鬼憑き姫と引きこもり陰陽師
***
――「あなたが17歳になったら、迎えにいくよ」
むかし、むかし、ある少年と約束をした。
雪のようにほろほろと溶けてしまうような、儚い約束だ。
都を離れて母の療養の為に暮らした田舎で、とても美しい少年と出会った。
私はまだ10歳だった。
病がちで床に伏している母であったから、私が寂しくないように少年は色々なところに連れて行ってくれた。
少年に手を引かれて連れて行かれた世界は、そのどれもこの国のものではない位素晴らしかった。
美しい湖のほとり、花が咲き誇る野原、鳥がさえずる森の奥。
朝から晩まで夢中になって少年と遊んだ。
ところが。その永遠と思われるように続いた日々はすぐに壊れた。
母が亡くなったのだ。悲嘆に暮れる日々の私に、都にいる父から使者が来た。
どうやら長年放っておいた愛人の子供を引き取ることにしたらしい。
感謝の気持というよりも、嫌悪。いやむしろ憎悪という感情を父に持った。
なぜ、母を捨てたのか。なぜ今更になって自分を引き取ることにしたのか。
なぜ、なぜなんだ、と。
しかし、身寄りのない自分がこの時代、女ひとりで暮らしていくことはできない。
遊女にでも身をやつす位しか――生きる術はない。選択肢は、なかったのだ。
それ以降、私はその初恋の君をずっと思い出すことはなかった。
母の喪失が色濃く、その時代の思い出はツライものとなってしまったのだ。
****
「そうして6年が経ち今ここに至る、と。我が人生なんと波乱万丈なことでしょうか。ね?義兄上」
「なにが不満だ?」
御簾ごしに自分と対面している義兄は少しだけムスッとした顔をしている。
明かりがわずかな薄暗い室でも、その眉間にしわが寄っている様子はこちらからよく見えた。
というよりも、そんな顔をしたいのはむしろ自分の方である。
私は扇をパチパチと開けたり閉じたりで弄ぶ。
「なぜ、こんな夜中に私が義兄上のお友達とお会いせねばならんのです。私は都人というのはどうにも苦手です。というか激しく嫌いです。特に貴族の殿方は。義兄上も知っているでしょう?この前だって私はコミュ障だと呆れ顔で……」
「今からおまえに紹介する奴は、おまえが毛嫌いしているような男とは違う。……おまえの体質を相談するためだ」
義兄上はふぅ、とため息をついた。
私は「おや」と思った。どうやら自分は勘違いをしていたらしい。
「そうだったのですか。私はてっきりこれから義兄上があてがう殿方と結婚させられるのだとばかり…これから夜這いでもされるのだと思っておりました」
義兄上は心底嫌そうな顔をした。
「おまえは何を考えているんだ…俺はあいつと親戚になるのは御免だ」
そんな嫌な顔をされる友人に頼っていいのだろうか。
何だか少々不安になった。
「早とちりでしたか。申し訳ありません。自分の貞操の危機だと思い込んでおりましたもので。そのお方はお医者様か何かでしょうか?」
「いや、そいつは医者ではない。薬とかも作れるようだが。本業は――…」
「陰陽師ですよ、姫君。しかもとびきり有能な」
気配なくその人は突然現れた。
室の柱に寄りかかってこちらを見ていた瞳と、御簾ごしで目が合う。
「高明、気配を消して近づくな。先触れ位出せ。いつからそこにいた?」
「んー?姫君が夜這いの心配をしているあたりからかな。ていうかひどいな、時鷹。俺と親戚になるのがそんなに嫌とか」
高明と呼ばれた義兄上の友達とやらは、ずんずんとこちらに近づき――
「当たり前だ……て、おまえなにを……っ」
義兄上が咎めようとした時はすでに遅く。
べらっと私と彼らを隔てていた御簾を、彼はまくり上げてしまったのだ。
ばっちりと目が合う。
「ほう。これが噂の『光り輝く姫君』か。やっと会えたな。なよ竹のかぐやにも例えられるのには納得。なるほどなるほど」
