第二章 邂逅者たち
京都北部の山中にある今は使われていない古寺の中、囲炉裏に熾した火を囲む四人の姿があった。
火には鍋が架けられていて、中には山菜や豚肉を詰め込み、醤油と塩で下味をつけた簡素な闇鍋が煮えていて、端から泡を吹きながら木製の蓋を揺らしている。
雨漏りに濡れて今にも抜けそうな腐った床に腰と刀を下ろし、そこに集まった者を警戒する視線を絶やさない冬吾は、それぞれをよく観察する。
向かいに座り、相も変わらず不気味な笑みを絶やさずこちらを見ているのは、例の陰陽師である。黒い服――学生が着る服らしい――に身を包み、火と共に揺れる影に照らされた顔つきは、まるでそのまま暗い部屋の壁に架けられた狐の面のようだ。
体格は華奢で、小男という言葉が相応しい。ひとたび気を抜けば遠慮なく背後から寸鉄を突き立ててきそうな狡猾さが所作の端々からにじみ出ている。
左隣に居るのは先ほどビルの上から飛び道具で威嚇してきた、白布の所々に紅い糸を通した巫女服姿の女だ。なにやら大きな茶色くくすんだ色の四角い鞄を脇に置いていて、当の本人は囲炉裏の鍋から目を離さない。
さっきから視線を一切動かさず、時折、袖口で口元を何回も拭っている。腹が減っているのだろうか。
そして――右隣で胡坐と細い腕を組み、静かに満ち足りた表情で目を瞑っているのは、「安全な場所を確保している」と、所在なく居座る自分を含めた三人をここに集めた白い男――いや、女、だろうか。判断がつかない。
鍋が本格的に煮立ってきた時、ふと白い人型は、熾火に揺れる黒い眼で口を開いた。
「さて……、いきなり本題に入っても一向に構わないとお考えの衆よ。人生そこまでうまくはいかぬと貴君らほどの手練であればお分かりだろう。私はそこの童貞クンが指摘した通り、ゆえあってすでに人間ではない――が、ここは人の住む世。人界ゆえ、私も人間の流儀と道理に従わせてもらおう。すなわち『ぎぶ・あんど・ていく』というやつだ」
台本を読むような雄弁さで人型は諭し語る。
狐の少年は「回りくどいなぁ」と頬を指でひっかいた。
「何が言いたいのさ」
「や、簡単なことだよ。おのおの自己紹介してくれ。そしたら君らが私に求める要件を話そう」
「はぅん。ほんとに簡単だこと。じゃ僕から」
狐の少年は、えほん、とわざとらしい咳払いを置いて全員を見回す。よほど一刻も早くこの夜の経緯を知りたいのだろう。
騙る様子もなく淡々と狐男は口を並べた。
「僕は芦屋銀火。陰陽師として、その昔名を馳せた蘆屋道満の血に連なる芦屋家の次期当主だ」
「蘆屋道満? あの悪者の?」
巫女服の女は海色に光る耳飾を揺らし、狐の男――銀火を横目に見る。
「おいおいそれは偏見だぜ? 映画の見過ぎさ。普通よりちょっと星を詠むのに秀でた陰陽師だったってだけ」
「じゃあ、あれは本当なの? 蘆屋道満は安部清明に式神勝負に負けて播磨に追放されたっていうのは」
安部清明という名を聞き、冬吾はぴくりと肩を揺らして眉根をひそめた。
「本当だよ。時の豪族、藤原氏家中の代理戦争という名目でね。清明は藤原道長、道満は顕光の名をかけて戦った。結果は世間一般がご存知の通り。藤原道長は勢力を伸ばし、清明も類稀な呪術師として藤原の一族と京都の魔術的防衛役を朝廷から命じられた」
「ならば君はなぜ今京都に?」
白い人型は興味深そうに目を細める。
「それこそ簡単なことさ。代々京都を守護してきた安部清明の家系、正当な土御門家の血が絶えたからだ。そこで宮内庁暗部は次に僕たち芦屋一族を京都の霊的守護役に任命したってわーけ。都合のいい話っしょ?」
「なるほど……よかった。じゃあ今回のこれも敵がなんであれ、とりあえずあなたの家の人達がなんとかしてくれるつもりってことね」
