なぜ絵の中のヒヨコは鳴いていたのか
少女は見ていた。
薄闇の中、窓から射す街路灯の光に照らされた二つの影。
おそらくは男であろう、背の高い影が言う。
「日代子さん、本気なんだね?」
その問いに向かいに立つ華奢な影が答える。
「ええ。わたしは桐生さんと、ずっと一緒にいたいのです」
重なり合う二つ。
微かに衣擦れの音と乱れた息遣いが聞こえる。
少女は見ていた。
辺りには、絵の具の臭いが漂っていた。
* * *
「北野お嬢様、ご注文の品をお持ちしました」
画廊の主である青年が屋敷を訪れたのは七月上旬のことである。青年は紫色の布に包まれた六号Fサイズ(約40×30cm)の絵画を差し出すと、愛想笑いのつもりか、ニタリと口元を三日月型に歪めた。中性的な綺麗な顔立ちをしているが、どうにも薄気味悪い。
玄関で応対をしていたお嬢様、北野雪菜は、溜め息を一つ吐き、辟易した調子で言葉を返した。
「お嬢様って呼び方、やめて頂けませんか」
かしこまりました、と言わんばかりに青年が頭を下げる。
「では雪菜様、さっそく絵を……」
その言葉を雪菜は遮った。
「少し時間ありますか? お伺いしたいことがあるのです」
そして彼を自室まで案内する。
まだ成人を迎えたばかりの雪菜は資産家の娘である。日頃であれば客人の応対は使いの者に任せているが、この度の絵の注文に関しては、自ら画廊の主と交渉をしていた。
「随分と早く見つかりましたね」
部屋に着くと同時に雪菜は振り返ってそう尋ねた。
青年が笑顔のまま、ゆったりと返事をする。
「これも仕事の一つですので」
「作者の桐生さんが亡くなって、手掛かりは一つもないと聞いていたのですが」
「おや、雪菜様も桐生様がお亡くなりになったことをご存じでしたか」
彼は感嘆の声をあげた。その表情は如何にもわざとらしい。
雪菜は鼻で笑った。
「本当は全て分かっているのでしょう? わたしが母のことを探していて、一緒にいたはずの桐生さんについて調べていたことを」
青年はただ肩をすくめた。その姿を認め、更に話をする。
「桐生さんがアパートの一室で餓死したのが一年前。その際、そこに母の姿はなかった。それどころか、生前の桐生さんはずっと一人で貧しい生活をしていた」
視線を上に向け、興信所職員から聞かされた話を続ける。
「一切の財産を持たず、各地を転々としていた桐生さんでしたが、ただ一つ、常に大事に持ち歩いているものがあった」
そこで雪菜は青年が抱えている絵画に目を向けた。空気を察したのであろう、彼はその絵を両手で立てるように持ち、口を開いた。
「間違いありません。桐生様が持ち歩いていたものは、こちらの絵です」
布に隠された絵柄を探るようにそれを見つめ、心の内で呟く。
その絵に答えがあるに違いない。母は……
雪菜の母、日代子の行方が分からなくなったのは十年前のことである。それは北野家にとって汚点とも言える事件であった。当時、屋敷に通っていた肖像画家、桐生隆昌と、日代子が、駆け落ちをしたのだ。
元々雪菜の両親は不仲であった。無理もない。金の力によって半ば奴隷のように日代子は北野家に迎え入れられたのだ。
歳相応の恋も遊びも知らぬまま資産家の妻として生きてきた彼女にとって、芸術家の桐生は魅力的に見えたのだろう。肖像画を描くためとはいえ、始終閉じた部屋の中で二人きりで過ごすうち、そういった関係になるのも不思議ではなかった。
それが一時の情事で済めば然して問題にはならなかったはずだ。仮に浮気が露呈したとしても、体面を気にする雪菜の父のこと、あらゆる事実をもみ消し、以降も安穏とした日常が続いていたに違いない。
ところが、そうはならなかった。
日代子は多額の金を持ち出し、そして幼い雪菜を連れ、桐生と共に北野家から逃げ出したのである。
逃げた先は山間部にある桐生のアトリエ。日代子、桐生、雪菜の三人は、そこで新たな家族としての生活を始めた。しかし、それは僅か一ヶ月で破綻した。北野に見つかったのである。
結論を言えば、雪菜だけが家に引き戻された。
日代子と桐生は、その後、行方知れずになったのだった。
出来るならば、と前置きをし、雪菜は青年に語り掛けた。
「こんなこと考えたくはないのですが、母は死んでいると思うのです」
青年が興味深げに言う。
「十年間の逃走生活の果てに、ですか?」
雪菜は首を横に振った。
「いいえ。十年前のあの日に」
「あの日?」
「わたし、あの頃の記憶がないのです。一カ月も一緒に暮らしていたにもかかわらず、桐生さんの顔も思い出せません。もちろん家に戻された時のことも。思い出そうとすると頭の中に靄が掛かかるのです……なぜでしょう?」
