なぜ道化師は絵を描き始めたのか
ピエロになれば人殺しなんて簡単なことさ
――ジョン・ウェイン・ゲイシー
道化師は笑っていた。否、正しくは笑顔の仮粧をしていると表したほうが良いだろう。その眼は酷く冷淡で、手元の人形を見つめている。人形の首の後部にはゼンマイを巻く為のツマミがあり、道化師はそれを回していた。
キリキリと音が鳴る。呼応して人形の手足が動き出す。その様子を認めると、道化師は人形を地面に放った。
ゼンマイ仕掛けの人形の目の前には、暗闇だけが広がっていた。
* * *
「いってらっしゃい」
「うん、いってくるね」
彼女に見送られ、礼司は絵画を抱えて『画廊』へと向かった。自身の描いた絵を売り込むのが目的だ。
既にポートフォリオ(作品集)を持って何件もの画廊を訪ねたが、レンタルギャラリーの営業ばかりされ、販売を引受けてくれる所はなかった。だが、ある『画廊』からは実物を見たいという返答を貰えたのだ。
画廊、そうとしか言いようがない。『画廊』とだけ書かれた看板を提げ、不気味な絵画のみを扱う店。礼司はそこに一縷の望みをかけた。
もう時間がない。道すがら思う。あと半年もすれば大学卒業だ。就職活動を放棄してまで絵に専念してきた。結果を出さなければ。
画廊に着き、祈るように引き戸を開ける。すると若い店主が三日月型に口元を歪め、うやうやしく頭を下げた。
「西川礼司様、お待ちしておりました。さっそく、ピエロとゼンマイ人形の絵を拝見させて頂けますか?」
自宅アパートに戻り、礼司は笑顔を作って彼女に声をかけた。
「ただいま」
すぐさま返事がある。
「おかえり。どうだった?」
同棲中の彼女、麻理は、屈託のない笑みを浮かべている。
礼司は肩をすくめ、明るい声色で述べた。
「駄目。変な画廊でさ、いわく付きの品しか扱わないんだって」
「何それ?」
麻理は裏返った声をあげ、クスリと笑った。会社勤めをしている麻理は、礼司に対して頻繁にからかうような仕草をする。それは包容力、あるいは母性に由来するものだろう。悪い気はしない。しかしながら、稀に無理にでもその雰囲気に合わせなければならない時もある。
そう、今こそ、おどけなければならない時だ。
礼司は持ち帰った絵を鞄から取り出し、軽口を叩いた。
「笑っちゃうだろ? たぶんペニーワイズみたいな絵を求めてたんだろうな」
「ペニーワイズって?」
「ホラー映画の化け物だよ。ピエロ姿のペニーワイズが子供達を殺すんだ」
「こわぁい」
麻理は自身の肩を抱いて震える素振りをし、それから絵画に目を向けて続け様に言った。
「けど、礼司の描くピエロって確かに化け物っぽいよね」
「それは……僕の父だよ」
「あ、ごめん」
麻理が弱々しく呟く。礼司の父は一年前に病で他界している。彼女はそれを知っており、気不味くなったのだろう。
僅かに淀んだ空気を払拭しようと、礼司は大袈裟に笑ってみせた。
「平気だよ。実際に父さんは化け物みたいな顔をしたオッサンだったからね」
すると麻理も笑った。その顔を見て安堵し、更に話をする。
「ただし、外面だけは良かった。地元の名士でさ。家族以外の人の前ではいつも笑っていたし、熱心に慈善活動もしてたよ」
「凄いね」
「うん。凄い人だった……」
そして厳しい人でもあった。
地位のある職に就いていた父は礼司に対して同じ生き方を望んだ。幼い頃から教育熱心で、言う事を聞かなければ暴力さえ振るったほどだ。
礼司が美大への進学を希望した際も癇癪を起こし、結果、普通の大学への進学を余儀なくされた。
礼司は思っていた。自分はゼンマイ人形だ。誰かに操られ、定められた道を歩くだけのハリボテだ。
けれど、操っていた本人である父は、人形の行く末を見届けることなく死んだ。
無責任だ。そう感じると共に、こうも思った。偽りの自分ではなく、本物の自分を試すチャンスだ。
「で、これからどうするの?」
唐突に麻理から提示された問いに当然のように答える。
「新しい絵を描くよ」
「ふーん」
彼女は不服そうだ。礼司は釈然としないものを感じたが、それよりも望む言葉を得られなかったことに対し、少しく寂しさを抱いた。
その時、画廊の主の言葉を思い出した。
「そういえば画廊で言われたよ。社交辞令だと思うけど、『今後に期待しています』だってさ」
画材を購入する為に街を歩いていた時、礼司は気が付いた。
そして、踵を返して通り過ぎたばかりの宝飾店に立ち寄る。
近頃、麻理は不機嫌そうであった。気のない返事をしたり、かと思えば、絵を描いている最中に話し掛けてきたり。その原因が分かったのだ。
間もなく交際して丁度三年。その記念日を失念していることに対し、彼女は怒っていたのだろう。
