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少年と黒猫ノワール  作者: 村田 海広
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黒猫ノワール

第一話


桜の花びらが風に揺られて、くるくると宙を舞っている。

「綺麗だなー……」

首元から、黒猫のノワールがひょっこり顔を出し、口を開いた。

「ちょっと、(しゅう)!高校二年生なんだから、もっと気を引き締めなさいよ!」

「はいはい、わかってるって」

ノワールと何で会話できるんだって?それは、俺が動物の言葉がわかるから。理由は、数年前、俺がまだ小学生だったころまで遡る。


 その日は家族旅行で東京の巨大なテーマパークに行く途中だった。車の運転中に、父さん、母さん、姉が眠ってしまったのだ。

「父さん、母さん!ねーちゃんも、起きてよ!寝てると、死んじゃうよ!」

必死で全員に声を掛けたり揺さぶったりしたが、誰も起きない。そうこうしているうちに、車がガードレールを突き破り、崖の下へ落下した。

 目を覚ますと、そこは林の中。夜中に出発したので、辺りは少し明るくなってきている。車の窓ガラスが割れ、車のシートにまで刺さっている。まだ、みんな目を覚ましていないようだ。

「みんな……何で起きないんだよ。ねーちゃん、起きてよ!父さんも母さんも、何で何にも言わないんだ」

どうしよう。ここがどこかもわからない。みんな、目を覚まさない。不安で、涙があふれてきた。

「泣かないの。男の子でしょう」

どこからか声が聞こえた。涙を拭って前を見ると、そこには真っ黒な猫がいた。

「猫……?お前が喋ったの?」

猫は、こくんと頷いた。

「そうよ。普通は鳴き声にしか聞こえないはずなんだけど、あなたには聞こえたのね。あなたの家族は、残念だけど全員死んでいるわ」

猫は、悲しそうな顔をしてそう言った。

「そんな……嘘だよ、みんな、死んだなんて。さっきまで、生きてたんだ」

「でも、今はそうじゃない。まだ幼いあなたに言うのは酷だけど、あなたのお父さんの胸に樹の枝が刺さって、シートを貫通している。お母さんは、車が落下して、何かにぶつかったのね。顔がめちゃめちゃだわ。あなたの隣に座っている女の子……お姉さんかしら。彼女も、お母さんと同じように落下して頭を打ったのね。よく見なさい。口から、血が溢れているわ」

猫に言われるまま、家族を見た。さっきまで眠っているように見えたのに、よく見ると全員死んでいる。

「……本当だ」

「このままでは、あなたも死んでしまう。早くここを出るの。ここから出て、近くのトンネルに非常用の電話があるはずだわ。そこまで行くのよ」

 怪我をしないように、ゆっくりと車を出た。振り向いて、家族を見る。みんな、本当に死んでいるんだろうか。もしかしたら、後で起き上がるかもしれない。

「……行きましょう。あなた、名前は」

「柊。橘柊。小学五年。猫は、どうして俺を助けてくれんの?」

猫は、悲しそうな眼をして俺を見て言った。

「私も、事故で家族を亡くしたの。飼い主も、母猫もね。兄妹も死んだ。だから、あなたのこと放っておけなかったのよ」

そこから少し歩くと、道路が見えた。近くにトンネルがある。中に入って、事故が起こったこと、自分がここにいるということを伝え、その場にしゃがみ込む。

「疲れた……眠い」

「眠りなさい、私がいてあげる」

そのまま、俺は眠りについた。


 「柊!起きろ、大丈夫か!」

頬を叩かれ、目を覚ますとそこには蘇鉄(そてつ)叔父さんがいた。辺りには、見たことがない数のパトカー。異様な光景に、一瞬で目が覚める。

「叔父さん、父さんや母さん……ねーちゃん、生きてるよね?俺、夢見てたと思うんだ。これからみんなで、デイジーランド行くんだ。蘇鉄にも土産買わないとな、って父さん言ってた」

俺が喋りだすと、叔父さんは目をぎゅっとつぶり、頭を振ってこう言った。

「……柊、デイジーランドは、行けないんだ。お前の家族は……」

叔父さんの横をすり抜けて、さっきの黒猫が現れた。……夢じゃ、なかったんだ。黒猫をぎゅっと抱きしめる。

「死んだんだね、みんな……」

俺がそう言うと、叔父さんが声を殺して泣き始めた。俺は泣くことが出来ず、下を向いて猫を抱きしめ続けた。


 それから俺は蘇鉄叔父さんに引き取られ、黒猫を俺が放さないので、仕方なく猫も飼うことになった。

「名前、何がいいかな。やっぱ、黒いから黒かな」

「嫌よ、そんな名前」

叔父さんの住んでいるマンションの居間でゴロゴロしながら猫の名前を考えているのだが、どれも気に入らないらしく嫌だと言ってそっぽを向く。

「英語は?ブラックとか!かっこいーじゃん」

「私は女の子なの。もっと素敵な名前にして」

俺と黒猫が名前について喋っていると、ベランダで洗濯物を干していた叔父さんが声を掛けてきた。

「柊は、いつもその猫と喋ってるんだな。まるで言葉が通じてるみたいだ」

「そりゃそうだよ、二人でしゃべってるんだもん」

俺がそう言うと、叔父さんが大きな声で笑った。

「そうか、二人か。そういえば、お前の父さんも子供の頃、動物と会話してることがあったな」

「父さんも……」

ふと、事故のことを思い出した。今になって、みんなが死んでいたときの光景が目に浮かぶようになった。車の中で、俺以外みんな死んでいる。普段は忘れるようにしているが、こうやって思い出すことがある。

「しゅ、柊!今晩は何が食べたい?またラーメン食べに行くか!」

俺が落ち込んでいるから、励まそうとしているのだろう。

「……うん、ラーメン食べたい」

俺がそう言うと、叔父さんがほっとした表情になる。

「お前は本当にラーメン好きだな」

「うん、将来は、ラーメン屋になるんだ」

「そうかそうか。じゃあ、叔父さんがお客さん第一号になってやるから、ラーメン作りの勉強しなきゃだな」

叔父さんは再び洗濯物を干し始めた。

「柊、そんなに気を使わなくてもいいんじゃないの。あなたのおじさんなんでしょう。素直に悲しいって言っていいのよ」

「うん……」

起き上がり、自分の部屋へ行く。元の家から持ってきた、俺の荷物が入ったダンボール箱が一箱置きっぱなしだ。

「これ、開けないの?柊」

「すっかり忘れてた。叔父さんのマンションに来てから、転校とかで忙しかったから。開けてみよっか」

ガムテープを取り、ダンボール箱を開ける。中には、叔父さんが詰めてくれた俺のおもちゃやゲーム機、漫画が入っていた。

「あれ、これ……ねーちゃんのだ」

一番下から、ねーちゃんの好きだった探偵小説が出てきた。大人気シリーズで、ドラマや映画にもなっている。

「刑事ノワール?面白いの、それ」

「これだ!お前の名前、これにしよう。ノワールって、フランス語で黒のことだって、ねーちゃん言ってた。お前、黒いしぴったりじゃん」

「ノワールね、悪くないわ」

猫……じゃなくて、ノワールは、ふふっと嬉しそうに笑った。


事件の後、家族の荷物、俺の荷物を叔父さんが引き取りに行ったのだが、家の中が荒らされていて、父さんの部屋はほとんどからっぽの状態だった。叔父さんの話では、泥棒が入って父さんの荷物を持って行ってしまったそうだが、そんなの、信じられない。

ちょっとぬけたところがあるけど、しっかり者だった父さん。いつも優しく、時には厳しかった母さん。喧嘩ばっかりだったけど、学校の帰り道、いつも俺を心配していたねーちゃん。

「絶対、事故じゃない。俺、大きくなったら叔父さんみたいに刑事になって、どうしてみんなが死んだのか、絶対に突き止める」


 今までのことを思い出しながら歩いていると、ノワールが俺の頭をばしばし叩いた。

「柊、しゅーう!あれ、見て!」

前を見ると、同じ学校の制服を着た派手な女子が、犬の散歩をしているお爺さんに罵声を浴びせている。

「すみません、何かあったんですか?」

茶髪で真ん中分けの女子が、俺を睨んだ。

「何かあったから、ジジイに文句言ってるんですけどー」

俺も、何があったかわからないから聞いているのだが。この子と話していても、らちがあかなそうだ。

「お爺さん、大丈夫ですか?」

「はい、すみません、すみません……」

お爺さんは、下を向いて涙をこぼしている。

ノワールが、小さな声で俺に耳打ちした。

「柊、その犬に聞いてみなさいよ」

「だな」

今度はかがんでお爺さんの連れている犬と目線を合わせる。

「何があった?」

犬が、怒った声で俺に話しかけてきた。

「この二人が、ご主人が俺と散歩しているのが邪魔だと言うんだ。ご主人は足が不自由で、普通のスピードで歩けないんだよ。だからゆっくり歩いているのに、さっきからずっと死ねとか老害とか、嫌なことを言い続けてるんだ。……人間に言っても、通じないけどな」

ノワールが、俺の頭の上で笑った。

「大丈夫よ。この子、動物の言葉がわかるの。あなたとお爺さん、必ず助けるわ」

 ゆっくり立ち上がり、二人の女子を見る。

「二人とも、お爺さんが足が悪いって気付いてた?」

「知るわけねーじゃん」

さっきの髪の長い子が、吐き捨てるように言う。隣にいる金髪のボブの子が、お爺さんをじっと見た。お爺さんは、まだ怯えているようで涙目だ。

「……そーかも。あたしらが歩いてるとき、足重そうだった。んじゃ、悪いのあたしらだ。ゴメンね、じーちゃん」

ボブの子が、お爺さんに頭を下げた。思ったよりも素直らしい。

「……いや、大丈夫だよ。こちらこそ、もっと端に避けるべきだったのに、足が動かなくてね。すまないね」

お爺さんが顔を上げ、笑顔を見せた。それを見た茶髪の子が、俺とボブの子を交互に見てうろたえている。

「こ、ここまで言って謝れないし……」

茶髪の子も、そこまで悪い奴ではないようだ。俺は笑って、茶髪の子の頭を撫でた。

「大丈夫だって。案外かわいーな、二人とも」

茶髪の子が俺の手を祓って、お爺さんに謝る。

「ごめんね、じーさん……」


 お爺さんが歩いて行ったのを見送って、学校へ歩き出そうとするとボブの子から声を掛けられた。

「アンタ、何者?何でさっきのじーさんが足が悪いってわかったの。おかしいでしょ、アタシらより後から来たのに」

そう言ってボブの子が俺を睨んだ。

「何者って……俺は、橘柊。それよりもマジで遅刻するから、先行くわ。じゃーね」

そう言って二人に手を振り、走り出した。

「ヘンな奴。まあ、見た目は悪くなかったけど。ねえ、香織はどう思う?」

「……杏、やばい。アイツ、好き」

「は?」


 急いで学校へ行き、新しいクラスのドアを開ける。もうクラスも発表されて、誰がどのクラスになったかわかるのに、この瞬間はいつも緊張する。ドアを開けると、友だちの木場(きば)(ひろ)()がいた。

「よう、柊。珍しいな、お前が遅刻ギリとか」

「人助けしてて遅れたんだよ。つか、お前こそ、その金髪どーすんだよ。まーた注意されんだろ」

俺がそう言うと、紘葉がにやりと笑った。

「大丈夫!すでにされてっから!」

「全然大丈夫じゃねーな……」

紘葉はこんな奴だが、サッカー部のエースストライカーだ。一年の頃から金髪で、先生に注意されまくっているのだが本人は全く気にしていない。

「柊、紘葉!おはよう」

二人でしゃべっていると、後ろから声を掛けられる。紘葉は驚いたのか、俺の後ろに素早く隠れた。

「何だ、蓮かー!先生かと思ってビビった」

「ビビってるなら、いい加減金髪は卒業しなさい」

にっこりと微笑むコイツも、俺の友だち。(すず)木蓮(きれん)。トレードマークの黒縁眼鏡をかけなおして荷物を置き、俺たちの会話に加わる。

「今年は、柊と紘葉が一緒で嬉しいよ。去年は、ぼっちだったから」

蓮が穏やかに微笑みながらそう言うと、紘葉が俺の前に出てきて口を開いた。

「ぼっち……?嘘つけよ!お前、彼女と同じクラスで毎日リア充してただろ!俺を見ろよ、女子にモテるためにカッコイイ金髪、サッカー部でも大活躍!べ、勉強はできねーけど……なのに、彼女が出来ないんだぞ!彼女がいる奴は、ぼっちとは言わないんだ!」

 そう、紘葉は、顔もそこそこでスポーツも得意だが、とにかくモテない。

「まあまあ、紘葉、落ち着けよ。二年になったらミラクルがおきて、すげー人気者になるかもしんねーよ?」

紘葉が俺を睨んだ。忙しい奴。

「柊、お前にだけはそういうこと言われたくねえ!一年の頃からめっちゃモテるだろ。俺は知ってる。お前が、何人女子を泣かしたか!」

女子を泣かせてはいないが、高校に入ってから確かに女子から声を掛けられることが多くなった。

「俺は女子を泣かしてないし、むしろ去年は大変だったんだぞ。クラス中の女子から次々に呼び出されて告られるから、マジで罰ゲームかなって……」

俺がそう言うと、紘葉が悲しそうな顔をして涙を流した。これが百面相ってやつ?

「そういうのが、モテるって言うんだ……俺は努力してるのに、何でお前らばっかり……」

蓮が紘葉の肩を叩く。

「紘葉、多分だが、努力の方向が間違ってるんだと思うよ」

そんな話をしていると、教室のドアが勢いよく開いた。担任の萩原先生だ。

「みんな、席に着いてー!出席取るよ」

「萩原っちー!彼女できたぁー?」

教卓の真ん前に座る紘葉が、クラスに響き渡るような大声で叫んだ。萩原先生は背が高く童顔な男の先生で、女子に人気があるのだが、いまいち威厳がない。

「紘葉さん、そういうのは、ホームルームの後で聞いて。ええと……」

紘葉の声をスルーして、萩原先生が出席簿を開いた。

「出席番号順に呼ぶから、座ったまま返事してください。えー、天野くん」

自分の名前が呼ばれるのを待っていると、教室の後ろのドアが開いた。そこにいたのは、さっきお爺さんに謝ったあの二人組。どちらも、物凄く不機嫌そうな顔をしている。

「そこの二人!えーと……木下さんと桜井さん。今日はどうしたの?」

「ハギセン担任かあ。アタシら、さっき竹センに捕まってたんだよね。学校には、チャイム鳴る前に入ったんだよ」

ボブの子は木下というらしい。

「わかった。でも、二人ともスカート丈のことで注意されて遅れたんじゃない?そこはどうしたらよかったか、もう一度考えてね」

「萩原、アタシらの席は?」

「こら、桜井さん。先生付けなさい」

「ハイハイ。ハギーせんせ、席教えてよ」

「桜井さんは、窓際の席の一番後ろ。橘くんの隣です。木下さんは、真ん中の一番後ろ。河原(かわはら)さんの隣」

俺の隣に、さっきの長い髪の子が座った。

「よろしく。俺、(たちばな)(しゅう)

「……桜井(さくらい)香織(かおり)。さっきは、ありがと」

「誰にでも間違いはあるし、気にすんなよ」

俺がそう言って窓の方に目をやると、肩を叩かれた。

「ねえ、柊でいい?」

「別にいいけど」

「アタシは香織でいいから!」

「わかった。香織」

そう言うと、香織はにやりと笑い、右を向いて木下にピースした。


 「よかったわね、柊。遅刻せず学校に来れたし、お爺さんと犬も助けられたし……」

学校が終わり、帰路に着くとノワールがどこからともなく現れた。

「だな。あの二人組の女の子、俺と同じクラスだったけどな。一人は隣の席だし」

ノワールがひょいっと俺の肩に乗った。

「そうなの。まあ、柊なら上手くやっていけると思うけど、変なことに巻き込まれないように気を付けてね」

「はいはい。あ、夕飯の買い物してくるから、ノワールどっかで時間潰してて」

 学校の近くにあるウイルマートは、帰宅時間とタイムセールの時間が被るので、よく買い物をして帰る。

 中に入ると、なかなかの人だかりだ。卵と野菜を買い、外に出ると反対側に蓮が歩いているのが見える。いつも彼女と帰っているのに、珍しい。

「柊!待ちくたびれたわよ。帰りましょ」

「うん……」


 「ねえ、柊。あんたの友達の眼鏡イケメンいんじゃん?」

放課後、香織が話しかけてきた。眼鏡、ということは、蓮だ。

「蓮?蓮がどーかした?」

香織の後ろから、木下杏が現れる。

「レンレンさあ、今、一年の女の子にめっちゃアタックされてんの。知らない?まあ、イケメンだしわからなくもないけどさー、人の彼氏にちょっかい出しちゃダメだよね」

「知らない。そういうこと、あいつあんま話さないし……」

 蓮とは叔父さんに引き取られ、こっちの学校に引っ越してすぐ仲良くなった。昔から勉強が出来て、スポーツも得意だし、悩みがあっても聞き役だった。俺も、蓮が弱音を言うところは見たことがない。

 香織が、スマホを取り出し、俺に手渡してきた。

「これ、見て。この一年、ちょっとヤバそうなんだよね。……うちらが、じーさんのことで揉めてたとき、助けてくれたし。柊なら何とかできるんじゃないかなと思ってさ」

渡されたスマホを見ると、そこにはオダマキ、という名前と写真がアップされていて、見たことのない女の子が蓮の隣に映っている。

写真の上に「私の彼氏でーす!」と書いてあった。


 帰り道、ノワールと合流して、さっきの話を聞かせると、テニス部をこっそり見に行こう、ということになった。幸い、今は叔父さんが連続放火犯を追っていて、一週間はアパートに帰らない。急いで帰宅して、家事をしなくていいので、時間はたっぷりある。


 ノワールを肩に乗せ、テニスコートを見に行く。うちの学校は、テニスコートを半分で分け、男子テニス部、女子テニス部で活動しているので、男子部員が女子部員にテニスを教えることも多い。

 男子の方を見ると、蓮が女子にテニスを教えている。女子は五人。その中の一人が、蓮の後ろを歩いている。さっき香織に見せてもらったオダマキだ。

「あの子だ」

「まあ、何というか……蓮くんの彼女とはタイプが違うわね」

 蓮の彼女は黒髪のポニーテールが似合う、おっとりした可愛らしい子だ。誰に対しても優しいので、蓮と付き合っているという噂を聞いた男子たちが涙を流したらしい。

 オダマキという女の子は、ショートカットの髪を後ろで刈り上げていて、髪の色はピンク。黒縁眼鏡に、大ぶりのピアス。化粧は派手で、香織と木下よりも悪い意味で目立っている。

「ねえ、蓮先輩。この後、どっかいきません?今日、私ヒマなんですよおー」

周りに聞こえるくらい大きな声で、オダマキが連に話しかけ、まとわりついている。

「ごめん、小田さん。今、指導中だから、大人しくしてて。あと、何度も言ってるけど彼女いるから君とは付き合えない」

蓮がそう言ってオダマキを突き放すが、彼女は諦めず蓮に話しかけている。周りの一年生女子四人も、何故かクスクス笑っている。

「小田真希さん、だよね。他の子も、蓮も困ってるから私が教えるよ」

そこに、蓮の彼女の常盤蘭子が現れた。オダマキは、面白くなさそうな顔をしている。

「……常盤先輩、蓮先輩のこと呼び捨てにするのやめてもらっていいですかぁ?蓮先輩は、

もう私の彼氏なんだから!」

オダマキは、そう言って体操着のポケットからスマホを取り出し、常盤さんの顔に画面を突き付けた。

「……何、これ」

「ね?常盤先輩。あなたは、邪魔者なの。私の友達だって、蓮先輩が私の彼氏だって知ってるんだから」

さっき笑っていた四人は、笑いながら常盤さんに向かって酷いことを言い始めた。

「うける、勘違い女」

「ねー。真希のSNS、有名なんだから。もう学校中に写真回ってるんじゃない?」

「常盤先輩が彼女だった時代、終わってるし」

それを聞いて、常盤さんは、肩を震わせてコートを出て行った。

「小田、それに、一年……お前ら、蘭子に何見せたんだよ!」

コートに居た生徒全員が、蓮たちに注目する。

俺も、こんなに怒った姿を見るのは初めてだ。

「私、真実を教えただけなんですけど!ほら、この間、蓮先輩にも見せたでしょ?この写真!私たち、付き合ってるって写真回したんですよー!」

「……小田の言っていることの意味がわからない。俺は、蘭子と付き合ってるんだ。そのくだらない写真、今すぐ消せってこの前も言っただろ。大体、その写真はお前が無理やり撮ったんだ!」