「~~!たかあきらっ!!」
義兄上は不躾な視線から私を遮ろうと、彼と私の間に身を滑らせた。
背で私を庇うような恰好で、友人を睨みつけていた。
「時鷹がシスコンという大病を患った理由も大いに頷ける。でも怒るのは筋違いだろう?顔を見なければ姫君の体質も、症状もわからんのだから」
「だからって!いきなりでは更紗が怯えるだろうが!」
義兄上に肩をガクガク揺さぶられながら非難されても「更紗姫か。いい名前だな」と、どこ吹く風な様子である。
このまま義兄上が肩を揺らし続けたら彼の脳みそがシャッフルされて耳から飛び出してしまいそうだ。
「義兄上、私は大丈夫です。田舎育ち故普通の貴族の姫と違いますから。怯えるなんて。そんなにたおやかな神経でもありませんもの」
この時代、貴族の姫君は夫以外の男性の前で滅多に顔をさらすことはしない。
しかし自分は長い時を田舎で育ったせいもあってか、この窮屈な習慣が煩わしいとさえ思っている。
もっと言うなれば、御簾の中で十二単を着て、琴でも優雅に奏でる――そう言った姫君の生活は刺激も乏しく退屈だ。
「更紗…しかしだな」
「良いから。お話を進めましょう。高明様、私のこの体質を見てどう思われましたか?」
私はそっと瞼の上から自分の目を触る。
高明様は「ふむ」と顎に手を添えて、一瞬考える仕草を見せた。
「時鷹には夜になると姫君の眼が銀色に輝くと。話に伺った通り確かに見事なくらいの銀眼だな」
私はぎゅっと扇を握りしめた。
そう。これが自分の体質だ。
この体質のお陰でついたあだ名は『光り輝く姫君』である。
むろん、この容姿についたふたつ名であったが。決して美しさを謳ったそれではなく、正真正銘、夜になると自分の瞳は銀色に輝くのだ。
その噂が独り歩きをし始め、何故か『橘頼元の姫君は光輝くように美しい』などいう噂へと発展してしまった。
自分としてはげんなりだ。深窓の姫君という立場上、往来のど真ん中で「ふつうです!橘家の姫君は十人並みですよ!!」と叫ぶわけにもいかず。広がる噂を否定できないでいた。
「昼間の瞳は黒いのだ。なぁ、高明。これは一体何の病なんだ?」
「……更紗姫の症状が出たのはいつから?」
「ええと、半年位前だったかしら?ねえ義兄上?」
義兄上は神妙な顔で同意した。
「他に何か症状は?」
「ええと。夜目がとても利くようになりました。…それくらいです」
高明様は円座に座り、足を組む。難しそうな顔をしていた。
「やはり高明様にも、この病の正体はわかりませんか…」
この瞳とはまだまだ――いやもしかしたら一生付き合っていかなければならないのかも。
特段困っていることはないのだが、やはり他の人には不気味に思われるのではないだろうか。
私が先のことを思い少々憂鬱になって肩を落としたとき、高明様はふぅと息をついた。
「いや。その症状には一応覚えがある」
「「え!?」」
思ってもみない彼の発言に、義兄上と私は同時に声をあげた。
「それは病ではない。その銀眼は――…」
「銀眼は…?」
ごくり、と喉を鳴らす。
「鬼の、求婚の証だ」
「「え!?」」
ええええええええ!!??
夜中にもかかわらず、私と義兄上は素っ頓狂な悲鳴を邸中に響かせてしまった。
*****
「人外の者、まぁ鬼といわれる奴らは夜行動することが多い。その銀眼は暗闇でも自分の花嫁を見つけることができるようにしているのだろう。いわば目印だな」
「おおおお鬼!?更紗が鬼に求婚された!?」
「落ち着け、時鷹。当の本人の方が落ち着いているぞ」
「………」
いや、落ち着いているわけではない。
茫然としているのだ。思考が一切STOP状態である。
持っていた扇もぽとり、と取り落としてしまった。
求婚だと!?一体いつ、どこで!?
