第三章 人と魔と Ⅰ
瓦のところどころ剥げた古寺の屋根に冬吾は腰を下ろし、眼下を見据えていた。街中とは違い、やはり山中では弱まったとはいえ小雨がしとりしとりと葉を打っている。
赤い月光に照らされて一面がよく望める。それとは関係なく、心なしか角が生えてから、闇の中でも物がよく見えるようになった気がするのは、おそらく気のせいではない。間違いなく夜目を得ている。
見下ろす先、深く苔の張った寺の門前の石段を足早に降りていく背中は、例の陰陽師のものだ。あの夜音という仙人との話から察するに、一旦家へと帰って四凶との戦いの記録を探るつもりなのだろう。
たとえば銀火が渾沌という存在を完全に打ち倒す手段を持って帰ってきたとして、自分は一兵卒として加担すべきなのだろうか?
それは脈々と続いてきた鬼神の末裔として、名声を得るために過去を騙って祖先を聖絶の名の下に屠り、故郷の山を追いやった千年来の宿敵の走狗に成り下がることを意味する。
端的に言って先人への冒涜に、一族としての恥辱に他ならない。
しかしそうでもしなければ自分のみの独力で事を為すことは難しいだろう。
「……俺はどうするべきなんだ――朱里」
首巻きに顔を埋めて思案に耽り始めていたその時、ふと、頭の上に番傘が差し出され、頬を流れる冷たい雨を遮った。
「あの、大丈夫ですか? 風邪引いちゃいますよ」
「あんたは。たしか秋乃、だっけ」
「はい! お隣いいですか?」
返事はせず、寺の入り口に視線を戻す。銀火の姿はもうどこにもなく、秋乃は着物の裾を丁寧に折りながら冬吾の傍らに座り込んだ。
差した番傘はところどころ破れた跡があり、何度も補修されている茶色のものだった。
「ボロボロだな。漏ってるぞ」
「かなり古いものですからねえ。だいたい使い込んで八十年くらいになります」
「……そりゃあ、道理でだ」
「私が仙界に行く前からの持ち物なんですよ」
えへへ、と秋乃はえくぼを作ってにこやかに笑った。
「何しに来たんだ。頼まれたってあいつらとは組まないぞ」
「あうぅ、きっぱりですね。そう念を押されると何も言うことなくなっちゃいますよぉ……」
言葉と一緒にしゅんとしぼむ犬耳は作り物ではない証拠か。
「あんたはどういう理由で仙界に? その耳と何か関係があるのか?」
「ほえ? 鋭いですね! なんで分かったんです!?」
「とても自力で別の世界に行けるような器には見えん」
「むむ……まぁそうですけど、そこまできっぱり言わなくても……」
相合い傘がいじけたようにくるくると回った。
「私は生まれついて、犬との生成りだったんです。お母さんのお腹の中にいる頃からすでに霊媒体質で、そこにたまたま犬の霊が憑いてしまって、こうなった次第で」
「……」
「生まれた時から不気味がられていたんですけど……娘だからと、お父さんとお母さんは私を家に匿ってくれていました。でも、生まれた村の風習で生成りの人間はご神体となって村の豊穣に身を捧げるという決まりがあったんです。有り体にいえば、そう――生贄ってやつですね。生まれたときはまだ明治でしたし、そういう古くさい掟が残っていました」
馬鹿馬鹿しい話だ、と以前の冬吾なら切り捨てていたところだが、実際にこうして神様やら仙人やらがどうやら実在しているようなので、あながちすべてが見当違いなのかは判断がつかない。
「それである日、村に私が生成りであることが広まってしまって。ええっと、それで、その……村の男衆が祈りと共に私に精気を込める儀をするといって、私を輪姦するのに神社に連れて行ったところですね。偶然、神様になるべく修験者として日本を行脚していたお師様に寸でのところで助けてもらって……」
