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第一章 魔性の帳

更新と修正を同時にかけていきます。

加筆修正などが終わった章からひとまとめにしておきます。

「嗚呼……これは、本当に、一片たり。雪花の一塵たりとも――」


 愛が無い。


  嘆きを多分に含んだつぶやきを異様な夕焼け模様にこぼしたその存在は、眼下に広がる京都の街並みを寂寥せきりょうめいた瞳で眺望していた。


 立ち姿がひたすらに白い人型の存在だった。

 腰まで伸びた絹のごとき月白の頭髪は荒んだ気流に吹かれて揺れている。すべてを透き通すような瞳こそ黒いものの、女とも男とも取れる輪郭も白皙はくせきで、肩口の突き出た白い装束の下にのぞく肌もまた、新雪のように艶やかで白い。


 夕闇に染まる景色の中、唯一、影絵の中に縁取られたような存在の隣には、もう一人、背の低い少女が立っている。


 朱を基調に白いあせびの花びら模様が散らされた着物を羽織る肩は小さく、弓状に前髪を切り揃えた黒髪の少女は、あどけなさの残るかおに純粋な怒りをあらわに浮かべ、声を荒げた。


 頭にひょっこりと生え出た白い犬のような耳がぴくぴくと動く。


「なんて酷いことを……!! こんなこと……どんな理由があったって許されるわけありません!」


「おそらく奴に理由などあるまいよ。そこにあるのは理由や理屈なんてチャチなものじゃあ、決してない。地獄で醸成された千年モノの憎悪といったところだ。いや――すべてを憎みすぎた末の、もはや透徹と化した意志なのかもしれないな」


「同じことですよ。どんな理由でも意志でも、あたしは絶対に許しません! こんな……人の命を弄ぶようなことが……あっていい世界なんてどこにもない!!」


 白い人型は珍しく語調を尖らせる不肖の弟子に驚いた顔で振り返り、ふっと口元を緩めた。


「同感だよ。だから私は追ってきたんだ。非道には非道の報いを――当然の贖いをとね。たとえ相手が〝神〟と名のつく摂理のひとかけらであろうと、人の世界で為される行為には、やはり人の業の尺度で罰を与えるべきなんだ。……えーと、治外ホーケンっていうんだっけ? そういうの」


「うぅ……どうでしたっけ……って、そんなことはどうでもいいんですよ! 早くどうにか手を打たなければ本当に手遅れになりますよ!」


「気持ちはわかる。だが焦るな、秋乃。さすがに私とお前だけでどうにかなるはずもない。まずは探すんだ。可能性の種子を」


「可能性……? この人界で、ですか?」


「他に一体どこがあるというんだい。あちらからの助力は期待できない。対抗できる力を現地調達するより他ないのさ」


「で、でもっ。こんなの……普通の人間にどうにかできる事態では……」


「普通の人間?」


 小さな肩を落とす少女の横を通り、白い人型は小高い山からの景色に背を向けて歩き出した。


「おいおい……お前、元々はこの国の人間だろう? この街がどういう街か知らないのかい?」


「え……、どういう街って。京都、ですよね。色んな神社やお寺や……あと、すごくおいしい甘いものが揃ってます」


「分かっちゃいないじゃないか」


 甘味は確かにすばらしいが、と笑って付け足す。


「いいか。この千里城もかくやという地続きの不幸の中に一つだけ幸いなことがあるとしたら、ここが『京都』という地だということだ。日本随一、いや、世界有数の呪術と歴史を孕む古都……そういうところにはね、どれだけ歳月が経とうと大概眠っているものだ。


 古くからこの地を守ってきた存在や、


 奇妙な縁でこの事態に巻き込まれる運命の者や、


 ――そして、あまりの力の強大さに封印された怪物やらがね。


 私はそれらを指して可能性と呼びたい。無論、協力してくれるかは分からないけれど」


 そう言い残し、白い人型とそれを追う少女は京都の街並みを見渡すことのできる山稜を降りて行った。

 去りゆく白い背の向こうには、赤黒く染まった分厚い乱雲が明日を(とざ)すかのように重く鎮座し、異様な城壁のような物体が街中に走り、得体の知れない人食いの〝鬼〟が徘徊する、魔界と化した京都だけが残った。