「さあ」
「思い出したくないことがあるのではないかと考えています。おそらく……」
言い淀むと、青年が、おそらく?と、相槌を打った。その言葉に急かされ、雪菜は早口に述べた。
「父が母を殺したのだと思います。十年前、父の手から母が逃げ切れたとはとても思えません。何より、わたしだけが捕まるなんて不自然です。父にしてみれば、いつか跡継ぎを残すわたしだけが必要で、母はいらなかったのでしょう。それでメンツを保つために、母を」
そこでようやく青年は得心したように頷いた。
「なるほど。それで真相を知りたいのですね」
「絵を探す過程でそういった話を耳にされませんでしたか?」
「残念ながら」
「そうですか。そうなると」
やはり、絵に答えが隠されている。
これは予感だ。
桐生隆昌は餓死せざるを得ないほど生活に窮していた。だが一枚の絵だけは手放さずにいた。余程大事だったのだろう。最愛の人が描かれているのか、あるいは最愛の人を殺めた犯人のヒントがあるのか。ひょっとすれば、殺人の瞬間が描かれているのかも知れない。
「絵を見せて頂けますか」
雪菜は告げた。
青年が布を解き、絵が、姿を現す。
それを見て雪菜は、
「これは……」
と、一言。
続く言葉を青年が引き取る。
「ヒヨコ、ですね」
そう、そこにはヒヨコが描かれていた。
黒い背景、その中心に黄色く小さなヒヨコが一羽浮かんでいる。
「これが桐生さんの絵? 間違いではないですか?」
「いいえ。確かに桐生様の描かれた絵画です。サインもありますし、筆使いも一致します」
「信用できないですね。第一わたしが長い間探していた絵を僅か数日で見つけるなんて、おかしいと思ったんです」
そう悪態を吐くと、青年は落ち着いた声色で話し出した。
「ご存じの通り、私は、オカルトと申しますか、いわくつきの絵を取り扱っております。業界でも名が知れておりまして、この手の情報は逐一耳に届くのですよ」
へえ、と雪菜は嫌味っぽく述べ、挑むような目付きで青年に聞いた。
「このヒヨコの絵にも、母のこと以外に、いわくでも?」
青年が嬉しそうに微笑む。
「はい。このヒヨコは、鳴くのです」
結局、青年に押し切られる形で絵を受け取ることとなった。既に代金は支払い済み。雪菜は諦めの溜め息を吐いて絵を眺めた。絵は、思いの外に小さかったため適したサイズの額がなく、キャンバスのまま棚の上に立ててある。
桐生さんはこんな絵を本当に大切にしていたのだろうか。しかも……
不気味な噂話をさっさと忘れてしまおうと、雪菜は早々に就寝することにした。窓を閉め、エアコンを点け、灯りを消してベッドに横になる。
そうだ。絵の中のヒヨコが鳴く訳がない。
ところが、その日の深夜のことである。雪菜は奇妙な音で目を覚ました。
チュッ、チュッ、チュッ、という甲高い鳥の囀りのような音。
恐る恐るそちらに視線を向けると、暗闇の中、黄色いものが浮かんでいた。ヒヨコ。間違いなく絵の中のヒヨコからその音は発せられている。
幻聴だ。雪菜は自身に言い聞かせた。画廊の青年の雰囲気に気圧され、自覚こそないが精神的に疲弊しているのだろう。一晩眠れば聞こえなくなるに違いない。
そうしてタオルケットを頭まで被り、ヒヨコの声を無視した。
しかしながら、以降もヒヨコは毎晩鳴き続けた。
いよいよ只事ではない。雪菜は怯えながらもヒヨコが鳴き出す瞬間を確認してやろうと、ある晩、眠ろうとはせず、離れた位置から絵を観察した。
そして深夜になった頃、鳴き始めた。クチバシが動くかも知れないなどとも思っていたのだが、絵自体に変化は見受けられない。ならば、他に原因が。
そんなことを思った時、唐突に過去の出来事が脳裏に蘇えった。
――雪菜ちゃん。そこの絵の具を取ってくれるかい
優しげな声。それは桐生隆昌のもの。
幼い雪菜は言われた通り、絵の具を手に取って桐生に渡した。
桐生はその粘度のある絵の具をパレットの上に広げ、絵筆でもってキャンバスに色を置いていった。
絵は間もなく完成しそうである。
そこには、ヒヨコを手の上に載せた、母の肖像が描かれていた。
翌日、雪菜は再び画廊の青年を家に呼び付けた。
先日と同様、自室に籠る。
誰にも話を聞かれぬよう部屋中の窓を閉めてエアコンを点けると、雪菜は早速言い放った。
「この絵は偽物です。思い出したんです。桐生さんの絵は母の肖像でした」
だが青年は動じることもなく質問をしてきた。
「ヒヨコは描かれていませんでしたか?」
「か、書かれていましたけど」
「お母様のお名前はヒヨコ様ですよね?」
「イントネーションが違います。日代子です。ヒヨコではありません」