巫女服の女は毅然と責任の在り処を確かめるように問う。
「それがねえ……困ったことにウチの寺周りはいざって時に縮こまるヤツが多くてさ。今は一族総出で必死こいて脱出の算段してる始末だよ。恥ずかしいことに。まともに連中と殺り合おうと思ってて、見合った能力を持ってるのは僕ぐらいなもんさ。もったいないよなー、こんな一大行事。見逃す手はないのに」
「その辺にしろ」
全員の目が冬吾を向くと、冬吾は泰然とした顔つきで銀火を見ていた。
長い前髪の下から覗くのは閑かな、しかし確かに憎悪の焔を秘した
昏く黒く重い、切れ長の正眼である。
「なんで」
「あんたの戦好きには虫唾が走る」
吐き捨てるように言い、怒りを抑えるよう腕を組んで目をつむる。銀火も「やれやれ」と肩をすくめてみせた。
「さて。次に君が一体何なのか気になるな。鬼の少年」
全てを透き通すような黒真珠の瞳孔が、今度はその津々とした興味の矢先をこちらに向ける。
「君の一族は、何者だ?」
「俺は……大した者じゃない。ただの鬼の子孫だ」
「俗惚けるなよ? くそ鬼ヤローが」
銀火がフンと鼻で笑う。
「てめえが何者かは確かに知らんが、その角から出てる尋常じゃない妖気は隠しようがないぜ。出自不明の雑種にしてはあまりに強大だ。正直に言わないならここで焚き火にくべてやるぞ」
嘘とは思えない、かといって言葉通りの迫力もないおちょくるような殺気を放ちながら銀火は身を乗り出す。
気圧されたわけではないが、これ以上の面倒はごめんだった。
「〝酒呑童子〟だ」
「……なんだって?」
銀火は脅かしてやろうという気構えでいた目つきをぐっと尖らせた。
まるでいたずらを咎められた子供のような反応。
「……予想以上の大物が出やがったな」
「大江山の大鬼……っ!?」
横に目を向けると、巫女服の女も同じ反応だった。
脇のガンホルダーからリボルバーを引き抜き、照準を冬吾の頭に絞る。
冬吾は無表情のまま黒塗りの鞘を取り、中腰に構えた。
「こらこら。他ならともかく私の結界の中で物騒を起こすんじゃあない」
瞬間、ズドン、という衝撃を伴って、三人が床に伏せた。
肩に激しい重圧が、見えない巨大な手に掴まれて抑えつけられるような感覚が冬吾の全身を縛り付けて、床に縫いつけられたようだった。
「ぐぅっ……」
「ふおおお……つぶれるぅぅ」
「安心しなさい。暗示の一種だ。実際に重いわけじゃあない、君らが重いと思い込んでるだけだ。死にゃあせん。それで少し頭を冷やしたまえ」
白い人型は注がれた番茶の椀を指でつまんでずずずと啜りながら、立ち上がることもままならず苦しい表情をする三人を横目に見る。
しかし、冬吾は奥歯を欠けんばかりに噛み絞り、じりじりと刀を杖に立ち上がりつつあった。
「巫山戯るな……ッ、てめえら街の人間は……そうやって昔から、無害な鬼さえ迫害してきたんだろ……!? 安部清明もそうさ!」
襤褸絹のような藍の作務衣を引きずり、短い角を煌かせ、冬吾は幻の重力にあらがうがごとく怒声を響かせる。
「俺達の祖先の『酒呑童子』は……人間たちに追いやられた鬼たちを人里離れた大江の山へ集めて人と関わらず暮らしてたんだ……! それを陰陽師――安部清明と一条天皇は……自らの権威を高めるためだけに、大江の山を焼き討ちにした!! 争いを望まなかったのに! 功績を求めて鬼というだけで皆殺しにしたんだぞ!」
「はっ……信じられないね。そんな話は」
「信じてもらおうなんて思ってない……だが、それが俺の里に伝わってる逸話だ。俺達一族はお前らに復讐なんてことを考えたこともない。けれどこれだけは言っておく! お前らみたいに狂った虐殺者どもより……俺達、酒呑童子の血を引いた峰の里の者たちの方がよっぽど――〝人間〟だ!!」
