なぜ少年の描いた絵は売られていたのか
ブンと羽音を鳴らしてテーブルに蝿がとまる。
そこには一対の皿に乗ったケーキがあった。ご丁寧に鈍く銀色に光るフォークも一対用意されてはいるが、ケーキに手をつけた形跡はなく、表面は干乾びている。その上、蝿と、蝿の子の餌になっているのか、所々に蠢く影がある。
トン、トン、トン、トン…………
微かに空気が震え、呼応して蝿が再び飛び立つ。
室内には弱々しい音が規則的に響いていた。雨戸から零れる微かな光の中に細い影があり、それがメトロノームの針のように、右に揺れ、左に揺れ、入口の木製の扉を叩いていたのである。
右に揺れ、左に揺れ、左に揺れ、右に揺れ、時折粘り気のある湿った音も鳴る。
メトロノームの針は赤く濡れていた。まるで骨を皮で包んだかのようなその細い針は、幼い少年の血にまみれた腕であった。
少年の歳は五歳ほど。本来であれば柔らかな肌をしている年頃であろう。ところがその身体は、腕だけではなく、顔から足までが全てやつれ、テーブルの上のケーキと同様に土気色をしていた。
既に立ち上がる体力はないのか、少年はだらしなく床に座り、扉にもたれて辛そうに腕だけを動かしている。
トン、トン、トン、トン…………
ふと微かに唇が開く。
――ハヤク、カエッテキテ
トン、トン、トン、トン…………
虚ろな視線が室内を泳ぐ。
――ケーキヲタベズニ、マッテルンダヨ
トン、トン………………
そして、もう一度腕を振った時、メトロノームの針は湿った音を響かせながら扉に赤い直線を描き、床の上に、落ちた。
――タスケテ、オトウサン
室内には蝿の羽音だけが残った。
しかし、その音もすぐに一旦やむ。
蝿は、蝿達は、何かを察したかのように少年の口元にとまり、そこに卵を産み落としたのであった。
薔薇が咲いている。赤い薔薇が。
* * *
ようこそ、いらっしゃいませ。
こんな冷えた日に当画廊まで足をお運びいただき、誠に恐れ入ります。
外は寒かったでしょう。
雪が降ってきそうでしたので、もう誰もいらっしゃらないだろうと考え、今日は間もなく店仕舞いにするところでした。
いいえ、決してその様なつもりで申し上げたのではございません。むしろ丁度良い時に来ていただいたと思っております。
本日最後のお客様です。どうぞ、ごゆっくりなさってください。
せっかくですから、お茶でもいかがですか。
得意先のお嬢様からチーズケーキをいただいたのですが、一人で食べ切るには量が多いのですよ。ご迷惑でなければ、是非お付き合いいただけないでしょうか。
遠慮なさらずに、椅子にお掛けください。
実はミルクティーを淹れるつもりでおりましたので、既に濃い目のアッサムティーを用意してあるのです。お客様、牛乳は苦手ではございませんか。
それならば良かった。では、ミルクティーを淹れさせていただきます。
すぐにケーキもご用意いたしますので、しばらくお待ちください。
……絵画にご興味がおありなのですか。
ああ、申し訳ございません。画廊にいらっしゃった方に、この様な問い掛けをするのは不躾でしたね。
ただ、随分と熱心にご覧になっていらっしゃるので、気になったのです。
そちらの薔薇の絵が、どうかなさいましたか。
はい。おっしゃる通り、そちらは普通の絵画ではございません。
もうお気付きかと存じますが、薔薇はキャンバスではなく、木材に直接描いてあるのです。加えて、そちらは……
奇妙な噂のこびりついた、いわくつきの絵画となっております。
そちらの一輪の大きな赤い薔薇の描かれた絵からは、時折、奇妙な音が聞こえてくるそうです。まるで、メトロノームのように規則的に、トン、トン、トン、トンと、扉を叩くような音が。また、それだけではなく、声も。
はい。声でございます。
弱々しい幼い少年の声で、「タスケテ、オトウサン」という、救いを求める言葉が聞こえてくるそうです。
どうされたのですか。突然、その様な真剣な面持ちをされて。
ひょっとして、こういったお話は苦手でございましたか。
興味がある? そちらの絵の詳細についてですか。
ええ、それは構いませんが、その前に……
お待たせいたしました。紅茶とケーキでございます。カップが大変熱くなっておりますので、火傷をなさらないよう、気を付けてお召し上がりくださいませ。
さて、何からお話をいたしましょう。
いいえ、迷惑だなんて思っておりません。取り扱っている絵画の説明をすることは仕事のひとつであると考えておりますし、何より、いま目の前にはスフレ状のチーズケーキがある。これも何かの縁なのでしょう。こちらの絵の作者は、チーズケーキを目の前にして、亡くなったのですから。
