なぜ菩薩の絵はお告げを述べたのか
難波より 十三まゐり 十三里
もらひにのほる 智恵もさまざま
(近畿地方のわらべ唄)
石畳の敷かれた道の上を二人の少年が走っていた。時刻はまもなく深夜零時、道に沿って電灯が並んではいるものの、辺りは闇が優勢を占めている。
後ろを走る少年が言う。
「ねえ、大助君、待ってよ!」
その訴えは前を行く少年の耳に届いたが、彼は、足を止めなかった。それどころか、ちらと振り返ることさえしなかった。
「次郎、急げよ。菩薩様が逃げろって言ってただろ」
正面を向いたまま、そう言葉を返す。
「何から逃げるのさ」
「分かんねえけど、分かんねえけど振り返らずに走るんだ」
言い伝えやら、決まりやら、古くから引き継がれてきたものには何かしらの存在理由があるものだ。前を行く少年は思う。振り返ったら、悪いことが起きる。
そんな焦燥感に駆られる彼とは対照的に後ろを走る少年は至って呑気なものだった。次第にその足運びは緩やかとなり、二人の距離は遠ざかっていく。
やがて。
「あっ……」
後ろを走る少年の声が、短く響いた。
* * *
父に嫌味を言われながら伊藤大助は自宅を発った。あの父は、がさつであるにもかかわらず、妙に信心深いところがある。
「大助、また律儀に墓参りか? 次郎君はさ、お参りの決まりを守らなかったから死んだだけだ。お前が気に病むことじゃねえよ」
毎年恒例の台詞。幼馴染の次郎が他界して十年、命日の度にこれを言われるのだから堪ったものではない。仮に父の言う通り習わしに反したことが次郎の死の原因だったとしても、切っ掛けを作ったのは大助なのだ。
何を言われようと、年に一度、花を手向けることくらいはしなければならない。
電車を乗り継ぎ、墓所に着く。さっそく墓前に手を合わせる。語るべき言葉はない。まだ日の高い時刻ではあるものの、早々に帰路に就くことにする。
ところが、その足を留めるものが目に入った。墓所の近くに『画廊』と書かれた表札をさげている家屋があったのだ。画廊という人物の家ではないだろう。奇妙な佇まいではあるが、おそらく、いわゆる画廊に違いない。昨年までこんな店があっただろうか。疑問に思いながらも、大助は誘われるように家屋の扉をくぐった。
案の定、屋内には何枚もの絵が飾られていた。それらを見て使い古された慣用句を思う。これぞ、運命のいたずら。展示物の中に菩薩を描いた掛け軸があったのだった。次郎の命日に、再びこの掛け軸と相まみえるとは。
「そちらの掛け軸が気になりますか?」
声がしたので振り返ると、そこには同年代とおぼしき青年が立っていた。質問の内容から察するに、この画廊の店員だろう。
「え、ええ、見覚えのある掛け軸だと思いまして」
「そちらは十年前に廃寺となった寺院に安置されていたものです」
間違いない。やはり、あの時の掛け軸だ。
しばし戸惑う。すると青年が、軽く自己紹介をした上で、掛け軸について話し始めた。描かれているのは虚空蔵菩薩、近世以降の作品で美術的価値は低い、寺院では本尊として扱われていたなど、当たり障りのない解説が続く。
ただし、最後の一言だけは画廊らしからぬものだった。
「……こちらの掛け軸には奇妙な力が宿っております」
「奇妙な力?」
「はい。こちらの菩薩は、お告げを述べるのです」
大助は感慨深く掛け軸を見つめた。
青年が、首を傾げる。
「驚かれないのですか? 当画廊は、いわくつきの作品のみを扱っております。奇妙な噂について説明をしますと、どなたも一様に驚かれるものなのですが」
「すみません。実は既にこの掛け軸からお告げを受けたことがあるんです。そのお陰で、俺は救われました」
「興味深いお話ですね」
青年は嬉しそうに口元を三日月型に歪めた。
その薄気味悪い表情に促され、大助は、過去の出来事について語ることにした。
「お告げを受けたのは十年前の今日、十三参りの日でした…………」
大助の暮らす地域には十三参りという風習がある。十三参りとは、旧暦の三月十三日前後に、数えで十三歳となった子供を祝う催しだ。大助は、中学入学直前の春休みに、この儀式を行なうこととなった。
儀式と言っても大仰なものではなく、正装をして智恵を司る虚空蔵菩薩にお参りをするだけだ。幸いにも近くに虚空蔵を本尊とする寺院があったため、大助および近隣の子供たちにとっては、せいぜい、中学の制服に初めて袖を通す日、という程度の扱いだった。
大助は幼馴染の次郎と寺に行くことにした。一般的には両親を連れ添ってお参りは行なわれる。しかしながら大助と次郎には父子家庭かつ父が多忙という共通する事情があり、二人きりで行くことにしたのだった。