それだけを言い切ると冬吾は床に倒れこんだ。
同時に重力の拘束が解ける。
「ふんっ……莫迦が。綺麗なだけが人間じゃあねえんだよ。どんな幻想を人間に持ってやがるか知らないけど……どのみちテメェは人間じゃあない。
それに無害だからなんだ? 貴様ら鬼の力は弱い僕たちにとって〝ただそこに或る〟だけで脅威だ。弱者が強い少数異種を排他しようとするのは道理だろう? お前らは僕たち本当の人間にとって、生まれついてのでっかい害虫なんだよ」
「……き、さま……!」
「なるほど君とこの子との不仲は分かった。大鬼の子孫と陰陽師、まさしく水と油だな。まぁそれはそれとして――なぜ君に今の呪が効いていなかったか、凄まじく興味があるね」
「あら。バレてたの」
苦しそうだった顔から一転、ケロっとした顔になり、巫女服の女は裾をはたいて身軽な動作でござの上に直った。
「さて、問おう戦の巫女。君は何者だ?」
「私は――」
ふと女は視線に気付き、左隣を見る。
そこには床に伏せりながらも面妖な笑みを絶やさずこちらを見る銀火の姿がある。
「……嘘はやめとこっか」
「ふふ……賢明だぜ」
ぐっと最後の力で親指を立て、かくんと銀火は床にうつぶせになった。
「私の名前は東雲枢。またの名を――雑賀流忍者衆、第二十三代頭目『雑賀孫市』」
巫女服の少女――枢は手に握っていた拳銃をホルスターに仕舞いながら言った。
「忍者? その装束で?」
「名ばかりなものだけれど一応は。雑賀衆っていうのはご存知? この国の戦国時代に火薬使いとして有名だった傭兵部隊よ。あまり知られてはいないけれど、その編隊の中には忍の部隊というのも存在したわけ。それの一派が魔除けを請け負ってきた東雲という神道の家と統合して今の形になったの。東雲家もその筋では有名な家でね」
その技術の結晶がこの装備よ、と枢は両手を軽く挙げて巫女服を開いてみせる。
「あなたの暗示が効かなかったのはこれのおかげ。対衝撃、対魔術を想定した礼装、呪式防護法衣『愛山護法』。あとの得物は――すべて商売機密」
「商売というと?」
「私は未だに傭兵みたいなものだから。今時さぁ、御幣を振って祝詞を読むだけじゃあ神社に働き口がないのよ。それより悪霊退散って叫びながら拳銃ぶっ放した方がインパクトがあってキャッチーじゃない」
「……そういう問題かぃ?」
銀火は理解できないという風な声色で床に顔をつけたまま言う。「そういう問題よ」と即答があった。
一方の冬吾は「いんぱくと……? きゃっちぃ……??」と理解できない単語に頭を捻っている。
「依頼が無ければ金もなくなる。金がなくなれば家が回らなくなる。悲しいかなそれが現実でさ。お金が動かない仕事に興味ないのよ」
「ふぅむ。それでは困るなぁ、私とて無一文だし」
白い人型はあごをさすりながら苦笑した。
「……さぁて。これで一通り終わったろ。人外、次はあんたの番だ」
「まぁそう急くなって童貞クン。童貞な上に早漏ではいよいよもって女の子に嫌われるぞ」
「アンタは」
ふと冬吾はござに身を直しながら問う。
「アンタは……男か、女か?」
「ん~~、そうだねえ。どっちでもイケるぞ。どっちかっていうと男が好きかな?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「人じゃない奴の性別なんかどうでもいいからさァ。早く教えてくれね? 今、この京都で何が起こってんのかを」
「あいや、分かった。まずは私の素性からだが――」
「お師さまー、ご膳の準備が出来ましたよ~」