§




 時に西暦二〇一五年、十一月十五日。

 京都符の北端、三国岳近郊は夕方から激しい雨となっていた。

 夕立は熟れた色の紅葉をすべて打ち散らさんとするかのごとく、冬が間近となった秋の驟雨しゅううが山を覆っている。

 日の見えなくなった不気味な赤みが掛かる空の下、山中をひた走る小さな二つの影があった。


「――兄様(あにさま)! もう私は無理です……置いて、行ってください!」


「……っ!」


 息も絶え絶えの二人の顔と服は汚泥に濡れ、顔には深い疲労が浮かんでいる。

 少年の容姿は濃紺色の作務衣を着込み、首元には白い首巻きが巻き込まれていて、黒足袋に草履を踏みしめるその出で立ちは、とても年相応の少年には似つかわしくない落ち着きを身体にまとわせている。


 鼻の頭や頬にはできて間の無い生傷がいくつか見て取れる。

 後ろで総髪に()んだ黒髪がひた往くつむじの風に弾かれ、水気を吸った束となって(おど)っていた。


 先を走り、深い緑の着物の小柄な少女の手を引く少年の手には、磨れた色の黒塗りの鞘を被った小振りな刀が携えられている。


 初めてまともに持つ剣を片手に、濡れた枯葉の敷かれた地面に時折足を取られながら、空回りする足袋たびを必死に前へと進める。


 しかし。


 ざざざ、と追跡者の揺らめく気配が後方でひしめく。草木の茂る山の傾斜を転がるように駆け降りる最中、少年は少女の肩越しに目の端を向ける。


朱里(あかり)――絶対に離れるな!!」


 少年の頭の中で先刻の恐怖がよみがえる。

 思い出すもおぞましい、まさしく地獄の絵図だ。里に居た一族の人間すべてが、どこともなく突然沸いて出た得体の知れない化け物に食い殺され、引きちぎられ、すり潰され――親も仲間も関係なく鏖殺(おうさつ)され。


 見たこともない不気味な化け物を目の当たりにし、かつて化け物と忌み嫌われた一族が皆殺しにされていく。


 まだこの国の法律で言う成人にも満たない歳の少年にとっては、死ぬまで忘れられない心の傷となって当たり前の出来事の直後だが、今は悲しむ時間などない。


 自分などどうなってもいい。ただ、自分と共にたった一人生き残った妹だけはどんな手段をってでも助ける。


 ただひとつの殉情じゅんじょうが身の中に炎のような熱となって駆け巡っている。


 全身を切りつけるような土砂降りの露の中、(じっ)と目を絞り前を見ると――横合いの林から山犬のような影が飛び出し、二人の方を向いて立ちはだかった。

 黒い焔のような妖気をまとった大型のそれは明らかに野の獣ではない。他でもなく、里を襲った黒い獣と同じ類の化け物だった。


「ちぃ……ッ」


 少年は足を止め、左手で少女をよくした。

 右手には携えたこともない、古びた刀剣が一振り。


『人間――京の街に逃げ延びたとて、どの道逃げ場などないぞ。おとなしく狩られろ』


 でろん、と垂れでた涎のねばつく舌とともに放たれた人語。足を止めた間に、追いついた四ツ足の獣たちが二人を囲む形へと木々の間に陣を取る。


 四方八方、少なく見ても十体は下らない。狼のように鋭い牙と、狼よりも一回り大きい躯の獣は、二人に一挙一動でもあればすぐに喰らいつく体勢を取る。


「兄様……!!」


「それ以上近づいてみろ。きっかり順番に撫で切りにしてやる……!」


『ほう、そいつぁおもしろい』


 低く腹に響く、四ツ足よりも更に威容のある声に少年が振り返る。そこに現れたのは――少年の背丈の倍ある巨躯を持った、醜悪な猿人、と言えるような生物だった。


 四ツ足の獣たちと同じく黒い焔のようなものを纏い、筋肉で膨れ上がった腕と足を人間らしく扱い、こちらに歩み寄る。


野狗子(やくし)ども、そのガキは食い殺せ。女はオレが持って帰って(なぶ)り尽くすとしよう。何回かわいがってやれば壊れるかなァ……? ひひひ』


「ッ!!」


 一斉に全方位から飛び掛ってきた四ツ足の獣達に、少年は意を決する(いとま)もなく(じん)を抜いた。


 刀術の心得などない。

 それでもやるしかない――心に念じたその時、不意に飛び掛ってくる獣たちの挙動が遅くなって見えた。

 危機に瀕して発揮された集中力の賜物か、はたまたもとより少年に備わっていた眠れる武才ゆえか。

 鼻の奥で(シン)と痛覚が焼けるような痛みと熱を伴って、双眸に映る世界が間延びする。


 裁断された時間感覚の中で視界のみならず思考も普段の兆倍以上の冴えを放つ。

 あの猩々が四ツ足どもの指揮を束ねているなら、そのすべての狙いは自分に絞られているはず。


 動きが予測しやすい。

 これなら――当てることが、できる。



「――あああぁぁッ!!」


 力任せに振り下ろした雷光のごとき黒銀の一線が先陣切って飛び掛ってきた四ツ足の頭部を捉え、真っ二つにかっ裂ける。肉を引き裂く感触に応じて不快な脳漿の飛沫(ひまつ)が容赦なく頬を濡らす。


