも、滅多にいなかった。みんな、この赤い目を忌み嫌っていたから。俺の自慢を、受け入れてくれなかったから。
優しいところは祖父譲りなのだろう。泣きそうになっていた俺に気付いた香月が、そっとハンカチを差し出してくれた。ありがたく受けとる。ふんわりとした生地のそれは、花のような良い香りがして温かかった。
「ありがとう」
お返しと言っては何だが、かつて香にそうしたように、くりくりとした癖っ毛の頭をわしゃわしゃとなでてやる。突然のことで驚いた様子の香月は、「んなっ、もう僕大人ですよ!?」と慌てながらも、どこか嬉しそうだった。そういえば、香も撫でられることが好きだといっていたような。自分はあまり撫でられた記憶がないので、不思議な感じがする。どんな感覚なのかは分からないが、された側はいつも嬉しそうに口元を綻ばせている。きっと悪いものではないのだろう。
―――このままずっと、一緒にいられたなら。どんなに楽しいだろう。香月と過ごすうちに、そんな感情が膨らんでくるのに気づいた。俺は、ずっと孤独だった。誰かと過ごすことがこんなにも楽しいことを忘れていた。特別なことをしなくても、何かが欠けていても、悩みがあっても。ただそこに誰かがいるだけで、世界は変わるのだと。忘れていた。モノクロだった視界には色がついて、冷え切っていた心には温かさが取り戻された。そんな力が、「人との関り」には宿っているのだと。
(彼を、“神隠し”してしまいたい)
無意識のうちに、そんなことを思っていた。かつて自分が神様にかけられた呪い(まじな)。現実の時間軸から隔離された世界に飛ばされて、掛けた本人である神が解かない限り、永遠にその場に縛られるというもの。
自分がそれを行うことができれば、香の時のように離れていく後ろ姿を悔しげに見るだけにならなくて済む。人間である彼は進まない世界によって成長を止められ、バケモノの自分と同じく死を迎えなくなるのだ。曖昧な記憶ではあるが、確か人間は死を何より恐れる生き物だったはずだし、俺にとっては勿論、彼にとっても悪い話ではないのではないか。いや、きっとそうに違いない。
神隠し。別名は「天狗隠し」というのだったか。”あの日”の神様の行動を思い出す。天狗と名のついたものであるなら、俺にもできて当然のはず。思い出せ、思い出せ。
「場所を変えようか」
神様らしからぬのんびりとした声色。
「ここじゃ落ち着けないよね」
周りの喧騒と苦笑。
瞬きをするべく閉ざされた瞼の裏で、赤い瞳が直前まで映していたものは。
思い出せ。
思い出せ。
思い――
「残念だけど、そこまでだよ。志月くん」
記憶の中の声が己に語り掛ける。視界が見覚えのある真っ白な手によって塞がれる。温かくも冷たくもない神様の手。自らを烏天狗にしてくれたその神のものだと、一瞬のうちに悟った。
「かみ、さま…?」
「ああ、そうだよ。君の知ってるあの神様さ。でも再会を喜んではいられないかな……。忘れたのかい。君は烏天狗として現世に降り立つ前に、決して破ってはいけない三つの禁忌について教わったはずだ」
優しい口調とは裏腹に、語尾の強められた神様の声には怒りの色が感じられる。「禁忌」という単語によってうっすらと蘇る記憶。
「ひとつ、力のない人間に自らの存在を知られてはいけない。ふたつ、妖としての役割を忘れてはいけない。…志月くんの場合は、“村の子供を見守ること”だったはずだね。君はちゃんと仕事をしていたようだからそこは認めよう。だけど」
「みっつ。“妖”が、“神”になろうとしては、いけない…」
「そうだ。思い出したかい、」
妖は、もとより人間だった存在。自分と同じく天界へ送られた、理不尽な死を遂げた人間が、神様から与えられた選択によって姿を変えたもの。しかしその一方で、神は神として生まれ生き続ける存在でなくてはならない。人間だったものが妖から神格化することも、神のみぞ持つ力を使おうとすることも許される行為ではなかったのだ。
「今、君の禁忌を確認した私は、掟に乗っ取り人間の彼の記憶を消さなくてはいけないことになった。彼が持っていた、天界に干渉する能力もこの場で消す。申し訳ないけどね」