真っ暗な古刹にそぐわない底抜けな明るい声が響いた。
奥の方から皿を両手にすり足で歩いてきたのは、赤い着物の小柄な少女だった。黒いおかっぱの下にはまだあどけなさの残る小顔の中に、純粋な黒銀の輝きを放つ瞳を湛えている。
右手には里芋の煮付けの大皿、左手には大根の煮物の大皿を持っている。
そして頭からは白い犬耳のようなもの。
そちらを見た枢の頬にうっすらと赤い色が浮いた。
「ご苦労。よくこんなに準備できたな」
「はい! 調理用具は台所に残ってました。火は自分で作りましたけどね! 食材は……ええ、まぁ、はい、街のお店から借りてきました」
「緊急時だもんね。借りるの仕方ないね」
銀火はにやにやしながらうつぶせの体勢から手をついてござにのろのろと直る。
「とりあえず食べながら話そう。ささ、召し上がりたまえ」
「普通の人向けに作ったのは久々で……味には自信ありませんが、そこはご愛嬌ということで」
照れた顔のぱっつん少女はそう言いながら囲炉裏に架けてある鍋の蓋に布巾をかぶせ、木製の被せを取った。
暗く淀んだ室内に山菜と肉の甘い香りが広がる。犬耳をぴょこぴょこさせながら、小皿に長い箸で具をひとつひとつ丁寧によそっていく。
「出し惜しみじみて済まなかった。私の名は夜音。こいつは私の従者の秋乃だ」
冬吾と銀火は静かに夜音と名乗った白い人型を注視する。枢は料理を取り分ける秋乃をじっくり見ている。
「私と秋乃は……端的に言えば、こことは異なる世界、人界よりちょっとだけ神の世に近い『仙界』からやってきた仙人だ。秋乃はまだ見習い仙人で私より幾分まだ人間に近いが、私はもう千年近くこういうなりで生きている。すでに人間と呼べる生物の理からは逸している」
「千年前というと……平安時代くらいから? ちょうどそこのくそ鬼ヤローのくそ祖先が討伐されたくらいかな」
「てめえ、いちいち……」
「んんー、それについては知らんなぁ。何しろかつて人間だった私の出身は中国の九寨溝という渓谷山中だ。今や観光地らしいが、昔は道を志す霊媒体師の修行に最適な窮境地だった。そこで数十年、道教の修行を積んだ私は悟りを開き、仙界への道を開き至った。今は仏教においての〝神〟となる修行をしつつ、人間界を監視する役柄に就いている」
話のスケールに付いていけないのか、冬吾はぐっと眉を寄せて難しい顔になっている。銀火は「へえ」と驚きつつも笑みを消さない。
「疑問なんだけど、仏教にも神様っているわけ?」
秋乃に配られた小皿の中身を箸で口にかっ込みながら枢が言う。やっぱり腹が減ってたのかと冬吾は思いつつ、こちらの食欲も煽られるような食いっぷりに自然と皿と箸に手が向いた。
「思いのほかその辺りを知らない人間が多くていつも驚いているよ。簡単に説明するなら、仏教における神とは、猶太教における唯一神や、回教における唯一神とは意味が違う。仏の道を歩む者をまもる守護神というやつだ。いわば『異能者』という解釈の方が近いかな? まぁ、彼ら造物主と呼ばれる類の絶対神が実在するかは知らないね。なにせ会ったことがない」
「……アンタの素性はその辺でいい。ここをこんなにしたやつの素性は?」
冬吾の箸がよく出汁のきいた肉と野菜をつつく。ほどよい苦味と肉の甘みが鼻をくすぐる。こんな情況ながら白米がないのが残念で仕方ない。
「うむ。京都をこんな様相にした元凶は――私の目指す神という名の存在。中国の〝四凶〟という悪神の一柱。『渾沌』の所業だ」
三人はしばし箸を止めて夜音の白い目を見つめる。
冬吾が口を開く。
「中国の神……なんでそんなものが京都に」
