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なぜ絵の持ち主は英雄と呼ばれたのか

 ユディトは、ホロフェルネスの枕元、寝台の支柱に歩み寄り、そこにあった短剣を抜き取った。そして彼の髪を掴み、神に祈りを捧げ、力一杯、二度、首を切りつけた。すると頭は身体から切り離された。(旧約聖書ユディト記十三章より)



 ――アケミ、久しぶり。俺だよ。ヒデキだ。


 ――え? ヒデキ? ヒデキって、幼馴染の?


 ――なあ、一週間で良い、泊めてくれ。

   頼りになるのはお前しかいないんだ。

   俺には、お前が……




 * * *




 寒波の影響によって氷点下に達する日が続いていた。通りには人が少なく、乾いた落ち葉がアスファルトの上を転がる音が聞こえる。静かだ。


 アケミが、その画廊を訪れたのは、二月最後の日曜日のことだった。

 休日のうちに数日分の食材を買い溜めしておくことが習慣となっており、この日も、近くの商店街に出向いた。

 その帰り道のことである。日頃より通っている道だというのに、初めて、そこに画廊があることに気が付いた。はて、以前からあっただろうか。アケミは不可思議な心持ちとなり、その画廊に足を運んだ。


 画廊の入口には、『画廊』と大きく書かれた、まな板のような看板のみが掛かっていた。他には何も見当たらない。いっそう奇妙だと思い、引き戸に手を掛ける。

 中に入ると、そこは真白な空間だった。床も天井も白い。そして白い壁には、何枚もの絵が掛けられていた。それらの絵は、絵画について見識はないが、素人目に見ても統一感のないものであることが分かる。日本画、洋画、風景画、肖像画、そういったものが不規則に並べられている。

 画廊というのはこんなものなのだろうか。そう思いながら絵を眺めていると、奥の扉が開いていることに気付いた。


「ごめんください……」


 声を掛ける。扉の向こう側は住居になっていた。ローテーブルや収納家具が置いてあり、棚の上のテレビが点けたままになっている。

 しかし、人の気配はない。当然返事もなく、テレビの音のみが耳に届く。


『***区で発生した連続強盗殺人につきまして、警察は現場から逃げた男がまだ同区内に潜伏しているものとして捜査をしています……』


 ***区は、アケミの暮らす地域だ。

 アケミは、『逃げた男』という単語を頭の中で反芻し、身体を震わせた。


「怖いですねえ……」


 突然、背後から声がした。

 振り返ると、そこには綺麗な顔立ちをした青年が立っていた。画廊の従業員だろうか。アケミは慌てて頭を下げた。


「す、すみません。勝手に入って」


「いいえ。鑑賞は自由となっておりますので、むしろ席を外していた私に非があります。不思議なもので、普段は誰も来ないのに、少し買い物に出た時に限って、お客様がいらっしゃるのですよね」


 青年は薄い唇を三日月型に歪めて笑った。

 

 アケミは再び頭を下げ、その場を後にしようとした。

 ところが、青年が呼び止めた。折角なら、と前置きをし、絵画を見ていって下さい、と提案をしてきたのだ。アケミは曖昧に頷いて、その言葉に従うことにした。


 改めて見てみても、やはり飾られた絵に統一感はない。そんなことを思っていると、青年が話し始めた。


「どれも、奇妙な噂のこびりついた、いわくつきの作品なのですよ」


「いわくつき……」


 そう呟き、再度絵に視線を向ける。その時、一枚の小さな絵画が目に留まった。


「すみません。この絵は?」


「ああ、それはユディトの肖像ですよ」


 絵には、右手に剣、左手に男の生首を持った、美しい女性が描かれていた。


「ユディト?」


「旧約聖書の登場人物です。アッシリア軍に包囲された町を救うため、司令官を誘惑し、その首を切り落とした、ユダヤの英雄です」


 アケミはその言葉に違和感を覚え、淡々と尋ねた。


「『英雄』というのは女性に対しておかしくないですか? それを言うならば『女傑』ではないでしょうか?」


 すると青年は、また気味の悪い笑みを浮かべ、答えた。


「近頃では性差別のことを考え、女性のことも『英雄』と呼ぶべきだと言う方々がいらっしゃるのです。事実、アメリカの映画などでは、女性主人公のことを、ヒロインではなく、ヒーローと称するものが増えていますしね」


「そうなんですね……それにしても……」


 美しい。絵の中の生首を掲げた女は、勇ましく、それでいて華麗であった。

 アケミはその絵に魅せられ、更に質問をした。


「この絵にも、奇妙な噂があるのですか?」


「もちろんです。その絵を所有した人はユディトのようになれます。英雄に……」


「英雄に……」


 ポツリと呟き、続けて問い掛ける。


「あの、すみません。この絵は、おいくらで売っていただけますか?」




 アケミは英雄になりたかった。英雄に近付きたかった。

 英雄の名は、ヒデキ。


 幼馴染のヒデキとはいつも一緒だった。

 やがてそこに芽生えたのは、ヒデキにとっては単なる友情だったのかも知れないが、アケミにとっては、紛れもない愛、それであった。

 何度、想いを伝えようとしたことだろう。しかしヒデキはアケミとは異なり、勉学に優れ、身体能力も高い。どこにおいても多くの人々から慕われる正義感溢れる人物だ。ある時など、アケミが不良学生に絡まれているところに颯爽と現われ、見事に敵を蹴散らしてくれた。