 構わず、後ろに続き来る二匹目に対して場当たり次第に横薙ぐと、前足の一本を根元から断ち、悲鳴を上げて宙を舞っていく。


 その様子を見て、少年に食いつこうとしていた四ツ足たちは各々足を止め、危険と判断したのか、じりじりと間合いを計るような動きを見せた。


「ハァ、ハァ……」


『ほう。大見得切るだけのこたぁあるじゃねえかクソガキ』


 くっく、と笑う不気味な猩々は頬を指で掻きながら、


『だが大事なことを忘れてないかい』


「なんだと……? っ!?」


 はたと気付き、急いで少女の居た方を振り返る。

 そこに妹の姿はなく――慌てふためいて見回すと、四ツ足の獣の一体が。


 数秒前まで少女だったモノを、時折固い音を立てながら咀嚼していた。


 足元にはおびただしいほどの赤い水面。

 血溜まりに浮かぶ、四肢の欠片と、深紅に染まった紺碧の浴衣。無残に散らかる内臓の欠片。


 挽肉ひきにく同然となった彼女の首から上は、すでにどこにも見当たら無かった。


 悲鳴を上げる間もないほどの一瞬の内に。


「あ……ああ……!?」


『オイぃ。オレが持ち帰るっつったろ、馬鹿かてめえ』


 猩々から半分笑ったような口調を向けられた四ツ足は、ブッ、と口から黒い塊を吐き出してそれに答える。


『手前の指示に従う道理はねぇよ。こちとらウン百年も檻の中に入れられて腹が減ってんだ。たらふく食わせろよ』


「あ……あ、かり……!? 朱里ぃぃぃぃっ!!」


 少年はまなじりが千切れんばかりに目を見開き、もはや原型のない少女の名を呼んだ。

 先刻も幾度となく見た光景だ。

 無造作に潰され、無意味に引き裂かれ、無感情に食われる。

 それも、飢えを満たそうとする喰らい方ではなく――享楽心を満たすかのように。

 無惨な姿を、努めて無惨にし尽くすように。


『まったく食い応えのない女だ。普通もう少し肉が詰まってるもんじゃないのか。まぁいい、そこの餓鬼も食えば……』


「――――――貴様らぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」


 山全体が鳴るような怒号が赤い乱雲まで轟く。空気が震え、気流が荒いで枯葉が舞い上がり、辺り一面の木に潜んで成り行きを見守っていた鳥達が一目散に枝を発っていく。


『なんじゃこいつ……雷みてぇな声を……!?』


 直後、猩々は少年の変化に瞠目(どうもく)した。

 獣たちが纏っているのと同じ黒い焔が、微弱ではあるが、少年の身体を包んでいたのだ。


 そしてその頭頂(とうちょう)