オダマキは、それを聞いて大声で笑った。

「蓮先輩、写真が回ったら、それはSNSでは真実になるの。だから、もうあなたは私の彼氏って学校のみーんな思ってるんですよ。そろそろ諦めて、大人しく私の彼氏になったらぁ?」

そこに、陸上部とテニス部を掛け持ちで顧問を担当している石原先生が駆け付けた。

「お前たち、何やってるんだ!揉め事になるようなら、男女別々に練習してろ!まったく……陸上部は県大会に向けて頑張ってるんだ。テニス部みたいにお気楽じゃないんだからな。大人しく練習してろ」

石原先生は、そう言って連と一年生をそれぞれのコートへ入るよう指示し、陸上部に戻って行った。上手くいっている部に一生懸命になるのはいいが、テニス部も同じように見守ってくれればこんなことにはならなかったんじゃないか。

「柊、常盤さんを追いかけましょう。何があったのか気になるわ」

「そうだな。でも、どこ行ったのかわかんねーよ」

ノワールが俺の頬を叩く。

「バカね。私がいるでしょう。彼女の足音がする方向、柊に教えるわ。ついてくるのよ!」


ノワールの耳を頼りに、常盤さんを探す。

「一階から声が聞こえるんだけど……壁があるみたいで、よくわからないわね」

「じゃあ、片っ端から教室見ていくか」

一年生の教室を一つ一つ見ていくが、常盤さんの姿は無い。途中で、同じクラスの委員長、河原さんとすれ違った。

「あの、河原さん」

「……はい?」

河原さんは、分厚い眼鏡に黒髪の三つ編みでまさに委員長、という感じ。真面目で勉強も出来、クラスのみんなから頼られているが、あまりに完璧すぎて謎の人だ。

「常盤蘭子さん、見なかった?隣のクラスの」

「ああ、蘭子ちゃん。ショックなことがあったみたいで、中庭で休んでた」

「ありがと!」


 急いで中庭に行くと、ベンチで常盤さんが泣いているのが見えた。そっと近づいて、声を掛ける。

「常盤さん、どうしたの?大丈夫?」

「柊くん。……ちょっとね。大丈夫だよ」

「……さっき、テニス部の練習見ちゃったんだけど。一年と何かあったの?」

常盤さんは、それを聞くと俯いてしまった。

「ご、ごめん!俺、変なこと聞いちゃったかな……」

「大丈夫。……ちょっとだけ、話聞いてくれる?」


 放課後と言うこともあり、中にはあまり人がいない。常盤さんは、涙を拭いて話しはじめた。

「さっき、小田さんにSNSの画像見せられたんだけど……蓮と二人で映ってたの。画像の上に、ついに彼氏になってくれました、って……コメント欄も今見たんだけど、同じ学校の人がおめでとうって書いてるし、本当に小田さんのこと、好きになっちゃったのかな……」

そう話し、常盤さんは泣き崩れた。

「泣かないで、常盤さん。蓮は、誰かに乗り換えるような軽い奴じゃないよ。……俺、小学校の途中から転校してきたんだけど、こっちに越してきてから全然友達出来なかたんだ。そのときに、蓮が話しかけてくれて、今があるっていうか……だから、信じてやって」

常盤さんは、顔を上げて微笑んだ。

「……ありがとう、柊くん。そうだね、蓮を信じるよ」

「柊、誰か、こっちへ来るわ」

ノワールが、誰かの足音を聞きつけたようだ。

確かに、誰かが走ってくる音が聞こえる。

「蘭子―!」

「蓮だ!蓮、常盤さん、中庭にいるぞー!」

大声で叫ぶ。中庭に、俺の声が反響して聞こえる。

「柊?どうしたんだよ。それに、蘭子まで」

「……蓮」

常盤さんが、蓮に抱き付いて泣いている。

「さっき、俺ちょうどテニス部のコート通りかかってさ。あの新入生……オダマキって子、常盤さんに蓮と付き合ってるのは自分だって言ってたんだ」

蓮が、暗い顔をした。やっぱり、何かある。

「……小田は、SNS界のアイドルって言われてるらしい。あいつが中学の頃、毎日露出してる写真アップして、有名人になったんだ。……ネットの世界だけみたいだけどな」

常盤さんの頭を撫でながら、蓮が自分のスマホを体操着のポケットから取り出した。

「この画像、見てくれ」

渡されたスマホを見ると、香織と木下に見せられた写真が写っている。

「これ、画像加工してあるんだ。俺の写真と小田の写真を合成しただけ」

「そうなのか。全然わかんなかった」

「柊、こういうの疎いもんな。でも、良く見たらわかると思う。……でも、一回拡散されたらそれを信じる人間が増える。つまり、嘘でも真実として扱われる」

「なるほど……怖いな、SNSって。で、オダマキはSNSで有名だから、蓮はあいつの彼氏ってことになってると」

「察しが良いな。その通り。誤解を解こうにも、どうにもできないのが現状だ。……この間、一人で小田の出身中学行って、あいつがどんな奴なのか調べたんだけど、聞いた奴のほとんどが小田先輩の彼氏ですよねって……」

 凄い行動力だ。俺は、いつもノワールと一緒だし、蓮のそういう部分に驚いた。

「すげえな。蓮。お前、普段大人しいじゃんか。俺だったら、お前みたいなことできないよ」

「できるよ。大事なもののためなら、何だって。柊も、そのうちわかるよ」

ノワールが、こっそり俺に耳打ちする。

「大人ねー!これが彼女持ちと彼女のいない柊の違いかしら」

「うっせーよ、ノワール」


 蓮と常盤さんが帰るのを見送って、中庭でノワールと作戦会議をする。

「どうしよう、ノワール。オダマキ、厄介な相手っぽいぞ」

「そうね……その有名なSNS,ちょっと調べてみたら?柊のスマホでも見れないかしら」

 オダマキ、と入力すると、すぐさっきのアカウントが見つかった。今までの写真を見ていく。風呂に入っている動画から、自分のことを自慢しているような言葉ばかりだ。誰かを批判している言葉も多い。

「下品な子ね。どうしてアイドルなんて言われているんだか……」

ノワールが顔をしかめている。

「俺も全然わかんねえ。こうなったら、アイツに聞いてみるしかないか」


 空を見上げると、オレンジ色の夕日が雲にかかっている。もうそろそろ、部活の終了時間が近づいているようだ。足早にノワールとサッカー部に向かった。

 体育館の半分を使っているのは野球部で、もう半分がサッカー部だ。近くで練習を見守るマネージャーの三森さんに声をかける。隣のクラスの子で、ショートカットの元気な女の子だ。

「すいません、紘葉呼んでもらっていいすか」

「あ、木場ちゃんの友だち!ちょっと待ってね。おーい、木場―!そこの金髪―!」

三森さんの大声が、グラウンドに響き渡る。声に驚いた紘葉が駆け寄ってきた。

「何だよ、三森。練習中だっての」

さすがエース、練習で走り回り、ここまで走ってきても全く息切れしていない。

「練習中くらい、マネージャーって言いなさい!お友だちが呼んでる」

「友だちって……んだよ、柊かよ」

紘葉は、あからさまにガッカリして肩を落とした。

「お疲れ、紘葉。ちょっと話あんだけど、いい?」

「いいけど」

さっき見つけたオダマキのSNSを、紘葉に見せる。

「オダマキじゃんか。うちの一年なんだっけ。すげえよな。学校中の噂とか知ってて。SNSアイドルだっけ?」

やっぱりだ。流行りもの好きな紘葉が、知らないはずがない。

「学校中の噂って?」

紘葉がちらりと三森さんの方を見る。

「……ここじゃ駄目だ。向こう言って話そうぜ」


 道路沿いのフェンスまで移動する。サッカー部、野球部の声が聞こえてくる。

「おい、紘葉。もったいぶってないで話してくれよ」

「オダマキ、俺と中学一緒だったんだ。昔は地味―な女だったけど、スマホ持ってから変わってさあ。クラスの奴らの噂話調べて、SNSに書き込んで人気者になった。……でも、ほとんど嘘なんだよ。それで、うちのマネージャー中学んとき彼氏奪われたんだ。俺、女の子は好きだけどオダマキは嫌いだ」

紘葉がここまではっきり嫌いと口にすることは珍しい。

「で、柊は何でそんなこと聞きに来たんだ?」

「紘葉、流行りもの好きだから、オダマキについて何か知ってるかと思ってさ。実は今、蓮と常盤さんがオダマキに狙われてんだよ」

スマホを紘葉に見せる。紘葉は驚いた顔をして、頭を抱えた。

「……マジじゃん、どーするんだよ!蓮と蘭子ちゃん、めっちゃラブラブなのに……コイツに目つけられたら、逃げらんねえよ」

「何かコイツの弱点とかねえの?紘葉」

「弱点なあ……」

俺と紘葉が真剣な顔で悩んでいると、ノワールが足元に近づいてきた。

「柊、サッカー部のマネージャー、あなたたちの話聞いてるわよ。すぐ近くにいる」

顔をあげると、マネージャーが立っていた。

「げ!マネージャー」

「げ、って何よ。木場ちゃん。キャプテン読んでるから、早く戻って」

「りょーかい!んじゃーな!また後で連絡するわ」

そう言って、紘葉はグラウンドまで走っていった。三森さんが、グラウンドを見ながら俺に近づいてくる。

「木場ちゃんとの話、聞いちゃった。……オダマキ、またやらかしてるんだね」

心なしか、彼女の表情は悲しそうに見える。

「……オダマキの弱点とか、知らないすか?昔、辛いことがあったって紘葉に聞いたし、あまり話したくないとは思うんすけど。俺の友だちが、三森さんと同じ目に合いそうになってて……」

「いいよ、教えてあげる」


 グラウンドで、紘葉が走っている姿が見える。本当に元気な奴。

「木場ちゃんが言ってた通り、私、彼氏を小田さんに取られちゃったんだ。SNSで、彼氏と小田さんが付き合ってるって画像が回っっちゃって、みんなそれを信じたの。元々付き合ってたのは私だったのに、私が奪ったことになって、クラスの人たちから嫌がらせされるようになった。

最初は、机の上の落書きくらいだったんだけど、体操着を刃物でズタズタにされたり、家にゴミ投げ込まれるようになったりしてね。学校の先生や警察に相談したんだけど、小田さんがやったって証拠がないから、動けないって。

家族に迷惑かけられないし、私、小田さんを屋上に呼び出して、もうやめてって言った。そしたら小田さん、笑って言ったの。やったのは私じゃない、SNSを見てる人たちだって」

三森さんは、下を向いた。涙をこらえているようにも見える。

「でも、本当にそうだった。いつの間にか、私の彼氏まで、SNSを見て笑ってた」

三森さんは、下を向いたままだ。

「三森さん……」

「もし、また私と同じようなことされる人がいるなら、小田さんを許せないけど……また同じ目にあいたくないって自分もいる。力になれなくて、ゴメン」

「いや……話してくれて、ありがとう」

少し離れた場所で毛づくろいをしていたノワールが、俺に近寄って来た。

「それ、あなたの猫?そういえば小田さん、猫飼ってた。中学の頃は、しょっちゅうSNSにアップしてたな。それか、私の元彼の写真」

「その猫って、どんな猫だった?」

もしかしたら、オダマキの猫が彼女の弱点を知っているかもしれない。

「どんな猫って……灰色で、毛がふさふさのやつ。種類とかはわかんないけど。確か、名前はシュガー。それがどうかしたの?」

「……これで、小田さんを何とかできるかもしれない!ありがとう、三森さん!」


 灰色の猫、シュガー。それを手掛かりに、ノワールと俺は学校の近くの猫たちに聞き取り調査をした。

「シュガー?知らねえなあ。灰色の猫ねえ。ここらへんで見かけるのは、せいぜいペルシャくらいかねえ」

年配で、ここらへん一帯の情報に詳しい野良猫のボスがあくびを噛み殺しながら答えた。

「頼むよ、ボス。俺の友達と、その彼女が危険なんだって」

こうなったら仕方ない。制服のポケットから、最近発売された猫のおやつ「ニャオちゅーぶ」を取り出す。

「ボス、これ、欲しくない?ボスが協力してくれるんなら、これ譲るよ」

ボスが、それを見て目を輝かせた。

「おお!それは今大人気のニャオちゅーぶじゃないか。……で、俺に何をしてほしいんだ、ボウズ」


 「やるじゃない、柊。あの偏屈なボスから、シュガーの情報を聞き出すなんて」

珍しくノワールが関心している。まあ、物で釣っただけなんだけど。そこは秘密にしておこう。

「ノワールの方は収穫なかったのか?」

俺の肩でくつろいでいるノワールが不敵に笑った。

「あるに決まってるでしょ。私を誰だと思ってるの」

「猫」

「柊―!ひっかくわよ」

「ごめんごめん。で、収穫は?」

ノワールが咳払いする。そんな猫は珍しいので、道行くサラリーマンが目を丸くしてこっちを見た。

「シュガーは、オダマキの中学校近くのスーパー……この間、柊が買い物へ行った所よ。そこの近くのゴミ捨て場で、いつも食料を探しているの」

「変だな。飼い猫なのにゴミ漁るのかよ」

野良猫ならわかるが、飼い猫がゴミ捨て場で食べ物を探すなんて。

「そこよ!どうやら、シュガーは半野良猫のような状態らしいわ。数年前、ペットショップで買われてすぐは可愛がられたようだけど……きっと、飽きたのね。人間は、そういう人も多いものね」

ノワールが悲しそうな顔をする。彼女も、俺の家族が事故にあった場所に捨てられていた野良猫だ。

「ボスの話だと、シュガーは写真を撮られるのが嫌いだったらしい。オダマキ、写真アップしまくってたから、シュガーも嫌になったんだろうって。で、シュガーを飼ってたのはオダマキだったけど、面倒を見てたのは彼氏らしい。最近オダマキが彼氏と別れたから、シュガーの面倒を見る人がいなくなって可哀相だって言ってた」

「そう……。柊、明日、あなたが授業を受けている時間に私がシュガーを探すわ。オダマキについて聞かなくちゃ」

「うん、よろしく、ノワール」


 学校のチャイムが聞こえる。そろそろ一時間目が始まる頃だろう。柊は、ちゃんと勉強しているかしら?

「おい、ノワール、こっちだ」

「わかったわ」

シュガーを知っているというメス猫のビールの後ろを走る。ビールは三毛猫で、切れ長の目をしている。

「……ノワール、アンタ、何でそんなにあの人間を助けようとするんだい」

「柊のこと?そうね……あの子は、私の弟みたいな存在なの。それに、助けてもらった義理もある。家族みたいなものかしら」

「家族、ね……。あの人間も、同じことを思っていればいいけど。奴らの中には、猫をアクセサリーだと勘違いしてる奴もいる。せいぜい捨てられないように気を付けな」

柊はそんな子じゃない。でも、ビールにはどう言っても伝わらないだろう。彼女はきっと、身勝手な人間に捨てられたのだ。

「心に留めておくわ」


 ゴミ捨て場にたどり着くと、毛並みはボロボロで、周りにはハエが飛んでいるペルシャ猫を見つけた。

「……あいつがシュガーだ。ここに飼い主が寄ることがあったからって、今もこのゴミ捨て場をウロウロしてる」

シュガーに近づき、恐る恐る声を掛けた。

「あなた、シュガーさん?」

声を掛けられ、驚いたのか水色のゴミバケツの後ろに隠れてしまう。

「……誰?私に何の用?」

「あなたのご主人……オダマキについて話を聞かせてほしいの」

それを聞いて、シュガーがゆっくりと姿を現した。

「……その人、ご主人じゃないです。私のご主人は、ヤマダって言うんだ」


 シュガーは、よく見ると食べたものの汚れが毛に絡まっており、動くのも辛そうだった。

「……ダメよ、これじゃ。あんまりだわ!」

「ど、どうした?ノワール」

「ねえ、ビール。近くに体を洗う場所はないの?可哀相で見てられない」


「この近くに小さな川がある。そこまで歩くんだ」

ビールの後ろを、シュガーとゆっくり歩く。

「あなたは、どうしてお家に帰らないの?オダマキが、あなたのご主人だったんじゃないの?」

それを聞いて、シュガーの表情が変わった。

「あんなやつ、ご主人でもなんでもないよ!私のこと、おもちゃだと思ってるんだ。毎日、いっぱい写真を撮るんだけど、気に入らないとお前のせいだって怒る。ヤマダがいたときは、ヤマダが庇ってくれた。

オダマキから餌を貰ったことはほとんどなくて、ヤマダが私の面倒を見てくれた。彼女は、凄く飽きっぽいから。

でも、オダマキが高校に入って、今度はヤマダに飽きちゃったんだって。それで、ヤマダと別れた。そして、私は……今、家には帰ってない。ここにいる。ヤマダの家、この近くだから。いつか、気付いてくれるかもしれない……」

 ヤマダがシュガーに気付くことはもう永遠にないだろう。オダマキと別れたとき、シュガーは二人からは見えない猫になってしまったのだ。


 近くの公園の傍にある小さな川で、シュガーは水浴びをした。見違えるほど綺麗になり、見ているこちらもほっとする。

「うわあ、こんなに綺麗な自分の毛並み、久しぶりに見た!ありがとう、ビール、ノワール」

にこにこと上機嫌でシュガーが虫を追いかけている。

「シュガー、教えてほしいことがあるの」

「なあに?何でも言ってよ!」

「オダマキの弱点、知らない?今、私のご主人の友達が、オダマキのせいで大変なの。なんとか助けてあげたいんだけど……」

「そうだなあ。オダマキは、SNSに写真をアップするのが趣味だけど、それを撮ってるときの姿がけっこう笑えるんだ。周りが見えてないから、恥ずかしいってヤマダが良く言ってた。あとね、SNSにアップするものがなくなると、大慌てで喚き散らしちゃう」

「なるほどね。使えるかもしれない!ありがとう、シュガー」


 もうすぐ昼休みだ。中庭で、ノワールと落ち合うことになっている。大急ぎで弁当を食べ、中庭に向かった。

「ノワール、ノワール!」

何回か呼んでみたが、ノワールは現れない。近くのベンチに座ると、後ろの茂みから声が聞こえた。

「……やばくない?ちょっと写真アップしただけでギクシャクするとか。常盤先輩、マジうっざー」

オダマキだ。他に四人女の子がいる。

「でも、小田ちゃん……いいの?中学の頃も同じようなことやったじゃん。あのときの山田先輩とは別れたんでしょ」

オダマキが、にやりと笑う。

「いいのいいの。やっぱ、男は見た目が大事だもん。山田はもういらない。今欲しいのは見た目がかっこよくて頭も良い蓮先輩なんだから」

「小田っち、猫は?最近、SNSでも見てないけど」

「猫?……ああ、あの汚い奴。飽きたからもういらないの。どーせ、今まで山田が面倒見てたし。最初は小さくて可愛かったけど、世話はめんどいし、大きくなったら部屋中が猫の毛だらけだよ。マジキモい」

何て自分勝手な奴なんだろう。聞いているだけなのに、俺まで腹が立ってくる。

「柊、おまたせ」

俺の肩が重くなる。ノワールだ。

「お疲れ、ノワール。今の話、聞いた?」

「ええ……こんな酷い人間、久々に見たわ」

オダマキに視線を戻す。とりまきの四人は、彼女の話に引いているようにも見える。

「あのね、柊、良く聞いて。オダマキは、SNSに画像をアップするとき、周りが見えなくなるらしいの。そして、アップするものがなくなると、慌てて喚き散らすんだそうよ。使えるかしら?」

