金曜日の夜が憂鬱で
[AM0:33]
光量を限界まで絞った薄暗い店内と、俺の意思とは関係なく焙り出されるレジカウンター。
深夜だと言うのに眠気のねの字も無い若いカップルと、いつもテロテロのシャツで入店する小汚い青年。単に気味の悪い客や、家庭を持っていそうなオッサン、持っていなさそうなオッサン。若い男、若い男、たまに幼さが残る少女。終電を逃したサラリーマン。金髪、茶髪。ハゲ、デブ、チビ、メガネ。腕毛が濃い女。腋臭の男。加齢臭。イケメン、こいつは死ね。
金曜の夜はやけに街が活気づく。疲れ切ったサラリーマンはお姉ちゃんのいる店で羽目を外し、学生たちは人の迷惑も憚らず馬鹿騒ぎ、カップルは体を寄せ合ってなにか囁き合う。金曜日の夜は嫌いだ。
そんな事を考えながら壁掛け時計に目をやると既に日を跨いでいる。土曜日の静かな店内にある音は、浮足立った金曜の名残りだけだった。
「なあ、藤田くん。 あのF‐01のカップルシートのアベックがヤルかどうか賭けない?」
「いや、金ねぇんすよ。 あとアベックってなんすか、加齢臭するっすよ」
「あっはっはっはっ。 え? マジで?」
そう言って、耳の裏を擦って匂いを嗅ぐ木島さん。
ここのバイトも気付けば二年になっている。人が入っては辞めていく、そんなところ。
入ってくる奴もろくなもんじゃ無い、青白い顔をしている如何にも引き籠ってましたって感じのやつばっかり。
たったの二年でもう古株扱いを受ける俺。木島さんは俺よりも更に古いから、もはやここの主とか裏店長とか呼ばれている。本人がまんざらでも無さそうなのがかなり痛い。木島さん、あんた歳幾つだよ。子供とか居てもおかしくない年齢だろ。
「藤田くんはなんでいつも金がないの?」
「日本の……、経済の……、アレっすかね。 たぶん」
「あぁ、わかるわかる。 アレだよねぇ」
アレじゃねぇよ。今ので何がわかったんだよ。
と、まあ、こんな感じ。ぬるま湯同然の場所。現実を突きつけられる事がない優しいところ。一度浸かれば中々出ることが出来ない、だってみんな寒いのは嫌だろ。だから何時までもダラダラとこんなところにいる。木島さんもたぶん同じような理由だろう。
木島さんは「ちよっとアベックの野郎を脅かしてくるね」と深夜徘徊するお巡りのような腑抜けた顔で店内を巡回する。
履き古したジーンズのポケットで携帯が震える。画面を見ると子供の頃から腐れ縁の男だった。客も来そうに無いし電話を取った。仮に客が来たとしてもどうでもいい。ここに来る奴らは別にそんな事なんか気にもしないんだから。
『もしもぉしぃ、アッキぃ? いま何してんだよぅ』
「バイト」
『今日合コン行っててさぁ。 いまラブホ、ウケね?』
「あっそう」
『あっそう。ってなぁんだよお前、なんか反応しろよなぁ』
「お前彼女どうしたんだよ」
『んなぁもん別れたよ。 うぜぇんだもん。 おっぱいすら揉ませてくれねぇんだぜぃ? キンタマ爆発すんべぇ? ウケね?』
ウケねえよ。死ね。
電話から耳を離しても、ノイズが入ったようなガサガサの声はずっと続いている。
店内には踵を擦って歩く音。木島さん特有の歩き方だ。音はどんどん近付いて、蛍光灯に照らされた油塗れな彼の顔が薄汚く光っている。
「藤田くん、藤田くん。 ヤッてるよ? あのアベックやってるよ?」
金曜日の夜は憂鬱だ。
[AM1:42]
「妻とは五年前に別れたのよ。 大学生のひとり娘はボクをケダモノのように扱いやがるのね。 昔は可愛かったんだけどね、今やその面影は銀河の彼方へ飛んで行っちゃったよ。 いや違う、娘は銀河の彼方からやって来た宇宙人なのかも知れないね。そう思うのは無理もないだろう、そう思うのは仕方がないと思わない? 言葉遣いとかもよくわからないし。 メチャぽよ? あれ? なにぽよだったっけ? え? これもうナウい言葉じゃないの? うん、ナウいが死語なのはしってるよ。 でも、最近息を吹き返してきてるよね? ツウィーターだっけ? 違う? ツイッ? ウィッ? ウィ? 今はどんな言葉が流行ってるの? え? 普通? 普通ってどういう? ごめんね、おじさんハゲてるからそう言うのよくわからないんだ。 ハッハッハッ、フゴッ! ハッハッ! ゴッ、ンゴォッ! 豚みたいな笑い方してごめんね。ほんと、笑えるよねぇ。 え? 面白くない?」