「やつは人に仇なす悪神として仙界に封印された身だった。警邏が緩んだ隙をついて幽閉から脱し、京都に陣を引いた。なぜその先が京都だったのか……予想できる理由はいくつかあるが――確として言いきれることは、この国に未曾有の虐殺者が舞い降りたということだ」
「そりゃあ言われなくてもわかるよ。あの徘徊してる猛獣どもを見りゃあ」
「やつらは渾沌と共に封印されていた古代中国の霊獣たちだ。それが渾沌の力により形代を得て実体化し、渾沌の手先となって隷属している。私たちはやつらを<クーハン・グウェイ>……日本語で言うならば声無き声で哭く鬼、<哭鬼>と呼んでいる」
「鬼……やつらがか?」
冬吾は納得いかなそうに返す。
「そう、鬼さ。しかし君の同族とは程遠いね。日本と中国の鬼の解釈というのも実は異なるものなのだ。中国で言う鬼とは、日本のそれに比べて心霊的な意味合いが強い。君のような人並みはずれた力を持った実存在とは一線を画しえる非存在、触れることの立ち行かぬ霊性の生き物なのだ。本来はね」
夜音は皿からひょいと素手で丸い里芋をつまむと、そのまま口の中に放り込んだ。もっしゃもっしゃと白粉が染みたような白い頬が動く。
それに従って三人は再び箸を進めた。
「なるほど……元々は霊魂なのね。通りで普通の弾頭じゃあいくら撃っても効かないわけだ」
枢は木製のおたまで自分の小皿に鍋をよそい、ほくほくと食べながら得心行ったように呟いた。
「僕の使う符術はすべて精神に毒になる呪術だし、その辺全然気にならなかったね。ただの物理的破壊じゃあすぐに再生しちゃうってことか」
「そういうことさ。だからこそ気になるな――鬼の少年。奴らを死に至らしめる術を持たぬ君が、なぜ奴らに対抗できているのか」
「え……?」
意味を理解しかねる、という面持ちで冬吾は面々を見回す。すると枢がじれったそうに口を開いた。
「いい? ただの物理的攻撃、普通の剣撃なんかじゃあ、このヒトの言う<哭鬼>は殺せないってことよ。私の使う弾は少し手が加わってるけれど……あんたのは何も細工しちゃいない。なんであいつらを殺せてるのかって話」
「こいつそういえば黒い火みたいなのを出してたぜ。なぁクソ鬼、ありゃあどういう手品だよ。たぶんそれ、哭鬼ってやつらが持ってる黒い焔そのまんまだぜ」
「……こっちが知りたいことだ。ただ、殺した哭鬼とやらの力を吸い取れる……みたいだ」
「みたい――ということは、君にとっても未知の部分ということか?」
「そういうことだ」
「おいおい。嘘はいけねえよ〝人間様〟よォ」
「……こればっかりは本当だ。答えようが無い」
そう言い、神妙な面持ちで口をつぐんだ冬吾を見て、銀火は鼻で笑いながら小皿の中身を平らげた。形は歪ながら嘘ではないということは伝わったらしい。
「もし何か要因があるとするなら……その古刀。それは一体なんだね? 何で出来ている?」
「これは……」
黒塗りの鞘を手に取り、柄に手をかけて刀身を剥く。
数珠刃と呼ばれる典型的な刃紋の入った、やや黒みを帯びる刃は、揺れる囲炉裏の炎に合わせて赤い光を反射した。
刃渡りは一尺八寸といったところで、分類するならば小太刀というのが妥当だろう。
特段の業物とも思えない、長い時間の経過を感じさせる淀んだ鈍色に冬吾は改めて目を流していく。
「俺の里に伝わってきた刀だ。里に現存する刀はこれだけだった。長の家に代々保管されてきた代物で、もし何者かの襲撃があった時はこれを持って逃げろと……教えられて育った」
「ほう。で、具体的にどういったものだい?」
「分からない。けれど……子供の頃に、いたずらで一度だけ刃を柄から引き抜いて刀の『銘』を見たことがある。その後すげぇ怒られたんだっけ……」
その長も先刻の襲撃で死んでしまったのを見た。
脳裏に惨状がよみがえる。