「ああ。ノワールが調べてくれた弱点と、あそこにいる四人。これで、蓮と常盤さんを助けられるはずだ」


 放課後、テニス部に向かおうとするオダマキの取り巻き四人に声を掛けた。

「蓮先輩の友だちなんですね。小田ちゃんについてどう思うか、ですか……」

みんな。考え込んでいる。

「……小田っち、やりすぎだよねー。もし常盤先輩に酷いこと言ったのうちらだってバレたら、どーする?」

俺の方を見ながら、四人は肩を寄せ話し合っているようだ。しびれをきらして、俺の方から話しかける。

「君らってさ、意志がないわけ?小田さんと同じようなことして何が楽しいの?もし常盤さんが自殺でもしたら、どう責任とるの?君らも小田さんと同罪だよ」

今度は四人が目を見合わせて黙り込んだ。

「……先輩は知らないから、そういうこと言えるんですよ。小田ちゃんにSNSで悪いこと書かれたら、うちらが危ないんです。この間だって、背中についた虫を取ってって言ったのに、面白がってカメラで撮り続けて変な恰好の写真アップされたし」

「じゃあ、このまま彼女の操り人形で楽しく生きていくんだな。そんで、また同じことするんだ。良かったな、楽しく、みんな一緒で」

俺が冷たく言い放つと、一人が泣き出した。

「……本当は、嫌だよ。やりたくない。誰かに意地悪するの、楽しくないもん……」

他の子も、それを聞いて泣き出した。良かった。みんな、楽しんで人を攻撃しているような人間じゃなくて。

「俺、蓮も常盤さんも助けたいんだ。君らも助けたい。だから、ちょっと協力してほしいんだけど……」


  放課後、こっそりテニス部を見守る。さっきの四人組に協力してもらった結果を見届けなければいけないのだ。

オダマキと四人組がテニスコートに入って来る。

「小田ちゃん、背中に虫ついてる!」

「え?うっそ、きんもー!早く取って!」

カシャ、っとスマホのカメラ音が響いた。

「……ちょっと、何してんの!私は虫を取れって言ったの!」

「撮ってるじゃん。虫」

他の三人も、スマホを取り出して彼女の背中を撮り続ける。、小田の背中に虫なんていない。

「やめてよ!撮らないで!」

「どうしてダメなの?私たち、いつも小田ちゃんにされてたのと同じことしてるんだよ」

オダマキが慌てて背中の虫を取ろうと動いているところを四人組は無表情で撮り続けていた。


 それから、四人組が撮ったオダマキの写真がSNSに出回った。今まで誰もオダマキに逆らうことはなかったが、それを見たみんなが、彼女を「SNSアイドル気取りの痛い奴」と呼ぶようになった。

学校のほとんどの生徒がチェックしていたオダマキのSNSには、冷やかしなど誹謗中傷の書き込みが目立つようになった。読むと、今までオダマキに嫌がらせをされた、という内容が多くを占めている。

「すげーな、こんなに恨み買ってるとか」

「今までのことが自分にはね返ってきてるのよ。少しでも反省するといいんだけど……」


中学の頃みたいに、奪えると思った。蓮先輩を。でもできなかった。あの日、四人に写真を撮られてアップされてから、私は一瞬でSNSアイドルの座を奪われてしまった。

「私がアイドルなんだ……SNSは、私のもの……」

授業中も、他人のSNSをチェックし、五分に一回は写真をアップしている。なのに、フォロワーは減っていくばかり。

「何で増えないの……何で……」

「おい、聞こえないのか、小田!次のページを読むんだ!」

先生の声が聞こえてくる。今は授業中、そんなことはわかっているが、SNSに何かをアップせずにはいられない。

「小田!聞いてるのか!」

「……うるさい、うるさい、うるさい!今忙しいんだから、話しかけないで!」

そう叫び、立ち上がって椅子を先生に向かって投げつけた。


 その後、オダマキはスマホ、スマホと半狂乱になってクラスで暴れまわり、手が付けられなかった。学校に呼び出されたオダマキの両親は暴れる娘を見て、彼女のスマホを解約したらしい。彼女は、SNS依存症だったのだ。これからは、学校に通いながらスマホを持たなくても生活できるよう、心のケアをしていくらしい。

その後、校内で何回かオダマキを見かけたが、スマホを持っている姿は見ていない。


第二話


雲と雲の間に、紘葉の投げたハンドボールが吸い込まれていく。

「木場―!お前、どうしてもっと低めに投げないんだ!これでもう六回目だぞ」

体育の竹田先生が大きな声で叫んでいる。

「さっすが紘葉。ぶっ飛ばしていくねえ」

ヒュウっと口笛を鳴らすと、不機嫌そうな紘葉が近づいてきた。

「うっせーよ!どーせ俺は、球技ダメですよーだ!柊のパーマおかっぱ野郎!」

「子供か……それに、パーマじゃなくてくせっ毛!見ろよ、この香織から借りた可愛いヘアゴムを……」

俺に向かって、紘葉が舌を出した。

「女子からヘアゴム借りるリア充め!」

「紘葉、サッカーって球技じゃないの?」

それを聞いていた蓮が、冷静にツッコミを入れる。

「う……それは……」

 今は体育で、体力測定の真っ最中だ。五十メートル走、握力、反復横跳びなど、ほぼ中学と同じ内容だ。

「木場に橘、鈴木―!これから女子がハンドボール投げだから、お前らもっと校舎に寄れ」

「はーい」

ハンドボール投げで紘葉がつまづいた以外は順調にこなしたので、残りの時間は静かに待機だ。まあ、全員おしゃべりしているのだが、座っているだけマシだろう。

「お、あれ委員長じゃん。めっちゃハンドボール投げ下手そう。どんくさそうじゃん」

体力測定は番号順のような決まりはないので、並んだ人から行う。

「紘葉、女の子に対して失礼だろ」

さすが蓮、紳士だ。

「紘葉より上手かったりしてな」

「うっせーよ柊!」

ひゅうっと風を切るような音がして、委員長の投げたボールが飛んでいった。

「……河原、新記録だ」

竹田先生も呆然としている。

「やっべえ!マジで俺の負けじゃん!スゲーな、さすが委員長」

一回目の測定が終わって、歩いてきた委員長に紘葉が声を掛ける。

「どうも……」

他の女子は、紘葉のようなコントロールの悪さはないが、やはりボールが飛んでいかない。

「凄いな、河原さん。何かスポーツやってるのかな」

さっきのボールのスピードは、確かに凄かった。蓮が感心する気持ちもわかる。反復横跳び、五十メートル走も楽々こなしている。

「マジ、すげーんだけど……委員長って、超人?」

「スポーツ好きなんじゃね?」

スポーツ系の部に入っている女子よりも、抜きんでて足が速い。普段は、クラスの一番後ろで静かにしている印象だが、本当はどんな人なんだろうか?


 「……ダメだ、このままじゃ、俺はおかしくなってしまう……」

叔父さんが、ソファに座って腕を君ながら呟いている。ノワールが近寄って、叔父さんを観察しているみたいだ。

俺は夕飯の片づけが終わって、学校の宿題に手を付けている。予習復習をしていれば、そんなに困ることはない。勉強は、やったらそのぶん自分に返ってくる。そこが好きだ。

「柊、蘇鉄がさっきから変なこと呟いてるわよ」

「あー、多分、婚活が上手くいかなかったんじゃない?」

俺を引き取る前、叔父さんには婚約者がいた。顔の四角い叔父さんの相手にしては美人だったが、俺を引き取るなら結婚はできない、という考えの人だった。それは仕方ないと思う。自分が生んだ子供じゃない俺を育てるのは、大変なことだと思うから。叔父さんは彼女の意見を聞いて、それなら、婚約は解消する、と言ったのだ。それから、叔父さんに良い相手がびっくりするほど現れない。

「ま、俺が邪魔になってるんだよな。叔父さんは警察官だし、顔は四角いけど良い人だし。早くこの部屋出なきゃなー……どっかにいいバイト、あるといいんだけど」

「柊……そんなに急いで大人にならなくてもいいのよ。蘇鉄だって、あなたが邪魔だと思っていないわよ」

まずい。ノワールの前で言うつもりはなかったのに。なるべく、心配させたくない。


俺がもう少し幼い頃、眠りにつくと決まってみる夢があった。事故にあったときの夢だ。車が落ちていって、家族みんなに声を掛けると、そこには死んだ状態のみんながいる。

飛び起きて落ち着こうと思うのだが、体の震えが止まらない。叔父さんに心配をかけるわけにいかないから、布団をかぶってぎゅっと目をつぶる。

そんなとき、ノワールが俺の隣に来て「もう大丈夫よ」と言ってくれる。その声を聞くと、安心して眠れた。


「俺ももう高二だし、バイトして買いたいものもあるんだよ」

そう言って誤魔化すが、ノワールにじっと見つめられると、考えていることを見透かされているような気がしてくる。

「……そうね、確かに、バイトの一つや二つ、してもいいかもしれないわね。この間、教育番組でも子供の成長を促すために、っていう内容で社会経験をさせるっていうことが有効って言ってたものね」

そう言うと、ノワールはあくびをしてどこかへ行ってしまった。

「バイト、本当に探さないとな……」


 翌日の昼休み、弁当を食べながら、バイトの話をふってみると紘葉から意外な返事が返って来た。

「バイトぉ?うちって、確か学業優先だから禁止じゃなかったか?」

「嘘だろ。蓮、知ってる?」

蓮が生徒手帳を取り出す。

「つか、柊!俺のこと信用してないだろ。マジだって。多分」

「その多分が危険なんだよ……」

「紘葉、正解」

生徒手帳を蓮から受け取ると、確かに「バイトを禁ずる」と表記してある。

「……マジか」

「だから言ったろ!」

紘葉が、誇らしげな顔をしながら売店で買った焼きそばパンを食べている。

「もしかして柊、叔父さんとこ出るために金貯めたいの?」

さすが蓮。鋭い。

「そ。いつまでも俺がいると、結婚できねーんじゃねーかなって。叔父さん、もう三十六になるからさ。心配で」

「いい人なんだけどな。何が悪いんだろう」

それは、俺がいるから。言葉を卵焼きと一緒に押し込んで、叔父さんの顔が四角いからと言って笑った。


 学校が終わり、校舎から出るとノワールが歩いてくるのが見えた。

「ノワール、何してんだ?」

「バイト探しよ」

「猫にもバイトってあんの?」

「バカね。柊のよ」

ノワールは笑って、俺の肩に飛び乗った。

「駅裏の通りに、喫茶店があるのよ。周りに変な店もないし、お店のお客さんも感じがよかったから、どうかと思って」

「へえ、そんなところがあるのか。……でも、うちの学校、バイト禁止らしいんだよね」

「そうだったの。それなら、よりオススメだわ。短期バイトの募集らしいから」


 学校から少し歩いて、叔父さんのマンションを通り過ぎた先にこの町の駅があり、駅近くの通りには女子に人気のお店が立ち並んでいて賑やかだ。

「ここらへんは、いつ来ても人が多いな」

普段は、マンション近くのデパートやスーパーくらいしか買い物に行かないので、別世界に来たような気持ちになる。

「この道の奥を左に曲がって。そこから、駅裏に出られるわ」


言われた道を通ると、今度はひっそりとした道に出た。歩いている人は、お爺さんが一人。

「……何か、すっげえ静かなんだけど。本当にこの道でバイトなんか募集してる店、あんの?」

ノワールの肉球パンチが飛んでくる。

「あるわよ!まっすぐ歩いて行くと、リバーサイドって看板があるの。そのお店よ」

とにかくまっすぐ歩いて行く。リバーサイドにたどり着くまで、途中には謎の占いハウスや見たことがないような古めかしい本が並んでいる店があった。だんだん不安になってきてしまう。

「ホラ、あれよ」

喫茶リバーサイド、と書いてある看板があり、その隣には大きなミルクピッチャーのようなものがくっついている。なんだか美味しそうだ。ドアノブには、メニュー表が下がっている。

「今日のおすすめは、オリジナルブレンドのコーヒーとサーモンサンドね。素敵ねえ……」

ノワールの視線を感じる。サーモンは、彼女の大好物だ。

「サーモンサンドね。わかった、持ち帰りできたら買ってくる」

「よろしくね。私は、ここらへんを散歩してくるわ」


 恐る恐るリバーサイドのドアを開ける。

カランカラン、とドアについた鐘の音が鳴り響いた。

店内は赤いソファとテーブルが並んでいて、壁は煉瓦でできている。壁には()(りん)や額に入った様々な国の地図が飾られており、その国で作られているであろうコーヒー豆が地図にくっつけられている。年季が入ったもののようで、所々コーヒー豆がはがれている。

「いらっしゃい」

入り口で立ち尽くしていると、レジから人が出てきた。かなりがっしりした体格の男性だ。叔父さんより、一回りくらい年上に見える。

「お好きな席へどうぞ」

店内には、真ん中のテーブルで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるお爺さん、隣のテーブルで美味しそうなピザを食べながら楽しそうに会話をしているおばさん二人組がいる。どこに座ろうか考えていると、ドアが勢いよく開いた。

「ただいま、お父さん!今手伝うから!」

俺の横を女の子が通り過ぎた。ぱっちりとした大きな目に長い黒髪、ジーンズに七分袖のシャツを着ている。女の子は、急いでレジの奥へ入っていった。


 窓際の席に座り、メニューを眺める。今日は、バイトについて聞きにきたので、特に何か頼まなければいけないわけではないのだが。

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたら、お呼びください」

さっきの女の子だ。髪の毛を後ろでまとめて、リバーサイドとプリントしてあるエプロンを付けている。

「あの、すみません。このサーモンサンド、持ち帰りってできますか?」

「はい、できますよ。5分ほどお時間いただきますね。少々お待ちくださ……」

そのとき初めて女の子と目が合った。何故だろうか、少し視線が厳しいように感じる。

「あの……サーモンサンド……」

「は、はい!少々お待ちください!」

テーブルに勢いよく水が置かれた。何なんだろう。


 「サーモンサンド、持ち帰りね。」

5分後、サーモンサンドを運んできたのは最初に見た男性だった。さっきの女の子は引っ込んでしまったようだ。

「あの、このお店でバイト募集してるって聞いたんですが」

「ああ、何日か前、駅前にチラシ貼ってもらってたからね。うちの店、こんな辺鄙な場所にあるだろう。人が来なくって……チラシも回収してもらったんだよ」

「もう締め切ったんですか?俺、バイト探してるんですけど」

そう言うと、男性の顔がぱあっと明るくなった。

「君、うちで働く気あるの?ぜひ頼むよ!いやあ、助かるなぁ。短期バイトってチラシには書いてたんだけど、基本的にはうちの娘が店を手伝えないときにお願いしたいんだ。とりあえず、来週、再来週の二週間でお願いしたい!」

「……面接とかは?履歴書も持ってきてないんですけど」

今度は、ばしばしと肩を叩かれる。超痛い。

「俺が頼むって言ったんだから、すでに採用だよ!よろしく頼むよ。えーと、名前は?」

「橘柊です。花園学園高校の二年です」

「ああ、花高の子!うちの娘も、同じ花高でね。凄く元気の良い子なんだ」

「はあ……」

男性のハイテンションに押されてしまう。落ち着いた店内とは真逆の人だ。

「俺は、ここのマスターの菊直だ。よろしく頼むぞ、橘くん!」


 店を出ると、さっきの女の子に声をかけられた。

「橘くん」

「はい?」

何で俺の名前を知っているんだろうか?同じ学校だとマスターが言っていたが、見かけない顔だ。可愛らしいので、紘葉が見たら騒いでいそうだが。

「本当にうちでバイトするの?うち、お父さん……マスターがいないときは、メニュー表に書いてあるもの自分一人で出さないといけないんだよ。食べ物は、マスターが作っておいてくれるし、一通りは教えるけど……」

「大丈夫、だと思う。うちの家事全般、俺がやってるし、お茶出しとか得意だから」

「そういう意味じゃなくて……」

ニャーオ、とノワールの声が聞こえた。

「じゃあ、来週からよろしくお願いします」


 「あれは、俺にバイトしてほしくないんだな」

ノワールを肩に乗せて、駅前を歩く。さっきよりも辺りは暗く、人通りも少ない。

「そうね、話は聞いてたけど、あまり良い雰囲気ではなかったものね……」

「マスターは大歓迎!って感じだったんだよ」

「せっかくバイト先が決まったんだし、働いてみたらいいじゃない。何かあったら、私を呼べばいいわ」

「叔父さんには……秘密にしておくか。元々バイト禁止だし、心配性だし」

俺の家族が死んでから、叔父さんは俺がどこへ行くにもいつも不安そうだった。中学生の頃、ノワールと叔父さんの誕生日プレゼントをこっそり買いにいったときなんて、パトカーで俺を探しに来た。

叔父さんが心配性なのは、あのときの犯人が捕まっていないからだと思う。


 帰宅すると、叔父さんの靴があった。久しぶりに帰ってきているようだ。

「おう、柊!ただいま」

かなり疲れた顔をしている。

「お疲れ、叔父さん。すぐ夕飯用意するからちょっと待ってて」

帰りがけに寄ったスーパーで買ったもやしとほうれん草、牛肉をごま油で炒めて、簡単に味付けし、ご飯の上によそった。朝早起きして作ったにら玉汁を温め、食卓に並べる。これで二十分かかっていない。必殺の時短夕飯だ。

「おっ、美味そうだな。いただきます!」

ノワールには、買ってきたサーモンサンドを少し出して、自分も夕飯を食べる。ノワールは嬉しそうに食べている。

「最近どうだ、柊」

「学校のこと?平和だよ。来週がテスト勉強期間で、再来週からテストだけど」

「しっかり勉強しろよ!まあ、お前は昔から勉強家だから、心配はしてないんだけどな」

叔父さんが豪快に笑った。そうだ、そういえば、テストが近いんだ。バイトのことですっかり忘れていた。

「あ、そうそう。最近、主婦やお婆さんを狙ったスリが駅前で多発しているんだ。柊なら大丈夫だと思うが、気を付けろよ。絶対に関わるな。いいな」

「はいはい」

駅前か。リバーサイドは駅裏だし、大丈夫だと思うが。

「叔父さん、これからってどんな予定?暇だったら、空手と柔道の組手してよ。」

「ああ、いいぞ!……と言いたいところだが、俺も来週、再来週は仕事だ。そのうちな」

 叔父さんは昔、空手と柔道の指導をしていた。姉さんと俺は、叔父さんに柔道を習っていたことがある。中学の頃は、今より叔父さんも時間があり、空いた時間で組手をしてもらうことがよくあった。

「いやあ、思い出すな。お前、昔は練習生にしょっちゅう投げられて泣いてたよな。あれから頑張って、そいつを投げ飛ばしたときは俺も感動してな……」

叔父さんが泣いている。

「大げさだなあ。叔父さんは……」


 学校へ行ったり家事をしたりして過ごしていたら、あっという間にバイト初日だ。緊張しつつ、リバーサイドのドアを開けた。

「いらっしゃいませ!……ああ!橘くん!今日からだったね、さっそく入ってもらおうかな。俺、これからコーヒー豆をお得意様のところへ配達に行きたくてね。よろしく頼む。これ、エプロンね。レジの奥がキッチンだ。二階は自宅。何かあれば、二階に声かけてくれ。娘がいるから」