ムーディーな雰囲気に煌びやかな店内の装飾、バックグラウンドミュージックには聞いたことも無いジャズが小さな音で流れている。
入口から奥域のある店内に配置されたソファーは贔屓目に見ても安物と言える。特殊な塗料が塗られた円卓は淵の方から剥げて来ていた。
壁には金糸の入った格子状のクロス、天井にぶら下がったシャンデリアは粗末なプラスチック製かアクリル製か、部屋の四隅には彫刻が施された風の独立円柱ある。ロマネスクかゴシックをイメージしているのだろうか。
柱頭にあるエンタブラチュアも良く模してあるけど、円柱とエンタブラチュアの構成はロマネスクやゴシックでは無くビザンツなんだけどな、しかも重用されたの最初期の頃ときている。
言ってもしょうがないんだよ、しょうがないんだけどね。その柱で一体なにを支えようってんですか。二階廊も無い、もちろんヴォールトもアーチも無い、百歩譲って梁すらありゃしない。君たちが支えているのはスラブに寸切ボルトで吊られた軽鉄下地に貼り付けてある石膏ボードですよ。
私は心の中で一息に巻くし立てる。今できるのはこの程度のものだ。
隣に座る若いキャバクラ嬢にこんな事を話しても、どうせ「ウケるー、意味わかんなーい」としか言わないのだから。
そもそも、なぜ私が彼女らの機嫌を取らなければならないのか、なぜ私が必死になって彼女らの為に話題を探さ無ければならないのか。私は職場、家庭、キャバクラに至る随所で誰かのご機嫌伺いを続けている。
妻と別れる数か月前に、私が長年務めた建築会社が倒産した。建築家とは言わないまでも、社内ではそこそこやり手な設計士として、日々装飾金物のデザインを施し、耐久計算と製作費計算に明け暮れ、建築基準と兼ねあうようにデスクに向かい、時に現場へ足を運んだものだ。
だのに今はこれだ。倒産した会社と同規模なところへ再就職は望めない。私は如何せん歳を喰いすぎていた。辛うじて私を雇ってくれたのは、名前も聞いた事がない三流ゼネコン。もちろん現場監督の経験は皆無で、下っ端からのやり直しだった。
顔が怖い職人たちに良いように使われ、時に恫喝紛いに詰め寄られる。自分より歳の若い上司にへいこらとへいこらと諂いながら、所長や副所長や工事長を務める同年代の人間を羨んだ。
私がやっとこさ主任になったのは一年前のことだ。しかし、主任と言っても地位は鼻くそほども無く、飾り同然の役職に過ぎない。現場監督としてやっていれば誰もが五、六年で得られる肩書だ。それでも私は嬉しかった。妻と別れて以来、ここまで胸が弾んだ事は無い。
帰って早速娘の香織に報告しよう。私は玄関のドアを勢いよく開ける。香織の部屋のドアを強くノックする。返事は無かった。だが直ぐにドアは開いた。
「チィス。 カオちゃんとぉ、ラブラブなおぅ付き合いさせてもらってまぁすぅ。 RYU‐SAYっすぅ」
私はこの日、三回ほど嘔吐した。
フリー入店した私の元にやって来た最後のキャバクラ嬢は、他の子たちとは違った大人な雰囲気を醸していた。彼女は詩織と名乗った。「源氏名か」と聞いてみれば「本名です」と返事が返ってくる。
「娘が香織って名前なんだ。 なんとなく似ているね」
私がそう言うと彼女は困ったように笑った。
「ここは初めてですか?」
「キャバクラ自体、数えるほどしか来た事が無いんだ」
「今日はなんでまた?」
「なんとなくね、今日は独りで居たく無かったのさ」
「理由を聞いても?」
普段の私なら適当な話をして誤魔化していただろう。だが、今日は違った。いや、彼女に対しては違ったと言った方がより正しくある。
