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なぜ男は絵を抱いたまま死んでいたのか

 その男の遺体が発見されたのは十二月下旬のことである。


 男は狭い木造アパートの一室で首を絞められて殺されていた。着衣の乱れは少なく、また金銭が盗まれた形跡は見当たらない。怨恨によるものか、はたまた衝動的な殺人か。現場を見た捜査員達は一様に頭を悩ませたのであった。


 それもそのはず。息絶えた男の姿勢が不自然だったのである。

 縦七十センチ、幅五十センチほどの額縁に収められた、一枚の女性画。男は、その絵を抱き締めたまま横たわっていた。

 その後の調べによれば、死後、遺体は何者かの手によってそのような姿勢を取らされたそうだ。しかし、その理由については誰も想像することさえ叶わなかった。


 なぜ男は殺されたのであろう。またなぜ男は絵を抱かされたのであろう。不可解な謎。それを嘲るかのように、絵の中の女は、静かに微笑を湛えていた。



 * * *



 私がその絵と出会ったのは、秋の終わり、銀杏が色づき始めた頃のことです。


 画家の端くれをしております私は、その日、何か作品のモチーフになるものはないかと、街を散策しておりました。

 ここ数年は人物画を手掛けておりまして、主に道往く人々の何気ない表情やら仕草やらを観察していたのですが、ふと変わった画廊が目に留まり、私は目的を逸脱し、その入口へと向かいました。


 曇りガラスの引き戸の横に、ただ『画廊』と大きく書かれた、まな板のような看板があり、随分とやる気があるもんだ、などと失笑しながら中に入りますと、そこには、たった一人、中性的な顔立ちの青年だけがおりました。青年は私の姿を認めますと、いらっしゃいませ、と言って軽く頭を下げ、それから、ごく簡単に自己紹介を始めました。

 青年曰く、若いにもかかわらず、この画廊の主であり、全ての作品を自ら探してきたとのことでした。私は、ほお、と感嘆の言葉を短く述べ、早速、断りを入れて展示品を鑑賞させて貰うこととしました。

 見れば、いずれも無名の画家の品で、その上、水墨画から油彩画、具象画から抽象画と節操がなく、一体何を基準に選んだのか皆目見当が付きません。そんな私の気持ちを察したのか、しばらくしますと、青年が話し掛けてきました。


「どれも、奇妙な噂のこびりついた、いわくつきの作品なのですよ」


「はあ……」


 なるほど。言われてみれば、不気味な趣のある絵画ばかりです。

 しかしながら、私としましては、そのような『噂』などという付加価値には興味がありませんので、純粋に、それ自体の良し悪しのみを探るように、順に作品を見ていきました。


 それら壁に掛かる絵画の大半は、残念なことに、芸術とは程遠いものでした。私はやや辟易しましたが、折角だから、などと貧乏臭いことを思い、一応は全ての作品を見ることとしました。


 そして、最後の一枚、画廊の最奥にある女性画の前で、私は足を止めました。


 縦七十センチ、幅五十センチほどの額縁に収められたその絵は、一人の髪の長い女性の腰から上の姿が描かれたものでした。女性は体ごと右を向き、微かに左手を持ち上げて柔和な笑みを浮かべています。画材は油絵の具なのですが、描かれた背景は古き日本を思わせる田園で、まだ青い稲穂が今にも風で揺れ出しそうです。事実、女性のふうわりと広がった髪の毛を見ているうちに、私に向かって風が吹いた気さえしました。


「君、この絵を譲ってくれないか」


 私は値段のことなど気にも留めず、自然とそう言っておりました。

 ところが、青年は首を横に振りました。


「ここを訪れた方達は皆様、一様にそう仰いますが、残念ながら、そちらをお売りすることは出来ません」


「なぜだ? ここは画廊だろう?」


「ですが、そちらの絵は未完成なのですよ。作者の方が、少し、何と言いましょうか、気を患ってしまいまして、私もお預かりしているだけの身分なのです」


 そう言われてしまっては無理強いすることも出来ません。少しく心残りを抱きながらも諦めようとした時、突然、ある考えが閃きました。


「そうだ。ならば貸し出すということでどうだ? 美術館なんかでも良くやっていることだろ。私が一定期間だけ預かる。作者の方も不満はあるまい」


 青年は大変渋りましたが、長い問答の末、どうにか要求を押し通しました。


「分かりました。では一カ月だけお貸ししましょう。ただし、条件があります。この絵は、必ず一人で見て下さい。他の人に見せてはいけませんよ」


 そう言って、青年は薄い唇を三日月のように歪めて笑ったのでした。


「分かったよ。しかし、多くの人に見て貰った方が作品も喜ぶのでは?」


「この絵は未完成なのですよ。絵を描かれている方ならば、分かりませんか?」


 完成前の物を多くの人に見られたくはないということだろうか。それにしても。


「私は画家を名乗りましたかな?」


「パンツの裾に絵の具が付いています。それに、テレピンの臭いがしていますよ」


 青年は再び気味の悪い笑みを浮かべました。

 私は薄ら寒い思いをしながらも、改めて約束を守ることを誓い、連絡先を伝えて絵画を持ち帰りました。



 自宅に着きますと、私はすぐさま緩衝材を解き、女性画をイーゼルに立て掛けました。見れば見るほど魅力的な絵で、とても未完成とは思えません。仄かに憂いを湛えたような笑み、揺れる長い髪、その女性は、いいえ、その絵全体は、まるで生きているかのようでした。