あくまで人づてに聞いた話ではございますが……
絵が描かれたのはおよそ二十年前。作者は、当時五歳の少年でございます。
少年は若い父親と木造のアパートに暮らしていたのですが、ネグレクト(育児放棄)による栄養失調で亡くなったそうです。
こちらの絵は、少年が亡くなる直前に、アパートの扉に描いたものなのですよ。
少年の父親は絵描きをしていましたが、今も昔も変わらず、専業の芸術家として生きいくのは極めて困難な道でございます。ご多分に漏れず、その父親も創作の合間に美術学校のアルバイト講師などを務めて、どうにか糊口を凌いでいました。
なお母親は、その様な生活に嫌気が差し、少年が言葉を覚えるよりも早くに家を出ていってしまったそうです。
少年がどういった環境で暮らしていたか、容易に想像できますでしょう。
父子二人で、いつ終わるとも知れない貧しい生活を続けていたのです。結果、父親は子供の面倒を看ることを放棄しました。ある日、創作活動に専念するため、少年のことをアパートの一室に閉じ込めたまま、勤め先のアトリエから帰ることをやめたのです。
お客様、顔色がよろしくございませんが、冷えますか。
さようですか。もちろんご所望であればお話の続きをいたしますが、念のため、暖房の温度を上げておきましょうか。
さて、先に述べました通り、少年はその後、亡くなることとなります。
少年の遺体が発見されたのは、父親が家を空けてから半月以上過ぎた時のことでした。第一発見者はアパートの管理人もしている大家の方でして、近隣の住人から異臭がするという苦情を受け、父親に無断で、部屋に入ることにしたそうです。
入口には、玄関の鍵とは別に、外側から南京錠が仕掛けられていました。それを破壊して扉を開くと、すぐそこに、変わり果てた少年の姿があったのです。
同時に、扉の裏側に描かれた、大輪の赤薔薇の絵が見つかりました。
なぜ、この様な絵が描かれていたか、ですか。
そうですね。それは、正確には描かれたと申しますより、偶然にも出来上がったと表現したほうがよろしいかも知れません。
少年の遺体が発見された際、室内は全ての雨戸が閉め切られた状態で、大変暗かったそうです。その様な状況で絵を描くことなど不可能だったでしょう。
ならばどうやって薔薇は咲いたのか。その答えは、こちらの絵にございます。
良くご覧いただくとお分かりになるかも知れませんが、こちらの赤薔薇は絵の具ではなく、血液で、描かれています。その上、筆を使った形跡がございません。まるで判を押したように、一枚一枚の花びらが刻まれています。
察するに、血にまみれた拳を何度も叩き付けることでもって、こちらの絵画は出来上がったのでしょう。
検死の結果、少年の手には爪がひとつも残っていなかったそうです。
おそらくは空腹に耐えかね、開くことのない木扉を引っ掻くうちに、全て、剥がれ落ちてしまったに違いありません。
まだ紙のように薄い生爪が裏返り、そこにささくれ立った木片が突き刺さる。想像を絶する痛みだったのではないでしょうか。いいえ、もしかすれば、その頃には既に痛みの感覚はなかったのかも。まあ、今となっては知る由もございません。
いずれにいたしましても、少年の手は傷だらけになり、血に濡れたのです。
そうして、救いを求め、命が尽きるまで扉を叩き続けた。
私の想像ではございますが、絵の中央から下に向かって伸びている薔薇の茎は、少年が力尽きる瞬間に手を引きずった痕跡と思われます。
偶然。もっと言えば奇跡。あるいは、執念。そう、少年の執念によって、こちらの芸術品は生まれたのです。
そちらを踏まえた上で改めて絵画をご覧になりますと、いかがでしょう、扉を叩く音が聞こえてくる気がしませんか。
事情を知らずとも、こちらの薔薇の迫力に魅了される方は多く、その内のひとりに第一発見者の大家様がいらっしゃいます。大家様は誠に酔狂な方で、事件発覚後のアパート改装の際、扉の一部分を切り取り、表面に劣化を防ぐためのニス塗りまで施して、薔薇を、一枚の絵画に仕上げたのです。
その後、高齢であった大家様はお亡くなりになり、巡り巡って薔薇の絵は、こちらの画廊まで辿り着きました。ちなみに、黒い額縁につきましては、せめてもの弔いとして私が用意いたしたものです。
ああ、お客様、お茶のお代わりはいかがですか。そろそろチーズケーキのお話をしたいと考えております。ケーキのお供には紅茶が付き物でしょう。
結構ですか。かしこまりました。
では、お言葉に甘えて、このままお話を続けさせていただきたいと存じます。