 夕闇の中で煌々(こうこう)と、短いながらも赤い魔性の輝きを秘める二本の〝角〟が、少年の前頭に顕現(けんげん)していた。







 数分と経たぬ内に出来上がった獣たちの死骸の山を背に、少年は最後に残った猿人の喉元に緩やかな反りのある刃を突きつけていた。


 すでに手足は断裂し、胸部に深々と斬傷を負って、息も絶え絶えの猩々からは生気が消えつつある。


 まだ、雨は止まない。


『なんだ……クソガキ……その力は、その刀は一体……!?』


「答えろ。貴様らは一体〝何〟だ? なぜ里を襲った? なぜ……殺した」


『……へへ、へへへひひひひひ』


「何が可笑しいんだ!? 答えろ!」


『地獄に墜ちろ……墜ちろ墜ちろ、墜ちろ墜ちろ糞餓鬼め。手前はオレらと同じだ。オレらと同じ〝化生けしょう〟だ。先に逝って奈落の底で待っててやるよ、兄弟よぉ……!』


 言下、少年の地面を抉るような一刀を(ふる)って、斬り飛んだ猩々の頭は木々の隙間へと消えて行った。


 殲滅せんめつ

 そして後に残ったのは、やや小振りになった雨が厳かに葉を打つ音と、血のように赤い空。


「……爺ちゃん、父さん、母さん……」


 果たして仇は取れたのだろうかと空を仰いで逡巡する。

 茂った葉の合間から覗く異貌の夜空は、それをはっきりと否定しながら、頭上一帯に雫を撒きながら、嘲笑あざわらううかのように、遠い。


 不思議な直感がささやく。

 奴等はまだ、山ほどの数で(うごめ)いている。


「……朱里」


 頬を打つ雨にそのまま流されぬよう、少年はしっかと刀の柄を握る手に力を込めた。


「うあ……あ、ぁ……あああああ――――!!」


 腹の底からむせび上がる苦痛の声に羽博(はたた)く鳥はすでに無い。

 代わりに応えたのは、遥か雲で閃いたかすかな遠雷のいななき。

 一体。一体なぜ。こんな酷いことを。


 何者の差し金で。何を意図して。

 俗世から隠れ静かに暮らしていた里の一族が苦しみ、悲しみ、壮絶に痛み、死に絶えなければならなかったのか。


 あらゆる起因を考えるより先に重く泰然たいぜんとのしかかるのは、愛する人、愛するすべてを失ってしまったという事実。十七年という歳月の喪失。産まれ育ち生きてきた世界そのものの喪失感だった。


 自分の無力のせいで。たった一瞬の気の(たわ)みのせいで。たったひとつ、最後に残った守るべき者さえ護れなかったこの手が。この身が何より憎い。


 噛み締めた歯の隙間に、悔やんでも悔やみきれない無念の味が頬から流れ込む。

 焼け軋み歪むような感情ことばが気付くより先に口から飛び出ていた。


「殺してやる……! 殺してやるぞ! 一尾でも多く、道連れにぃいいい――!!」


 この命で届きうるすべての仇敵に斬刑を。願わくば元凶たる存在にわずか――わずか一太刀でも。

 刀の柄を握った手に面妖な黒い焔を纏い。

 少年――峰村みねむら冬吾とうごは幼い頭角を輝かせながら、この落日に――なお遠い空へと、宣戦を布し告げた。




§




 まだ日が暮れて間もないにも関わらず、北大路通りは異様なほどの静けさに包まれていた。


 道路には乗り捨てられた乗用車が延々と並び、二度と動くことのない有様を思わせる渋滞を為している。路面に沿って植えられていた並木はところどころへし折られて倒れており、方々の建物にも瓦解が見られ、数時間前までの観光都市はさながらゴーストタウンといった様相である。


 並木と共に並ぶ電灯の蛍光もまばらで、きちんと点いている数の方が少ない。


「いやぁ、絶景かな、絶景かな。なんてね」


 そんな虫一匹の気配もない静寂の中、道路に並んだ車の上を歩く、一人の学生服の少年がいた。 短く切り揃えられた鴉羽色からすばねの髪に黒い学ランを着込み、ポケットに手を突っ込んで首をすぼめ、車の頭を踏む様は、まさに飄々という言葉が相応しい。


「見事に人っ子一人おらんなぁ。まぁ、そら自分らが狩られる立場になりゃ当たり前か。気配がしないだけで皆さん建物に避難しておられると見える。懸命、懸命」


 楽しげな子供のような軽い語調で言葉をこぼしつつ、辺りの建物から漂ってくる奇異の視線を細目で見回しながら歩いていると、遙か前方から車の原の合間を塗って黒い焔を纏った四ツ足の獣がこちらにめがけて三匹ほど迫ってくるのに気付いた。


「うはっ! 来た来たあ! すっげえ、やっぱあの犬みたいなのすっげはええ! ……そんじゃあひとつ、ウチの犬っころと速さ比べと行こうかい?」


 そう言って学生服のポケットから取り出したのは、てのひらほどの大きさの紙に幾何学的な紋様と梵語のような文字が書かれた、四角い二切れの紙だった。


「盟主『芦屋あしや銀火ぎんか』の名において。双対そうつい狛犬こまいぬ――その牙のごうなるをって〝一片余さず喰い殺せ〟」


 同時にその場に現れたのは、白銀の毛並みを持ち、四ツ足の黒い獣に負けず劣らずの体躯と牙、隆々とした脚部で路面を踏みしめる二頭の走狗いぬ


 狩猟犬のごとき俊敏な挙措きょそで向かってくる三匹に飛びかかると、三匹の黒い獣は面食らったかのようにおのおの別の方向へと進路を変え、白い犬に追われる形となった。


「はっははー、逃げろ逃げろーぃ。喰われちまっぞーう」


 学生服の少年――芦屋銀火は心底愉快そうな口調と目つきで、追いすがる獣と追われる獣の二組を目で追う。

 寒風に散った枯葉を蹴り上げ、並木を突進でへし折り、車を軽々と跳ね飛ばしながらの四頭の縦横無尽な争いを眺めつつ、ふと銀火は内の一頭が視界から消えていることに気付く。