私は会社が倒産した時の頃から話し始めた。妻と別れたこと、主任になったこと、香織が宇宙人になったこと、香織がRYU‐SAYとか言う宇宙人を連れて来たこと、RYU‐SAYを見てゲロを吐いたこと、今日が私の五十回目の誕生日だということ。
彼女は黙って私の話を聞いてくれた。
「へえ、今日が誕生日なんですね」
「ああ、正確に言えば昨日かな」
私は腕時計に目をやる。時刻は二時を過ぎていた。細かい傷が無数についた安物のデジタル腕時計は、私がゼネコンに再就職した時に香織がプレゼントしてくれたものだ。時間が見えにくくなった今でも外せないでいる。
「お誕生日おめでとうございます。 お祝いとかはされたんですか?」
「そんなのしないよ」
彼女は心なしか残念そうに「そうなんですか」と言った。
「二、三年前までは良くカレーなんかを一緒に作ってね。 ほら、ボクってカレーが好きだから。 でも、今は全然ですよ。 そんなもんでしょ、娘って? 君もそうじゃない?」
彼女は言いにくそうに口を噤んだ。
「あれ、なんか嫌なこと聞いちゃった?」
「いえ、全然。 私、お父さんがいないんですよ、お母さんもですけど。 だから親子でカレー作りとかちょっと羨ましいです」
彼女はそう話してくれたのに、急に話題を変えることが忍び無いと考えた私は質問する。
「今はひとりかい?」
「弟とふたりで暮らしてますよ」
「へえ、そうなのか。 弟さんはなにを?」
「大学生です」
「ボクの娘と同年代か。 仲はいいの?」
彼女は「ふつうですよ」と答える。他の若い子たちが使う「普通」とは明らかに違った響きがある。少し謙遜を交えたような温かさがある。きっと姉弟仲がいいのだろう、と私は思った。
中々に有意義な時間を過ごして店を出た時は、ようよう三時に近付こうとしている時間だった。近くのタクシー乗り場に着いた時、後ろから声を掛けられた。走って来たのか、微かに頬を上気させて膝に手を突いた詩織の姿があった。
彼女は私の手を握り「また、来て下さいね」と言った。私は手の中の物を弄びながら「いつかね」と返事をする。
タクシーの運転手に自宅の場所を告げた。彼女はずっと手を振っている。
香織にプリンを買っていってやろう。私は誕生日プレゼントに貰ったイチゴ味の飴玉を舐めながらそう思った。
[AM3:15]
終電ギリギリで地元に帰って来て眠気眼が眠り眼になりつつあった私は、それでも家に帰ることが許されず、泣いて腕に縋る友人の葉月に絆されるまま先輩がやっているバーに足を運んだ。
店が地元にあることもあって、週末になると店内は見知った人たちで一杯になるはずなのに、今日に限ってはがらんどうな空間が広がっている。私は、もし店が一杯だったら何とか葉月を説得して家に帰るつもりだったけど、こうなってしまったらその願いも叶わない。
そんなこんなでダラダラと飲み続けること約三時間、案の定葉月は泥酔、私はひとりで名前もわからない薄黄色のカクテルをちびちびと舐め続ける。
「葉月ちゃん今日荒れてたね、どうして?」
カウンター越しに声を掛けてきたのは二つ先輩のミカさん、このバーのオーナー。自分が今二十一歳だから、ミカさんは二十三歳。自分と同年代で店を構えている人が居る。改めて思うと信じられないほど凄いことだと思う。
「なんか、男に振られたらしいです」
「だから荒れてたんだ」
「そうみたいですよ。 ヤリ捨てされたーヤリ捨てされたー、って」
「それは大事件」
「いつものことじゃないですか。 この子治らないんですよね。 最初に聞いた頃は、私だって泣くほど辛かったんですよ? でもこう何回も続くとさすがに」
「葉月ちゃんがそれを聞いたら怒り出しそう」
「こうなったらしばらく起きませんから」
ミカさんは「或いは」と言って、可愛らしくはにかんだ。
ミカさんの弟のコウジくんは店の奥からグレーのブランケットを出してきて葉月の肩に掛けた。その無駄の無いスマートな動作には関心する。最近では彼を目当てに来るお客さんも少なくないらしい。本人はお客さんにも無関心で何も言わないけど、ミカさんはそんな彼のことを「ゲイなの」と言っている。もちろん真意はわからない、コウジくんは度を越えた無口だから、敢えて否定するのも肯定するのも面倒だと思っているのかも知れない。
