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原料屋

帷子ヶ原

作者: 十浦 圭

拙作の原料屋シリーズのお話です。少し不思議な話だということが分かっていれば、他の作品を読まなくても分かる作りにしてあります。

死体や腐乱の描写が多少ですがあります。閲覧にはご注意ください。

 びゅうと一筋の風が吹き過ぎていった。振り返れば一面に広がるは荒れ野だった。枯れた葦がかさかさとすすり泣く。見渡す限りの葦がぷつりと途切れた先には大きな河が流れている。どうどうと流れる音が耳奥を打つ。見覚えのない場所だった。一体いつから此処に居るのか、どうやって此処へやって来たのか。巡らせる思考は鈍く、どうにも思い出せずいる。霞がかった記憶に思わず俯けば、痩せこけた両足が見えた。自然と深い溜息が出た。

「憂鬱そうだな」

 驚いて顔を上げれば、傍らに一人、男が気配もなく立っていた。黒髪に白の開襟シャツ、履いているのは袴である。肩にかけた羽織りの紐が風に小さく揺れていた。随分と時代錯誤な恰好だ。

いつからここにいたのだろう。全く気が付かなかった。

「ここは何処だ」

 尋ねた声が思いのほか細く響いた。(おれ)の声はこんなに細かっただろうか、とふと疑問が湧く。しかしだからと言って本来の声を思い出せる訳ではない。

「帷子ヶ原さ」

「帷子ヶ原?」

 ほら、と言って男が指した先を見る。草に埋もれるようにして、一体の死体があった。

「死体だ」

 驚いた己の声に男が頷く。

「ああ、死体だ」

「帷子ヶ原だからか」

 己より頭一つ分低い男を見下ろせば、黒髪が再び重々しく頷いた。

「これから俺たちは死を得るんだ」


 一日目、と呟いて男が死体へと歩み寄る。男が踏んだ後を踏みしめるようにして、後に続いた。

脹相(ちょうそう)だ」

「ちょうそう」

 横たわっているのは男の死体だった。中肉中背、纏っているのは簡素な着物、黒髪。これで顔立ちが平凡であれば凡人の名に恥じぬ人間だろう。とはいえ、死体は既に膨張し始めており、あいにくと細かな顔立ちまで見て取れる状態ではなかった。

「腐敗ガスによる膨張だ。通称青鬼赤鬼とも呼ばれる」

 傍らで淡々と男が語った。

「もうすっかり肌がどす黒い色になってしまっているだろう。環境にもよるけれど、死後3日も経てばもうこうなってしまうんだ」

 なんと返せばよいか分からずに己は死体を見下ろした。ぶよぶよとした死体は我慢できぬ程ではなかったが、それでもやはり薄気味悪かった。

「気味が悪い」

 ぽつりと落とした声に男が頷いた。

「まったく」


 ごう、と後ろから強い風が吹いた。崩された姿勢を慌てて正せば、己たちの周りを取り囲むようにして葦がかさこそと鳴った。

 二日目、と男が言った。己は死体を見た。

 表皮が破れている。あちこちで開いた傷口から赤い肉が見えた。皮膚とはやはり一枚の皮に過ぎぬのだな、とぼんやりと思う。

壊相(えそう)だ。腐敗が進んで、皮膚が破れ壊れ始める。壊れる相と書いて壊相」

 なるほど、と言ってから、ふと思いついて両腕を上げる。痩せこけた掌はかさかさとしていて、しかし死体よりは断然に艶がある。当たり前か、と思う。ちらりと見た隣の男の両手は黒い手袋で阻まれて見えなかった。