少年の遺体が発見された直後、当然ながら父親は逮捕されました。
ところが裁判において、未必の故意を問われはしたものの、父親には殺人ではなく、保護責任者遺棄致死による、たった数年だけの懲役刑が言い渡されました。その軽いとも言える判決の最たる要因となったのが、チーズケーキでございます。
父親は家を出る間際に、良心の呵責があったのでしょうか、少年に大きなケーキを買い与えました。それは、いま私達の目の前にあるのと同じ、少年の好きだったスフレ状のチーズケーキでした。
もちろん半月分の食料としては不充分ではございますが、もし少年がケーキを食べてさえいれば、生きながらえることも出来たかも知れない、そういった点を考慮され、求刑は軽くなったようです。
はい。さようです。少年はケーキを一口も食べることなく、亡くなりました。
発見時のことに遡りますが、警察の方々が室内を調べたところ、テーブルの上に一対の切り分けられたチーズケーキが置いてあったそうです。
父親の話によればケーキはホールの状態のまま置いていったそうですから、五歳の子供が扱ったこともない包丁で用意をしたことになります。
少年は、待っていたのですよ。裏切られたとも知らずに、好物のケーキを一切口にせず、父親を喜ばそうとテーブルの上に用意までして。
おや、食が進んでいないようですが、お口に合いませんでしたか。食べたくとも食べられなかった子がいるのです。願わくは、お召し上がりいただきたいですね。
……因果応報という言葉がございますが、どうなのでしょう。父親は既に出所している上に、幸いと申しますか、皮肉にもと申しますか、獄中で描いた絵画が評価され、現在は悠々と暮らしているそうです。
人を死なせたという因果に対し、何をもって報いとなるのでしょう。
お客様は、どう思われますか。
少年の描いた赤い薔薇の絵は、未だ救いを求めています。
私のもとに絵が辿り着いた時には、既に奇妙な噂がこびりついておりました。ご承知の通り、扉を叩く音と少年の声が聞こえてくるというものです。
とはいえ、こちらは販売も行なっている画廊でございますから、ご要望さえあれば絵をお譲りしております。しかしながら、大半の方が噂通りの現象を理由に、薔薇の絵を返品しにいらっしゃいました。
はい。お譲りする際には、簡単にではございますが、本日のように絵の由来をお客様方に伝えております。
ですから、たとえ少年の声が聞こえてきたとしましても、その様な大仰な反応をしなくても良いのではないかと思うのですが、どういう訳か、概ねの方が返品をご所望されるのです。
また、中にはお亡くなりになった持ち主の方も、いるとか、いないとか。人から人に渡り、巡り巡って再びこちらの画廊に戻ってきたということもございます。
薔薇の絵は、本来の持ち主を求めているのでしょうか。
お客様、先程からずっと黙っていらっしゃいますが、どうかされたのですか。ひょっとして、「タスケテ、オトウサン」という声でも聞こえてきましたか。
冗談ですよ。そんなに顔を引きつらせないでください。
ああ、笑顔だったのですね。それは大変失礼をいたしました。私のつまらない冗談で笑っていただき、誠に恐縮でございます。
違う? 冗談で笑ったのではないということでしょうか。
嬉しい? 申し訳ございません。おっしゃっている意味が……
ええ、それはもちろん。
繰り返しになりますが、ご要望さえあればお譲りしております。ですが、いわくつきの絵でもよろしいのですか。
え? 私と同業者?
そんなにお若いのにご自身で画廊を営んでいらっしゃるのですか。しかも、いわくつきの作品を専門に扱っている?
……お客様も人が悪い。
初めから全てをご存じの上で、こちらの薔薇の絵を求めにおいでになったのですね。いいでしょう。お譲りいたします。いわくつきの作品の扱いに慣れていらっしゃるのであれば、問題ないでしょう。価格はお客様の言い値で結構です。なんでしたらタダで差し上げましょうか。
ああ、そうだ。ちなみに申し上げておきますが、こちらの絵画から音や少年の声が聞こえてくるという話、それは所詮、噂です。私はこちらの絵画と長いこと一緒に過ごしておりますが、一度も、そんなものは聞いたことがございません。
ただね、恐ろしい絵であることに変わりはないのです。あなたに託すことで、その恐怖を払拭できるかも知れない。
この絵の恐ろしいところはね……
何度手放そうと、父親である私のもとに帰ってくることなのですよ。
なぜ少年の描いた絵は(父親のもとで)売られていたのか 了