次郎は物心ついた頃からの親友だ。共に裕福とは言い難い環境にて生活をしていたため気が合ったのだろう、互いの家を行き来するほど仲が好かった。もっと言えば、家族ぐるみの付き合いがあった。
お参り当日も、大助の家で待ち合わせをし、二人して似合わない制服姿を見せ合って笑い転げたりした。
そうして、午前のうちに寺へと向かった。その寺は、地域と密着していたからだろうか、子供のみの参拝については祈祷料を払わずとも本堂に通してくれた。お陰で小銭しか持ち合わせていなかった大助と次郎も、無事に儀式を終えることができた。ただし。
「……虚空蔵菩薩を見ることができませんでした」
「こちらの掛け軸をですか?」
「ええ。その掛け軸は秘仏とされていて、公開されていなかったんです……」
本堂の最奥には小屋状の須弥壇(本尊を安置する一段高い場所)があり、そこは施錠されていた。たった一人の寺の住職以外、何が祀られているのか知る者はいなかった。そのため、当時はこんな噂が囁かれた。
――あそこには財宝が隠してあるんじゃねえか。
冗談めいた話だ。だが、言われてみれば不自然な点はあった。歴史の浅い小さな寺で当然ながら文化財もない。そんな所に秘仏なぞ不相応だったのだ。
十三参りを終えた大助は、その真相を知りたくなった。決して財宝が欲しかった訳ではない。あくまで子供特有の好奇心によるものだ。そして、次郎に計画を持ち掛けた。夜になったら寺に忍び込まないか、と。
昼のうちに確認したところ、本堂の入り口には木製のかんぬきと簡素な南京錠のみが備えられていた。当時の悪ガキたちにとってその程度の戸締りは、自転車の前輪錠と同様、鍵がなくとも開けるのは容易い。これならば特段の準備も必要ないと考え、次郎とは、夜中に、参道の入り口で待ち合わせることにした。
夜十一時、父が眠りについたであろう頃合いを見計らって自宅を抜け出し、無事に次郎と合流。二人はさっそく本堂へと向かった。余計なことなぞしている暇はない。まずは速やかに開錠を果たさなければならない。
ところが、その必要がなくなった。不思議なことに本堂への扉が開け放たれたままになっていたのだ。更に、その奥にある須弥壇の扉も開いていた。
不審ではあったものの、ここまで来て目的を達さずに帰るのは癪だ。そう考え、大助と次郎は息を殺して本堂へ侵入した。
堂内は仄かに明るかった。天井の明かりは消えていたが、須弥壇の前に置かれた燭台型の照明が灯っていたのだ。
その光に照らされ、剣と花を携えた菩薩の姿が、浮かんでいた。
虚空蔵菩薩。智恵を授ける菩薩。
開かずの扉の向こうには、虚空蔵の描かれた掛け軸が飾られていたのだった。
夜の寺院という状況も相まって、その絵はとても幻想的に見えた。大助は、そして次郎も、菩薩の顔に魅入った。
その時、声がした。それは掛け軸から発せられたものだった。
――逃げなさい。急いで逃げなさい。
密やかな声にもかかわらず鬼気迫る気配があった。
これはお告げに違いない。逃げなければ。即座にそう判断した。
「……俺たちは掛け軸に背を向けて走りました。そして、俺だけは救われた」
「ご友人は?」
「次郎は……その前に、えっと、十三参りを終えた後の決まりを知ってますか?」
お参りを終えたら参道を抜けるまで振り返ってはならない。十三参りは元々成人の儀式だったため、幼少期への未練を絶つという意味があるのだろう。
振り返ってしまった場合、授かった智恵を奪われる、と言われている。
あの日、十三参りの日、菩薩より授かった智恵はお告げだった。すなわち、逃げろという助言。それが奪われるということは。
はっきりとしたことは分からなかったが、大助は、絶対に振り返ってはならないと思った。後ろにいる次郎から声を掛けられても、まっすぐ前を見続けた。
やがて、あっ、という短い声が背後から聞こえた。同時に足音が途絶えた。大助を追うように走っていた次郎が振り返って立ち止まったのだと察せられた。それでも大助は足を止めず走り続けた。長い参道ではないので入り口に到着してから彼の様子は確認すれば良いだろう、と打算的なことを考えたのだ。
だが、参道を抜けて後ろを見てみると、そこに次郎の姿がなかった。
しばし待ってはみたが、一向に次郎は現れなかった。辺りは暗い。大助は次第に恐ろしくなり、再び走り出して、自宅へと戻った。
次の日のことだ。ニュースにて、事の顛末が明らかとなった。
十三参りの夜、くだんの寺で強盗殺人が起こった。
本堂に、住職と次郎の、刺殺体が転がっていたらしい。