「さて、次へ行こうか」

 己の視線に気が付いていたのか、ひょいと腕を組んで男が声を上げる。

「三日目、血塗(けちず)(そう)だ」


 眼下の死体はいよいよ腐乱が進み、じわりと全体に液体を滲ませ始めていた。

「溶解した脂肪や血液、体液が外に滲み出す。血塗相だ」

 潤んだ表皮がてらてらと不気味な色に光っている。ふいに風向きが変わって、腐敗臭がぐらりと鼻をついた。

「そろそろ限界かな」

 隣から飛んできた、どこか面白そうな色を含んだ声に、顔を顰めて答える。

「まだまだ」

 舐められてたまるか、というただの意地だったのだが、男は気が付かなかったのか、へえ、と感心したような声を上げた。

「そいつは助かる。九相まではまだもう少し続くからな」

「九相?」

 聞き慣れない言葉に思わず尋ね返した己に小さく頷いてから、男がとん、と足を鳴らした。


「四日目。膿爛相(のうらんそう)。死体自体が腐敗により溶解し始める」

 草むらの死体はもはや輪郭すらあやふやだ。皮膚と肉の境目を失くしてとろりと横たわっている。見るに堪えず、思わず顔を背けてしまう。

 はあ、と吐いた己の息の向こう側に、河の水音が聞こえた。

「こうなれば、気味の悪さや醜さよりも、生理的嫌悪が勝るな」

「ああ」

 唸るような己の相槌に反して、しかし男の声は気味が悪いほど凪いでいる。

 この男は何者なのだろう。ふと、今まで感じて然るべきだった疑問が胸中に芽生えた。

 いつの間にか現れた、書生姿の謎の男。

 この男は誰で、己たちは一体何をしているのだろう。

 五日目、と隣で男が呟いた。


 人の形を辛うじて保った肉は、しかしすっかり青ざめて元の色を失っている。

青瘀相(しょうおそう)だ、と男が呟いた。

 ひゅうひゅうと風が鳴っている。ふいに込み上げてきた怖気を必死に飲み下す。

 眼下の死体を見下ろす。生命を失った肉塊に過ぎないはずのそれは、しかし己が食う肉とは違い、隅々まで死で満たされている。

穢らわしい、と思う。

 怖気を飲んで、ごくりと喉が鳴った。


 ざわりと葦が揺れ、ふいに死体の様子が変わった。

噉相(たんそう)。これで六日目だ」

 死体の表層がうねっている。虫がたかっているのだ。突然現れた鳥が肉を啄む。ぐるる、と喉を鳴らして犬が草の間を駆ける。

「死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる」

 呆然として見下ろす己の隣で、男が言った。

 既に崩壊していた体は、犬や鳥に貪られ虫に食い尽くされ、ほぐれ、ほどけ始めている。

 満ちていた死を食って獣が駆ける。

「さあ、そして七日目」

 男がすっと腕を伸ばした。


 荒らされてバラバラになった死体が散らばっている。

散相(さんそう)だ。貪られた死体は部位になり、そこらに散乱する」

 強い風に煽られて、ごろりと脛が転がった。とろけた脂や血がこびりついた骨は、食われてもなお死臭をさせている。

「おぞましい」

 落ちた呟きが擦れて消える。

「そうか?」

 ぽつりと男が答えた。

「そうとも。腐敗し溶解し食われてもなお残る死の臭いだ。穢れた、おぞましい、忌むべき死の臭いだ」

 吐き捨てるように言えば、乾いた喉がちり、と痛んだ。眼前の骨から視線を逸らす。ごうごうと河の音がする。隣で男が目を伏せて何かを呟いた。耳まで届かなかったそれを、己自身でそっと呟く。

「八日目」


 風に晒されたせいかすっかり血肉が落ち、骨はつるりと光を映した。枯草の中に何本もの骨が散らばっている。成人男性一人分の骨というものは存外多いのだな、と思考の隅でなんとなく考えた。

 骨相(こつそう)だ、と男が呟いた。なるほど、と己が答える。落ちた沈黙に、かさかさと葦の泣き声だけが渡る。

「あなたは少し思い違いをしている」

 ふいに口を開いた男を、己は小さく驚いて見た。

「思い違い?」

「そうさ。これまで見てきたものが死そのものだと思っているみたいだが、それは違う」

「違うのか?」

 滔々と述べられた言葉に眉を顰める。今まで見てきたあれらが死でないのなら、一体何が死だというのか。

 己の疑問に応えるように、男がひたりと骨を指す。

「さあ、九日目だ」

ざあ、と風が吹いた。


 転がっていた骨が消えてしまった。驚いて見つめ直した地面に、幾ばくかの灰が小さな山を作っている。

焼相(しょうそう)だ。骨は焼かれ灰だけになる」

 何本も散らばっていた骨はすっかり粉になってしまい、さらさらと地に広がるだけだった。びゅう、と風が吹くたびに灰の一部が浚われ、宙に消えていった。

「何も残らない」

 ふいに男が囁いた。


「九相観とは死体の変貌の様子を見て観想することを言う。有名なのは壇林皇后の逸話による九相図かな。生前とても美しく信心深かった壇林皇后は、自分の死体を辻に晒して、その様子を絵に留めるようにと言い残した。無残な死体の変遷を九の場面にわけて描いた絵が九相図だ。人々はその様子を見て世の無常を心に刻み、肉体の俗に囚われる愚かしさを学んだという」