「……銘は<乙号>とだけ刻まれていた、はずだ」
「乙号――、甲、乙、柄の乙という意味なら、何かしらの弐号刀という意味になるが。それも定かではない?」
「ああ」
ちと拝見、と手を伸ばした夜音に冬吾は刀をおそるおそる手渡した。
か細く白いしなやかな指が乙号の鯉口をなぞる。
「ふぅん。材質は鉄だが……不思議だな。呪術とはまた違う力の波紋を放っている。言うなれば我々の持つ神性に近いような……」
一通りまじまじと観察した夜音は、その力がなんなのか検討もつかないと判断するや「はい、ありがと」と冬吾へ差し返した。
返されたそれを受け取り、冬吾も不思議そうに刀をまじまじと見る。
今まで戦などというものに触れたことも無く、鬼としての発現の気配もなかった自分がこうなったのに理由があるとするなら、この刀が何か起因しているのかもしれない。
知る由もないことだが、好都合だ。これがあれば皆の仇が討てる。
朱里の仇も、思う存分と。
§
「さて……あらかた食い終わったところで、私からの本題だ」
比較的大きめの鍋が空になり、皿に盛られた煮物もほとんどが平らげられていた。そのほとんどを一人で食べたと見られる巫女服の少女は何食わぬ顔で正面から夜音を見ている。
「今しがた伝えた今宵の罪人を罰するのに、貴君らの力を借りたい。協力してもらえないだろうか」
「おいおい……あんた自分で仙界で神サマの見習いやってるって言ったじゃないか。お仲間が居るだろう? それともそれほどそっちは人材不足なの?」
「忌憚ないなぁ、君は」
夜音は白い肌よりさらに白い歯をのぞかせて苦笑する。
「実はこちらもこちらで立て込んだ事情があったりなかったりするんだ。今すぐに仙界から手を貸せるのは私と、ここの秋乃ぐらいなものだ」
「無責任なんじゃないの? 身から出た錆びでしょう」
枢がにべもなく言う。あながち間違った言い分でもないと思い、冬吾はしんと成り行きを見守ることにする。
すると、皿を片付け終わった秋乃が「何をおっしゃるんですか!」と夜音の横に正座し、手をついて前のめりに割って入った。
「確かに私たち仙界の監視者の落ち度ですけど……、それが真っ先に彼の神を止めるために飛んできたお師様に言うことですか!? それがどれだけの覚悟かということを――」
「やめろ」
ため息交じりの声で夜音が秋乃の前を遮った。枢は眉をひそめる。
「……どういう事情が?」
「さきほどの話から察していただくとおり〝異能者〟としての渾沌の力は計り知れない。神と称されるものの中でも特に強力な不死性を持っている。まがりなりにも『悪意』という名の、世界を司る支柱の一角なのだ。仙界でも処遇に困り軟禁されていたほどだ。それが解き放たれてしまった――仙界では大きな議論になった。早急に追い討つべきか、それとも」
一拍置いて、夜音は言いにくそうに口を開いた。
「逃げ込んだ先の人界との関係を絶つべきか、と」
冬吾は不服そうな目つきで応えた。
「人間を守る役目のあるあんた達がか?」
「恥ずべきことに仙界も一枚岩ではない。そのために判断を決めかねているのだ。もしも人界で渾沌が更なる力を身に付け、仙界に攻め入るようなことがあれば、次に破滅するのは封印していた我々だ、とね」
「仙界と人界の道が封じられれば二度と帰ることはできません。そして私たち仙人は――すでに半分が神仏となった身。あまり長く人界に身を置くと法力の枯渇で存在できなくなってしまいます。
そんな危険を推して、お師様は仙界の誰よりも真っ先にこの京都に駆けつけられたのです。下らない決議が長引く間にも、京都の人達は次々と殺されていく。それを止めるために」