言葉が出なかった。せっかく俺のことを見てくれる人を見つけたのに、また一人ぼっちにされるのか。悪いのが俺なのはわかってる。禁忌のことを忘れて神隠しを起こそうとしたことも、何もかも自分勝手だ。でも、でも。
「……どうしてですか。なんで神様は、妖になっても俺に優しくしてくれないんですか。俺ばっかり不幸になってる。誰にも見られない、誰とも話せない。こんな世界に生きるなら、烏天狗になんかならないほうがよかった」
やはり、悔しかった。人の目に映らなくなることは百も承知だったはずだが、その先にある終わりのない孤独の存在に目を向けていなかっただけなのだ。本当は俺だって、愛されたい。褒められたい。認められたいのに。
「人の話を最後まで聞かないのは相変わらずみたいだねぇ、志月少年。なにも私は、それしか方法がないとは言っていないだろう」
ため息交じりの声。俺の赤い眼から手が離されて、視界がひらける。未だ世界は止まったままのようで、香月はこちらを見つめたまま微動だにしない。
他の方法があるとはどういうことなのか。香月の記憶も力も消えない、夢のような未来があるとでもいうのか。ごくりと喉が鳴る。
「――ただし」
神様はにやりと口角を上げる。まるで、烏天狗になることを提案してきたあの日のように。過去と現在が交差する。この神が言わんとしていることが、不思議とわかるような気がした。
「起きた禁忌がなかったものにされるためには、それ相当の代償がなければいけないんだ。掟通りにいくならば、それは人間の記憶。禁忌を犯した妖と人間との縁を切る方法しかない。
……ただね、志月くん。これは神様、というよりは…私個人の意見として聞いてほしいんだけど。いいかな」
神様と視線が合う。深紅の瞳と神様の白く透き通った瞳が、パズルのピースが嵌ったようにかちり、と。軽く頷けば、神様は続けた。
「私だって万能じゃない。寧ろ無力なんだ。君のような小さな男の子が命を絶たれるその瞬間を、黙って見ていることしか出来なかったんだから。許してほしいとは言わない。ただ、ただ…君には幸せになってもらいたいんだよ。大人の身勝手な都合で、たった九つにして死を迎えたんだ。そのくらいのことはしてやりたい」
それから、俺の頭に優しく手を触れて。
「もし君がいいというのなら。もう一度」
同じセリフを口にしようじゃないかと、笑う。
「『言うなればこれはそう――提案、かな』。志月くん、あの日と逆の道を辿ってはみないかい」
「逆の、道…?」
「そう、逆の道だ。人間だった志月くんはあの時、私の提案によって烏天狗になったね」
それの逆、ということは…?
全身が震える。ないはずの心臓が鼓動する。人間から烏天狗になる、反対。それはすなわち、化け物である俺が、成長を止められた身体が、もう一度息を吹き返すということで。
「察しがついた、って顔だね。……黒き翼、君が導き出した答えを教えてもらおうか」
止まった世界の中で、太陽だけが煌々と光り輝いていた。それはまるで、暗かった己の未来を照らす明かりのようで。
答えは最初から、ひとつしか思いつかなかった。
「人間に…戻らせてくれるんですか」
神様を見ていれば分かった。不条理な世界だと思っているのは下界で暮らす者だけではない。運命を司る神ですらできないことがあるのだと。自分の無力さに悩み、苦しんで、それでも数多の、神の教えを求める者たちのために、また前を向くのだと。齢九つだった赤い目の子供が他人によって命を絶たれてしまったことを、彼は自分の所為だと責めたのだろう。
悪いのは、あの大人なのに。神様のせいじゃないのに。
「君さえいやじゃなければ、ね」
「嫌なわけ、ないですよ」
自然とあふれ出る涙を止めることが出来なかった。さっき泣いたばかりなのにな。長く生きているとどうも涙腺が緩くなってしまうみたいだ。優しい友人の孫から借りたハンカチをぎゅっと握り閉めれば、それを肯定と捉えた神様がもう一度赤い目を塞ぎ、小さく零す。
「ごめんね」
「つらかったね」
「苦しかったね」
「もう、我慢しなくていいんだよ」
そして、あの日と同じく。すらりと長い指から温かい光を放った
刹那、思い出したくなかったことを思い出してしまう。