「香織ちゃんは今日彼女に付き合わされたってわけ?」
「そんなとこです。 じゃあいいよ、一緒に居てあげる代わりに買い物に付き合って、って感じですかね」
「なんか買ったんだ?」
「まあ、一応」
「服とか?」
「腕時計なんですけど、ブランドものとかじゃないですよ? 安いデジタルの時計です」
「自分用?」
「いえ、プレゼントです。 一応ですけど」
「あの、名前負けしてる彼? 箒星くんだっけ?」
「違いますよ、彼とは別れましたから」
「振っちゃったんだ?」
私は「逆ですよ」と答える。ミカさんは「あらま」とお道化たように言う。
「私って求められると逃げたくなっちゃうんですよね、と言うか突っぱねたくなると言うか。 逆に求められないとムズムズしてくるって言う……。 彼は耐えられなかったんでしょうね、年中発情期みたいな奴ですから」
ミカさんは優しく微笑んだだけだった。
「葉月はそれを男みたいって言うんですよ? 失礼だと思いませんか? 私はもっと可愛らしいイメージなんですけど」
「猫とか?」
「まさしくそんな感じです」
「プレゼントは誰に?」
私は答える変わりに、セレクトショップのチャチな紙袋から腕時計を取り出してミカさんに見せる。ミカさんは一瞬考えるように目を反らす。プレゼント用なのにラッピングがされていないそれは、私の気恥ずかしさの現れ。ミカさんはそれに気が付いたのかも知れない。
彼女は箱に表記された文字をじっくりと読むように目を細める。
「文字盤にカリグラフィが浮き出るんだ?」
「どこかのボタンを押すと曜日と日付がポっと、例えば今日だとフライデーとかですかね」
「今日はもうサタデー。 ずっと起きていると金曜日の延長のようなものだけど」
「あっ、そうですね。 もう土曜日だったんだ」
「ん? なにかあって? 残念そうにしてるけど」
私は下を向いて自分の頬を揉んだ。自分では気付いていなかったけど、そう言われればなんとなく残念なような気もする。
コウジくんはテーブルを真っ白な雑巾で拭き始める。テーブルを拭き終えると、椅子を上にあげてモップで床を磨く。時刻はもう四時前だ。普段ならとっくに閉まっている時間だった。
「すいません、そろそろ帰ります」
「大丈夫、葉月ちゃんがこんなだし車で送ってってあげる」
ミカさんはグラスをピカピカに磨き、コウジくんはビールサーバーを片づけ始めた。私はおろおろしながら「なにか手伝います」と言うと、ミカさんは「ありがとう」と言って、コウジくんに目配せをする。一度店の奥に引っ込んだコウジくんは、また直ぐに戻ってくる。彼は目も合わせずに青い紙を私に差し出した。
「香織ちゃんはそれをやっておいて下さい。 お客さんから貰った梅シロップの包みだったものだけど、渋めな唐草模様だけど我慢してね」
手の中の青いラッピングペーパーを広げて見る。大きさは誂えたようにちょうど良い。私は二人に「ありがとう」と言った。ミカさんは「どういたしまして」と言う。コウジくんはやっぱり何も言わなかった。
以前にプレゼントした腕時計がもうボロボロなのは知っていた。日に当たると細かい傷がキラキラと輝いて時計としての機能はとっくに失われている。それでも毎朝仕事に出かける時は必ず身に着ける。それが煩わしかったりするけど、少しだけ嬉しくもあった。
父は主任と言うものになったらしい。それが凄いのかそうで無いのかすら自分にはわからない。けど、父が仕事を頑張っているなら応援したい。社会人にとって時間は大事なものだ、だから私は腕時計をプレゼントする。
直接渡すのは、やっぱり恥ずかしい。お父さんが目を覚ます前に枕元にでも置いておこう。
[AM4:42]
控室には紫煙が垂れ込め、ちょうど私の顔の辺りに一際濃度の高い層が出来ている。非喫煙者の女の子たちは顔を顰め、それでも諦めてしまっているのか、苦情をつける子は一人としていない。