 ヒデキは、まさに英雄だった。


 目立つことのない日陰で暮らしているような自分とは釣り合わない。そう自身に言い聞かせ、アケミは、ヒデキのことを必死に諦めることにした。

 そうして高校卒業を機に、彼とは疎遠になった。


 ところが三日前の晩のことだ、ヒデキがアケミの家を訪ねてきたのである。

 泊めて欲しい、そう彼から頼まれた。そして。


 ――俺には、お前が必要なんだ。

 

 どれほど欲しかった言葉だろう。恋い焦がれ、一時も忘れたことのない声が、自分を求めてくれている。これは運命だ。

 アケミはそう思ったが、やはり自分と彼とは釣り合わない、そういった考えが頭を過ぎり、想いを伝えることが出来ずにいた


 彼と同じく、勇敢な英雄にさえなれれば……




 自宅に戻ると、アケミは購入したばかりの絵画をさっそく壁に飾った。

 決して安い買い物ではなかったが、その絵から放たれる力強さを感じると、本当に何でも出来るような気がして、心が満たされた。


「なんだよ。その気味の悪い絵」


 その声は、ベッドで横になるヒデキのものだった。


「幸せになれる絵だよ」


「へえ、ありがたいねえ」


 興味なさげに相槌を打つ彼に、アケミは手提げ袋を差し出した。


「これ、上着を買っておいた。ヒデキの上着、袖の部分が汚れていたでしょ」


 そう、彼の服には染みが出来ていた。赤黒い染みが。


 ヒデキは何も言わず、不機嫌そうにその手提げを受け取った。気不味い雰囲気が漂う。アケミはその空気を払拭しようと、明るく声を掛けた。


「何も教えてくれないけど、あのさ、訳があるんだよね?」


 ますます彼は押し黙る。


「分かってるから、安心して。いつまでもここにいてくれて良いから」


 ヒデキは無言のまま、リモコンを手に取ってテレビを点けた。

 画面には、近隣で起こった連続強盗殺人のニュースが映しだされた。




 数日後の深夜のことである。

 アケミは、何者かの気配を感じ、目を覚ました。


 床で眠るヒデキのことを見てみると、その傍らに女が立っていた。長いスカートを履いた美しい女。それは、絵に描かれた英雄、ユディトだった。

 ユディトは醒めた面持ちで銀色に光る剣をヒデキの首にあてがっている。


 アケミは慌てて叫んだ。


「ユディト! 違う! 彼は悪い人じゃない!」


 すると、ユディトは小さく頷いて、姿を消した。


 そうだ。ヒデキが悪い人なわけがない。何か事情があるんだ。そうに違いない。

 彼が、二十人もの罪のない人々を、殺すわけがない。




 次の日の夕方、アケミは例の画廊を訪ねた。


「え? ユディトの亡霊が現われたのですか?」


 話を聞き終えた青年は、人を小馬鹿にするかのように笑った。

 アケミは腹立たしくなり、声を強めて言い放った。


「確かに、あの美しい女性は絵の中のユディトでした」


 青年はますます楽しげに笑い、薄い唇で言葉を紡いだ。


「お客様、ユディトは架空の人物なのですよ。旧約聖書ユディト記に出てくる司令官も町も実在しないのです。何より、ユディトという名前も、ユダヤの女という意味であって、本来は個人を指すものではありません」


「私が見間違ったとでも言いたいんですね」


「いいえ。人々の願望の象徴こそがユディト。人の想いは、時に形をなします。前にも言いましたが、ここで扱う絵はいずれもいわくつきのものです。そういったものが現われたとしても不思議ではないでしょう」