ショーケースを見ながら思う。これが正解に違いない。
案の定、家に戻ってお揃いの指輪を差し出すと、麻理ははしゃいだ。
「交際記念日のお祝いだよ。指輪が欲しいって言ってただろ」
そう言うと、彼女は指輪を左手の薬指にはめ、その輝きを見つめた。
「ありがと」
「シルバーの安物だけど」
「それでも凄く嬉しい」
麻理は涙ぐんでいる。礼司は更に言葉を紡いだ。
「いつか、その時が来たら、もっと立派な物を送るよ」
「その時?」
「うん……」
いつか、画壇に名を連ね、自分の絵が高額で取引されるようになったら、彼女に贅沢をさせてあげることも出来るだろう。
想いを巡らせていると、麻理が話し始めた。
「婚約指輪には、永遠に途切れない物っていう意味があるんだって」
「婚約? ああ、そうなんだね」
「礼司とずっと一緒にいたい。それがわたしの一番の望み」
「僕も麻理と一緒にいたいって思ってるよ」
微笑みを送る。銀色の環と環がぶつかって、カチリと小さく祝福の音が鳴る。
幸せな夜だ。とても幸せな夜だ。とても……
新作を描くには丁度良い時期だった。大学は夏休み、日中は麻理が仕事に出ているので作業に集中できる。
ところが一向に筆が進まなかった。
モチーフは以前と同じくピエロとゼンマイ人形。テーマも明確な上、歪んだ顔の男にピエロのメイクを施すという工程まで決まっている。
それにもかかわらず、判然としない物足りなさを感じて何も描くことが出来なかった。妥協して適当な色をキャンバスに乗せても、やはり違和感しか得られず、道に迷うばかりだ。
本物の自分を表さなければ。念じるように自身を追い込む。
「……礼司、聞いてる?」
ふと麻理の声が耳に届き、礼司は振り返った。
「あれ? 帰ってたの?」
「しっかりしてよ。さっき礼司は、おかえりって言ったでしょ」
彼女は呆れたように笑った。礼司も笑顔を作り、その調子に合わせる。
「悪い悪い。絵に集中してたんだ」
すると麻理はキャンバスを覗き込んだ。
「またピエロの絵?」
「まあね」
「もっと一般受けする明るい絵を描いたほうが良いんじゃない?」
悪気がないことは分かっているが、その言葉は気に障った。しかし礼司は、そんな気持ちをおくびにも出さず、おどけて返事をした。
「麻理は分かってないなぁ。誰でも描ける絵ではなくて、自分自身を表現しないと意味がないんだよ。ピエロはね、僕自身を形成する重要なファクターなんだ」
「はいはい、意識が高いんだね。そんなことよりさ、これを見てよ」
麻理は自身の首元を示した。そこには指輪がぶら下がっていた。
「仕事中は指輪を外さないといけないんだけど、常に肌身離さず持っていたいから革紐を通してチョーカーにしたんだ。可愛いでしょ?」
「とても似合ってるよ」
微笑みながらそうは言ったものの、実際にはどうでも良かった。
そんなことよりも、絵を完成させなければならない。
数日後、礼司は再び例の画廊を訪ねた。創作が行き詰まり、藁にもすがる思いで救いを求めたのだ。
「お久しぶりです西川様、どうされたのですか?」
画廊の主は自分のことを覚えていてくれた。そこで礼司は笑顔を作り、悩みを打ち明けることにした。
「助言を下さい。僕は独りで絵を学んできたので、創作仲間がいないんです。そんな中、貴方だけは僕に『期待する』と言ってくれた。一体何を期待され、そして今の僕には何が足りないんですか。教えて欲しいんです」
すると彼は薄気味悪い笑みを浮かべて口を開いた。
「西川様の笑顔は素敵ですね。まるで仮面のようです」
その言葉を聞いて礼司は動揺した。笑顔の仮面、それは厳しい家庭環境で身に付けた処世術だ。それを見破られたのだろうか。
「はぐらかさないで下さい。僕は絵の感想を聞きたいんです」
「以前にも申しましたが、こちらの画廊では、いわく付きの絵画しか扱っておりません。例えば、見た者を魅了し、殺人に駆り立てる作品とか」
不気味な空気に気圧されまいと、虚勢を張って更に尋ねる。
「僕の絵には魅力がありませんか?」
画廊の主は小さく首を傾げ、それから淡々と述べた。
「コルロフォビアをご存知ですか?」
「いいえ」
「精神疾患の一つです。別名、道化恐怖症。ピエロを恐れる症状を指します。罹患者は多く、世間にはピエロ撲滅を訴える団体もあるほどです」
「それが?」
「つまり、ピエロは恐怖の対象として広く認知されているのですよ。西川様は苦手な物の象徴としてピエロを描いたのだとお察ししますが、元から怖い物を怖く表現するだけならば誰でも出来ます。失礼ながら、西川様の絵を拝見した際に伝わってきたのは、ほら怖いでしょ、というメッセージだけでした」