私は臭いを気にすること無く、投稿型の料理レシピサイトを繰り続けていた。凝ったものでは無く、よりシンプルで家庭的なものを探す。目に止まったものを幾つかピックアップして、材料やスパイスを精査する。
始発の時間が近くなって彼女らと共に店を出て、駅に向かって歩いていく道中に「ずっと何見てるの?」と話掛けて来た女の子がいた。私は「カレーだよ」と返事をする。「歳を取ると嫌でも家庭的になるんですね」と言う彼女。悪気は無いとわかっていても、少しイラついてしまう自分がいた。
美専を出て最初にぶち当たったのは社会の厳しさだった。同時に目の前に突き付けられた自分の能力の無さ。高校の時に入っていた美術部の活動の延長として美専に入ったのが間違いだった。就職難全盛の世は何もデスクワークだけでは無かったのだから。
美専を出てから広告会社か何かと契約して、と淡い期待を抱いていた私は、先ず競争率の高さに驚愕する事となる。そりゃそうだ、アート系の専門学校の分母は増えても、需要が増える事は殆んど無いんだから。一過的に増えたインターネット広告だって今や修羅場。新規デザイナーの受け皿よりも、圧倒的に多い分子たち。そんな世界で生きていくのは、部活動の延長で美専に入った私には土台無理な話だった。
夜は場末のキャバクラで疲れ切ったオジサンの相手、昼は絵画教室でマダムやお子様の相手、そんな生活をもう五、六年は続けている。絵画教室の先生と言うと聞こえは良いけど、玉ねぎみたいに皮を剥いていけば最後に残るのは契約社員の文字だけ。給料だって多くない。ひとりなら食べていけるけど二人になると到底無理だ。だから私は二十七歳になった今でもキャバクラで働いている。
いつもとは違う電車のホームに並ぶ私に怪訝な目を向ける同僚の女の子。彼女は何か言いたそうに私の隣に並んだ。
「彼氏さんのところにでも行くんですか?」
「彼氏なんていませんが」
「えぇ? 焦ったほうがいいですよ」
大きなお世話だと思いつつ「そうだね」と言っておいた。
私の目的地は、昔住んでいた家の近所にあるスーパーだ。自社製品を多く扱う大型スーパーで、年始を除いて終日開いている。
玉ねぎ、ニンジン、じゃがいも、安い牛肉、カレー粉、各種スパイスを携帯の画面とにらめっこしながら無駄なく揃える。スパイスから作るカレーは初めてだけど、レシピサイトの投稿者を信じて作るしかない。
朝の電車に買い物袋を下げたいい年の女、という構図を想像して思わず苦笑いが漏れる。休日出勤のサラリーマンと部活動に行く学生の視線に耐えながら電車に揺られた。電車を降りてからも視線は続く。私は顔を伏せて耐え忍び、なんとか自宅マンションに帰って来たのが午前七時過ぎ、玄関を開けると既にリラックスムードの弟アキが居た。
「ただいま」
「うす」
気のない返事。
アキは、ぼさぼさの髪をかき上げながら、私が手に持っている買い物袋に目をやった。
「なにそれ?」
「スーパーに行って来た」
「この辺に朝早くから開いてるスーパーなんてありました?」
「ほら、松原の方の」
「朝からアグレッシブだな」
「カレー作ろうと思って」
「あっそう。 じゃあ、自分は寝るんで」
「寝るんでじゃなくて、あんたも手伝うの」
「俺もっすか?」
「とうぜん」
「あぁ……」
「なにか文句でも?」
「まさか」
「じゃあ、手伝うこと」
「うす」
台所に食材を並べて、ふたりしてあれこれと言い合いながカレーを作る。途中で私が間違えると、アキは「それで嫁に行けんの?」と馬鹿にしたように言った。少しイラッとする。アキが間違えると「男も料理出来なきゃ嫁を貰えない時代だよ」と私も反撃する。アキは面倒臭そうに「そっすか」と言うだけだった。
この調子でいけば昼頃にはカレーが完成するはず。ご飯を炊き忘れるとかベタな失敗が起こらなければだけど。
なんだか少しだけワクワクする。土曜日の朝は、そんな清々しさに満ちていた。