神聖かまってちゃん 『自分らしく』
神聖かまってちゃんの楽曲に『自分らしく』という曲がある。僕が一番好きな曲だ。
「自分らしく」という言葉はもはや、陳腐で手垢のついたものとなってしまった。誰しも、もう何が自分なのかはっきりと見えてはいない。その中でも「自分らしく」という言葉は未だに、あるタイプの符牒として通用するように見える。
「自分らしく」生きたい。人はそう願いながら、知らず知らず他人の価値観を紛れ込ませている。ユーチューバーが、ニベアクリームを大量に風呂に入れて、浸かる様子を動画にアップする事。こうした事を「したい事をして稼ぐ」「やりたい事をやっている」などとは僕は思わない。ユーチューバーはきっと、カメラのない所ではそんな事はしないだろう。僕らの目がカメラと、動画を見る画面と一致し、その事に気づかない。「自分らしく」生きようとして、他人らしく生きる事に終始する。金を得たいと思う事は、僕達の根っこに兆した欲求であるような気がするが、金で得られるものは市場に出回っているものに限られる。そこでは非常に多様な選択肢があるが、その選択肢は全て他人の用意したものだという事実は変わらない。僕らは他人の生産物で自分を活気づける事ができると信じている。その傾向から、「自分らしく」とは、最初に紛れ込ませた「他人」に対して見て見ぬふりをするという態度に収斂していく。
神聖かまってちゃん「自分らしく」という曲は、具体的に何が「自分らしく」なのか、はっきりとは明示されていない。むしろ、そこで示されているのは『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』という事が、曲として示される事こそが、「自分らしく生きる事だ」という二重の構造だ。「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも同じ構造が見えるが、ここでは歌われる内容と、歌う方法論とが一致している。
例えば、浜崎あゆみや西野カナが、楽曲で歌っているような恋愛を実際にしているとは思わない。もちろん、実際とフィクションが一致しなければならないなんて事はないが、彼らは「絵空事」を歌っている。「絵空事」の恋愛が大衆の心を掴み、現実を如実に描いたものはむしろ不人気だ。何故そんな構造があるかは興味深いが、ここでは触れない。浜崎あゆみや西野カナの歌う恋愛は、彼らの事実としての存在から遊離して歌われている。言い換えれば、彼らは「お仕事」として歌を歌っている。彼らはプロフェッショナルなので、もちろんそれでも十分評価できるが、諸手を挙げて褒めるわけにはいかないと感じる。
「自分らしく」生きたい、と神聖かまってちゃん・ボーカルの『の子』が歌う時、それはのっぴきならない一つの生を語っている。「自分らしく」生きたい、「素直に歌いたい」との子が現に歌う時、彼の背後に強力に感じられているのは、そもそも僕達がどうあがいても『自分らしく生きる事はできない』『素直に歌う事ができない』という事実だ。僕らを強引に、強力に押さえ込む世界の論理が、僕達を世界の底に沈めて離さない。が、この拘束が強ければ強いほど、これに対する反作用も強烈な力を持つ。一番自由な人間は、誰よりも強力な拘束を感じている。世界の重荷を背負っている人間だけが、それと闘う事によって自由となれる。
『自分らしく生きたい』『素直に歌いたい』と歌う事は、むしろ、それとは逆の事を想起させる。「自分らしく」という楽曲の外側では、の子は全然、「自分らしく」ない。生活の論理の中で、人は全く自分らしくもなく、素直でもない。見せかけの素直さを装った所で無駄だ。だが、それに抵抗する歌が響く時、ようやく僕らは「自分らしく」なる。自分がこれっぽっちも自分らしく生きていないと痛切に感じ、それへの抵抗が表現となる時、ようやく「自分らしさ」がほんの一瞬だけ、具現化する。山頂の光に似たそれは、周辺を黒い雲で覆われている。
「自分らしく」生きるという事は現在ではもう不可能なのかもしれない。現実意識、生活の論理は僕達を渦巻いている。宗教は世俗のものとなり、世界は平坦化した。この時、「自分らしく生きる」と言いつつ、皆に気に入られる価値観に静かに自分を滑り込ませていくというのは容易だ。僕らは失ったものの大きさに気づかない。気づく事ができない世界の中にいる。が、そうした世界だからこそ、響く歌もあるだろう。「自分らしく」という手垢に塗れた言葉は、の子の、あらっぽくも見える楽曲によって蘇生した。「自分らしく生きる」とは「自分らしく生きる事を追求する事」にほかならない。それが現になんであるかよりも、その意志の客体化の方が遥かに重要だ。神聖かまってちゃん「自分らしく」とはそんな曲に思える。個人的には、一番好きな楽曲だ。