 貸し出し期間は僅か一ヶ月。私はその間に絵を模写してしまおうと考え、横に真白なキャンバスを並べ、早速、絵筆を執りました。


 そうして私は、寝食を忘れるほど、作業に没頭していきました。


 それから半月ばかりが過ぎた頃、私の心に変化が訪れました。あれほど魅力的だった絵に物足りなさを感じ始めたのです。

 何が足りないのか具体的に表すことは出来ないのですが、確かに、これは未完成品であるということだけは分かります。如何ともし難いもどかしい心持ちがし、私は作業を進めることが出来なくなってしまいました。


 そんなある日、私は夢を見ました。


 真白な病室のような、何もない部屋。その部屋の中央に一人の男が後ろ手に縛られて横たわっています。

 夢の中の私は肉体を持たない視線だけの存在になっており、天井の片隅から室内全体を俯瞰しておりました。何もない部屋ですから、横たわる男に目を向けたくなるのが人情です。部屋の中央を注視しますと、ああ、なんということでしょう、その男は、私自身でした。

 驚いておりますと、いつの間にやら室内に一人の老人が現れ、二本の絵筆を振り回しながら、「未完成の絵を……未完成の絵を……」と、掠れた声で呟き、横になる私自身に近付き始めました。

 老人の姿は一歩進む度に徐々に歪み、私自身を見下ろす時には、悪鬼、妖しの如き、厳めしい獣になっておりました。両手に握られていた絵筆も姿を変え、コードの繋がったアイロンのような機械に変わっています。


「未完成の絵を……未完成の絵を……完成させねばならん」


 獣はそう言うと、私自身の胸に機械を押し当てました。

 瞬間、横たわる体は大きく跳ね上がり、大きく痙攣し、奇声を発しました。いいえ、奇声と言うより、もはや音。横隔膜の筋肉が電気刺激によって強制的に収縮させられ、空気が気道を一気に駆け抜けて声帯が震えた、物理現象。


「あぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ…………」


 その音が部屋中にこだまします。


 獣はひとしきり納得しますと、老人の姿に戻り、絶命したであろう私自身の体を見下ろしました。私自身の顔は、電気刺激によって緊張したのでしょう、笑っているかのようでした。

 老人はその表情を認めますと、おもむろに私自身の拘束を解き、どこかから持ち出した、一枚の絵を、抱かせました。その絵は、例の女性画でした。


 微笑み合い、抱き合う、絵の中の女と死んだばかりの男。

 それは紛れもなく、完成された芸術品でした。



 夢を見た数日後、私は再び奇妙な画廊を訪ねました。


「いらっしゃいませ。その後、絵の方はいかがですか……」


 相変わらずの不気味な笑みを浮かべて青年が挨拶します。私は、その表情が甚だ気に入らず、捲くし立てるように質問を浴びせました。


「あの絵は君の言う通り未完成品だ。描かれた女性の中途半端に持ち上げられた左手、あれは誰かに差し出されたものだ。あの絵には続きがある。女性の向かいに男がいるはずだ。そうだろう?」


「良くお気付きで」


「なぜ作者は完成を放棄したのだ。未完成でもあれほどの迫力だ。完成していたならば、歴史に名が残っていてもおかしくない」


「ええ。ですから、作者様が気を患ってしまったのです。そして、死んでしまわれました」


「死んだ?」


 私は茫然と呟き、話を促す視線を青年に向けました。


「はい。死にました。作者の方は、お年を召した無名の男性だったのですが、何年もあの絵を描き続けていたそうです。そんなある日、その方はこの画廊を訪れ、絵を預かって欲しいと言ってきました。私がその依頼を承諾しますと、後日、自ら命を絶たれてしまわれました」


「なんだそれは? どうしてこんな画廊、失礼、どうしてこの画廊に絵を持ち込む必要がある。その上、どうして自殺したんだ」


「言いましたでしょう? この画廊は、いわくつきの作品だけを扱っていると。一部の人の間では名が知れているのですよ……」


 青年が言うには、作者である老人は自らの絵に取り憑かれ、より完成度を求めるあまり人を殺したくなってしまったとのことでした。そして、辛うじて残った僅かな正気を頼りに、この画廊を訪れ、絵を手放したそうです。