 そう言って、マスターは店を出て行ってしまう。それに、娘さんがいるのに俺がバイト?色々と気になることが多い。

「すみませーん、注文お願いしたいんだけど」

そんなことを考えていたら、店内にいたお客さんに声をかけられた。

「はい、少々お待ちください」

急いでエプロンをして席に向かう。

「お兄さん、見ない顔だね。バイト?」

この前、店に来たときにいたお爺さんだ。常連さんなんだろうか。

「はい、今日から二週間だけですけど」

「そうかい。マスターは、いつもレジの横にあるメモ帳で注文を取るんだ。頼むよ」

親切なお爺さんだ。俺が困っているのを見て、さりげなく教えてくれた。

「マスターがいないときは、撫子ちゃんがいるんだけどね。君が来たから、きっと勉強しているんだろう」

「撫子ちゃんって、誰ですか?」

「オーナーの娘さんさ。元気のいい子でね。奥さんが亡くなって、撫子ちゃんがこの店をずっと手伝っているんだ」

「そうなんですか」

この間の女の子だろうか。

「おととし駅前通りを改装して、この駅裏におかしな人間が入り込んでくることも多くなったからね。君のような男の子が来てくれたから、少し私も安心したよ」


 お爺さんと話をして、レジからキッチンに入る。カウンター席になっており、店内が見渡せるので、普段はここにいて店内の様子を見るのだろう。

店内には、今のところさっきのお爺さんと、スーツ姿の男性が一人。どちらも、特に注文はなさそうだ。

急に注文が入ってもいいように、キッチンをぐるっと見渡す。

大きな冷蔵庫、オーブンレンジにトースター、サイフォンが並んでいる。その隣には、備え付けの大きな食器棚。食器はどれもマスターの印象とは違う、可愛らしいイラストが付いている。

「お父さん、お父さーん?あれ、いないのかな」

二階から、この間の女の子がマスターを呼ぶ声がした。階段を下りてくる音がする。

「お父さ……」

「どうも」

女の子は、この間と同じようなジーンズに紺色の長袖Tシャツを着ている。

「橘くん、お父さんは?」

「コーヒー豆の配達に行ったけど」

「そう……じゃあ、いいわ」

彼女の手に、数学の教科書が見える。しかも、二年の教科書だ。

「……君って、花高の生徒なんだよね?もしかして隣のクラス?俺の苗字は知ってるし、その教科書、二年のだし。何て名前なの?」

俺がそういうと、女の子はあからさまに嫌そうな顔をしてこう言った。

「は?何で私の名前言わないといけないの?ナンパ?それに、同学年なら名前くらい知ってて当然でしょ」

同じクラスの香織とは違い、歩み寄る気が全く感じられない喋り方だ。

「お、撫子ちゃん!」

さっきのお爺さんが、彼女を見て声をかけた。

「名前、撫子さん?」

彼女がため息をついて頷いた。


 「張り紙してあるからわかると思うけど、サイフォンでコーヒーを入れるの。わからなかったら聞いて。変なもの出されて、店の評判落ちるの嫌だから。ピザとか焼きサンドとか持ち帰り頼まれることも多いから、すぐ出せるようにこうやって……あ、あと、その髪の毛、結んで。私みたいに。清潔感大事よ」

少し毒舌だが、店のことは一通り教えてくれた。意外に親切だ。

「ちょっと、聞いてんの?」

「聞いてる聞いてる」

俺より頭一つくらい身長が低いのに、凄く威圧感がある。顔は可愛いのに、全然笑わないし。

「心配だけど、お父さん帰ってくるまでは頼むわ。レジも教えたし。……まったく、お父さんも教えていけばいいのに。勉強する時間、減っちゃうし」

「撫子さんて、数学が苦手なの?」

「数学が、じゃなくて、勉強全般苦手なの。……今まで、店の手伝いしてたから、勉強する時間あんまりなくて。花高って、うちから一番近いから頑張って入ったけど……みんな物凄く勉強できるから、ついていくの大変なの。お父さん、それ気にしてバイト雇うって言ってね。頑張るから、バイトいらないって言ったんだけど勝手に橘くん雇うし」

頬を膨らませ、むくれているように見える。ハムスターみたいで、笑ってしまう。

「……何ニヤニヤしてんの」

「いや、ハムスターみたいな顔してるから、可笑しくて……」

撫子さんの肘鉄がわき腹に飛んできた。

「痛い……」

「橘くんはいいよ、勉強もスポーツもできるもんね。この間の体力測定の木場くんには笑っちゃったけど。真上にボール飛んでいくんだもん」

そう言ってから、撫子さんがはっとした顔をする。

「……木場って、紘葉のこと?」

「いや、違う木場よ」

「いやいや、木場って、二年にアイツしかいねーから」

じっと撫子さんの顔を見つめる。どこかで見たことがあるような……。

「ただいま!今日はありがとう、橘くん!撫子までどうしたんだ?勉強は?」

「お、お父さん!橘くん、初日で疲れたみたいだし、もうあがりでいいんじゃない?」

撫子さんが、俺の背中を押す。

「いや、ちょっと待ってよ」

マスターが俺と撫子さんを見て笑う。

「なんだ、すっかり打ち解けたみたいだな。うちの娘……撫子は友だちが少ないし、ぜひ仲良くしてやってくれ!じゃ、今日はあがってくれ。明日もよろしく!」


 撫子さんによって強制的にエプロンを奪われ、店から追い出されてしまった。

「木場って言ったよな……撫子さんって一体、誰なんだ?」


 「撫子……そんな名前の子、いたっけ」

翌日、学校で撫子さんのことを蓮と紘葉に聞いてみた。蓮は知らないらしい。

「つーか、ハギセンに聞いてみりゃいいじゃんか」

「おお、紘葉にしては良いこと言う!」

「しゅーう!馬鹿にすんなっての!」

萩原先生を見つけて、何度か声をかけようとするのだが、クラス委員長の河原さんが今日に限って休み時間のたびに質問をしに行って、いる。

 「というわけで、まだ誰が撫子さんなのかは判明していない」

中庭のベンチで日向ぼっこをしているノワールが、俺を見上げて考え込んでいる。

「何で、委員長は柊が先生のところへ行くのを妨害するように動いているのかしら。変だと思わない?まあ、偶然かもしれないけどね」

そう言って、ノワールが大きなあくびをした。

「確かに。偶然にしては、できすぎな気もする。ちょっと委員長に聞いてみるか」


 放課後、みんなが部活に向かって教室を出て行くタイミングで、委員長に声をかけた。

「委員長、ちょっと話いい?」

「……よくはないけど、いいわ」

どこかで聞いたような答え方だ。

「委員長さ、今日、俺が萩原先生に話しかけようとしてたの、わざと邪魔してなかった?」

「……来週からテストだから、質問していただけ」

「それにしては、俺が席立ったタイミングで動いてなかった?」

「そ、そんなこと……」

明らかに動揺している。もしかして……。

「委員長、名前教えてよ」

「そんなもの、聞いてどうするの」

「俺のバイト先に、撫子って名前の女の子がいるんだ。同じ高校の二年みたいだけど、学校で見かけたことがない。知らない顔なんだ。委員長って、いつも分厚いメガネに三つ編みだろ。誰も委員長の素顔、知らないんじゃないかなって思ってさ」

教室に、沈黙が訪れる。

「橘くん、うちはバイト禁止。ルールを守ってないって、先生に言うわよ」

「否定しないってことは、委員長が撫子さんなの?」

「違うわよ。私の名前は……桜よ」

違った。絶対そうだと思ったのに。

「ごめん、疑って」

「尋問が始まったのかと思ったわ」

「ほんとごめん。あ、あと、バイトのこと、黙っててくれない?俺、昔家族が死んで、叔父さんとこに世話になってるんだ。少しでもいいから金貯めて、独り立ちしたくて」

委員長が、申し訳なさそうな声を出す。

「そうなの……なら、黙ってるわ。それに、橘くん短期バイトだもんね。きっとバレないと思う。じゃあね、さよなら」

「え……ちょ、委員長!」

短期バイトだとか、そんなこと一言も言ってない。やっぱり、委員長が撫子さんなのか?


 「あ、橘くん。今日もよろしく」

リバーサイドに行くと、撫子さんがお店のテーブルを拭いていた。いつものように、ジーンズにシャツ、髪の毛はきっちりまとめて低いポニーテールだ。エプロンを付けて、撫子さんのところへ向かう。

「手伝うよ」

「じゃあ、お願いする」

テーブル拭きを受け取り、テーブルを拭きながら撫子さんに話しかけた。

「委員長、さっきは引き留めてごめんね」

「別に、大丈夫……」

やっぱりだ。

「今、委員長って言ったら、答えたね」

テーブル拭きを置いて、撫子さんの顔を見る。

「……誘導尋問?警察官みたいだね。橘柊くん」


 お店の窓から、オレンジ色の光が差し込んでいる。お客さんの気配はない。

「桜って誰の名前?」

「死んだお母さんの名前。河原桜」

「そっか……なるほど。これから、何て呼んだらいいのかな。委員長?今まで通り、撫子さん?」

「撫子でいいけど、学校では委員長。なるべく関わらないで、声かけないように。あんた、目立つから」

俺が目立つ?そんなに目立つことはしていないはずだ。

「俺、むしろおとなしいと思うけど」

「橘くんの友だちって、木場紘葉に鈴木蓮でしょ。どっちもイケメンとか言われてる。橘くんは知らないみたいだけど、あんたも含めて女子に人気あるよ。それに、最近はあの二人組……桜井香織と木下杏ともよく話してるじゃない。あの子たち、男子人気あるし」

「全然知らなかった。でもさ、委員長……撫子さんは、何で顔隠してるの?香織たちより、撫子さんのほうが可愛いと思うけど」

撫子さんが、それを聞いてため息をつく。

「これだから無自覚イケメンは……」

「いや、本当だって。香織たちは良い奴だし、美人かもしんないけどキツい顔してるじゃん。撫子さん、可愛いよ」

俺の言葉を聞いて、撫子さんが真っ赤になった。

「可愛くないし!顔隠してるのは、お店で働いてるから。うち、バイト禁止でしょ。バレたら大変だから」

「俺のことも秘密にしといてくれる?」

「そりゃあね。もし言って、連帯責任になるのは困るし……それに、お金必要なんでしょ。うちはあんまりバイト代出せないけど」

良かった。

「しっかり働いてよね!あ、今日も髪結んでないじゃない!まったく。これかしてあげるから、髪結んで」

渡されたヘアゴムには、お世辞にも上手いとは言えないウサギのマスコットが付いている。

「……この、個性的なマスコットは」

「下手だって素直に言いなさいよ。私が作ったの。下手だけど、そういう小物とか作るの趣味なの」

良く見ると、撫子さんに似ている気がする。

「何か、可愛いね。ありがと」

「あげたわけじゃないから!短期バイト終わったら返してよね」


 その後、いつものお爺さんと、OLさん三人組、この間ピザを食べていたおばさんに、サラリーマンの男性が来て、少し忙しくなった。俺が注文を取って、撫子さんがコーヒーや食べ物を作る。学校でもテキパキしているが、ここでもきっちり仕事をしていて、凄いと思う。

 いつものお爺さんが帰ったあと、サラリーマンの男性が出て行った。毎回新聞を読んで、水を飲んで帰る。謎の人だ。

「ああいうお客さんって、多いの?」

「たまにいるけど、毎日来るのは珍しいかもね。まあ、そんなにお客さん多くないからいいんだけど」

お客さんを見送って、店のドアを閉め、後片付けをする。俺が皿洗いで、撫子さんが拭く。

「そういえば、撫子さんすげーハンドボール投げ上手かったじゃん。あれって何で?」

「子供の頃、少年野球のチームに入ってたの、小6でやめたけど。うちのお父さん、たまに野球教えたりしてたから、その影響かな。今はやってないけどね。たまにキャッチボールしたりする程度。……私は、橘くんがなぜあんなに勉強もスポーツも出来るのかが気になるけどね」

「勉強は、毎日その日の授業の予習復習してれば大体はいける。スポーツは、たまーに空手と柔道やってて、どこか行くときは基本歩くかダッシュしてるからかな」

物凄い威圧感を感じる。撫子さんだ。

「予習復習だけで、毎回毎回順位一番なの?頭おかしーでしょ!」

「やれば誰でもできるんだって、勉強って」

頬を膨らませて、俺を睨む。

「橘くん、テストのヤマとか教えてよ。来週からテストでしょ。今の生活がバレないように苦労してたのに、言うし。責任とってもらう」


 その日から、バイトが終わってから撫子さんの勉強に付き合うことになった。マスターが明日の準備をしているとき限定、だが。

自分はできない、と言っていたが、教えたことはすぐ理解するし、できないわけではなさそうだ。

お店のドアから、ノワールの声が聞こえた。

「……猫かな?今晩は冷えるもんな。可哀想に」

「マスター、すみません、俺の猫です。毎日、付いてきて俺が終わるの待ってて」

「そうなのか、賢い猫なんだな。他のお客さんはいないし、撫子の勉強が終わるまで中に入れよう」

「ありがとうございます」


 ノワールが、可愛い鳴き声を出しながら店に入ってきた。マスターが、ミルクを出してくれる。

「柊、遅いからどうしたのかと思って」

「ごめんごめん、撫子さんに、勉強教えることになってさ」

「そうなの。まあ、何もないなら安心ね。ここのマスター優しいのね。サーモンサンドも美味しいし、好きだわ」

ノワールと喋っていると、撫子さんが不思議そうな顔で俺とノワールを見に来た。

「橘くんて、猫と喋る人なんだ」

「うん。正しくは、動物と話す人、だけど」

「何か、本当に会話してるみたいに見えたから気になっちゃった」

撫子さんがノワールを撫でる。

「この子、柊が怪しんでた女の子?」

「うん。うちの委員長で、撫子さん」

「そう。撫子。普段、柊と蘇鉄からしか撫でられないから、たまにはいいわね」

ノワールが笑うと、撫子さんは笑顔になった。


 すっかり暗くなった駅前を歩く。疲れた顔をしたサラリーマンやOLが、頭を下げながらスマホで電話している。大人は大変だ。

「あのお店の常連さんで、動物に優しいお爺さんがいるの。その人が毎日通ってるから、絶対いいところだわ!って思ったのよ。マスターも撫子も良い人間みたいだし、安心したわ」

「そのお爺さん、バイト初日に俺に色々教えてくれた人かな。毎日来てるし。確かに、親切でいい人だ」

そんな話をしていると、駅前の喫茶店から叫び声が聞こえた。

「あの男、ひったくりです!誰か、捕まえて!」

大学生くらいの女性が、大きな声で叫んでいる。

「ノワール!」

「追いかけましょう!」

ノワールが、俺の肩から飛び降りて男を追った。俺もその後を追いかける。

駅前の特に混んでいる道を選んで、引ったくり犯は見えなくなってしまった。ノワールが、服屋の前で立ち止まった。

「捕まえられなかったわね」

「あいつの顔、見た?ノワール」

「全然見えなかったわ。黒っぽい服装で、メガネをかけていたみたいだったけど」

叔父さんが言っていたひったくり犯だろうか。さっき叫んでいた女性が、警察を呼んだようで、駅前にはパトカーが集まってきている。

「来ないとは思うけど、叔父さんと会ったらやばい!関わるなって言われてんのに。急いで帰ろう」

「そうね」

 ノワールと一緒に、大急ぎでマンションまで走って帰った。テレビをつけると、さっきの引ったくり犯についての情報が流れている。

「犯人は変装している可能性が高い、ね……じゃあ、どうしたらいいんだって話だよな」

「ここは、蘇鉄の言う通り関わらないほうがいいかもしれないわね」


 「えー、ここは来週のテストに出します!みんな、必ず書けるようにしてね!」

今日は金曜日だ。萩原先生が、テストに出るらしい英語の問題を教えている。こういうのって、その問題以外を忘れてしまうから困ってしまう。

来週からテストだ。俺のバイトも、来週の日曜まで。長いようで、短い時間だった気がする。

「柊、テスト勉強とかしてんの」

隣の席の香織が、教科書を見ながら嫌そうな顔をしている。

「予習復習はしてるけど、テスト勉強はしてない」

そう言うと、香織が笑顔になった。

「学年一の柊が勉強してないなら、アタシ今回楽勝じゃね?どうよ、杏」

「ダメじゃん?多分。べんきょーしろって」

木下が、冷たい目で香織を見た。その隣に座っている撫子さんは、真剣に萩原先生の授業を聞き、ノートを取っている。

「香織、委員長見習えよ。真面目にノート取ってるだろ」

俺がそう言うと、撫子さんが顔をあげてこっちを見た。口パクで「はなしをふるな」と言っているようだ。

「あのさぁ、委員長はマジメの神的な人だから」

「マジメの神、ねえ……」


 やっと昼休みだ。テスト前のつめこみ授業が立て続いて、さすがに疲れてしまう。ボーっと窓の外を見ていると、撫子さんに声を掛けられた。

「橘くん、ちょっといい?屋上前の階段に来て」

撫子さんの方から、俺に声を掛けてくるのは初めてだ。何だろう。


 屋上前の階段に行くと、撫子さんが頬を膨らませて怒っている。

「何?」

「何?……じゃないわよ!学校で声掛けないでって言ったじゃない」

かなり怒っているようで、顔が真っ赤になっている。

「声は掛けてない。話振っただけ」

「それもダメ!」

「まあ落ち着いて。こうやって呼び出ししてるほうが目立つと思うけどね、俺は」

撫子さんが固まった。ちょっと面白い。

「そんな分厚いメガネかけてるから、今まで表情わかんねーって思ってたけど……リバーサイドの撫子さん見てるから、表情豊かに見える」

「別に、表情豊かじゃないから!じゃあね。……あと、これ、勉強教えてもらってるお礼」

撫子さんが渡してきたのは、リバーサイドのコーヒー無料券だった。

「もうすぐバイト終わっちゃうけど、気が向いたら来れば。じゃ!」

それだけ言って、走り去っていった。撫子さんって、ツンデレってやつなんだろうか。やっぱり、面白い。


 今日は土曜日。バイトは、午前十時から。

ノワールを連れて、リバーサイドに向かう。

「こんにちは、今日もお願いします」

ドアを開けると、撫子さんがレジを打っていた。今日は、どの席も埋まっている。こんなに混んでいるのは初めてだ。

「ごめん、橘くん。注文取ってきてもらっていい?」

急いで準備をし、注文を取りに向かう。キッチンに撫子さんが戻ったのを確認して、オーダーを伝えた。これを今まで、マスターがいないときに一人でこなしてきたのだろうか。

「おや、今日は混んでるねえ。後で来たほうがいいかな?」

いつものお爺さんが、ドアを開けた。

「相席でよろしければ今お探しますので、こちらの椅子でお待ちください」

「ああ、ありがとう」

ぱっと席を確認する。何名かで座っているお客さんが多く、空いている席が見つからない。

後ろから、撫子さんに肩を叩かれる。

「橘くん、あのメガネのスーツ着てる方に相席いけるか確認してきて」

「了解」

毎日来ているサラリーマンの男性だった。相席の確認をすると、笑顔になる。

「大丈夫ですよ」

「ありがとうございます」

お爺さんを席に案内し、他のお客様に料理とコーヒーを運んだ。お店の賑わいがひと段落し、残ったお客さんはお爺さんとさっきのサラリーマンだけだ。話がはずんでいるようで、二人とも楽しげに話をしている。

「お疲れ様、橘くん。これ、おごり」

撫子さんが、オレンジジュースを出してくれた。

「ありがと。今日は、凄い混んでたね」

「土曜は割と混んでるの。特にお昼時はね」

オレンジジュースを一口飲む。そんなに甘さを感じない優しい味だが、果肉が入っていてとても美味しい。

「これ、美味いね。どこの?」

「自家製なの。作り方にコツがあるんだけど……橘くんには、秘密」

 夕方になると、マスターが戻ってきた。

「お疲れ、二人とも。今日は土曜だから、混んでて大変だったろう。町の会議があってね、店の代表者が集まるから、必ず出ないといけないんだ。今までは、撫子一人にまかせっきりだったから、橘くんがいてくれて俺も安心だよ。ずっとバイトしてもらいたいくらいだが、うちもお金がなくてね。申し訳ない」