「私、そんな覚えないですが…殿方から文も貰ったことがありませんし」
「文も?『光り輝く姫君』が?それはおかしい……なぁ時鷹?誰かが握りつぶしているとしか考えられないのだがおまえはどう思う?」
「そうだな。そういうことも、もしかしたらあるのかもしれない」
「オイ。俺がこの前姫君に渡しておいて欲しいとおまえに頼んだ文は…」
「記憶にないな。噂だけで人の妹に手を出そうとする引きこもり陰陽師の文なぞ」
ちっという盛大な舌打ちが聞こえたような気がするが気のせいだろうか。
「まぁ、いい。とにかくだ。このままじゃ更紗姫は鬼に攫われるぞ」
高明様は挑むように義兄上を見た。
義兄上は戸惑う様子で私と友人を交互に見つめた。
「どうすればいいのだ?更紗をそこらの男にやるのは勿体ないと考えていたが。鬼にくれてやるなんてもってのほかだぞ」
「……おまえの病状も結構深刻だな。姫君が嫁き遅れてしまうぞ」
「そうなれば俺が一生面倒を見るつもりなので問題はない。むしろそれがよい」
「ダメだこいつ」という視線を彼は義兄上に向けた。私もため息をつく。
「義兄上。私も特に結婚願望はありませんが。いつまでも義兄上のご迷惑になるのは嫌です。嫁き遅れたらそこらへんの尼寺にでも出家するので大丈夫ですから、義兄上はカワイイ奥方を迎えて早く幸せになってほしいのです」
引き取ったくせに父は滅多に自分に会いに来ない。遠い存在だった。
邸の中でもどこか周りから腫れもの扱いをされている自分を、異母兄妹であるにも関わらず、温かく優しく迎えてくれたのは義兄だけだった。
自分のことなどどうてもいいから、早く幸せになってほしい。
彼はもう21だ。遠の昔に元服も済んでいる立派な大人の男性だ。結婚していてもおかしくない。
彼がこの屋敷に正妻を迎えたら、自分は尼寺にでも行ってひっそりと出家しようと実は真剣に。結構昔から考えているのだ。
「俺の結婚などどうでもいい。今はそんなことよりお前の話だ」
「…といわれましても。私はどうすればよいのでしょうか?」
鬼に対抗する術など検討もつかない。
読経でもしていればよいのだろうか。
「ああ、そのことなら。俺に名案があるぞ」
高明様は挙手をした。
私と義兄は息を飲んで、彼の次の言葉を待った。
「俺が姫君を嫁に貰えば万事解決だ」
「「え!?」」
ええええええええ!!??
夜中にもかかわらず、私と義兄上はまたまた、素っ頓狂な悲鳴を邸中に響かせてしまったのだった。
*****
翌朝、私は目立たない網代車で高明様の屋敷を目指した。
隣にはムス―っとした様子の義兄が座っている。
夜の移動は危険ということで翌朝を待っての移動だった。
「義兄上、なにか怒っておりますか?」
「……おまえに対して怒っているわけではない。あいつ…結局上手いこと、事を運びやがったと思っているだけだ」
「でも仕方がないのです。義兄上。それに本当に嫁に行くわけでもありませんし。期間限定で高明様のお屋敷に住まわせてもらうのです。感謝しなければ」
昨日の出来事を思い出す。
「嫁」発言の後、憤慨した義兄上をなんとか宥めつつも、私たちは彼から事情を説明してもらった。
「分かっている。おまえに求婚した鬼がおまえを諦めればその瞳は元に戻るのだろう?それまでの間、高明がおまえを守ってくれる…」
「ええ。本当にすごい陰陽師なのですね。高明様は」
何でも自分の屋敷に何重もの術を張っており、魑魅魍魎・悪鬼の類は彼の屋敷に立ち入ることができないそうだ。
彼自身もたくさんの式神を従わせており、もし万が一があっても屋敷に――彼の近くにいる状態であったら自分を守ることができると笑っていた。
「あいつは怠け者で昼行燈な奴だと大内裏でも有名だ。しかし実力は折り紙付き。だから誰も文句は言えないのだろう」