 青年は、ちなみに、と前置きをし、話を続けました。


「私は、霊感、いえ、むしろ鈍感体質でして、どんないわくつきの品を手に入れましても、何も影響がないのです。しかし、普通の人が手に入れれば……お客様、お客様は作者様の思いを感じ取ったのではないですか?」


 私は夢の内容を思い出し、微かに身震いしました。その様子を気取ったのか、青年は口角を引き上げ、三日月型の唇から更に言葉を紡ぎ出しました。


「作者様は欲求を抑えるために自ら死を選ばれました。しかし、今もなお絵を完成させたいと願いながら彷徨っていらっしゃるのですよ」


「馬鹿馬鹿しい! その爺さんの霊が私のことを殺しに来るとでも言うのか?」


「さあ。想像にお任せします」


 私の荒っぽい口調に対し、青年は飄々と言葉を返してきました。私は腹立たしくなり、フンと鼻を鳴らして画廊を後にしました。



 その後も私は同じ夢を、いいえ、正しくは同じような夢を、幾度も見ました。老人が私の遺体に絵を抱かせるという結末は同じなのですが、その殺し方が、ある時は殴り倒し、ある時は腹を刺し、ある時は首を絞め、と様々なのです。また、概ねは客観的な視線で物語が進行するのですが、いつぞやは主観的な視線で、それこそ死の苦しみを味わったこともありました。


 さっさと絵を返却してしまえば、そのような恐怖から解放されたのかも知れませんが、霊などいる訳がない、という思いが私を意固地にさせ、震えながらも、私は絵の模写を続けました。


 そして、十二月中旬のことです。ついにやって来たのです。


 私の住まうアパートは築数十年も経つ木造建築でして、非常に音漏れし易く、扉の向こう側の足音でさえ耳を澄ませば聞き取ることが出来ます。


 まだ陽のある時間、私はいつものようにキャンバスに向かっておりました。すると、キシ、キシ、と木の軋む音が聞こえて参りました。察するに、誰かが階段を昇って来ているようです。同じ階の住人が帰宅したのだろうと、然して気にも留めていなかったのですが、どうも様子がおかしい。その足音は、私の部屋の前を幾度も行き来したのでした。

 キシ、キシ、突当たり方面へ。キシ、キシ、階段方面へ。キシ、キシ、再び突当たりへ。キシ、キシ、再び階段へ。


 私は一旦絵筆を置き、息を殺しました。すると、トン、トン、トン、と扉を三度叩く音が聞こえて参りました。

 霊などいるはずがない(!) 私はそう思い、扉を睨み付けました。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ、音が次第に大きくなり、そして。


「未完成の絵を……未完成の絵を……」


 それは聞き覚えのある声でした。

 私は、蒲団を頭から被り、声が聞こえなくなるのをじっと待ちました。



 それからというもの、連日その訪問者はやってくるようになりました。

 私は居留守を決め込み、夜でさえ灯りを点けず、ひたむきに模写を急ぎました。


 しかしながら、やはり恐怖に抗うことは出来ず、私は友人の『K』に相談をすることとしました。


 『K』は、妖しなど異形の者に詳しく、また、名探偵を自称している変わり者です。この友人ならば、私の恐怖を理解してくれるだろうと思い、私は彼を自宅に呼び出したのでした。


 私の話を聞き終えた『K』は、腕を組みながら、ふふん、と鼻で笑い、いささか偉そうに口を開きました。


「つまり、爺さんの亡霊がやってきたかも知れず、それが恐ろしいのだね」


 私はその言葉を聞き、首を横に振りました。そして、『K』にこう告げました。


「いいや。霊なんかいる訳がないだろう? 私が恐ろしいのはね。絵を完成させたいと思う、自分自身なのだよ」



 * * *



 十二月の下旬、画廊の主である青年は、絵を貸した男の家を訪ねたのであった。

 既に絵を貸してから一カ月以上経過している。その為、ここ最近は連日男の家を訪れていた。ドンッ、ドンッ、ドンッ、と扉を叩き、呟く。


「未完成の絵を……未完成の絵を…………返して頂けませんか?」


 しかし、返事はない。

 溜息をつき、駄目元でドアノブに手を掛けてみると、鍵が掛かっていなかった。青年は黙って扉をくぐり、絵の所在を確かめようと、部屋の奥に侵入した。


「失礼します……あっ」


 青年はそこにあるものを見て、こう言った。


「あーあ、だから一人で絵を見ろと言ったのに……」


 そこには、絵画を抱いた、男の友人『K』の遺体が転がっていた。

なぜ男(『K』)は絵を抱いたまま死んでいたのか 了

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