マスターはそう言って、俺に頭を下げた。

「やめてください、マスター。むしろ、すぐ雇ってもらってありがたいと思ってます」

「じゃあ、次回のテストのとき、またお願いしようかな、なあ、撫子」

「何で私に言うのよ……」


 「今日もありがとうございました、明日もよろしくお願いします」

「お疲れ様、橘くん、猫ちゃん」

ノワールが、撫子さんに向かってニャオ、と鳴いた。

「ノワールよ、って言ってる」

「ああ、名前?また明日ね、ノワール」


 日曜日のリバーサイドは、昨日と同じように混雑していた。マスターもいるが、撫子さん一人で動いているのは大変そうだ。昨日よりスムーズに動けるよう、考えながら注文を取る。

「おや、今日も混んでるね」

いつものお爺さんが、店に入ってきた。

「いらっしゃいませ。申し訳ありませんが、また相席でもよろしいですか?」

「そうだねえ」

お爺さんは、誰か探しているようでキョロキョロと店内を見回している。

「ああ、あの男性と相席がいいな。聞いてきてもらえるかい?」

お爺さんが言った男性と言うのは、いつものサラリーマンだった。昨日と同じように確認に行くと、笑顔でどうぞ、と言ってくれた。


 混雑は夜まで続き、汗をかきながら接客した。店内にいるお客さんは、昨日と同じでお爺さんとサラリーマンの男性のみだ。

サラリーマンの男性が立ち上がり、お爺さんにお辞儀をしてレジに来た。会計を済ませ、男性が出て行くとお爺さんもレジへやってきた。マスターがレジに出る。

「いつもありがとうございます。最近、先ほどのお客様と仲良しなんですね」

「そうだね、彼は会社を経営しているらしいんだ。私も、取締役みたいな仕事をしているから、話が弾んでね。ついつい話し込んでしまった……あれ?おかしいな、財布がない」

「どこかでなくされましたか?いつも来ていただいてますし、オリジナルブレンド一杯なので代金はいりませんよ」

「いや、そういうわけにはいかんよ。それに、財布は持っていたはずなんだ。ここへ来る途中、猫におやつを買ったからね」

そういえば、さっきのサラリーマン、メガネをかけていた。この間の引ったくり犯も、メガネをかけていた。

「マスター、ちょっと外出ていいですか?」

「ああ、橘くん。外を探してくれるんだね。ありがとう」

外に出て、ノワールを呼んだ。

「ノワール!大変だ、常連客のお爺さんが、財布を盗まれたんだ!」

近くの木の枝から、ノワールが降りてきた。

「大変!あのお爺さんね?助けなきゃ」

駅裏には、人影がない。もしかして、駅前に出たのだろうか。

「さっき、サラリーマンが駅前に向かって歩いて行ったわ。ニヤニヤして気持ち悪い人、と思ったんだけど……そんなことになってるなんてね」

「駅前に行ったんだろ?まだきっと近くにいるはずだ。探そう」


 駅前に出たが、予想以上に人が多い。どうやって探したらいいのだろうか。辺りを見回していると、突然肩を掴まれた。

「ちょっと待ってってば!」

振り向くと、そこにいたのは撫子さんだった。

「撫子さん、何でここに……」

「お店でお爺さんの財布探しまくったけど、出てこないし……橘くんが出て行ったのは、さっきのお客さんが犯人で、それを追いかけてるんじゃないかって思って。お父さんたちは、まだお店で財布探してる」

「そっか……でも、さっきのお客さん全然見つからないんだ。どこに行ったんだろう」

そのとき、どこからか大きな声が聞こえた。

「あの人、お店の洋服を持って逃げたんです!誰か捕まえて!」

逃げている人物が見える。やはり、さっき店で見たサラリーマンだ。

「追いかけよう、ノワール!」

「ええ!」

「ちょっと待った!橘くん、あの男を、駅裏の道まで追い込んで!私が反対に回って、男を捕まえるから!よろしく!」

撫子さんは、そう言うと猛ダッシュで走っていった。

「仕方ないわね、柊、その作戦でいきましょう。犯人は洋服を持って逃げているし、この間よりは走るスピードも落ちているはずよ」


 人混みをかき分けながら、さっきの男をノワールと一緒に追いかける。駅裏の道に入り、男を追い詰めた。

「お爺さんの財布と、その洋服を返せ!」

「……嫌だ!」

男はそう叫んで、俺たちに洋服を投げつけた。

運悪く顔に被さり、前が見えない。

「ちょっと、柊!まったくもう、何してるのよ」

ノワールが、洋服を引っ張って取ってくれた。

「ありがと、ノワール」

「ちょっと、やめてよ!何すんの、こいつ!」

前を見ると、さっきの男が撫子さんを地面に押し倒し、首を絞めている。

「やめろ!」

また、目の前で誰かが死ぬ。もう二度と観たくないのに。遠くから、マスターが走ってくるのが見える。でも、遠すぎて間に合わないかもしれない。力をふりしぼり、撫子さんのところへ走った。

「バーカ!この子は、俺が殺してやるよ」

「やめろって言ってんだろ!」

男のスーツの襟を掴んで、撫子さんから引き離した。

「ふざけんじゃねえよ」

男が、ニタニタ笑っている。

「ほら、見ろよ。息してないんじゃないか?」

怒りで腕が震え、冷静ではいられない。

「ダメよ、挑発に乗っちゃダメ!柊!」

ノワールが足元で叫んでいるのが聞こえるが本当に撫子さんが死んでしまったとしたら、俺はこいつを許せない。

右腕に力をこめ、殴りかかろうとすると、誰かに腕を掴まれた。

「暴力は何も生まん。もうすぐ警察が来るから、その腕を下ろしなさい」

いつものお爺さんが、俺の腕を掴んでいた。


 リバーサイドの前にパトカーが来て、さっきの男は連行された。後でわかったことだが、会社の経営が上手くいかず、ストレス発散のため、引ったくりや盗みを繰り返していたようだ。

 学校と叔父さんに連絡がいき、これまで規則を破ってバイトをしていたことを叱られる。そう思っていたのだが……。


 「柊、明日、学校へ行ったら校長室に行きなさい。いいな」

叔父さんは俺を怒るでもなく、それだけ言ってまた仕事へ行ってしまった。


 月曜日、ドキドキしながら校長室へ行くと、撫子さんがいた。

「おはよう、橘くん」

「おはよ。もしかして、撫子さんも校長室に呼ばれたの?」

「うん……もしかして、だけど、バイトのことで怒られるのかな。もう、お店手伝えないってなったら、どうしよう」

珍しく、撫子さんが落ち込んでいる。

「大丈夫、とは言えない状況だもんな」

話をしていると、オホン、という教頭先生の咳払いが聞こえた。

「橘くんと、河原さんですね?校長先生から、二人にお話があるそうです。入ってください」

教頭先生に言われるまま、校長室に入る。

「失礼します……」

中に入ると、驚くことに、いつもお店に来ているお爺さんが机に座っていた。

「昨日はありがとう、二人とも。とても助かったよ」

お爺さんは、ニコニコして俺達に笑顔を向けている。

「校長先生、だったんですね……」

「私は人前で話すのが苦手だからね。ほとんど生徒の前で話をしたこともない。君たちが知らなくて当然だ」

撫子さんが、勢いよく頭を下げる。

「今まで、ルールを破ってお店で働いていて、申し訳ありませんでした!でも、うち私が働かないとお店がまわらないんです」

「……俺も、申し訳ありませんでした!叔父に迷惑かけたくなくて、決まりを破ってバイトをして……」

二人で頭を下げていると、校長先生が笑った。

「二人とも、顔を上げなさい。今日君たちを呼んだのは、叱るためじゃない。昨日のお礼と、バイトの件について、だよ」

「……やっぱり、もうダメですよね……」

撫子さんが、ボロボロ涙を流している。

「泣かないでおくれ、撫子ちゃん。私は、君のお母さんがいた頃からの常連だよ。今更、お店で働くのをやめろと言う気もない。ただ、今回は橘くんがいたからね」

「すみません……ごめん、撫子さん」

「今回の件で、君たちのような事情を抱えた生徒が多いことも良く分かった。それでね、私は学校の規定を少し新しくしたんだ。今日の放課後、各クラスの先生から連絡があると思うが……定期テストで、学年十番以内に入れたら、バイトを許可する」

「……本当ですか?」

「ああ。橘くんは、毎回学年一番だから今回も心配はしていないが……」

校長先生が、撫子さんをちらりと見る。

「撫子ちゃんが心配だねえ」

「だ、大丈夫です!今回は、学年一の男に勉強教えてもらいましたから!」

それを聞いて、校長先生がほほ笑んだ。

「なら、きっと大丈夫だね。でも、今週いっぱいは二人ともほどほどに働くんだよ。テストはしっかり受けること。いいね」


 校長室を出て、俺と撫子さんは手を取り合って喜んだ。

「良かった!まさか、いつものお爺さんが校長先生だったなんて!」

「だよな!マジで良かった!叔父さんにも怒られなかったし、撫子さん、これでお店の手伝い続けられるし」

「……橘くんて、ほんとお節介だね」

彼女の顔は、不機嫌な表情ではなく笑顔だった。その日のテストは、いつも以上に良く書けた気がした。


 テストが終わり、金曜日には全てのテストが返ってきた。俺の順位はいつも通り。一番だ。ほっとして、撫子さんを見ると、目が合った。俺に向かって、小さくピースしている。

「うっわ、最後から一つ前。最悪―」

香織が、机に突っ伏してうなだれている。

「べんきょーしないからだよ。ね、委員長。委員長は、学年で何番なの?」

木下が、撫子さんに話しかける。

「三位」

不安そうにしていたが、良い順位だ。俺も、撫子さんに向かってこっそりピースした。


 「いやあ、色々あったけど、撫子も橘くんもバイトオッケーになったし、良かったな」

テストが終わった週の日曜日、マスターがテーブルを拭きながら、俺と撫子さんを見てニコニコしている。

「それなのに今日でバイトが終わりなんて、寂しいな。なあ、撫子」

「別にー?まあ、勉強教わったのはありがたいと思ってるけどね」

撫子さんと食器を片付け、バイト最終日が終わる。

「二週間、本当にありがとうございました!」

「こちらこそありがとう。これ、給料だよ。少ないけど」

マスターから給料袋を受け取る。たった二週間だったが、凄く勉強になったし、楽しかった。

「本当に、ありがとうございました、マスター。それに、撫子さんも」

「……こちらこそ、ありがと」

ドアを開けると、ノワールが俺を待っていた。

「待って、橘くん」

驚いたことに、撫子さんが、俺を引き留めた。どうしたんだろう。

「あれ、返して。私のヘアゴム」

「ああ、ごめん。はい、これ……」

ポケットに入れていたウサギのヘアゴムを、撫子さんに手渡す。

「これ、あげる。私はバイト代払えないから……」

撫子さんに渡されたのは、ノワールに似た黒い猫のマスコットが付いたヘアゴムだった。

「作ってくれたの?俺に?ノワールみたいじゃん。すげー嬉しい!ありがと、撫子さん」

撫子さんが、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

「ノワールがモデルだから、それ」

「本当にありがとう。じゃあ、また……あ、学校じゃ話し掛けちゃいけないんだっけ」

「……また、うち来なよ。学校でも、誰も見てない場所でなら、話し掛けてもいいよ」

「うん、わかった」

 ノワールを肩に乗せ、リバーサイドを出る。俺が見えなくなるまで、マスターと撫子さんが手を振ってくれていた。

ノワールと俺も、歩きながら手を振った。


第三話


ニャーオ、ニャーオ……

どこからだろう、猫の鳴き声が聞こえる。悲しそうな声だ。夜中、決まった時間に起きるので、最近は少し寝不足だ。

「柊、大丈夫?また例の夢なの?」

「うん……何なんだろうな」

台所へ行き、水を一杯飲んで、再び眠りにつく。

「助けて、あの子を……誰か……」

夢の中で聞こえるその声は、日に日に俺の傍に近づいて来ている気がした。


 「ねえ、学校裏の猫の話、知ってる?」

テストも終わり、教室はのんびりした雰囲気が流れている。

「あ、あれでしょー、猫の幽霊!」

「違うよ、化け猫!」

「どっちも猫なんじゃん」

クラスの女子が、学校裏の猫について盛り上がっている。おおかた、誰かの流した作り話だろう。

「学校裏の猫、ね……。香織、知ってる?」

休み時間中、鏡を見ながら香織はメイクを直している。

「あー、あれじゃん、鳴き声聞こえるとかいうヤツ。ちょー怖くない?」

そう言いながらも、香織の目は鏡に映る自分の顔しか見えていないようだ。

「鳴き声するだけ?そんなことで盛り上がれんの、女子は」

「まだ続きあんだって。その猫、綺麗なときもあるらしいけど、大抵顔とか体が血まみれでボロボロなんだって。だから、みんな幽霊とか言ってんの」

「幽霊、ねえ」

チャイムが鳴り、クラスの生徒みんなが席に着く。その後に、萩原先生が入ってきた。

「あれ、一人いないですね……ええと、佐山一葉くん、佐山くーん!」

先生が名前を呼んでいると、廊下を走ってくる音が聞こえ、佐山一葉が教室のドアを開けた。

「すみません、遅くなりました……」

佐山一葉は、うちのクラスで恐らく一番おとなしい生徒だ。誰かと休み時間一緒に居たり、話をしているところを見たことがない。

「真面目な佐山くんが遅れて入ってくるなんて珍しいね。体調でも悪い?」

萩原先生は、本当に心配しているようでオロオロしている。

「だ、大丈夫です」

そう言うと、佐山くんは自分の席に着いた。


 「あいつ、何であんなビクビクしてんだろ。うちらの誰かが、いじめしてるわけでもないのに」

次の休み時間、手にハンドクリームを付けながら香織が呟いた。

「そりゃあ、香織と木下がいつもいつもハギセンとか言ってからかうからだよ」

「違うっての!アタシが言ってんの、佐山のほう。一年の頃はあんなにビクビクしたやつじゃなかったのに」

佐山を見ると、確かに挙動不審だ。休み時間なのに、自分の席で周りの様子を伺って震えている。何かにおびえているようにも見える。

「萩原先生が言った通り、本当に具合悪いだけじゃない?」

そうは言ったものの、尋常ではない彼の震え方が気になった。


 なんとなく気になって、放課後 学校裏へ行ってみることにした。学校裏には特に変わったものはなく、小さな茂みがあるだけだった。

「……やっぱり、何もいないな」

「猫の鳴き声もしないわね」

「帰るか……」

後ろを振り向くと、足音がした。やっぱり、何かいるのだろうか?学校の陰に隠れて、ノワールと様子を伺う。

しばらくすると、小さな猫がやってきた。でも、女子が言っていたような血まみれ状態ではなく、茶色の野良猫だ。その猫の後ろを、誰かが歩いてきた。

「あれは……佐山だ」

同じクラスの佐山一葉が、野良猫の後ろを歩いてきた。特に何をするわけでもなく、猫を眺めてボーっとしている。

「ただの猫好きかしら」

「かねえ……」

猫の鳴き声も、変わったものではなく「遊んで」という声だったし、心配のしすぎだったようだ。

「帰るか、ノワール」

「そうね」

佐山に気づかれないよう、そっとその場を立ち去った。


 「助けて……誰か……」

またあの夢だ。

「柊、柊!起きて!」

ノワールに顔を叩かれ、起こされる。

「何?ノワール……」

「柊、ベランダから、猫の声が聞こえるの。柊の言っていた夢と同じよ」

急いでベランダに出て、外を見渡す。

うちはマンションの三階だ。

「何もいないけど」

「違う!あそこよ、あのアパートの近く」

このマンション辺りは集合住宅地域で、どちらかと言えばマンションとアパートが多い。うちのマンションの傍にも、古びたアパートがある。下を見下ろして、斜め向かいだ。

ノワールが言った方向を見ると、小さな猫が見えた。

「今までの夢は、あいつの鳴き声だったのかな」

「ちょっと話を聞いてくるわ」

ノワールが、ベランダから近くの樹に飛び移りながら小さな猫の元へ駆けていく。こういうとき、俺も猫だったらと思う。

 しばらくして、ノワールが戻ってきた。

「どうだった?ノワール」

「あの猫、今日学校裏で見た子ね。野良みたいだけど、あのアパートに住んでる人間が一年前から面倒を見てくれて、懐いてるみたい。ただ……」

「何かあんの?」

「面倒をみてくれるけど、たまに殴られたり蹴られたり、刃物で切られたりするみたい」

「それ、虐待じゃないか」

動物をストレス解消の道具にして、痛めつける人間は多い。

「……それをしているのが、柊の知っている人間だったら、どうする?」

今日の放課後のことを思い出し、はっとした。

「もしかして、佐山があの猫を虐待してるのか?」

静かにノワールが頷いた。


 翌日、学校で佐山のことについて何か知っている奴がいないか、話を聞いて回った、

「佐山?あのおとなしい奴?話したことないからなあ」

「あー、俺喋ったことないんだよね」

「佐山くん、って誰?それより、猫の幽霊の話って知ってる?」

 誰に聞いてみても、佐山の詳しい情報を知っている人間はいない。お喋りな香織や木下も、一年の頃はもっと明るい奴だったということしかわからないと言う。

「ダメだ、全然情報が集まらない」

昼休み、中庭でノワールと落ち合う。

「私も全然よ。あの小さな猫、誰とも話さないみたいで……」

お互いにぐったりしていると、背後に気配を感じた。ノワールと同時に振り返ると、そこには撫子さんが立っていた。

「……何だ、撫子さんか。びっくりした」

「何だって何よ。よく知らないけど、橘くんが佐山くんについて聞いて回ってるから、何かあったんじゃないかって心配して来てあげたのに」

撫子さんは、今日もいつも通り分厚いメガネにきっちりとした三つ編みといういでたちだ。撫子さんの自宅である喫茶リバーサイドでは、素顔を見せていて可愛らしいのだが、毒舌というおまけがくっついている。

「ねえ、柊。撫子には話を聞いていないじゃない。聞いてみたら?」

「そうだな……撫子さんて、佐山がどういう奴か知ってる?」

「佐山くん?まあ、一年の頃同じクラスだったし、少しくらいなら」


 中庭のベンチに二人で座る。ノワールが、俺と撫子さんの間に入ってきた。

「佐山くん、一年の頃にご両親が離婚したの。どうしてかまではわからないけど。ちょうど一年前だと思う」

一年前。あの小さな猫が佐山に面倒を見てもらい始めたのも、確か一年前だ。

「それまでは誰とでも仲良くって、私にも積極的に話しかけてくれる感じのいい男の子って印象だったんだけど……それからは、誰とも話さなくなって、いつも下を向いて、何かに怯えるように歩くようになった」

「何かに怯えるように、ね……」

「佐山くんに何かあったの?」

いつになく撫子さんが真剣な顔をしている。

「撫子さん、学校裏の猫の噂って、知ってる?」

「ああ、猫の幽霊がいるってやつ?」

「そう。でもそれ、ただの猫なんだ。佐山が、一年前から面倒みてて」

撫子さんが、ほっとした顔をした。

「何だ、悪い話じゃないじゃん。でも何で、佐山くんのこと調べてるの?」

「あいつ……佐山は、その猫の面倒を見るだけじゃなくて、殴ったり蹴ったり……虐待してるらしい」


 昼休みが終わり、撫子さんと時間をずらして教室に戻ると、階段の途中で佐山と一緒になった。

「あ、ごめんなさい。先、どうぞ」

俺を見て、道を譲る。

「いや、同じクラスだし道譲らなくていいよ。……手、どうかした?」

佐山が、さっきから不自然に両手を後ろに隠している。

「い、いや、何でもないんだ、何でも……」

そう言うと、佐山は俯いてしまった。

「あれ、佐山くんに橘くん。どうしたの?二人とも、これから授業だから教室入って」

萩原先生だ。仕方なく、急いで教室に入った。


 放課後、また学校裏にあの猫と佐山が現れないか見に行ったが、残念なことにその日は待っても待っても誰も来なかった。


 「あの佐山くんが、動物を虐待するなんて信じられない」

帰り際、久しぶりにリバーサイドに寄った。今日は校長先生も、常連のおばさんもいないようだ。店番は撫子さんだけらしい。

「何があって、そんなことするんだろう。……俺はノワールがいるから、そういうのマジで許せないんだけど、佐山が一年前と違う人間になったのも気になるし」

考え込んでいると、俺の目の前にリバーサイドのオリジナルブレンドが出てきた。

「サービス」

「ありがと」

撫子さんが俺の目の前の席に座る。

「私も、何か協力できない?」

「ありがたいけど、店番あるだろ」

「私が協力したいの!……佐山くんのことも、猫のことも心配だけど……橘くんて、何かに集中すると周りが見えないみたいだから、不安になる。ほら、この間の引ったくりのとき、犯人殴ろうとしたでしょ。普段は落ち着いてるから、より心配っていうか……」