昼行燈……確かにマイペースな人ではあったが。
「それでも義兄上。私はあなたと彼にとても感謝をしています。この銀眼の原因も分かったし、鬼に攫われるという厄介な身の上の私を守ってくださるというのです。この銀眼がなくなるまで、高明様のお役に少しでも立ちたいと思っております」
義兄上は「そうだな」と言って私の頭を撫でた。
「俺もあいつに感謝している。本人の前で言葉に出すのはまっこと腹が立つので言わないが。…早く鬼がおまえを諦めてくれればいい。俺は毎日でもおまえに会いに行くし、会えない日は文も書くぞ」
「はい、義兄上」と私は頷いて笑った。
彼の愛情は出会った時から変わらない。それがとても心に沁みるのだ。
*****
「なんだ。義兄上も来たのか」
「おまえに義兄呼ばわりされるいわれはない!」
「いやいや、近い将来、義兄さまと呼ばせてもらうことになるだろう。きっとそうだろう。なので今から練習を兼ねてお呼びさせていただいているのだが」
「更紗がここにいるのは期間限定だ!おまえにくれてやるつもりはないっ!!」
高明様の屋敷に着いての早速の応酬である。
でもこういったやり取りが彼らの普通の会話なのかもしれない。
ちょっと短気な義兄の反応を高明様は面白がっている節がある。
そう考えるとふたりはとても仲が良いのだろう……多分。
私はといえば、風呂敷包みを解いて自分の荷物を確かめた。
櫛と鏡。それと扇。着物は義兄が後で取り寄せてくれると言ってくれたので持ってきていない。
高明様は私の荷物をひょいと覗き込む。
「更紗姫。荷物はこれだけか?」
普通の姫君らしくたくさんのモノにごちゃごちゃと囲まれた生活は好きではない。
橘家に引き取られた後も必要最低限の着物や身の回りのものしか置いていなかった。
それに室は整っていて、最低限のものを持って来れば暮らせるという高明様のお言葉にも甘えさせてもらったのだった。
「はい。後から着物が少し届きますが。高明様。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
私は手をついて高明様へ礼を取った。
高明様は私のつむじをちょん、と指でつついた。
「ああ、姫君。こちらこそ末永くよろしく。黒目の姫も大変可愛らしい」
義兄が「末永くではない!」とツッコミを入れているのを、私はどこか遠くで聞いていた。
*****
サラサラと水の音が耳に心地よい。
私は庭に出た。池に続いている小川に沿って歩く。
今夜は月が出ていないが、夜目が利くというのはこういう時便利だ。
ここに来てもう3日目だ。
彼の屋敷には人はいないという。使用人はすべて彼の術で操っている式なのだそうだ。
だから自分のこの瞳を――人目を気にしなくてよいのは嬉しかった。
彼の領域だからたとえ夜であっても庭を散策しても危険はないとのことだ。
夏の夜だ。気持ちいい。小川に足を浸す。
足でぱちゃぱちゃと水を弄んでいると、ふと暗い気持ちが心を覗かせた。
ずっと考えていたことだ。
つい、自嘲する。
「高明様を……利用してしまった」
「俺が誰に利用されたんだって?」
背後で声がした。
「た、高明様!?気配を消して背後に立たないでください。ど……どうしてここに?」
「姫君が庭に出ていくのを見つけたから。なんともお転婆な姫君だと思って」
うっ…と言葉に詰まる。否定はできない。
夜に薄着で、しかも裸足で庭を散策する姫なんて滅多にいないだろう。
彼は手に持っていた着物をそっと私の肩にかけた。
「で。俺が何に利用されているんですか?姫君」
聞こえていたのか。というか誤魔化されてはくれなかった。
でも……そういつかちゃんと謝罪をしなければいけないと思っていたことだ。
先延ばしにするよりかは、今がイイ。