「いずれにしましても、桐生様はお母様を表わすシンボルとしてヒヨコを描かれたのでしょう。その絵は紛れもなく本物です」
「でも確かに、こんな黒い背景の絵ではありませんでした」
語気を強めてそう言うと、青年は三日月型に口元を歪めた。
「ヒヨコは鳴きませんでしたか?」
否定できず、ただ俯く。
「雪菜様、それこそ本物の証です。なぜヒヨコが鳴くのか。それは、今は亡き桐生様の想いがそうさせるのです」
「そんなはずは」
呟いた瞬間、聞こえた。
チュッ、チュッ、チュッ。
深夜にしか鳴くことのなかったヒヨコが鳴いたのである。
雪菜はこの日まで不気味さに怯えて絵に近付くことをしなかった。だが今は陽のある時刻、その上、一人ではない。そこで、鳴いている絵を手に取った。
チュッ……
鳴き声がやむ。
確認した所、絵に不審な点はない。裏側を見ても、伝統的なキャンバスの造り方だろう、漢字の『日』の形に枠が組まれており、そこに直接生地が張られているだけだ。
ただし、その枠は微かに歪んでいた。
雪菜はどうにもそれが気に掛かり、側面を押してみた。
すると、チュチュチュチュ、と甲高い音が鳴った。
雪菜は、怯えていた自身への嘲りも込め、声を出して笑った。
やはり絵の中のヒヨコが鳴く訳などなかったのだ。なんてことはない。鳴き声と思っていたものは枠が軋んだ音だ。おそらく温度や湿度が変化して表面の生地が伸縮した際に鳴るのだろう。
普段は就寝の際にのみエアコンを点けているが、今日は今まさに点けている。その為、ヒヨコが鳴いた。
雪菜は青年を睨みつけた。
「なにが『想い』ですか。鳴き声のような音は木枠が軋んだ音じゃないですか」
「バレてしまいましたか」
「悪びれもしないんですね」
「ええ。嘘は申しておりませんので」
この期に及んで。そう思った時、青年が淡々と話し出した。
「雪菜様は『悶え苦しむ男』という絵をご存じですか?」
「いいえ」
「まあ、そうでしょう、イギリスの無名画家が描いた絵ですので。ただこの絵、特殊な絵の具が使われておりまして、マニアの間では有名なのです。そしてそのヒヨコの絵にも同じ絵の具が使われています」
「特殊な絵の具?」
「はい。その絵の具は酸化し易く、時間が経つと変色してしまうのです。せめてニス塗りさえ施してあれば、そこまで黒くはならなかったのでしょうけれど、逃亡中の桐生様にはその様な余裕なぞなかったのでしょう」
「つまり、母の肖像は黒くなってしまい、黄色で描かれたヒヨコだけが残ったということですか?」
青年は首肯し、それから次の話を始めた。
「それと、雪菜様は木枠が軋んだと仰いましたが、少し違います。その枠は木ではありません。それは、動物の骨です」
これ以上話を聞いてはいけない。そんな予感がする。
「そして表面に張られている生地ですが、通常は麻布を用いるのですが、その絵に使われているものは、より伸縮性の高い素材です。良く見ると分かりますよ」
雪菜はその言葉に釣られ、キャンバスの側面、生地の色の着いてない部分を見てしまった。そこには、とても小さな穴が幾つもあいていた。
「毛穴が見えましたか? 科学的な調査をした訳ではありませんが、私の推論に間違いはないでしょう……」
脳裏に桐生が絵を描いていた時の姿が浮かぶ。
自分は絵の制作を手伝っていた。あの絵の具はどこから取り出した?
雪菜は鮮明に過去を思い出し、全身を細かく振るわせた。
「その絵は、人骨と人皮で出来たキャンバスに血と肉でもって描かれています」
青年は口角を引き上げ、更に言葉を紡いだ。
「雪菜様。雪菜様の探し求めていたお母様は、今、目の前にいらっしゃいますよ」
* * *
少女は見ていた。
薄闇の中、窓から射す街路灯の光に照らされた二つの影。
背の高い影、桐生が言う。
「日代子さん、本気なんだね?」
向かいに立つ華奢な影、日代子が答える。
「ええ。わたしは桐生さんと、ずっと一緒にいたいのです」
日代子はそう言うと、祈りを捧げるように、目を閉じて、顎を上げた。
涙が頬を伝い、青白い首筋まで濡らす。
「でも夫から逃げ切ることは叶いません。ならばいっそ、桐生さんの手で」
その言葉を聞いた桐生は、傍らにあったペインティングナイフを彼女の首に宛がった。淡く光を反射する切っ先が皮膚の内側へと吸い込まれていく。
「日代子さん、愛しています。僕は誓うよ、君を決して手放さないと」
ナイフを引き抜くと、そこから真赤な『絵の具』が流れ出た。
微かな衣擦れの音と乱れた息遣い。
少女は見ていた。
辺りには、絵の具の臭いが漂っていた。
なぜ絵の中のヒヨコ(日代子)は鳴いていたのか 了