撫子さんが、顔を真っ赤にして横を向いた。俺のことを心配してくれている。

「ありがとう、撫子さん。今まで俺のこと心配してくれたのは叔父さんとノワールだけだから、すげー嬉しい」

出してもらったオリジナルブレンドを一口飲む。苦いけど、飲むと口の中に香りが広がって味わい深い。これを作っているのが、撫子さんのお父さんであるマスターの菊直さんだと思うと不思議な気分だ。がっしりしていて、見た目は体育会系なのに繊細な味を作る。

「お父さんが店番のときに手伝うから、スマホの番号教えて。あ、ラインの方がいいかな」

 撫子さんと番号を交換して、リバーサイドを後にした。


 「まーた変なことに首突っ込んでんのかい、ノワール」

柊がリバーサイドへ行っているので、自分一人であの小さな猫と佐山のことを調べにボスに会いにきたら、近くで三毛猫のビールに会ったのだ。

「だって、気になるでしょう。あんな小さな猫が、人間に殴られて助けを求めるなんて」

それを聞いたビールが、ため息をついた。

「いいかい、ノワール。そんな人間、どこにでもいるんだ。……息を吸うのと同じように、殴るんだよ」

ビールの表情が、いつになく暗く、今にも泣きだしそうな目をしている。

「ビール、あなたも、殴られていたの?」

「……人間は、勝手な生き物だ。アタシは、人間に拾われて育てられて、捨てられた。この名前は、その人間が酒が好きだったから付けられたんだ。

最初は、可愛がってもらってた。でも、飼い主だった男がリストラされて、毎日毎日酒を飲むようになった。アタシは心配になって、ダメだって伝えようとしたんだけど……ビール瓶で殴られて、左目が見えなくなった。

それから家を出て、この生活さ。ノワール、アンタが心配している子猫、もしかすると長い命じゃないかもしれないよ」


 店を出てノワールを呼ぶが、いっこうに現れない。どうしたんだろうか。

「橘くん、何でさっきから突っ立ってんの」

ドアの開く音がして、撫子さんが出てきた。

「ノワールが来ないんだ」

「必ずお店の前で待ってるのにね。何かあったのかな」

「こういうこと、あんまないんだ。大丈夫かな、ノワール」

もしかすると、あの猫と佐山の情報を集めているのかもしれない。

「おっ、橘くんじゃないか!久しぶりだなあ。元気だったかい」

油断していたら、後ろから走って来たマスターに背中を思いきり叩かれた。相変わらず、蝶痛い……。

「ど、どうも……」

「お父さん、これから店番変わってくれない?ノワールがいなくなっちゃったみたいなの」

撫子さんが、エプロンをはずして近寄って来た。

「ノワール……ああ、あの行儀の良い橘くんの黒猫ね!いいぞ、二人で探してきなさい。見つかったら、またノワールにミルクを出そう」


 「どこ行ったのかな、ノワール」

「多分、学校裏。あの猫のこと、心配してたから」

「橘くんて、本当にノワールの言葉がわかるみたいな言い方するよね」

「だから、会話してるんだよ」

「ふうん」

撫子さんが、不思議そうな目で俺を見た。

「それより、撫子さんは大丈夫なの?学校裏行くのに、リバーサイドバージョンじゃんか」

「大丈夫、この時間なら、みんな部活やってるし私に注目なんてしないわよ」

「そうかなあ……」

ジーンズに白いシャツを着て、髪の毛は結んでいない状態だが、かなり目立つ気がする。紘葉のような奴が見たら、騒ぐに違いない。それくらい、撫子さんは可愛らしい顔をしている。本人は、自分の容姿に否定的だが。

「一応、俺の制服のジャケット着たら?」

「えー、なんかやだ」

学校に入ると、帰っていく生徒たちが撫子さんを見ている。中には、制服着てないから不法侵入じゃない?という声もある。

「……やっぱジャケットかして」

下はジーンズだが、さっきよりはジロジロ見られない気がする。

俺のジャケットなので、撫子さんには少し大きいが、まあいいだろう。

なるべく校内にいる生徒に見られないよう気を配りながら、学校裏に向かった。


 「よしよし、茶色はいい子だな」

学校裏には、佐山と小さな猫がいた。彼は猫のことを茶色と呼んでいるらしい。学校の影に撫子さんと隠れながら、様子を見る。

「ほら、佐山くん優しいじゃん。虐待とか、してなさそうじゃない?」

「うーん……」

確かに、虐待しているような雰囲気ではない。茶色の頭を撫でて、餌をあげているようだ。

「橘くんの考えすぎだって、もう帰ろ」

「……いや、ちょっと待って」

今まで嬉しそうだった茶色が、怯えた声を出している。

「ほら……食べろよ、いい子だから」

茶色は、佐山が持っている皿のようなものを見て怯えているようだ。

「何してるんだろう」

「ちょっと、橘くん!何してるんだろ、じゃないわよ!行くわよ!」

そう言うと、撫子さんは走って佐山のところへ行ってしまった。追いかけなければ。

「ちょっと、何してるの、佐山くん」

声を掛けられ、佐山が恐る恐る振り返った。

「だ、誰?僕、この猫に餌あげてるだけなんだけど」

撫子さんの後を追いかけ、佐山の持っていた皿を覗いた。

「あ、やめて!見ないで!」

皿の中には、餌にまじって硝子片や針のようなものが入っている。これを食べたら、茶色の口はボロボロになってしまうだろう。

「佐山、何でこんなもの入れたんだ?お前、この猫に死んでほしいわけ?」

「君は、同じクラスの橘……ち、違うんだ。僕は……僕は、ストレス解消で……その……ごめんなさい!」

そう言って、佐山は走り去ってしまった。

「何これ、こんなの食べたら、この猫死んじゃうんじゃ……」

撫子さんも、皿を見て驚いている。

怯えて泣いている茶色をそっと抱き上げ、話しかけた。

「大丈夫か?お前、あいつに何されたんだ」

「……」

俺の目を見て、震えている。

「何か、怯えてるみたい。可哀相だね」

撫子さんが、茶色の頭をそっと撫でた。

「……悪いのは、僕なの」

「え?」

茶色が、声を震わせながら語り掛けてきた。

「あのお兄ちゃんは、悪くない。ご飯を食べれない、僕が悪いの」


 今日は、あの猫について調べていたら遅くなってしまった。柊は、まだリバーサイドにいるだろうか?店の前のドアに向かって、ニャオ、と鳴いた。カラン、という音がして、ドアが開いた。

「ノワール!お疲れ。待ってた」

「ごめんなさい、遅くなって。あら、その子……」

いつも自分がミルクを貰う場所に、あの小さな猫が座っている。

「もしかして、何かあったの?」

「ああ。詳しいことは、帰ってから話すよ」

柊と話していると、マスターがミルクを出してくれた。

「そのちっこいのには、さっき出したからな。これはノワールの分だぞ」

マスターにお礼を言い、ミルクを飲む。

「お姉ちゃん、このお兄ちゃんの猫なの」

小さな猫が話しかけてきた。きっと、他の猫に興味があるのだろう。

「ええ、そうよ。私はノワール。この子は柊。あの女の子は撫子。今、私にミルクを出してくれたのがこの店のマスター」

「へえ、そうなんだ」

安心しきっているのか、小さな猫はニコニコしている。

「あなたは、野良?それとも、飼い猫?」

「僕は……野良だけど、佐山に面倒を見てもらってるんだ。一年前は、佐山のお母さんが生きてて、とっても親切にしてもらってた。もしかしたら僕を飼ってくれるんじゃないかって期待してたんだ。だけど、佐山のお父さんとお母さんが離婚して……今まで優しかった佐山は、僕に暴力を振るうようになった」

「そうだったの……」

「でも、佐山は悪くない。お父さんから毎日暴力を振るわれて、それがストレスなんだって。いつも自由気ままな僕を見て、羨ましくなっちゃって、お父さんにされたように、僕に暴力を振るってストレス解消してるんだ。だから、佐山は悪くないんだ。僕が耐えれば、また優しくしてくれる」


 リバーサイドを出て、ノワールを肩に乗せ茶色を抱いてマンションへ向かう。

「こいつ、茶色って名前らしい」

「そう、茶色」

俺とノワールが話しているのを見て、茶色が笑う。

「どうした?」

「二人ともとっても仲良しだから、去年、佐山とお母さんに可愛がってもらってたのを思い出したんだ。僕も、もっともっと頑張って、佐山に嫌われないように強くなるんだ」

そう言いながら、茶色は眠りについた。


 マンションに着くと、叔父さんと叔父さんの後輩の椿さんがいた。椿さんはかなりのエリートらしい。シャープな眼鏡をかけ、シュッとしている。

「こんばんは、柊くん。お邪魔してます」

「こんばんは、椿さん。夕飯食べました?」

「おお、柊。今日は寿司買ってきたから、料理しなくていいぞ。

見ると、叔父さんの顔が赤くなっている。かなりお酒を飲んでいるらしい。

「あれ、柊くん、飼っている猫は、ノワール一匹だけじゃなかったっけ」

さすが椿さん。叔父さんなら気付かずスルーしただろう茶色を見逃さない。

「ちょっと訳があって。今日だけうちで預かるんです」

「訳……どんな訳?君みたいなしっかりした子が猫を預かるなんて、何か大変な理由があるんじゃないの?」

椿さんの得意技、プチ尋問が始まった。これだから、警察官は困る。

「全然大丈夫です。ごゆっくり!」

それだけ言って、急いで自分の部屋に入り、鍵をかけた。

「危なかった……」

「椿は蘇鉄と違って、細かしい男だものね。あとは、何も喋っちゃだめよ」

「うん……」


 椿さんが帰ったのを見計らって、叔父さんが買ってきた寿司を食べた。ノワールがよだれを垂らして俺を見るので、ノワールのご飯皿にマグロを二切れ置いてやる。

「茶色、DV被害を受けてる人間みたいなこと言ってたな」

「そうね……本当に佐山のことが好きなんだろうけど……このままじゃ、きっと命を落すわ」

「佐山が、父親から暴力受けてるってのも気になるし……」

「明日、佐山を呼び出して話を聞き出すしかないわね」


 翌日の昼休み、佐山に声を掛けて、中庭に呼び出した。

「た、橘くん、僕に何の用?」

「昨日のことで話があるんだけど」

「……ぼ、僕は何も……」

佐山は、上を見たり下を見たりと、落ちつかない様子だ。それに、また両手を後ろに隠している。

「茶色、って言うんだよな、あの野良猫。俺も猫飼ってるけど、あんな酷いご飯初めて見たから、もしかしてお前が虐待してるんじゃないかって思ってさ」

「し、してない!僕は、そんなことしない!」

そう言って、佐山は両手を交互に噛み始めた。

「佐山?何やって……」

佐山の両手は、恐らく自分で噛んだであろう傷跡と、刃物のようなもので切られた跡でいっぱいだった。

「お前、その傷……」

「こ、これは落ち着くための儀式なんだ!僕は悪くない、悪くないんだ……」


 嫌がる佐山を連れて、保健室を訪れた。

「あら、この傷……」

保健の先生が、佐山の手を見て驚いていた。当然だと思う。

「今、萩原先生に連絡するから、ちょっと座ってて」

保健の先生が電話をしているときに、佐山の方から俺に話しかけてきた。

「な、なんでこんなことするんだ。これじゃ、今までよりも殴られる……どうしてくれるんだよ!」

「佐山、お前、父親に虐待されてんだろ」

「い、いや、違う!」

「じゃ、誰に殴られるんだよ!」

すごい勢いで保健室の扉が開いて、萩原先生が俺たちのところへ走って来た。

「佐山くん、橘くん。二人とも、生徒指導室に来て」


 生徒指導室に入り、俺と佐山が椅子に座る。向かい側に、萩原先生が座って、微笑んだ。

「ええと、君たちを呼んだのは、佐山君のそのケガについて話をしたいからです。佐山くん、二年生になってから、両手がいつも血やかさぶたでボロボロだよね。ご両親が離婚されてから、落ち着かないのかな。もしそうなら、スクールカウンセラーの先生とお話してごらん。少しは、気持ちが楽になるかもしれないよ」

「はい……」

「じゃあ、佐山くんは教室に戻ってね。今の時間、自習だからしっかりね」

佐山が教室を出るのを確認して、萩原先生が俺に話しかけてきた。

「橘くんは、叔父さんが警察官だし、君が正義感が強い子だって話も聞いてる。先月も、校長先生を助けてくれたって聞きました。素晴らしいことです。でもね、君はまだ高校二年生だ。人を助けることに一生懸命になって、もし自分が命を落としたり、友だちが死んでしまったらどうする?」

「……俺は、自分がいつ死んでもいいと思ってます。先生は知ってると思うけど、家族はみんな死んでるし。でも、友だちや同級生、知り合いが死ぬのは嫌だ。そういうことがあるなら、かわりに俺が死ぬ」

萩原先生が、俺を見て微笑んだ。

「……橘くんはバカなんですね。勉強もスポーツも出来るのに、頭の中は中二病ですか」

「……は?」

急に先生の口調が荒くなる。

「君はもう知っていると思うけど、佐山くんはお父さんに虐待されているんじゃないかって話があるんです。でも、それに君のような子供が関わってはいけない。もう、佐山くんに関わるのはやめなさい」


 教室に戻ると、自習のはずだが、ほとんどの生徒は席を立って友達とお喋りしている。

「おつかれー、柊。ハギセンに捕まったってホント?」

香織が、興味津々、という目で俺を見た。

「……ちょっとね。進路のことで」

「なーんだ、マジメな話かあ」

それを聞くと、香織は急に興味が無くなったようで、スマホをいじりはじめた。

教室の真ん中の席に座っている佐山は、教科書とノートを開き、一人静かに自習している。

仕方なく教科書とノートを開いていると前の席から手紙が回って来た。一体、誰からだろう?中を開くと、さっきの呼び出しは何?放課後、うちに集合!と大きな字で書いてあった。


 「なるほどね、萩原先生がそんなこと言うなんて、驚きだわ」

「俺もびっくりした。心配して言ってくれてるんだろうけど……やっぱり佐山たちのことは気になる」

茶色とノワールは、二匹でどこかへ行ってしまったし、どうしたものか。

「お父さんが帰ってきたら、店番変わってもらうから、佐山くんの家に行ってみない?私、学校の服装と髪型で行くから」


 しばらくして、マスターが戻って来た。撫子さんが制服姿に着替えるのを待って、佐山の家へ向かう。

「佐山の家、良く知ってるな」

「一年の頃も委員長だったから、休んだ子の家にプリント持っていってたの。ちょっと歩くからね」

 佐山の家は、うちのマンションの斜め前の古いアパートだった。

「ここの一階、右側が佐山くんのうち。橘君は、どっかに隠れてて」

 この辺りは開けていて、隠れるような場所はほとんどない。近くにあった木の影にそっと隠れることにした。

「すみません、同級生の河原なんですが、佐山くんいますか?」

撫子さんの声だけが響く。

「はい……?」

ドアがゆっくりと開き、そこから出てきたのは佐山だった。


 「だ、騙された……まさか、河原さんと橘くんがつるんでいるなんて……」

「人聞き悪いこと言うなよ。まあ、茶でも飲めって」

 佐山の住んでいる部屋には、佐山の父親が眠っているらしい。その場で話を聞くのは不可能だ、ということで、うちのマンションに強制的に佐山を連れてくることになったのだ。佐山は、やはり怯えるように小さくなって食卓の椅子に座っている。

「お茶もいいけど、お菓子はないの?橘くん」

撫子さんは、遠慮なく椅子に座ってお茶を飲んでいる。佐山にも、これくらいの図々しさがあればいいのではないだろうか。

買っておいた煎餅を出して、俺は撫子さんの隣に座った。

「佐山、何でここに連れてこられたか、わかる?」

佐山が、一瞬だけ俺の顔を見て下を向いた。

「ぼ、僕が虐待されてると思ってるから……」

「そうなの、佐山くん。さっき、佐山くんはお父さんが寝てるから、話しは出来ないって言ったわよね。それってどうしてなの?うちのお父さんだって、疲れて寝てることは多いけど、そこに友だちや近所の人が訪ねてきても文句言ったりしないわよ」

それを聞いて、佐山は顔を上げた。

「わ、わかんないんだ、君たちには……橘くんはこんな立派なマンション暮らしだし、河原さんだって裕福な暮らしして、両親に何でもかんでも…してもらってるんだろ……そんな人間に、僕の気持ちがわかるわけ、ない」

そう言いながら、静かに佐山が泣き出した。

「佐山くん、私も橘くんも、裕福じゃないわよ。私は子供の頃に母さんが死んで、父さんと二人で必死で生活してるし、橘くんなんか、ご家族が死んでるのよ。それで、叔父さんにお世話になってる。それに、あなたが裕福だと思ってる人たちにだって、少なからず大変なことがあるの。そんな子供みたいなこと言ってるのやめて、もっと楽しいこととか考えなさいよ」

撫子さんが勢いよく喋る。俺のことまで、わりと詳しく。きっと、佐山は聞いていないんじゃないだろうか。そう思って佐山の方を見ると、涙を流していた。

「佐山?どーしたんだよ」

「い、いや、僕、今までそんなこと知らなくて……二人とも、苦労してたんだなって思って……僕の話も、聞いてもらってもいいかな」


 撫子さんの弾丸トークがきいたのか、佐山は自分のことをゆっくりと話し始めた。

「去年の今頃、うちの母さんと父さん、離婚したんだ。父さんの暴力が原因でね。……それまでは、母さんはずっと耐えてた。僕がいるから、頑張らないと、って言って、いつも無理して笑うんだ。笑うと、何とかって成分が出て、幸せを感じるんだよって母さんが言ってた。

僕が学校へ行っている間に、母さんの顔を父さんがめちゃくちゃに殴ったことがあったんだ。そのとき、母さんは泣きながら裸足でアパートから出た。そのとき、茶色が母さんに近寄ってきて、心配そうな顔で鳴いてたらしいんだ。そこからだよ、茶色との付き合いは。

……でも、去年、母さんが父さんに殴られて、左目を失明した。一緒に逃げよう、って母さんに言われたけど、ここに残ったんだ。父さんは、あんな人だけど僕の父親ってことにかわりはないから。

それから、今度は僕が暴力を振るわれるようになった。母さんがいなくなってから、家事も頑張ってやったけど、少しでも味が気に入らないと、僕に投げつける。

最初は我慢してたけど、段々辛くなってきて……」

「それで、茶色に暴力を振るった、と」

「ちょっと橘くん、その尋問的なのやめなさいよ」

「ちょっと黙ってて撫子さん。続き、話して」

佐山が、俺をまっすぐ見て頷いた。

「それから、辛いときは茶色を撫でたり、抱きしめたりして気持ちを紛らわせていたんだけど……僕がこんなに辛い思いをしてるのに、何でこいつはいつも笑ってるんだと思って、急に憎らしくなったんだ。自分でも驚いたけど、いつの間にか茶色を殴ってた。茶色はそれでも僕に近寄って来た。それが、苦しかったけど。こいつなら僕の辛い気持ちに耐えてくれるって、思って……たくさん酷いことしたんだきみたちと会ったときは、茶色が「死んでくれればいいって……思ったんだ」

喋った後、佐山は子供のように大声で泣いた。


 「こいつが例の猫?ノワール」

「ええ、茶色って呼ばれてるわ」

柊がリバーサイドへ行った後、茶色をビールのところへ連れてきた。これから、茶色は佐山と別れなければいけない。そして、一人で生きていけるようにしたい。それを、ビールが教えたいと言うのだ。