「黒き鴉の妖よ、汝を永遠の時から解放する。人の子に戻り給え、少年」
しかし時はすでに遅く。背中にあった翼がなくなる感覚がする。なくなっていた心臓が戻り、全身に血が回る。ああ、生きてる。そう思えた時には、世界は回りだし、神様は消えていた。
いや、実際にはそこにいるのだろう。そこで、穏やかに笑っているのだろう。しかし俺の瞳には、見えなくなっていた。
『神様と話すには、死ななきゃいけないからねぇ』
俺のことを心配し、真剣に悩んでくれた神様は、自分と話せなくなることを引き換えに人間に戻してくれたようで。彼だって寂しいはずなのに、こんな俺を救えなかったことを何年も、何十年も、後悔して。
「う、うぁあ、ああああああああああ」
三度目の命を授かってから初めて流した涙は、苦しくなるほどに温かかった。
――日暮が鳴いて、もう何度目かも分からない夏が終わる。けれどもこのひと夏は、きっと。今まで生きた長い長いときの中で、間違いなく一番記憶に残るものだっただろう。
背中にあった翼はもうなくなってしまったけれど、その代わりに俺が手にしたものは、かけがえがなく大切なもので。
人と生きること。それは、喜ばしいことばかりではない。意見が合わずに対立することもあるし、人に傷つけられたり、傷つけてしまったりする。でも、人に見てすらもらえなかった俺にとっては、ただそこにいてくれるだけで、話を聞いてくれるだけで嬉しいと思えるのだ。
今は生きていることが何よりも幸せだけど、もしもう一度この命が尽きたなら。その時は、また――
少年の目に映らなくなった神様は懐に入っていた「妖帳簿」を取り出し、そのうちの一頁を破っては、小さくちぎっていく。これはもう必要ないよね、と満足げな顔をして。
「――九瀬 志月。目が赤かったことを理由に、十分な幸せを得られずに死んだ子供。人として生きることは嬉しいことばかりではないけれど、せめて。溢れんばかりの幸せが、君にあらんことを。例えそれがちっぽけな幸せとしても、ね」
終
終わったぁああああああああ!!!!!!!!!よく頑張った僕、ほんと、疲れた!!!!結局後編も前編と同じ量書きましたアホかな。何回やっても学習しないね僕。なんでプロット書いてから書き始めないんだろう…絶対削れたところあったよね。
はい。お騒がせしました。本編に書けなかったことが山ほどあるのでここで少し解説をさせていただきます。
まず香くんが志月くんを探し回っていた時に、「昔からこの地に住む知り合いの妖」みたいな描写が出てきたと思うんですけど、この妖は大きくなったみずうさぎです。どこにだそうかめちゃくちゃ迷った結果申し訳程度にだしましたごめんみずうさぎ。本当はお前作る予定すらなかったんや…。なんで作ったのかすらおぼえてないんや…。
まあこれは置いといて。お次は香くんの孫を「名乗っていた」香月くんについてです。ええ、名乗っていたんです。本当は孫ではなく、生まれ変わりをした香本人なのでした。(口調が違ったのはばれないようにするため。)病死した香は天界に干渉する能力を駆使し、神様と交渉したのです。記憶をもったまま、現世に生まれ直すこと。あと、現在の志月の所在も一緒に。それと引き換えに、自分の体力を少し差し出しました。鬼ごっこに勝てなかったのは志月が化け物だったのももちろんありますが、少なからずこのことは敗因の一つになっていたようです。何年も季節を繰り返したはずなのに、たった二世しか生きてないなんておかしいですもんね。実際志月は何百年も一人で生きていました。かわいそうな主人公になってしまった…ごめんよ…。
書きたかったのはこのふたつだった、気がします。神隠しのルールみたいなものは、結末が思いつかな過ぎて半分やっつけで考えたものですがいかがだったでしょうか。自分的には中々うまくいったんじゃないかと思います。また、文字数が初めて二万文字を突破し、本当にびっくりしました。僕でも長編って書けるんだなぁ。すごいや。この調子で頑張っていきたいと思います。無駄に長くする癖さえ直せばそこそこ読める話だと思うんです。
では、こんなに長い文章を最後まで読んで下さった全ての方に感謝!!