「……やっぱしそこいらの野の獣じゃあないなぁ。意図的に僕の目を巻くなんて」


 直後、銀火のなで肩めがけて後方から牙を剥いた四ツ足が飛びかかる。

 数瞬のうちに少年は為す術なく引き裂かれ、あられもなく、情けもなく、臓物をその場にぶち撒ける。


 はずだった。その一瞬の前。


 激しく何かが摩擦するような音と共に、銀火の背で白いいかずちの嵐が立ち上がった。


 獣は甲高く悲痛な声を上げ、消し炭となり体中から煙を立ち上げて、四角いバンの天井に横たわった。バンの上の四隅よすみには、いつの間にか先ほど銀色の犬を出したときに取り出したのと同様の呪符が張られていた。


「ま、知能があるならあるでやりやすいんだけどね。むしろ僕としてはそっちの方が」


 死角にあえて罠を作り誘い込んでの撃退は、彼にとって何の事はない戦術の基礎だ。そのためには相手に死角を攻めてくるような知性があった方がむしろ都合がいい。


 そして、ほどよく黒い獣たちの動きを観察し終えた銀火は、右手で何かの印らしき形を結び、一息に念じると、追いすがっていた銀色の犬は瞬く間に白い火炎の濁流となり、逃げ惑っていた黒い四ツ足を飲み込んで灰燼に帰した。


「うーん。なんというか、個体差が結構大きいよね。逃げ方のパターンが一律じゃないし、何より一匹が他のを目隠しにして僕に焦点絞ってきたし。一体なんなんだろ、こいつら。てっきり何かに統制された妖怪かと思ったのにそうじゃないらしい。こいつら――何かの目的に対して個々が自我を持って動いてるのかな」


 ぶつぶつと考察しながら車の上に足跡を付けていく少年は、そう思い至って、くくく、と我慢できず歯の隙間から悦の笑みがこぼれ落ちる。


 そうだ。待っていたんだ。

 こういう荒事を。

 否応なしに命の掛かる危険な夜の到来を。


「いやぁ、はは、おっかないですなぁ。油断したら喰われちゃうなぁ。たのしいなぁ――愉しいなぁ、うははは」


 笑みは肥大し、あはははは、と無邪気な哄笑へと変わる。


 すっかり闇の中に沈んだ街の中、一人笑みを浮かべながら歩く少年の姿は、紅い夜の支配者さながらの小さな魔王のようでもあった。


 と、その時。


 空から降る紅い夜光が途切れたのを見て、雲でもかかったかと見上げると。


「え」


 傍らにあった背の高い建物の約半分から上部が、多数のガラス片を伴って、銀火の頭上に降ってきた。





§





 空中で五階立てのテナントビルごと黒焔の一刀の下に叩き斬った猩々を横目に見ながら、冬吾は次の標的を定めるために地表を見た。


 足元の瓦礫の中には四ツ足の獣が二体、こちらを仰ぎ見ている。

 それらが駆け出したかと思うと、今しがた斬撃で輪切りにしたビルの凹凸をなぞって駆け上ってくる。


 望むところだ。

 キッと歯を噛み、身体は未だ宙空のままに構える。

 牙をいて飛び掛ってくる一体目の咬撃こうげきをいなしつつ、開いた口にぎ払いを切り込み、力任せに振り切ると、顎と頭に綺麗に両断された肉塊がビルの壁面に叩き付けられ、黒い染みとなった。


 それと左脇腹に鋭い痛みが走ったのはほぼ同時だった。今の隙にもう一体が飛び寄り、咬みついたのだ。


「っつぅ――」


 刀を両手で逆手に持ち替え、翻し、思い切り獣の頭部に突き立てる。

 ズグン、と厚い肉に刃物を差し込んだ感触が伝わる。獣の悲鳴と共に歯の拘束が解ける。

 剣の刺さりは致命せしめるには浅い。


「――死ねえええええっっ!!」


 墜ちていく宙空で身を大きく翻し、冬吾は大きく一回転しながら、渾身の蹴りを直下に放つ。


 狙いは突き立て刺さったままの刀の柄頭つかがしら

 杭打ち機さながらに蹴りの衝撃で押し込まれた刀ごと獣は地面に突き立ち、黒い焔となってあたりに散滅さんめつする。


 そこに着地した冬吾は、突き立った古刀を杖に立とうとするが、血の滴る腹に脱力し、膝を突いた。


 傷が深い。

 血がなみなみと吹いて出る腹の風穴に手を当てても一向に止まる気色もない。


 しかしふと、視線を向けられたような気配を感じて顔を上げる。


「はぁ……はぁ、なんだ……これ」


 辺りを見回すと、黒い獣から四散した漆黒の燐光のような焔が、自分の周りを取り巻くように参集してきているのだ。


 そして傷口に取り付くや否や出血は止まり、傷痕を残して、牙の食い込んだ腹が完全に塞がってしまった。


 まだ疼きにも似た痛みが残っているもののじきに引いていきそうだ。すぐに身を起こし、立ち上がり、今生こんじょうで感じうる限り初めての不思議な感覚を放つ身体を、手のひらをじっと見つめる。