「おい、小さいの。お前、餌をくれる人間に暴力を振るわれているそうじゃないか。この間は、餌に刃物が入っていたんだっけ?ノワール」

「そう。とても酷かったと柊に聞いてるわ」

茶色は、ビールの迫力に怯え、私の後ろに隠れてしまう。

「聞け、小さいの。その人間は、そのうちお前を見捨てるだろう」

「そ、そんなことない!そんなこと……」

茶色の声が小さくなる。

「自分でもわかっているんじゃないか?暴力に耐え続けていると、いつか命を失うんだ。アタシを見な。片目がにごっているだろう。昔、飼い主だった男にやられたんだ。お前も、いずれこうなる。これだけじゃ、すまないかもしれないな」

その目を見て、茶色が口を開いた。

「佐山のお母さんと同じだ……。僕も、佐山にそんなふうにされるの?」

ビールが、今度は辛そうな顔をした。

「ああ。こうなる前に、良い思い出だけ覚えておいて、そいつから離れろ。いつでも、アタシが面倒見てやるから」

私の後ろからゆっくりと前に出た茶色は、悲しい目をしてこくんと頷いた。


 佐山が落ち着いたのを見計らって、声を掛ける。

「佐山、茶色とお前は、もう離れたほうがいいと俺は思う。あと、お前の父親とも」

「そんな……茶色は僕の支えなんだ、いなくなったら、僕は……それに、父さんだって」

「でも、お前は今まで自分の都合のいいときしか茶色を可愛がってなかったんだろ。家が大変だって理由はあるかもしれないけど、本当に茶色が必要なら、どんなことをしてでも飼ってやろうって思うはずだ。俺なら、そうする」

佐山が、また下を向いた。

「茶色は、佐山と離れても生きていける。元々、野良猫だったんだ」

「でも……父さんはどうする?橘くんじゃ、どうしようもできないだろ!」

佐山がおもいきりテーブルを叩いた。部屋がしんと静まり返る。

「……確かに、佐山くんの言う通りよ。橘くんにも、私にも、佐山くんだって、どうにもできなかったから茶色にその気持ちをぶつけていたんでしょ。でも、こうやって私と橘くんに辛い気持ちを話してくれた。これから、どうなるかはわからないけど……お父さんからの暴力に耐えなくても、いいと思う。辛かったり、もしも、だけど……殺されそうになったら、逃げていいんだよ」

また、佐山が涙を流した。俺たちはまだ子供で、佐山を助けることはできない。萩原先生に言われた言葉が、俺の胸を締め付けた。


 河原さんと橘くんに喋りすぎてしまったかもしれない。そう思ったのだが、たくさん喋ったらいつもよりも気持ちが軽くなった気がする。

「……今まで、どうして誰にも言えなかったんだろう」

何度も何度も、担任の萩原先生は僕の話を聞こうとしてくれたし、カウンセラーの紹介もしてくれた。でも、そんなもの必要ない、家族じゃない人間が、僕を助けてくれるはずがないって思いこんでいたんだ。

これから、何かあったら、河原さんや橘くん、萩原先生に話そう。

アパートの前に立ち、大きく深呼吸して、ドアを開けた。

「おーい、一葉、いままで、ろこいってらんらよ」

お酒の飲み過ぎで、最近の父さんはまともに喋れなくなっている。

「ちょっと、同級生のとこへ行ってただけだよ。今から夕飯の準備するから……」

台所へ行こうとしたら、僕の顔の横から、包丁の刃が見えた。

「おせえよ!おれさまのめし、つくれらいなら、しんじまえ!」


 佐山が帰るのを見届けて、一旦リバーサイドに戻ろう、ということになった。

「そろそろ、ノワールたちが戻って来てるかもしれないし、そうしましょうか」

「……前からちょっと疑問だったんだけど、撫子さんて制服姿だといつもより言葉遣いが気持ち悪いって言うか……なんとかよ、とか。そういうキャラだっけ」

「これは、委員長っぽいかなーと思って使ってるのよ。ぽいでしょ」

そうは思わないが、面倒なので頷いておく。

「柊!大変よ!」

珍しく、ノワールがベランダから入って来た。

「行儀悪いな、ノワール。どうしたんだよ?」

「どうしたもこうしたも……佐山が、包丁を持った男に追いかけられてるの。出血も凄いわ。急いで蘇鉄に連絡して!」


 包丁を持った父さんは、部屋の中で僕を追いかけまわし、容赦なく切り付けてきた。本当に、殺されてしまうかもしれない。助けを求めて部屋のドアを開けたが、足首を深く切り付けられてしまう。

「うっ……父さん、やめてくれ……」

「られがやめるか!」

痛む足を引きずって、立ち上がろうとするが、力が入らない。

もう、ダメかもしれない。今まで、酷いことしてごめん、茶色。母さん、もう一度会って、お別れくらい言いたかったよ……。

静かに目を閉じる。せめて、一瞬で死ねますように。


「待ってください!佐山くんのお父さん!」

僕の目の前に、萩原先生が立っていた。

「は、萩原先生……?」

「さっき、橘くんから電話貰ったんだ。君が危ないって。もうすぐ警察が来るからね。安心して……」

そう言いながらも、先生の足はガタガタと震えている。

「らんらってえ?おまえが、せんせいだあ?」

「そうです、お父さん、もうやめてください!このままでは、彼は死んでしまいます!」

その光景を見ていたら、誰かに両肩を持ち上げられた。

「がんばったな、佐山」

「足、大丈夫?すぐ手当するから」

僕を持ち上げたのは、橘くんと河原さんだった。

ゆっくり移動していたら、パトカーが何台もアパートの前にやってきた。父さんは、驚いて足元に包丁を落とし、すぐ警察に抑えられた。

「父さんに、殺されそうになって……僕……」

ボロボロと涙がこぼれてくる。僕の足元に、小さな影が一つ近寄って来た。茶色だ。

「茶色……もしかして、心配してきてくれたのか?」

茶色は僕を見上げて、悲しそうな声で鳴いた。


 その後、警察と救急車がやってきて、佐山の父親は拘束された。佐山の傷はかなり深く、顔も体も、切り傷と血だらけだったらしい、

佐山はその後、母親に引き取られることになった。それが、一番いいと思う。

 今回の事件で驚いたのは、萩原先生の行動力についてだ。普段、オロオロしていると言われていて、おっとりしている人だと思っていたが、包丁を持った佐山の父親に立ち向かう姿は驚くぐらい頼もしかった。


 「今日で、佐山くんは転校します。佐山くんから皆さんにお別れの言葉があるそうです」

佐山が教卓の前に立ち、一礼してから喋りだした。

「……ニュースとか新聞の報道で、僕が父さんに虐待されていたこと、みんなが知ってると思う。本当に毎日が辛くて、僕は下を向いて歩いたり、会話するようになっていったんだ。

そんなとき、僕は気持ちを紛らわせるために、可愛がっていた野良猫に父さんにされたことと同じことをして、ストレス解消していたんだ。今考えると、本当に怖い。僕は父さんに殺されかけたけど、僕も、その猫を殺してしまうところだったんだ」

 佐山の話に、クラスのみんながざわつく。

「でも、僕のことを萩原先生や橘くん、河原さんが心配してくれて、声を掛けてくれたんだ。

それから、辛いときは抱え込まないで誰かに言うとか、逃げてもいいんだってことがわかった。……このクラスのみんなも、これから辛いことや大変なことがあると思う。もしかして、今がそうだ、って人もいるかもしれない。でも、それを誰にも言わないで抱え込むのはやめてほしいって思ったんだ。

……今まで、ありがとうございました。みんな、これからも元気で……」

そう言って、佐山くんは教室を出て行った。


 放課後、もう誰もいるはずないのに、何となく学校裏に来てしまった。ノワールが地面から俺を見上げる。

「なあに、柊。もう、佐山も茶色もいないのよ」

 茶色は、ノワールの友だちのビールという三毛猫が面倒を見ることになった。ノワールによると、口はめちゃくちゃ悪いけど、心根の優しい猫らしい。

「いないのはわかってるよ。何となく……あれ、あそこ……」

学校裏の茂みに、佐山がいる。

「佐山!どうしたんだよ、学校終わったら、すぐ行くんだろ」

「橘くん。そうなんだけど、何となく、ここへ来ちゃったんだ。あのとき、ここで橘くんと河原さんに会わなければ、僕はきっと茶色を殺して、父さんと同じような人間になってたんじゃないかって。もう、動物に酷いことをしないように、自分に約束にきたのかもしれない」

「そっか……」

佐山は、それを言うと、「またね」と言って帰って行った。

「彼にも、茶色にも辛いことがたくさんあった事件だったわね。でも、彼も茶色も成長したわ」

もう誰もいない学校裏。ここに猫の幽霊がいるという噂は、もう聞かない。

「またね、か。俺の家族からは、二度と聞けない言葉だな」

「そうね……生きているから、またね、なのよ」


 どこからか、佐山の声が聞こえた。

「どうしたんだい、茶色」

「今、佐山の声がしたんだ!きっと、学校だ……」

走り出そうとした僕を、ビールが引き留めた。

「待ちな、茶色。アンタは、もうアイツとは会っちゃいけない。アンタと佐山は、離れなくちゃいけないんだ」

ビールが、少し悲しそうな顔をしている。

「……ビール、どうしたの?悲しいの?」

「そうだね、ちょっと昔を思い出したんだ。アタシにも、アンタみたいに飼い主のところへ行こうとした時期があったからさ。でも、今行っちゃいけない」

「……わかったけど、わからないよ、ビール」

「そうだね、もう少し大人になったら、きっとわかるさ……」


第四話


ある日、兄と兄の家族が死んだ。息子の柊を一人残して。

俺が現場に向かって、家族がみんな死んでしまったことを伝えると、柊はそれを理解できずにいるのか、不思議そうな顔をした。

数日後、柊を誰が引き取るかでモメたときは、自分が面倒を見る、と言って柊を連れてマンションに帰ったのだが、婚約者の由利に物凄く怒られてしまった。


「蘇鉄、どうするの、あんな大きな子を預かるなんて……」

「由利、静かにしてくれ。ようやく柊が寝付いたんだ。それに、預かるんじゃない。育てるんだよ、俺たちで」

そう言うと、由利は俺の頬に平手打ちを食らわせた。

「私たち、これから結婚するのよ、自分たちの子供もいないのに、あの子を預かるなんてまっぴらごめんだわ」

「……俺は、お前なら受け入れてくれると思って柊を連れてきた。でも、そういう気持ちなら仕方ない。婚約は解消しよう」


 由利とは、学生時代からの付き合いだったが、そんなことを言う女だとは思わなかった。ショックだった。

 「蘇鉄叔父さん、お姉さんは?」

「お姉さんは、出て行った。これからは、お前と叔父さん、その猫がお前の家族になるんだよ」


 あれから数年。柊も高校二年生になり、自分のことは自分で出来るようになった。俺は家事がまったく出来ないので、柊が家事を担当するようになっていた。元々、兄さんに似て器用で賢い子だった。

「じゃ、行ってきます」

「おう、気をつけてな」


 柊の通う花園高等学校は、優秀な生徒が多く、進学率も高い。それに、バイト禁止だ。

柊は何にでも興味を持ち、誰とでもすぐ打ち解けることが出来る子だが、何かと人様のイいざこざに首をつっこみたがる。子供のころから今も「俺、ラーメン屋やる」とか言っているが、おそらく俺を安心させるための嘘だろう。とにかく、おかしなことに巻き込まれてほしくないのだ、俺は。


 兄は、俺の一回り年上で、優秀な警察官だった。どんな難事件も解決してしまうその推理力は、署内でも有名だった。そんな姿を見て、俺は警察官を志した。

だが、数年前、兄は死んだ。自動車事故ということで片付いたが、俺はそうは思っていない。おそらく、兄は何者かに殺されたのだ。家族と一緒に。

兄の車のブレーキは、細工がしてあって踏んでも踏んでもブレーキがきかないようになっていたのだ。その後、自宅を調べると、兄の部屋にあった書類棚が一つ、丸々無くなっていた。義姉さんの部屋も、柊と姉の部屋も荒らされていたが、何かを奪われた形跡はない。


 「蘇鉄さん、難しい顔して、どうしたんですか。四角い顔が、いつも以上に四角くなってますけど」

後輩の椿が、俺を見て話しかけてきた。こいつはかなりのエリートで、そのうち、俺の上司になりそうな奴だ。

「椿、何年か前に起きた自動車事故、知ってるか」

「ああ、息子さんだけ生き残ったっていう、アレですか。覚えてます。事件性はないって当時の報道で言ってましたけど……あれって、本当はただの事故じゃないんじゃないですか?僕は当時学生だったけど、変な感じというか……」

切れ者の椿も、そう思っていたらしい。

「そうだよな、俺もそう思う……」

 柊には隠しているが、俺はまだあの事故を追っている。そしていつか、必ず真犯人を見つけだす。

 突然、俺のスマホが鳴った。柊の担任の先生からだ。

「はい、もしもし。こちら、橘ですが」

「もしもし、あの、私、橘柊くんの担任の萩原と申します。少しお話したいことがありますので、学校まで来ていただけませんでしょうか」

柊が何かやったんだろうか。不安になってきて、胃がキリキリする。

「どうしたんですか?」柊の学校

「……椿、今から、甥っ子の学校行ってくる。ここは頼むぞ」

「了解しました」

 椿は、柊があの自動車事故で生き残った少年、ということは知らない。


 「おまたせしました、橘柊の保護者、橘蘇鉄です」

勢いよく職員室の扉を開ける。先生は二、三人しかいないようだ。

「わざわざすみません、私、橘くんの担任の萩原と申します。生徒指導室が開いてますので、そちらにお願いします」


 生徒指導室、か。学生の頃、俺はとにかく喧嘩っ早くて、しょっちゅう呼び出されていたことを思い出す。

「どうぞ、おかけください」

俺が椅子に座ったのを確認して、萩原先生が正面の席に座る。

「今日、お呼びしたのは……柊くんの件です。彼は、勉強もスポーツも真面目に取り組み、大変優秀な生徒です」

「ありがとうございます」

柊のことで怒られるのかと思ったが、逆に褒められてしまった。

「今年の四月から、今までも誰かのために動いている」

確かに、柊はそういう奴だ。

「……でも、彼は人に頼ることが非常に苦手なようですね。ご存じでしょうけど、転校した佐山くん、という生徒がいました。私は、関わるな、と彼に言いました。でも、彼はその言葉を聞かず、佐山くんに関わり続けました。

そのときに、彼はこう言ったんです。自分が死ぬのは構わないけど、誰かが死ぬのは嫌だ、と」

 柊が、そんなことを言っていたとは。あの事故の傷は、まだ残っているのだ。

「その後、私の携帯に彼が連絡してきてくれたのには驚きましたが。最近は、お友達の他にクラス委員長の河原撫子さんと親しくしているようです。彼女の自宅、喫茶リバーサイドさんでバイトを経験し、色々な人を見て、彼も成長してるんでしょう。今は心配なさそうですが……ぜひ、気を付けて彼のことを見守ってください」

「……こちらこそ、丁寧に教えていただいて、ありがとうございました」


 今日は、椿に連絡しそのままマンションに直帰することにした。萩原先生の言葉を聞いて、急に柊のことが心配になってきた。

「ただいまー」

部屋の扉を開けると、柊の靴の他に男物の靴が二つ並んでいる。

「あ、叔父さんお帰り。ごめん、今、友だち来ててさ」

居間から、普段はめったにやらないゲーム機の音が聞こえてきた。

「どうも、いつも柊がお世話になってます」

「蘇鉄さん、お久しぶりです、お邪魔してます」

友だちの一人は、昔から柊と仲のいい蓮くんだ。真面目な子で、俺も安心できる。もう一人は、高校に入ってからの友だちのようだ。黄色い髪の毛に、制服の上からピンク色のパーカーを着ている。

「どもー!初めまして……って、柊の叔父さん顔四角くね?マジやべえ」

「こら、紘葉。失礼だろ。すみません、蘇鉄さん。このおバカさんは、木場紘葉です。バカだけど、悪い奴じゃないので、安心してください」

今までの柊の友だちとはタイプが違うが、蓮くんがそう言うのなら、きっとそうなんだろう。

「はは、まあ、本当に四角いからな。よろしく、紘葉くん」

「うす!」

「……紘葉くんは、格闘ゲームが下手なのかな?この一瞬で、蓮くんに物凄い必殺技掛けられてるぞ」

「マジすか!うおー、蓮!やめてくれよ」

蓮くんと紘葉くんがゲームをしている間に、柊がお菓子と飲み物を持ってきた。俺の分もある。

「叔父さん、久々にゲームやんない?俺、下手だけど叔父さんめっちゃ上手いんだよ」

「マジ!じゃあ、俺と対戦しましょうよー!」

「いいぞ。まあ、勝てないとは思うが……」


 しばらくみんなでゲームをした。柊も、凄く楽しそうだ。ふと背中に視線を感じ振り向くと、居間にあるソファの下に黒猫のノワールがいた。どうして、猫は狭いところが好きなんだろうか。

 このノワールは、あの事故で柊を救ってくれたらしい。幼かった柊が、この猫が助けてくれた、と必死で説明していたのを今でも思い出す。

俺の兄も、柊も不思議なことに動物と会話ができるらしいが、本当かどうかは俺にはよくわからない。ただ、柊とノワールのやり取りをみていると、言葉ではなく、心が通じ合っているんだな、と感じる。


 柊の友だちが帰宅して、俺がテレビを見ている時間に、柊は食卓で勉強している。その傍らには、必ずノワールがいて、勉強を見守っているようにも見えるのだが、飽きると俺の膝の上へやってくる。気まぐれな奴だ。

「あ、叔父さん、俺、今週の土日はリバーサイド手伝いにいくからね」

「わかった、気を付けてな」

「バイト代入ったら、夕飯奮発するね」

「いい、いい。自分のことに使え」

 花園高等学校は、つい先日までバイト禁止だったそれでよかった。だが、校長先生の財布を盗んだ犯人を柊と喫茶リバーサイドの娘さん、撫子さんとの活躍で捕まえることが出来、定期テストの十位以内に入れば、バイトが出来るという校則に変わってしまった。

これで、また一つ心配事が増えてしまった。また胃が少し痛む。そろそろ、医者に行かなければいけないかもしれない。


 「自動車事故、か……」

蘇鉄さんが柊くんの学校へ行ってから、さっきの話に出た事件が気になり、過去のデータを調べ始めた。どこにも載っていないが、蘇鉄さんの作った事件データに、ブレーキへの細工や、父親の書類棚が丸々盗まれていたという記述がある。それに、今まで知らなかったが生き残った少年は、蘇鉄さんの甥っ子である柊くんだ。

「秘密にしてるなんて、まったく……本当に人に頼るのが苦手な人だ」

 蘇鉄さんは、ああ見えて頭の切れる人だ。事件現場でも、蘇鉄さんがいるのといないのでは捜査の進みが違う。口には出さないが、とても尊敬する先輩だ。

 「おい、椿!何してるんだ」

「署長、どうしたんですか?」

「事件だ!蘇鉄はどこ行った!今すぐ呼べ!」

 テレビを見ていると、スマホが鳴った。

「はい、橘蘇鉄……」

「蘇鉄、お前どこにいるんだ!事件だぞ、今すぐ署に来い!」

スマホを切ると、署長の大声が聞こえたのか柊が俺を見ている。

「どうしたの?叔父さん」

「事件があったらしい。今から署に向かう。柊、ちゃんと鍵閉めて寝ろよ」

「気を付けてね」


 「蘇鉄さん、こっちです!乗ってください」

署に向かうと、尋常じゃない数のパトカーが出動している。

「何があったんだ、椿」

「乗ってください、説明はそれからです」

椿の運転するパトカーに乗り、現場に向かう。

「……蘇鉄さん、あの自動車事故の生き残りの少年は、柊君だったんですね」

「お前、調べたのか!」

「はい、申し訳ないですが、蘇鉄さんのデータベースも読みました。あ、ちゃんと閉じましたから、安心してください。

「椿……今度は、一言連絡してくれ」

「わかりました」

「で、今回のはどんな事故なんだ?」

「自動車事故です。……柊くんのご家族が亡くなった事件に、酷似しています。同一犯だと考えるのが、妥当かと」


 現場に着くと、事故にあった車は崖から下に落ちていて、中にいた人間は、すでに死亡しているということだった。

「亡くなったのは、緑川浩さんと、そのご家族です。蘇鉄さんもご存じのように、緑川さんは署内の人間です」

「ということはつまり……」

「ええ、これは明らかに、蘇鉄さんのお兄さん、そして、緑川さんが関わった事件に関与している人物の犯行と見ていいでしょう」


 「叔父さん、今回は何の事件なんだろ」

叔父さんは昔からこうだ。ちょっと家に帰ってきては、すぐ署へ戻ってしまう。子供の頃は寂しいと思ったこともあったが、ノワールがいてくれたおかげで、なんとかやってこれた。