 黒い手袋を履いた手が眼下を示す。灰はすっかり風に煽られどこにも見えなくなっていた。先ほどまで確かに死体があったそこには、もう何もない。

 何も残らない。

「肉体は無常であり、生は無常だ。ただ死と無だけは、常にそこに在り続ける。死は無であり無変。永遠の喪失だ」

 ざあざあと風が吹く。先ほどまで聞こえていた水音が聞こえなくなったことに気が付く。ぎこちなく首を巡らせれば、河があった場所に河が見えないことに気が付いた。

 どこまでも広がる枯草がふいにぷつりと途絶えた先、岸の先、真っ暗でがらんとして底もない、何もない、無。

 死だ。

 ぞくり、と恐怖が背を駆けあがった。

 穢らわしさでもおぞましさでもない怖気。恐れ、あるいは、畏れ。わなわなと四肢が震えた。喉が引き攣る。

 ぐい、と男の手が背を押した。

「おい、やめろ、やめてくれ」

 上ずった声でもがく体を、男の腕が前へ前へと押し出す。

「これがあなたの依頼だろう。専門外の俺に殯の真似事までさせて、今さらやめるとは言わせない」

 ぐいぐいと押され、踵が土を抉った。突っ張った両足がぎしぎしと軋む。それでも押されるたびに河岸が近づき、虚の淵が口を広げる。

「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ」

 違ったのだ、思っていたものと違ったのだ。まさか死が、こんな、何も、何も残らない、無、永遠の喪失だなどと。

 河岸はもう目前だった。

「やめろぉ、」

 がむしゃらに振り回した手が男の手を掴む。己のものよりもがっしりとしたそれを夢中で握りしめる。ずるりと掌の中で布が滑った。

 姿勢が崩れる。地面と平行だった視界がぐらりと動いて一面に空を映す。

 握りしめていた男の手袋がするりと逃げるのを掌で感じた。

 ざあ、と葦の音が響くのを最後に、己は死へと落ちた。



 窓也がまず最初に感じたのは暖かさだった。送れて他の感覚がぶわりと蘇る。肌を撫でる微かな風、朝に特有の清々しいような匂い、遠くで囀る小鳥たち、瞼を透かして映る朝陽。

 そこでようやく目を開いて、窓也は大きく息を吐いた。五感に迫る全ての要素が、ここが現実なのだと知らせてくる。洞窟の壁にもたれるように座っていた体を起こす。ぐう、と伸びをしただけで関節のあちらこちらからぽきぽきと音が鳴った。

 はあ、と溜息を吐いて奥を見る。

 小さな塚に祠が立てられている。開け放たれた祠の中に置かれた木彫りのヒトガタはバラバラに砕けていた。

「終わったのね?」

「まどみ」

 ふいに静寂を破って澄んだ少女の声が響いた。洞窟の入り口に顔を向けて窓也が明るい声を上げる。

「ああ。終わったよ。まったく面倒な仕事だった」

「嫌なら断ればいいのよ。受けたのは自分でしょ」

「無茶言うなよ。神の依頼なんかそう簡単に断れない」

 懐から取り出した袋に、慎重にヒトガタを入れながら窓也が答える。ぱらぱらと軽い音を立てた破片は、明るい陽の中でもうなんの力も持っていないようだった。

「依頼って言ったって、殺してくれっていうんでしょ。相手が協力してくれるんだから簡単じゃない。愚痴っちゃってバカみたい」

「概念上の相手を殺すんだぜ。簡単な訳がないだろう。そもそも俺は原料屋だっつうのに」

 こつこつ、とブーツを鳴らして洞窟を出る。差し込む陽射しに、面の影で小さく顔を顰めた。

「おまけに奴さん、いざって段になってから急に怖気づいて、俺まで引き込もうとしやがった」

 握られた感触を思い返したのか、右手をぷらぷらと振って窓也が苦々しく言った。その手にはきちんと黒い手袋がはめられている。

「掴まれたの?どうやって逃げたの」

「手袋していて助かったよ。自然にリペアされる縁の糸のおかげだ。少しくらい死に触れたところですぐに再生してくれる」

「じゃあほんとにギリギリだったんじゃない」

入り口に置かれたつづらの上で山茶花が呆れた声をあげた。

「だから面倒だったって言っただろ」

「いつまでたっても綱渡りなんだから」

 山茶花を腰に差し、つづらを背負いながら窓也が笑う。

「まあ、なんとかなったからいいだろう。面白いものも手に入ったしな」

「いつもそればっかり」

 こつこつとブーツの足音が遠ざかる。鼻を鳴らす山茶花に笑い声を上げて窓也が何か言った。朝の陽射しが小さな洞窟に差し込んでいる。人の気配が去り、洞窟に再び静寂が落ちた。


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