「やっぱり……やつらの力を……吸ってるのか?」


「あーあー、なんだお前。人間の形した台風みたいなやつだな。気にいらんなぁ~」


「っ!?」


 気の抜けたような声に、しかし冬吾は息を呑み、振り向いた。

 するとそこには、服の端の砂埃を払いながら、首の骨を鳴らしてこちらに歩み寄る、狐のように細い目つきの少年がいた。


 背丈は自分と同じくらいだが、一体何が楽しいのか、口元にはとっておきの楽しいおもちゃを見つけたわらべのような笑みが浮かび上がっている。


「……何者だ」


「おー、仰々しいねえ、何時代のサムライかな? いや、どっちかっていうと坊主っぽい格好だけどねキミは。それにしちゃあ髪長すぎ、みたいな? どこの高校でも校則違反じゃね、みたいな」


 冬吾にとっては意味の分からない言葉の羅列だった。いぶかしげに狐のような相手を見据え、あごを引いて口元を首巻きに埋める。


 警戒を極める三白眼さんぱくがんにらられてもなお、少年の喜悦きえつに濁りはみじんも浮かばない。


「おっとと、あんま怖い目で見ないでよ。あ、自己紹介いる? いやぁ、でも、いらないと思うな、ウン。なんてったって僕さァ――」


 言下、ポケットに突っ込んでいた両手を引き抜くと同時に、狐顔の少年は空中に無数の札を撒いた。


 すると瞬時に札は一つ一つが漆黒のからすへと形を変え、愉快そうに笑う学生服の頭上を覆った。


「キミのこと駆除しなきゃだしね」


 直後、少年は冬吾に指を向け「GO GO GO!」と煽る。示し合わせたかのように、冬吾の視界に黒い閃光と化した鳥の群れが迫ってきた。


「式神……!? お前――陰陽師か!!」


 急いで深く深く突き刺さった古刀を路面から引き抜き、飛来する一匹一匹を確実に切り裂いていく――が、いかんせん数が多い。


「あッはははははは!! ご名答だよ! だったらなんで殺されなきゃならないか分かるでしょ? ――どこからどう見ても〝鬼〟だもんねえ、キミぃ!」


「っ……!! 違う! 俺は……!!」


「違う? 違わないよ、その角! コスプレじゃあないでしょ? ちゃあんとキミから臭ってくるんだよ、どっかの山奥でコソコソしてたドブネズミみたいな臭いがさぁ!!」


 からみついてくる鴉の最後の一体を弧線の内にとらえ、斬り落としたのを確認し、冬吾は鷹揚おうように道化師然と笑う少年の方向へと向き直って駆け出した。


「俺は――人間だっ!」


「いやいやいやいや……フツーの人間はビルを刺身みたいにおろしたりはできんからな?」


 笑みを崩さないまま、狐の少年は伸ばした右手をぐっと握り閉じた。


 その挙動に、冬吾は反射的に危険を感じて横合いに大きく飛び退くと、一拍を置いて轟音と爆炎、耳朶じだを打つほどの熱が花のようにひろがる。


 真っ赤な焔を吐いて炸裂したのは、斬り落とした鴉の残骸だったのだ


 あのまま前に進んでいたら広がる鴉の残骸の真ん中に足を踏み入れていた。


 本気でこちらを殺す気だったのか、と冬吾は揺らめく陽炎かげろうの先で不気味な三日月の形に笑う顔を睥睨へいげいする。


「まさか……こいつが元凶……!?」


 ふと考える。人間から忌み嫌われ、身を隠して住んでいた自分たち〝鬼〟の血を引く一族を皆殺し、いぶり出すためにあの黒い獣たちを式神として操って里を襲ったのだろうか。

 だとしたら――


 と、ひとつの予想に刀をゆっくりと構えた時、あたり一面の熱も冷めやらぬもうもうと漂う煙の中から、まるでつかぬことをお訊きしますが、とでも頭に付きそうな軽い口調が飛んできた。