私は重く息を吐くと、決意したように彼を真っすぐ見つめた。
「私が…高明様を利用しました。私を引き取れば、高明様に危険が及びます。それを承知で、私はあなた様の厚意に甘えたのです」
「俺が姫君を引き取ると言い出したんだ。そんなこと気に病む必要はない」
「いいえ」と私は否定した。
首を激しく横に振る。
「私が……あのまま橘の屋敷にいたら義兄上を危険に晒してしまう。私は計算をしたのです。義兄上とあなた様の命に優先順位をつけて。義兄上の身の安全を保障したいがばかりに、私は高明様を……」
言葉はちゃんと続かなかった。
自分は何とも醜い。浅ましい考えをしている。
大事な義兄を守りたいがばかりに、出会って間もない彼の命を軽んじたのだ。
こんな汚い自分だから、鬼はきっと私を花嫁に選んだのだろう。
高明様は「ううむ」と考え込むように眉間にしわを寄せた。
「姫君は難しく考えすぎるきらいがあるな。人ならともかく今回は人外が相手だ。時鷹より俺の専門分野だろう。俺に頼って何が悪いのだ?」
彼があっけらかんとしているのを、私はぽかんとして見つめた。
「高明様が鬼に精通していましても。全くの危険がないわけではありませんもの」
「俺は強いよ?心配しなくても姫君を危険に晒したりしない」
「いいえ。私のことなど。高明様に万が一のことがあったら……やはり私は…ここを離れてどこか人の住まない山にでも籠ろうと思うのです」
友人の妹の為に彼の命を危険に晒して良いはずがない。
この考えも実はここに来る前より考えていたことだ。
義兄上に相談したら反対をされるだろうことなので、とりあえず高明様の屋敷に身は寄せたが。
今なら義兄上に内緒で都を離れることができるかもしれないと考えていた。
「それで?山に籠ってどうするんだ?」
「仏にでもお祈りしようかと。あ、もともと田舎育ちなので多少不便でも生活に困ることはないかと」
「仏なんぞより俺に頼ったらいかがか?俺は信用できない?」
高明様は呆れた声で言った。
厚い雲にかかっていた月が顔を出した。
少し欠けた月が庭を照らす。
彼は面白くなさそうな表情をしている。
義兄と同じ年齢のはずだが、そういった表情は年齢よりも少し幼い印象を与えた。
私はふぅと息をついた。
「私は……誰にも迷惑をかけたくないだけなのです。高明様の力を信用していないわけではありません」
「姫君は命に優先順位をつけていると言ったが、……君が一番下に見ているのは自分の命なんだな」
彼の言葉が胸に刺さった。その通りだと思ったからだ。
「数入らぬ身ですから。私は」
父にも愛されていない。その証拠にこちらに居を移しても何の文も来ない。
暗い考えにまた、心が支配された。
俯いて黙っていると、唐突に腕を引っ張られた。
「きゃっ!?」
高明様に抱きとめられる形で彼の胸に収まった。
彼の真剣な、それでいてちょっと怒っているかのような黒い双眸とぶつかる。
「そうやって魂を飛ばすな。持っていかれる。ああ、銀眼がこんなに光って…」
「魂…ですか?」
「ああ、そう――更紗姫。人世はそんなにお嫌いか?貴女を傷つけてばかりか?」
何を言っているのだろう。
そんな話をしていたわけじゃない。
「人が嫌いなわけじゃありません。私は、自分が嫌いなのです。愛されない自分が。そんな自分を愛せない自分が」
「時鷹は貴女を大事に想っている」
「義兄上は優しい人なのです。私の世界は…私を愛してくれたのは、母と義兄上だけでした。母が死に、義兄上までもこの掌から零れ落ちてしまうんだったら、私が…私が鬼に攫われたい…っ!」
ぼろぼろと涙が出た。
銀色の瞳から零れ落ちる涙は、普通のそれと同じしょっぱい味がする。
涙を流したせいか、頭がずきずき痛んだ。
(あれ?私を愛してくれたのはお母さまと義兄上だけ?本当にそう…?)