「何事も無く。無事帰ってきてくれればそれでいいいわよ。それよりも、明日はバイトなんだから早く寝なさい」

「へいへい」


 現場検証が終わり、署に向かうと、驚くべき発表がされた。

「えー、今回の事故は、自動車事故として処理、発表する」

俺以外の者も、その発表を聞いてざわついている。隣にいた椿が、勢いよく挙手した。

「なぜですか?あの車両のブレーキには、明らかに何らかの細工がしてありました。これは、事故ではなく事件です。署長の目は節穴なのでしょうか!」

署長が、椿に近づいてくる。物凄い形相だ。普段は、普通のおじいちゃん、という感じの人なのだが、怒ると人も、顔も変わってしまう。

「椿……これだから、勉強しか出来ない馬鹿物は!いいか、上からの命令だ。これは、事故だ。他の者もわかったか!」

署長の迫力に、その場にいた者は全て口を閉じた。


 これから、事故についてテレビや新聞、インターネットで様々な報道をされるだろう。なるべく柊には見せたくはないのだが。

「……おかしいですよ、何なんですか、警察官って。僕は、こんな嘘をつくためにこの仕事を選んだわけじゃないんです!」

「椿、そう思っているのは、お前だけじゃない。あの場にいた者全員、そう思っているだろう。だが、上からの圧力に立ち向かうには……俺達には武器がない。俺は、これから鑑識に寄っていく。お前も行くか?椿」

「蘇鉄さん……わかりました、僕も一緒に行きます!」


 「お疲れ様、蘇鉄さん。今日は何を確認に?」

白衣を羽織った鑑識の原田がいた。茶髪のメガネで、いわゆるイケメンだが爬虫類が大好きで、いまいちモテないらしい。

「自動車事故の仏さんだ」

「ああ、緑川さんね。顔の損傷が酷くて、原形を留めてないんですが……椿さんいるし、状態だけお知らせしましょうか」

椿は、以前ここで死体を見て吐いてしまったことがある。正常な精神を持っている、と原田に褒められていた。

「そうだな、頼む」

原田が、他の人間を外に出してくれた。案外、気の付く男だ。

「……椿さん、蘇鉄さんの甥っ子さんについて、ご存知ですか?あの事件については?」

「知っています」

「じゃあ、遠慮なく話せますね。以前、自動車事故で亡くなった蘇鉄さんのお兄さん、奥様、娘さんは、車に乗る前にお茶を飲んでいました。……おそらく、お客様がいらっしゃったんでしょう。柊くんだけは、別の場所にいたのか、お茶は飲んでいなかったようです。そして、車を運転している最中に、先ほどのお茶に含まれていた強力な睡眠薬で眠ってしまい、亡くなられた、そう私は考えています」

「じゃあ、そのお客様が犯人なのでは?」

大声を出す椿に、原田が落ち着いて、と声を掛けた。

「……今回の事件も、胃の内容物は同じものが検出されました。発表はないようですけど、同一犯の可能性は高い」

「そうか……ありがとう、原田」

「いいえ。僕、解明されない謎って気になる方なので、こんなことくらいならいつでも協力しますよ」

 鑑識を出て、少し歩く。

「原田さんて、本当に変わり者っぽいですよね。僕、苦手だなあ」

「ああ見えて、案外良い奴なんだよ。昔、うちの柊とよく遊んでくれたんだ」

椿が立ち止まり、驚いた顔で俺を見た。

「……ちょっと待ってください、原田さんて、一体おいくつなんですか?」

「……俺と同い年だけど。三十六」

「嘘でしょう?あの顔、寝てなさそうなのに綺麗すぎる肌……バケモノですか?二十代だって思ってたのに……」


 柊の両親、姉が鑑識に回されたとき、柊は珍しく大泣きした。俺も、周りの人間も必死でなだめたが、まったく歯が立たない。そんなとき、原田がこう言ったのだ。

「柊くん、柊くんの家族は、とっても痛い思いをしました。これから、どうして痛い思いをしたのか、確認します。そうすると、みんなの痛みは、ちょっぴり軽くなるんですよ」

柊が、ぴたっと泣き止んだ。原田が、頭を撫でている。

「……ほんと?」

「ええ、ほんとです。約束します」

それを聞いて、柊は笑顔になった。


「懐かしいな、あの頃、俺も、みんなも若かった」

「蘇鉄さん、そんなオッサンくさいこと言わないでくださいよ。あ、この間の婚活って、どうなったんですか?」

婚活。恐ろしい言葉だ。誰がそんな言葉を作ったのだろう。

「……ダメだった」

 俺にしては珍しく、一回デートしただけなのにラインや電話も相手から毎日山のようにくるし、これは、もしかしたら結婚できるのではないかと思っていたのだが。

「何がいけなかったんですかね」

「……顔が四角いからだと」

「本当ですか、確かに四角いけど、そんなに気にならないのに……」

「椿、わかりやすいフォローはいらん」

 本当の理由は、別にある。


 「え?蘇鉄さんって、高校生の甥っ子さんと同居してるんですか?」

「そうなんだ。死んだ兄さんの子なんだけど、とても良い子なんだ。君さえ良ければ、ぜひ一緒に暮らさないか」

「ごめんなさい、無理です。自分の子供じゃないし、高校生の男の子の母親になるなんて……」

由利のときと同じ反応だ。

「そうだよな……ごめん、今回の話は、なかったことにしよう」


 柊が原因とは、誰にも言えない。

「僕、蘇鉄さんと原田さんのために女の子紹介しますよ!」

「いや、いいよ」

きっと、俺には女運がないのだ。一生結婚できなくても、柊が独り立ちできるよう働かなければ。


 叔父さんが署に行った次の日、テレビには俺が良く知っているような自動車事故のニュースが写っていた。

「何だよ、これ……」

報道の内容も、俺の家族のときとほとんど同じだ。

「やっぱり、事故じゃないのね。でも、なぜか事故として報道する……」

「いつか、絶対捕まえる。俺が……」


 日曜日、リバーサイドのバイトが早く終わったので、叔父さんと待ち合わせて映画に行くことになった。せっかくなので、撫子さんも一緒だ。

リバーサイドまで、叔父さんが車で迎えに来てくれた。

「いやあ、今日はうちの娘がお世話になります!橘くんの……叔父さんでしたっけ?お若いなぁ」

「いや、もう歳で……」

俺と撫子さんが叔父さんの車の後部座席に乗り込むと、マスターと叔父さんがお辞儀大会を始めた。

「もう、お父さん、映画間に合わなくなっちゃうじゃん!」

撫子さんが顔を真っ赤にして起こっている。「今出発するよ!それじゃあ、またよろしくお願いします、菊直さん」

「こちらこそ、蘇鉄さん」


叔父さんの運転する車に乗るのも久しぶりな気がする。

「今日はノワール連れてこなかったのか?」

「いるよ。一緒に映画見たいんだってさ」

「どうやって一緒に映画館入るの?」

小さめの黒いリュックのジッパーを開くと、中からノワールが顔を見せた。窒息すると悪いので、半分くらい開けておく。

「着いたら、ここに入ってもらって席に行くんだよ。座って、暗くなったら見つからないように良い場所で見るってわけ」

ノワールも、今日はご機嫌だ。彼女のお気に入り俳優が出る映画だからかもしれない。

「車に乗るなんて、久しぶり」

ノワールはリュックから出ると。俺の座っている右側の窓から景色を見たり、撫子さんの座っている左側で景色を眺めたりと大忙しだ。

「それでご機嫌なのか」

「わりと車は好きよ」

車内で喋っていると、あっという間に映画館に着いた。大きめのショッピングモールの中心がこの映画館になっている。まだ俺が小学生の頃、叔父さんが映画館に連れてきてくれた。それから、ここは特別な場所になった。

 「叔父さん、駐車券忘れないで」

「ああ、そうだった」

「言った傍から忘れてるよ……」

その会話を聞いていた撫子さんが笑っている。

「撫子さーん」

「だって、蘇鉄さんと柊くん、本当の家族みたいで、何かほほえましかったから、つい」

そう言われると、少し恥ずかしくなる。

本当の家族、か……。


 映画までまだ時間があるので、ショッピングモールの中をみんなで見て回る。

ペットショップでノワールのおもちゃを買ったり、撫子さんが玩具屋で野球盤を買ったりした。叔父さんは、はしゃぐ俺とノワール、撫子さんを見て微笑んでいる。

「どうしたの、叔父さん」

「いや、何だか、こんな穏やかな休みは久しぶりだと思ってね。さ、そろそろ映画の時間だ。」


 映画館に入ると、中には新しく始まった映画の巨大看板に、俳優さんのサイン、映画のグッズなどが並んでいる。ジッパーから館内を覗いていたノワールが話しかけてきた。

「柊、映画のパンフレットとクリアファイルは買ってね。約束よ」

「はいはい……」

今日見る映画は、俳優さんを一新した「探偵ノワール」シリーズの劇場版だ。今までノワールと一緒に事件を追う警察官役は、わりと年配の役者さんが多かったのだが、若いファンを獲得するためなのか、その役は今をときめく俳優になったのだ。

姉が好きだったので、放送が始まると何となく見ていたのだが、ノワールの方がハマってしまっている。

 映画が終わって時間がなくなるのは嫌なので、先にパンフとファイルを買う。

「あれ、橘くん、それ買うの?」

「うん。ノワールが好きなんだよね」

「同じ名前だから?へえー……」

撫子さんが、グッズをまじまじと見つめている。

「欲しいのある?」

「ちょっとストラップが欲しいかなって」

ノワールのおしゃれなロゴが入ったラバーストラップだ。そんなに値段も高くない。

「すみません、パンフレットと、ファイルとストラップください」

さっと会計を済ませて、撫子さんにストラップを渡した。

「えっ、いいよ、いらない!」

「貰ってよ。俺、ヘアゴム貰ったし。いつもお世話になってるから」

「……あ、ありがと」

撫子さんが真っ赤になっている。ちょっと可愛い。

「柊、撫子ちゃん、ポップコーンと飲み物買ったから」

叔父さんが、俺達がグッズ売り場に夢中になっているうちに買ってきてくれたらしい。

「じゃあ、そろそろ入ろう」

映画館の中は、まだ明るい。ノワールは、しばらくリュックで待機だ。座る順番は。叔父さん、俺、撫子さん。

予告が始まり、もうすぐ映画の上映時間が来る頃だった。

ビー!という大きな音が鳴り、アナウンスが流れる。

『お客様にお知らせします。ただいま、館内立体駐車場に爆弾が仕掛けられたという情報が入りました。係員の誘導に従って、外へご移動をお願いいたします』

「嘘だろ、爆弾って……」

「静かに、柊」

しばらくすると、非常口が開き、中からさっきグッズ売り場にいたお姉さんが出てきた。「皆さん。私の後ろについてきてください」

他のお客さんが動き出す。一人だけ、後ろを向いて映画館の中へ走って行く男が見えた。

「叔父さん、さっき、男が一人映画館へ戻っていったよ」

誰にも聞こえないよう、そっと耳打ちする。

「ああ……わかってる。お前は、撫子ちゃんとノワールのことしっかり守れよ。俺は、あの男を追う。もし俺に何かあったら……椿に連絡しろ。わかったな」


 穏やかな休日が、一瞬で地獄に変わった。

誰にも見つからないよう、ゆっくりと館内を見て回る。誰の気配も感じない。残るは、従業員控室だ。

そっとドアを開けると、さっきの男が誰かに電話をしている。

「……はい、はい。準備は整いました。これで、あの男も、あの少年も確実に死ぬはずです」


 さっきのお姉さんの後を歩いて、ショッピングモールから少し離れた駐車場へ避難した。叔父さんが心配になり、お姉さんに声を掛けた。

「……すみません、俺の叔父さんが、不審な男を追いかけて行って戻ってこないんですけど……探しに行っていいですか?」

お姉さんが、驚いた顔をした。

「ダメです、今行ったら、あなたも危ないのよ」

「大丈夫です!私も付いていきますので!」

撫子さんが話に入ってきた。叔父さんに撫子さんとノワールを守れ、と言われたし、もし本当に爆発したら大変だ。

「撫子さんは残って。ノワールを頼む」

リュックを渡し、今歩いてきた非常階段まで走った。

「ダメよ!待って……」

さっきのお姉さんが、俺を追いかけてきた。それなりに足は速い方だと思っていたが、追い付かれてしまった。

「お姉さん、足速いですね」

「昔、陸上部だったの。柔道と空手もやってたわ」

パッと見は、セミロングの茶髪が良く似合う人だが、人は見かけによらないものである。

「そんな話をしてる場合じゃないんだった!急いで戻りましょう」

「嫌です。俺の家族、叔父さんと猫だけなんです。これ以上、家族がいなくなるのは見たくない」

それを聞くと、お姉さんは少し考え込み、俺の手を取って走り出した。

「お、お姉さん?」

「大切な家族なんでしょう、じゃあ、行かなきゃダメじゃないの!私が館内を案内するわ。急ぎましょう!」


「あの男……少年……」

さっきのスクリーンにいたのは女の子ばかりで、少年は柊くらいしかいない。これは、もしかするとあの事件の犯人が関係しているのかもしれない。

 扉を離れ、武器を捜す。近くにあるのは、せいぜい消火器くらいだった。

「仕方ないな、これを使うか」

ドアの傍に待機し、男が動くのを待つ。

少しドアが動く。今だ!ドアに向かって、思い切り消火器を叩きつけた。カシャっと何かが落ちた音がした。

「お前、誰だ?」

さっきの音は、この男のメガネだったらしい。

「お前こそ何者だ!さっきの電話の男は誰だ?」

それを聞くと、男がにやりと笑った。

「……橘蘇鉄さん、ですよね」

「!なぜ名前を知っている!お前は誰なんだ!」

「ボクは……ただの操り人形さ。爆弾を作るのが趣味の、ね」

そう言って、大きな声で笑った。

「一体、誰に命令されてこんなことを……」

「それは、あなたが良く知っているんじゃないですか?あの人も言ってました……。蘇鉄は、鋭い男だって。ま、だからこうやってターゲットにされるんですけどね!あははは!ボクも、人間を爆弾でぶっ飛ばすのは初めてなんです。楽しみだなぁ……こんなショッピングモールなら、一回の爆発でぜーんぶ粉々。ああ、ぞくぞくしちゃいますよ……」

 この男は、狂っている。そして、こいつを動かしているあの人とやらも、同じように狂っているに違いない。

「どうやって解除するんだ、その爆弾とやらは」

男はそれを聞いて、高らかに笑った。

「解除、ね。それはボクじゃないと出来ないんです。指紋認証が必要な爆弾なんですよ。あなたみたいなおっさんは、知らないでしょうけどね!」

「どうしたら、解除してくれる?金か?」

「……あなたは、ボクのことを勘違いしているようですね。ボクが求めているのは、スリリングな刺激です。お金なんて必要ありません。それに、必要な物は全てあの人が用意してくれるんです。だから、お金なんていう紙切れには全く興味がないんです。残念でしたね。……ああ、あと十五分で爆発します。楽しみですねえ」

犯人がおしゃべりに夢中になっているうちに、椿に連絡する。こういうときのために、ラインの合言葉を決めてあるのだ。

「お前、地獄に落ちるぞ」

「そんなもの、怖くありません。ボクは、今のこの高揚感をなくしてしまうほうがよっぽど恐ろしい」

この男、どうも自分の話に酔ってしまうくせがあるらしい。話し終えた後、必ず斜め上を向く。その隙を狙って、この男を背負い投げするという計画だ。

「叔父さん!良かった、早くここから出よう」

柊と映画館の従業員らしい女性が、スクリーン側から走ってきた。

「来るな!ここに犯人がいるんだ!」

「おやおや?あの人が殺し損ねた少年じゃないですか」

柊の表情が変わる。

「お前、何言ってるんだ?」

「やだなあ……忘れちゃったんですか?あなたの家族、数年前に死んだでしょう。あれ、ボクたちのボス……あの人がやったんです。最近も、同じような事故があったでしょう。あれも、あの人の計画です。テレビでしか見ていないですが、とても美しい殺し方でうっとりしてしまいましたよ」

柊が、それを聞いて固まっている。こんな話を、柊にきかせるなんて。やはり、この男はおかしい。

「黙って聞いていれば、何なんです、あなたは。頭がおかしいんですか?何がうっとりする殺し方ですか!」

従業員の女性が、犯人に近寄ってきた。

「危ない、逃げてください……」

その女性は、驚くことに一瞬で犯人に近づき、犯人を投げ飛ばしてしまった。

俺も柊も、それを見てあっけにとられてしまう。

「二人とも、ボーっとしてないで、犯人を抑えるの手伝ってください!あ、それと頭のおかしいあなた!爆弾を解除しないと、気絶するまで投げ飛ばしますからね」


 その後、俺と叔父さん、お姉さんとで犯人を爆弾のところまで連れていき、解除させた。その後に椿さんが警官を引き連れて来て、無事犯人は逮捕されたのだった。

 「今回は、女性をまきこんでしまって本当に申し訳ない!」

「お気になさらないでください。それよりも、あのう……連絡先とか、お聞きしてもいいでしょうか?」

 あのお姉さんと叔父さんは、映画館の事件がきっかけで付き合うことになったらしい。その後、叔父さんが返ってきているときにお姉さんがうちに遊びに来ることが多くなり、俺も安心している。

 「それにしても……私の映画タイムを邪魔するなんて、本当に腹立たしい奴ね」

うちでくつろいでいると、ノワールが口を『開いた。

「ああ、それに、今回は明らかに俺と叔父さんを狙ってた。そいつが言ってたんだ。俺と叔父さんを殺すって。あの人に言われたとか何とか……」

「あの人、ね。一体、何者なのかしらね」

そのとき、スマホが鳴った。撫子さんからのラインだ。

「来週の土曜、今度こそ映画見にいきませんか、だって。どうしよっか、ノワール」

「……撫子、もしかすると柊と二人で行きたいんじゃない?」

ノワールがテレビを見ながら返事をする。

「そうかな?」

「そうよ、そうじゃなきゃ、蘇鉄も誘うでしょ、普通」

「でも、学校で叔父さんに彼女ができたって話したからじゃないかな。撫子さん、いっつも俺のこと怒ってるじゃん。むしろ、嫌われてんのかなーって思う」

 学校でも、前よりは普通に話してくれるようになったのだが、相変わらずツンツンしているし。

「……鈍い男ね」

「何か言ったー?」

「何も。それより、今週のノワールは録画できてるの?先週は予告が切れてたわよ」

「へいへい。気を付けますよー」

 テレビ番組表を出して、録画確認をし、撫子さんに返事をする。

「うちのノワールも一緒でいいですか……っと」

すぐに返事が返ってきた。ノワールそっくりな黒猫のスタンプに、オッケーと書いてある。撫子さんが難しい顔をしながら送っているんだと思うと、吹き出しそうになった。

今度は、撫子さんとノワールと、ゆっくり映画が見れますように。


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