「おーぃ、殺す前にひとつ聞いといてやるよ鬼ヤロー。この夜の異状はおめえさんとなんか関係あるワケ?」


「……なんだって?」


「あー、あー、ごめん。聞いた僕が馬鹿だったね。僕ごときに手も足も出ないキミの所業しわざなわけないわな。あいや、失敬」


「お前こそ……元凶はお前じゃないのか!?」


「んなわけないじゃん、僕はしがない陰陽師ですよって。まぁ――」


 爆発による黒煙が晴れた先に居た少年は、やはり楽しそうにわらっていた。


 凶笑。

 まさにそんな言葉の似つかわしい狡猾こうかつさをいかんなく撒き散らしながら。


「そんなこと関係ないけどね。目の前に鬼が居るなら殺すのが僕たちの役目だ。どのみちキミは死んでくれなきゃ困るよ。今、ここでね」


「くっ……!」


 相手の言葉を完全に信用するわけではないが、とても嘘を言っているとは思えない。


 第一、仮にも人間にさわる厄をはらうがために式を打つというのが信条の陰陽師が、例え鬼を狩りだすためとはいえ、いたずらに戦火を街の中まで広げるよう真似はしないだろう。

 となれば、ここで陰陽師なんかと戦う意味はない。

 一刻も早く、黒い獣たちを一匹でも多く仕留め、里のみなと朱里の無念を晴らす。

 それが目的で来たくもない街の方まで手がかりを求めてやってきたんだ、と反芻はんすうする。


 けれど――この情況。簡単には見逃してくれそうにない。

 簡単に勝てそうにもない。

 打ち勝つにしろ多大な手傷を負うだろう。

 ならば覚悟を決めるしかない。


 刀を持つ手に力を入れ、黒い焔を纏わせる。狐目の少年は「やっとやる気になったかい」と、終始嬉しそうに手元に呪の入った符を構える。


 どちらが先に動くか、刹那に神経を張り巡らせる探り合いに入ろうとしていた、まさにその時だった。




 街中を駆け抜ける火薬の炸裂音が二人の緊張の間に割って入った。




「っ!?」


「んん?」


 続けざまに二人の足元の路面に硬質な何かが突き刺さった音と、小ぶりな煙が上がる。


 冬吾にはその武器が何なのか分からなかったが、狐目の少年――芦屋銀火はすぐに威嚇射撃だと理解した。


 それもこのつんざかんばかりの銃撃音ガンショット

 かなりの大口径なのは想像にかたくない。


「そこの二人。得物えものを捨てなさい」


 声がしたのは、冬吾から向かって左にある、道路の側面に面した三階建ての建物の屋上だった。


 紅く染まった空と夜月を背にそこに立っていたのは、赤と白の装束――神道に仕える巫女の法衣を着込み、ロングバレルの回転式拳銃。

 S&スミス・アンド・ウェッソン・M29を両手に構えた長髪の少女だった。


「何者だ!?」


「答える義理は無いわ。武器を下ろせって言ってるの」


 着物のたすきがけのような外見でまくられた裾の脇の下には、西部劇で銃士が携えるような拳銃帯ガンホルダーが見受けられる。巫女服とはとても不相応ミスマッチな装備だった。


「なら……こっちだってお前なんかの言うことを聞く義理はない」


「なるほど、確かにそうね……。でもそういう口を利くのはよした方がいいわ。特にあなたみたいな〝人外〟が長生きしたければ、人間様の機嫌をそこねないように努めなさい」


「てめぇ……!」


「勘違いしないで。私はお願いしているんじゃない。この場の制圧者として命令してるの」


「おお? おおい。それは聞き捨てなんないぜ」


 ポケットに手を突っ込み直し、銀火は数歩前に出てビルの屋上の女を見上げる。口元にはやはり不敵な笑みがある。


「制圧? 何を面白いことを。そんな次元大介みたいな時代遅れの銃を向けただけで制圧なんて、ギャグだとしたら一流だけど」


「それは違うわ陰陽師さん。次元大介はM19、これはハリー・キャラハン刑事」


「いや、一介の男の子としてはどっちも好きだけど。時代の最先端は陰陽術だぜ? そこんとこ履き違えちゃあいけない」


「……それも重大な履き間違えだと思うけど」


「まぁ、ルパンやダーティ・ハリー警部について語り合う前にキミにも聞いておくよ。この夜、どういうわけか分からない? 『堺の意地悪女(ヘルキャット)』さん」


 銀色のピンでめられた黒い前髪の下、ピクリと少女の細い眉が動いた。


「私のこと知ってるの?」


「知ってるも何も、ウチの家計図の関係上、キミは僕の生き別れの妹だからね」


「嘘」


「うん、嘘」


 張り合いないなぁ、と銀火は肩をすぼめてみせた。


「ホントは風の噂で聞いたことあるだけだよ。すっごく可愛い雇われ討魔士さんが居るって」


「それはどうも。質問への返答はノーよ。むしろこっちが知りたいくらいだわ。迷惑してるのよ……この後まだ名古屋と横浜と津軽で依頼人が待ってるっていうのに京都から出られないなんて」