「それだけではない。確かに私は京都の人々の生命をないがしろにしたく無かったというのもあるが。それ以上に、渾沌を討つならばこの〝京都でなくてはならない〟と直感的に思ったのさ」
「なに? どゆこと?」
「現代京都の守護者一族でも知らないのか? 渾沌を含めた四凶と言われる存在はその言葉通り、四つの悪神で構成されていた。すなわち窮奇、饕餮、檮兀、そして渾沌だ。そのうち渾沌以外の三体は、過去にここ京都で仕留められているんだよ」
「なんだって……? そりゃあ――恐るべき初耳、だね」
銀火は必死に驚きの色を隠そうと口元を押さえながら零す。
「仕留めたっていうことは、殺し切ったってことよね? カミサマはそんなに簡単に死ぬものなの?」
「簡単には死なぬよ、カミサマだし。だからここ京都にはやつらを殺しきれる〝何か〟が眠っていると思うのさ。彼奴らはそれを探しながら人間を殺し廻っている」
「その何かの手がかりは?」
「私の方にはさっぱりさ。不思議と記録も残っちゃいなかった。だが童貞クンには心当たりあるようだね?」
そちらを見ると、唇に手を当てたまま深く思案する細い目があった。
ふと狐面は柄にもない渋面を上げて夜音を向く。
「いや、具体的に心当たりってほどじゃあないんだけども。僕たち芦屋の一族が入っている屋敷というのがさ、実は宮内庁からの貸与品みたいなものなんだよね。これは土御門が守護役にある時代、つまり千年前の朝廷がある時代から現存してる骨董品なんだ。その敷地の中にほったらかしになってる倉がある。土御門の術法なんて忌々しいから触れていないとかなんとかで……もしかしたらその中に、千年前の悪神討伐の記録があるのかもしれない」
「ほほう。それを解印できるか?」
「さぁ、現当主の一存によるね。つまり僕の父の」
父という言葉が出た瞬間、銀火の眉がさらに困った方向へと曲がる。何か困難な事情があるのだろうか。
ともかく、と銀火は断じた。
「夜音サンとやら。僕はあんたに協力しよう。下っ端狩るのも飽きたし、本丸に討ち入る方が明らかに楽しそうだ。――が、そこのクソ鬼と食い意地女はだめだ。そいつらが付いてくるなら僕は一人でやらせてもらうかんね」
「ほう?」
「なっ……なにを! 相手は古代中国に名だたる悪の神ですよ!? あなた一人だけじゃあ……」
「役不足かい? そりゃあこいつらと一緒に居たところで変わらないよ。片や人のナワバリで無断で商売やらかす泥棒紛い、片や宿敵だ。仲良くしましょうと言われてできると思うかい? 足手まといは少ない方がいい」
「……こっちだって願い下げだ。いつ化かされるか分からん狐野郎と一緒にできることなんかない」
「私は別に。むしろ何もしなくていいなら嬉しい限りだわ」
ずずずー、とお茶をすする枢は挑発をものともせず、空腹から解放され満ち足りた表情を浮かべている。
夜音は苦笑しながら言う。
「まぁ、君たちそれぞれが一個人である以上、神見習いの私ごときが強制できることなどなにもない。結論を急ぎもしない。さしあたって、君たちどうせ行くあてもないだろう? しばらくはここを拠点にしてもらっていいぞ。この古寺には帝釈天の加護からなる結界が張ってある。絶対安全を保障する」
「ええっ? ちょっと、お師様!?」
ただし、と夜音は区切り、
「これだけは心に留めておいて欲しい。この京都、二百五十万人を越える人々が住んでいる。その上観光の名所とも聞いている、旅行者もさぞ多かろう。今現在、一体何人の老若男女が食い散らかされ、殺されているか。想像するだに胸糞の悪い吐き気を禁じ得ない。
忘れないでくれ。事態は常に現在進行形なのだと。そして私は――誰よりも強くこの事態の一刻も早い解決を望んでいるということを」