「それはさすがに……下衆いな」
「ええ、お師様もそんな行為に祈りを強める根拠はないと。圧巻だったのは、その後いきり立って収まりの付かない男の人たちを『よぉし、ならば私が相手をしてやろう』って、一晩中なぐさみ相手をして――翌朝には村中の男が足腰立たなくなっちゃったのが、すごく印象に残ってます」
「それは……」
やってやったのか、それとも果たして勇んでやられてやったという意味なのか、なんて野暮なことを訊きかけてやめておいた。どちらでも不思議ではないし、実質六十歳上の秋乃でも、自分とほぼ変わらない若い風貌の女にそんなことを聞くのは憚られる。
しばらくの間、じっと静かに立て膝に刀を抱いていた冬吾は横目に秋乃の顔を流し見た。
初めて秋乃を見た時から一つ思い当たることがあった。
――似ている。
横顔、あっけらかんと笑う顔、声。仕草。
そっくりとまでは言わないが、ところどころに朱里を彷彿とさせる影がある。
「……ええっと、あなたは」
「冬吾だ。峰村冬吾」
「峰村さんは里のみんなの仇討ちと言っていましたね。生き残った人はあなたの他には……?」
「いない。知る限り」
そうですか、と気まずそうに会話の糸口を探す秋乃は口をつぐんで次の話題を探しているようだ。
「妹さんの仇とも、言ってましたね」
「ああ……俺にとって妹は。朱里は――」
はたと何かに気付いたように秋乃は顔を上げて冬吾の顔を見る。
そこにあったあまりに悲痛な色を悟り「そうだったんですか……」とこぼした。
隠れ里に何人の一族が住んでいたのかまでは知る由もないが、決して多い人数ではないだろう。限られた中で子孫を残して今に至る中で、近親愛があってもおかしくはない。
「――なるほど。ただのシスコンじゃなかったのね」
後ろから聞こえた声に二人は振り返る。そこには鬱蒼とした木の葉に遮られた空を見上げながら、屋根の棟の上に立つ枢が居た。
「何かにつけて妹がどうたらって言ってたし、もしかしたらって思ってたけど……やっぱり人間にしては不潔だわ。あなたの一族」
「どうとでも言え。……ここで何してる? お前らの里では盗み聞きを不潔とは言わないのか?」
「真逆。報せを待ってるだけよ――来た」
冬吾も番傘から抜け出て見上げると、木々の合間を縫ってこちらに飛んでくる黒い鳥が見えた。
一直線に枢の伸ばした腕に停まった鷹の足には文が結び付けられている。
「……やっぱりダメだ。動物ならもしかしたらって思ったのに」
「どういうことだ」
「外界と連絡手段がないってこと。スマホも通じない、動物の生体磁気でもこの京都から出れない。歩いて出ようとすれば方向感覚が狂って同じところをぐるぐる回る羽目になる。お手上げね」
腰に手を当てて深く嘆息をつく巫女は、そして顔を上げて冬吾を鋭い目つきで見すえた。射るような眼差しには明確な殺意が込められている。
「――腹いせに目の前の鬼を狩ろうとでも?」
「そうしたいのが本心なのだけれど。私も命が惜しいのよ。今は自分を守るために弾薬を割くべき。そう考えるのが合理的」
苛立ちの目つきをとっくり冬吾にぶつけ終えると、枢は二人に背を向けて降りる方向へと歩き出して言う。
「あんたはこれからどうするつもり? 私はここで情況を見守るつもりだけど」
「俺は……」
ふと視線を感じて振り返る。秋乃も立ち上がり、番傘の下から心配そうな目でこちらを見ていた。
尾を引かれながらも向き直る。
「一匹でも多くやつらを狩る。今はそれしかできん。ならばそうする」