「…………当時は父や警察からしつこく事情を聞かれました。幸い父は俺の話を信じてくれましたが、警察は聞く耳持たずって感じでしたね。ちなみに、犯人は未だ捕まっていないそうです」
「なるほど。お告げによって強盗と遭遇せずに済んだという訳ですね」
「まあ、そうですね。ああ、長話に付き合わせてしまって、すみませんでした」
「いえ、貴重な体験談をお聞かせくださり、ありがとうございました」
画廊の青年はそう言うと、わざとらしく一つ手を打った。
「そうだ。お返しと言ってはなんですが、私からも貴重なお話をさせて頂いて宜しいでしょうか?」
「え、ええ、どうぞ」
返事をすると、青年は背筋を伸ばし、もったいぶるように緩慢に口を開いた。
「ただいま、セール中でございます」
すぐさま言葉を返す。
「買えってことですか?」
「左様です。こちらの掛け軸をお客様にお勧めします」
返答に困っていると、青年は畳みかけるように語り出した。
「こちらの掛け軸が、いつからお告げを述べるものとして扱われてきたのか、残念ながら私も存じません。ただし、これだけは断言できます。こちらの掛け軸には、間違いなく、力が宿っている。お客様が手にされれば、新たなお告げを、授けて貰えると思いますよ」
「新たな、お告げ……」
「はい。新たなお告げです。繰り返します。ただいま、セール中でございます」
結局、画廊の青年に押し切られて掛け軸を購入することとなった。安い買い物ではなかったが、これもまた運命だ。大助はそう自身に言い聞かせた。
画廊に長居をしてしまったため、自宅に着いた時にはすっかり日が暮れていた。今日は父が休みで、夕食を共にするという約束をしている。慌てて居間に顔を出すと、思った通り、父は不機嫌そうに床に寝そべっていた。
「随分と遅かったな」
「ごめん。実はこんなものを見つけちゃってさ」
大助は手短に事情を説明しようと、掛け軸を広げてみせた。
「それは、あの時の掛け軸じゃねえか」
「運命的だと思って買ったんだ」
「まあ、ありがたい菩薩様だ。良いんじゃねえか」
大助は首肯で応じ、ひとまず掛け軸を片付けるため自室に入った。
そしてそれを丸めようとした時だ、裏面にいくつもの染みがあることに気が付いた。咲き乱れる花の影のようにも見える、褐色の、何らかの液体が飛び散ったであろう跡。これは。
「血痕だ……」
おそらく十年前の事件の際に付着したものだろう。しかし、おかしい。通常ならば掛け軸は壁に飾られるので、裏面に血が飛び散るはずはない。そうなると、この掛け軸については、通常とは異なる飾られ方をしていたということになる。
そうだ。この掛け軸は、目隠しとして利用されていたに違いない。
つまり裏側に空間があり、そこで殺人は行なわれた。
十年前、寺に着いた時には本堂の扉も須弥壇の扉も開いていた。あの時には既に住職は殺されていたのだろう。そして大助と次郎が虚空蔵菩薩を見つめていた時、掛け軸の裏側には、殺人者が潜んでいたのだ。
「あの声は、菩薩の声なんかじゃなかったんだ……」
お告げを述べたのは、強盗殺人の犯人だ。
これぞ、新たなお告げ。新たに授けられた事実。
あの日の声が鮮明に蘇る。
――逃げなさい。急いで逃げなさい。
その質感、その震え、その抑揚。
知っている。聞いたことがある。あれは馴染みのある声だった。
「あれは……」
大助の頭の中で、いくつもの点と点とが繋がっていく。
あの声は。
居間に戻り、畳の上に掛け軸を広げる。
父は相変わらず寝そべっていたが、大助の様子を認めると、不思議そうな顔をして体を起こした。
「大助、どうしたんだ?」
大助は掛け軸を見下ろしながら呟いた。
「思い出したんだ。十年前、あそこには財宝が隠してあるんじゃねえか、って言っていたのは、父さんだ」
「そうだったかも知れねえな」
「あの時、次郎が振り返った時、そこには見知った顔があったんだ。だからあいつは立ち止まった。だからあいつは殺された」
「何が言いてえんだよ」
掛け軸から視線を外し、父の顔を見やる。
「なあ、父さん。さっきさ、この掛け軸を見せた時、父さんは一瞬であの日の掛け軸だって分かったよな? どうしてだよ。どうして一般に公開されたことのない掛け軸の絵柄を知ってんだよ」
父は黙り込んでいる。
そんな父に、大助は、すがるように訴えた。
「父さん、教えてくれよ。俺はどうしたら良い? あの日のように、またお告げをしてくれよ。虚空蔵菩薩の正体は、父さんなんだろ?」
天井より注ぐ明かりに照らされて、虚空蔵は、静かに頷いた。
なぜ菩薩の絵(父)はお告げを述べたのか 了