誰かを忘れている気がする。
幼い頃の遠い記憶。花の散る里で出会った――…
ああ、だめだ。やはり思い出せない。
私は高明様の狩衣をぎゅっと握る。
「もしかしたら、鬼は私を愛してくれるかもしれません。それだったら私……」
「だめだ、更紗姫」
彼の人差し指はそっと私の唇に当てられた。
「なぁ、姫君。俺は正直あまり人が好きではない。あなたの兄上くらいのものだ、俺と気軽に話してくれるのは。だから俺の屋敷は人を雇っていない」
唐突に彼の告白を聞いて、私は少し戸惑った。
私なんかが聞いていい内容なのだろうか。
でももしかしたら聞いてほしいのかもしれない。
私は黙って頷いて先を促すことにした。
「俺は生まれつき力が強く、妖を惹きつけてしまう性質だった。人はそんな俺のことを化け物呼ばわりもするし。さんざんと嫌な目にあった。軽く人間不信だ。だから大内裏に出仕せずに屋敷に仕事を持ち込んで働いている。在宅ワークというやつだな」
「そう…だったんですか。私は高明様をお優しい人だと思いましたが、そんなことを言う人もいるのですね」
高明様は私の言葉にちょっと驚いたようだった。
「優しい?俺が?」
彼の驚きに私の方が驚いた。
「優しいですよ。とても」
「具体的事例を述べてくれ」
私はうーんと考え込んだ。
「ないですね」
「ないのかよ!」
なんといったらいいのだろうか。
私は言葉を探した。
「なんというか。高明様のやさしさは言葉で説明しずらいですもの。でも私が優しいと感じたのだから。少なくとも私にとってあなた様は優しくて素敵な殿方ですわ」
ああそうだ。私をここに置いて守ってくれると言ってくれた。
それだってきっと彼がイイ人だからだ。
彼は少し照れたように頬を掻いた。
「姫君。あなたはお母上と時鷹以外から愛されなかったと言っていたが。その中に俺も入れるといいよ」
「――え?」
「貴女のようなお転婆な姫君は、屋敷にいるだけでとてもわくわくするし、楽しい。式神だけにしている屋敷が明るく感じるしぱっと華やいだ。俺がそう感じるのだから、少なくとも俺にとってはあなたがそんな存在だ。だから俺はあなたを守りたいと思う。友人の妹だという理由以外の理由はとうにできている」
私は目を見開いて、彼の顔をまじまじと見てしまった。
「高明様は……」
「ん?」
「人が嫌いだとおっしゃる。でもその反面人を信じたい。誰よりも人を恋しがっているのは高明様でしたのね」
――それはきっと私も同じだわ。
私たちは同志ですわね、と私は笑った。
彼は私の頬を優しく撫でた。
「ああ、そうか。そうなのかもしれない。貴女もここにいていい理由を探していたんだな。銀眼がさっきより光っていない」
「銀眼が?」
「きっとあなたが人世を恋しがれば、銀眼の輝きが落ちるのも早まるのではないだろうか」
そうなのか。
私が人世を恋しがれば。鬼は私を見つけることができなくなるのだろうか。
彼は私を高く抱きかかえた。
私は足が地上から離れるのを感じて、咄嗟に彼にしがみついた。
彼は私の瞳を覗き込み、「まるで星空だ」と。
それを聞き慌てた様子の私に彼は笑みをこぼす。
「やはり、あなたは俺の奥さんになるのが良いよ。夫に恋をすれば鬼も諦めてくれる。それに妻を守るのは夫の務めだろう?」
私は顔を真っ赤にしながら顔を背けた。
彼の真っすぐな瞳をどうにも見ることができなかったのだ。
「おおおおっとだなんて。高明様の優しさは底なしですね」
わざわざ自分を偽装とはいえ……妻にして身を守ってくれようとするだなんて。
きっとここにいていい、という最大限の理由を提案してくれているつもりなんだろう。
でもそこまでの迷惑はかけられない。
「優しさで言っているわけではないのだけど。というより下心?かな。うん」
彼は私をお姫様にするように横抱きに抱えた。
水でぬれた足が風にあたり冷たくなっていた。
でも上半身――いや、顔は火照っている位熱い。
そんなあわあわしている私の頬に彼は優しく口づけを落とした。
――ひとめ見た瞬間に心を奪われたのだから。鬼をも魅了するこの姫様に。
耳元で彼は私にそう囁いたのだった。
私は何だか恥ずかしくて、居た堪れなくて、手の平で顔を覆った。
きっと彼は悪戯が成功した子供のような顔をしている。見なくても分かる。
この夜は月は欠けていたけれど、それを補うかのように星が燦爛たる輝きを放つ、美しい夜だった。
私の持つ銀の欠片も、あの星空に混じってどこかに行ってしまうかも。
だから。だから。
銀眼が輝かなくなるのは、もはや時間の問題なのかもしれない、と私は良く回らない頭で思った。
もう、厚い雲はどこにも見えない。
なんちゃって平安時代ものです。雰囲気が何となく伝わればと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。