「やっぱり野蛮だわ。まぁ……あんたなんかと一緒にお茶飲みながら成り行きを待つのも耐えらんないし。とっととどっかに行って頂戴」
「言われなくてもそうするさ、クソ女」
呆れた吐息を吐く枢の横合いを歩き過ぎていき、寺の中庭に飛び降りて、冬吾は一旦屋内へと戻っていった。
枢はそれを見届けて一息深いため息を付くと、呆然と立ち尽くす秋乃の方を見た。
「……」
「あ、あの。枢さん、でしたよね?」
「ねえあなた。生成りって本当? っていうことはその耳、本物?」
「ええ? あ、はい。そうですけど……」
ぴょこぴょことはねる頭から突き出た犬耳。白い毛に包まれた愛らしい肉感。
正直、もう辛抱たまらない枢だった。
「あの、あの、ね、ちょっとだけ。ちょっとだけでいいから……触らせてくれない? あっ、そんなベタベタ触るのがダメならーーなでるだけ。なでるだけでも!! ね? ね!? いいでしょ!?」
「…………ふぇ?」
ぱちくりと目を瞬かせる秋乃をよそに、篭手をはめた枢の手の上で鷹がひとつ高くキーッと鳴いてみせた。
§
「行くのかい? 鬼の少年」
裏口から小太刀一本を持って出て行こうとした冬吾を夜音が呼び止めた。
「……協力しないと決めたならここに居る意味はないからな」
「なるほどその通りだ。然して君は何処に?」
「〝気〟を追うまま行ってみるつもりだ。さっきまでよりもずっとはっきり奴等の場所が分かる」
鞘を握る手に力を入れる。この手が、この身が、一刻一秒でも早く。一尾でも多く引き裂けと声無き唸りを上げているようだ。飯を食って気力がみなぎっているせいでもあるだろう。
「自棄の勇気――蛮勇と言うべきだな。宛もなく、頼りもなく。鬼に会っては鬼を切り、神と逢ては神を切るなぞ。誇りに殉じて死ぬ気か? ここ至ってそんな自尊心に意味があると思うか?」
夜音の云わんとしていることすべてが今の冬吾の悩んでいることに寸分違わず正鵠を射ていた。
返す言葉もなく、しかし心の中で定めた殲滅の決意に身をを翻して木々の隙間の石段を降りていく。
夜音は嘆息を付きながら「少年!」ともう一度叫んだ。
じれったそうに振り返る冬吾は鼻先に飛んできた何かを乱暴に手でつかみ取る。布切れだろうか。折り畳まれた未知の感触の生地を開くと、どうやら服らしい。
袖を通す腕の部分がつけられている。裾の長さからしておそらく羽織るものだろう。
冬吾の知る由もない、化学繊維で防水加工されフードの付いた黒いウインドブレーカーだ。
「君の頭の何某は他の人間に余計な誤解を生むだろう? その着物には頭布が付いている。ついでに服の袋に包帯が入れてある。好きに遣え」
「……、感謝する。説法はもういいのか?」
「云ったろう。君たちはそれぞれが一個人だ。〝人間〟だ。人とは意志の生物だと私は思っている。そこから心を奪って追従させようとは思わん。それでは真に走狗と変わらんからな。人間として業に従いたまえよ」
「こんな妙なものが頭から生えていても。人間だと思うのか? この俺を」
自然、薄く自嘲の笑みが浮かぶ。
「姿形など、強く正しき心に比すれば――」
にべもなく、しょうもないとばかりに肩をすくませる夜音は、
「それに頭に妙なものが生えてる程度のやつなら見慣れてるしな」
「……成程」
「武運を祈る。あわよくばここに帰り来ることを願うぞ」
屈託のない潔白の笑顔の夜音を背に、冬吾は端々の千切れた作務衣を引きずり走り出した。
「そうだ。忘れていたよ、名を聞いておこう!」
「――冬吾。峰村冬吾だ!」
長衣を羽織りながら風のように去っていく背に、夜音も背を向けて寺内へと歩を戻す。
「冬吾。たとえ冬枯れの中にも我は吾り、と?」