礼司は笑顔を崩さなかったものの何も言い返せなかった。
その様子を認めた画廊の主が、耳元で囁く。
「西川様、仮面を被ったままでは良い絵なんて描けませんよ」
帰宅すると、礼司はキャンバスに叩きつけるように筆を振った。
自分の絵は上っ面だけだったんだ。本物を追求する振りをして、実際には虚栄心と愚痴しか表してこなかった。いわば偽物。亡き父に反抗する為に絵筆を握ってはきたが、結局それは定められた道に囚われ続けているのと同義だった。
そう、僕は未だ、ゼンマイで動くハリボテだ。
狂い咲く花のように、赤、赤、赤とキャンバスが染まる。ピエロは顔の輪郭を失い、ゼンマイ人形は崩れる。
「ねえ礼司、どうかしたの?」
麻理に声を掛けられ、礼司は我に返って笑顔を作った。
「え? どうもしないよ」
「良かった、いつもの礼司の顔だ。さっきまで怖い顔してたよ」
「ああ、ごめんね」
そう言うと、麻理は微かに真剣な面持ちをした。
「礼司、しばらく絵を描くのやめたら? なんか辛そうだし、それに……」
「それに?」
「これからどうするの? 今は礼司の実家からの仕送りがあるから何とかなってるけど、この先、わたしの収入だけでは生活できないよ?」
「分かってるよ。だから僕は絵を描いてるんだろ」
「分かってないよ……ねえ、ちゃんと就職してさ、整った生活環境の中で穏やかに絵を描いたほうが良いんじゃないかな?」
「それじゃ趣味と変わらないだろ」
「趣味は駄目? わたしには芸術品と趣味の品との違いが分からないけど」
その言葉を聞いて胸が苦しくなった。
自分の絵が偽物であることは考えてみればすぐに分かったことだ。最も身近な人からさえも理解を得られず、どうして多くの人を魅了できよう。
おそらく麻理は昔からそれを分かっていた。その上で、文句も言わずに見守っていてくれたのだろう。
そう考え、礼司は傍らにあった溶剤を手に取り、キャンバスに振りかけた。絵の具が溶けだして床のシートの上に零れ落ちる。
「ちょっと何してんの」
「こんな中途半端な落書きは必要ないだろ」
「だからってそんなことしなくても」
「ケジメだよ。絵描きになることは諦める」
そう言って笑顔を作り、覚悟を決めて続く言葉を口にする。
「麻理、二人で幸せになろう。永遠を誓うよ」
ところが、彼女は不思議そうな顔をした。
「ねえ礼司、どうして泣いてるの?」
慌てて目元を押さえると、確かに濡れていた。
「あ、あれ、おかしいな、笑ったはずなのに……」
自身が泣いていると気付いた途端、鼓動が激しくなった。
「礼司は疲れてるんだよ。しばらく何もせずに休もう」
「大丈夫だよ。僕は、元気だ」
懸命に笑顔を作るが、涙が止めどなく流れる。
麻理は何も言わず、礼司の頭を撫でた。
目の前で銀色の光が揺れる。麻理の首元の指輪だ。その光の中に未来が見えた。就職し、結婚し、子供が産れ、幸せそうだ。とても幸せそうで眩し過ぎる。
礼司は目を細め、少しでも光を暗い色に塗り替えようと絵筆を指輪に近付けた。カチリと音が鳴って偶然にも筆の軸が指輪を通る。
瞬間、礼司の中で何かが途切れた。
「ゼンマイが切れたみたいだ」
「え?」
麻理の指輪を絵筆もろとも首の後部へ移動させ、回転させる。するとチョーカーの革紐が捻れて柔肌に食い込んだ。
「礼司、苦しい……」
その言葉を無視して更に絵筆と指輪を回し、礼司は、涙を零しながら告げた。
「ごめんよ麻理。全部嘘なんだ。僕は心から笑ったことなんて一度もない。ただゼンマイに従って定められた道を歩んできただけなんだよ。でも、もう無理だ。本物の自分として生きたい。だから仮初の幸福や現実を壊さないといけないんだ」
麻理は話を聞いていないのか、それとも息を吐けないのか、何も言わずに手足をバタつかせている。
礼司はゼンマイを巻くように絵筆と指輪を回し続けた。キリキリと革紐が肉の中に埋もれていく。
「麻理、死んでくれ。この仮面の裏の本物の自分を目覚めさせる為……」
僕の絵の生贄になってくれ。
* * *
道化師は笑いながら人形のゼンマイを巻いていた。
その絵を眺めながら画廊の主が述べる。
「素晴らしい。以前と同じピエロとゼンマイ人形の絵にもかかわらず、全く迫力が違います。是非とも買取らせて下さい」
道化師は快く承諾し、契約書にサインをした。
去り際、画廊の主が声を掛ける。
「西川様、次回作のご予定は?」
道化師は首だけで振り返り、冷たい笑みを湛えて返事をした。
「新たなゼンマイ人形が手に入り次第、すぐに描きますよ」
なぜ道化師は(殺人の)絵を描き始めたのか 了