 アケミからしてみれば、そんなことはどうでも良かった。

 大事なのは。


「あの絵で、本当に英雄になれるんですか?」


「さあ、どうでしょう」


 青年は肩をすくめると、アケミに近付き、耳元で続く言葉を囁いた。


「いずれにしても、最後に決断するのはお客様ご自身です」




 画廊からの帰り道、アケミは怪しげな二人組の男を見かけた。二人ともよれたスーツを着た中年男性で、道往く人々に声を掛けている。

 アケミは嫌な予感がし、早々にその場を去ろうとした。しかし、それよりも先にその男達に呼び止められてしまった。


 こういうものなのですが、と言って、一人の男が懐から何かを取り出した。それは、警察手帳だった。もう一人の男も懐から何かを取り出す。


「申し訳ありません。この人物に心当たりはありませんか?」


 差し出されたそれは、間違いなく、ヒデキの顔写真だった。


 アケミは冷静な素振りで、知らない、と伝え、二人の姿が見えなくなると、急いで自宅に戻った。




 自宅では、ヒデキが呑気に眠っていた。

 アケミは彼を叩き起こし、警察が近くにいるということを報告した。すると彼は頭を掻き毟り、苛立たしげに口を開いた。


「ちくしょう。もう来やがったか……」


「ねえ、どうするの?」


「実はな、中国マフィアを通じて、海外へ高飛びする手筈は済んでるんだ。あと数日。あと数日だけ逃げおおせば、俺は自由だ」


 ヒデキは興奮気味に含み笑いをした。


「逃げる? 一人で?」


 尋ねると、彼は不思議そうな顔をした。


「一人に決まってんだろ。誰と逃げんだよ」


 その言葉は、少なからずアケミの心を傷付けた。自分のことを、また置いていってしまうつもりなのか。そう思い、うつむいて床を見つめる。


 そうしているうちにも、ヒデキは荷物をまとめだした。


 英雄と共にいられるか否か。最後の決断は自分自身にゆだねられている。

 早く決断しなければならない。早く決断しなければ、本当に、次こそ永遠に、置いていかれてしまう。止めるのか。違う。追うのだ。彼と一緒に逃げれば良い。しかし、こんな自分のことをヒデキは受け入れてくれるだろうか。

 迷う。だが、時間はない。

 ユディト。ユディト、勇気を下さい。自分を英雄にして下さい(!)


「ヒデキ! 一緒に、連れていって。ずっと一緒に、暮らそう」


 無意識のうちに零れた言葉は、今まで伝えられなかった想い。

 ところが、それを聞いたヒデキは、呆れたように言った。


「はあ? お前だって気付いてんだろ? 俺は人殺しだぜ」


「それは、何か事情があるんだよね? ヒデキは正義の英雄だもん」


「なんだそれ? 俺は金が欲しくて人を殺しただけだ」


「またまた、謙遜しちゃって……」


 アケミは顔を引きつらせて笑った。

 するとヒデキは鼻から息を吐き出し、疲れたような視線を向けてきた。


「あのさあ、お前とは相変わらず会話が噛み合わねえな。俺は事業に失敗して金がなかったんだよ。だから人を殺しまくって、その日暮らしをしてたんだ」


 そんなわけあるはずがない。


「嘘だよね?」


「はいはい、信じてくれなくても良いよ。俺はもう行くぜ」


 背中を向けたヒデキに、アケミは抱きついた。


「置いていかないで!」


 ヒデキは、そんなアケミを力一杯に振り払った。


「離れろよ! キモイんだよ!」


「どうしてそんなことを言うの? お前が必要って言ってくれたでしょ……」


 彼は鼻で笑った。


「ああ、お前は昔から俺の言うことなら何でも聞いてくれたからな。そんな便利な奴が必要だったんだよ!」

 

「そんなはずない……」


 涙が、頬を伝う。


 ――今こそ、栄光を掴む時、


「ヒデキ、ヒデキは英雄だよね?」


 ――今こそ、遺産を救う時、


「ヒデキのこと、愛してる」


 ヒデキは鞄から両刃のナイフを取り出し、アケミの首にあてがった。


「アケミ、お前のことも殺すぞ」


 ――主よ、我に力を与え給え。




 薄暗い部屋の中で、アケミは崩れるように床に座っていた。


 扉を叩く音が聞こえる。警察かも知れない。

 その音でアケミは我に返り、傍らにあるヒデキの頭を撫でた。そして、おもむろに髪の毛を掴み、彼の頭を、彼の切断された生首を、掲げた。

 血に濡れた唇に唇を重ねる。冷えて硬くなった舌に舌を絡ませる。すると、ヒデキの血が唇を伝い、アケミの口の周りを濡らした。

 アケミはその血を拭うように、自らの顎を撫でた。ざらついた感触がする。


 アケミは思った。

 そういえば、しばらくヒゲを剃っていなかったなあ。




 * * *




 画廊の主である青年は、頬杖をつき、退屈そうにテレビを見ていた。

 落ち着いたナレーターの声が響く。


『***区で発生した連続強盗殺人の犯人は……』


 ここ数日、ニュースでは同じ事件のことばかりが報じられていた。近隣で発生した連続強盗殺人事件が意外な結末を遂げ、どの放送局もそれをセンセーショナルに取り上げていたのだった。

 悪魔と呼ばれたその強盗殺人事件の犯人は、なんと、幼馴染に首を切断されて殺されたのである。

 テレビに、その幼馴染の顔が映る。


「ああ、やっぱりこの間のユディトのお客さんか……」


 テレビに映る厳つい顔。その下にはテロップが表示されていた。


『容疑者:明見(あけみ)小五郎(こごろう)(四十一)』


 絵を購入した男、明見は、ユディトのように悪を成敗したのだ。

 そんなことを思い、青年はいやらしい笑みを浮かべ、冗談交じりに呟いた。


「こうして、皮肉にも彼は英雄として崇められることとなった……」


なぜ絵の持ち主は(女傑ではなく)英雄と呼ばれたのか 了

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