「まぁまぁ、お互い不運だったってコトで。そんじゃあ――」


 銀火はポケットの中からあらん限りの呪符を取り出す。切れ長の目の奥に心底楽しそうな輝きが煌いた。


「袖擦りあうも多少のえにし。人の世は一期一会、ましてやこんなにい夜だ。相応の人に出会ったら殺し合わなきゃあ損だよねえ?」


 ぎらついた獣のような目が、どちらから食い殺そうか品定めするように冬吾と巫女服の少女を見比べる。


 冬吾は油断無く構え、少女は二丁の拳銃を各々(おのおの)の額に定め合わせたまま目を細める。


「狂っているの?」


「盲人、盲なるを悟らずってさ。当人に聞くなよ、そんなこと」


 銀火が手元の術式を発動させようとした、その時だった。

 横合いから白くたおやかな、花の茎のような手が伸び、輝き出した札を持つ銀火の先を制した。


「やぁ、やぁ、そう急くな少年。もしや童貞か?」


「っ!?」


 眼前を遮ったのが何かの腕だと判断した時、銀火は差し押さえにかかってきた手をはじいて、間隙かんげき作らぬように素早く後ずさった。冬吾がここに来て初めて銀火の顔から笑みが消えた瞬間だった。


「……不意をかれたのなんて幼稚園以来だよ。アンタ何者? 人間じゃないね?」


 問われた人型――白い存在は、横の銀火の質問など意に介さず、三すくみになってそちらを怪訝けげんとにらむ三人の顔を順々に見ていく。


 そして最後に冬吾を見据え、これはしたり、とべにを塗ったように濃艶のうえんな唇にわずかな笑みを浮かべた。


「成程。今宵の演者はすでに集まっていたか。善哉ぜんさい――ああ、実に善哉ぜんさいなり

 

 うんうん、と底嬉しそうに肩の突き出た着物の人型はうなずいてみせる。


 冬吾は刃を血振りし、鞘へと納めた。理解できないこの現状からとっとと離れて自分は自分のすることをしなければ。


「次から次へとわけの分からん……話し込んでるだけなら行っていいだろ? お前らと違って俺は暇じゃないんだよ」


「はは。いやはや鬼の子くん、しかしそれは違うよ。この世もあの世も暇人などただ一人としていやしない。皆それぞれに事情を抱え、しかし動かないのではなく、情況に動じていないのだ。怖くなったかい? 得体の知れない私や、ここの二人が」


「何言ってやがる」


 惑わすような言動に、それでも挑発だけはかくと受け取り、冬吾は気を吐いた。


「俺は怖いものなど無い! 今の俺に立ちふさがるものはすべて斬り伏せる! 相手が何だろうと! 誰だろうと!! 刺し違えても妹の仇を討つんだ!! 邪魔立てするなら――貴様等のッ首まとめてき斬り尽くしてやる! 来るなら来やがれ……、峰之村みねのむらの名に掛けて背は見せん……!」


「――なるほど、これは。これは()鬼気ききだ」


 真っ向からその激昂げっこうを受け止め、白い存在は目当てにしていた何かを見つけたかのごとく、もう一度小さく笑んだ。


「さて、混乱させてしまってすまなかったね。結論から言わせてもらうと、私は間違いなくこの夜で、この夜の誰よりも元凶に近い存在だよ」


「へえ?」


 銀火は打って変わって興味深そうな目つきになる。屋上に立つ巫女も銃口を下げ、口をつぐんだままそちらを見た。


 そして白い存在は、高々と、劇的に、勇壮ゆうそうな楽団の指揮者のごとく、くして紅い夜にうたった。



「魔を討つ生業の血族と魔の諸々君、心してくれ。

 これは単なる討魔にあらず、神殺しであるということを。貴君らの今宵の相手は人の血を吸い恍惚とのたまう怪物でも、痴情をわずらって死んだ人間の亡念でも、小賢しく立ち回る妖怪のたぐいでもない。

 人を憎み、人をころさんと憎む、耐え難い復讐心に突き動かされた一柱いっちゅうの〝魔神〟であるということを」

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