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「それにしても」と、オープン前の店内を見渡して真理子がしみじみと呟いた。
「よくもまぁ、こんなに早くこれだけの用意が出来たもんだわ」
「ホントよね」
店の入り口、通路に面したスペース全面に『スポーツの秋到来! お子様とスポーツを始めませんか』のPOPと共に打ち出した商品を遠巻きに眺めて、真希は改めて酒井の手腕に感嘆の声をあげた。
真希と酒井が敵地に足を運んだ日からほんの二週間。本社との値段交渉から商品の選定、入荷搬入、広告の作成から近隣への配布、さらにメルマガの配信から、商品の陳列まで酒井は全て滞りなくやってのけた。もちろん店のスタッフのサポートに入ったが、おそらくサポートをつけなかったとしても一週間と違わなかっただろう。
売り場の最終チェックにせわしなく動き回る酒井を目で追う。なるほど、大口を叩くだけあって、あの大きなガタイには自信とそれを裏付ける能力が詰まっているのだな、と頷く。その代わり周りの空気が読めないようだけど。
真希達の視線に気付いた酒井が長い手を上にのばして大きく振った。
「片山さん、今日からが正念場ですよ。これでお客さんを掴んで、今月は黒字にしましょう」
オープン前のショッピングモール内に酒井の大きな声がこだまして、出勤途中の他の店のスタッフの視線が一斉に真希達に注がれた。
「あいつには羞恥心ってものは無いのかね?」
「さぁ? あってもペットボトルのキャップくらいなんじゃない」
二人が小声でそんな事を言っているとは知らずに、酒井は笑顔で手を振っていた。
軽いミーティングを済ませてオープンを迎えると、待ちかねたお客様が殺到する――ような事はまるでなく、いつも通りの暇な午前中が待っていた。店の外に目をやると通路を歩く人の姿がちらほらと伺える。真希は、入口に立ちお客様の来店を今か今かと待ちわびる雅人越しに、通り過ぎる人影をぼんやりと眺めた。
「拍子抜けしました?」
酒井に声をかけられて我に帰る。うかつにもボーっとしていたようだ。
「いえ、まだ午前中ですから」
午前中だから、それは自分に言い聞かせた言葉だった。酒井の出した提案に少なからず期待していた真希は、いつも通りの午前中にすばり拍子抜けしていた。もしかしたらいつもとは違う日になるのではないか。そんな予感を打ち砕かれた気分だった。
「ええ」酒井は大きく頷いて「まだ午前中ですから」と不敵な笑みを浮かべる。
「これからですよ。片山さん」
妙に自信に満ちた表情の酒井を見ていると、その自信はどこから来るんですか? と訊いてみたくなった。小さな事をくよくよと考えてしまう真希とは全く正反対の性格を酒井は持っている。その中身を知れば、少しは自分も変われるのではないかと思えた。もちろん訊くつもりは無かったが。
「今の内に準備運動しといたほうがいいかもしれませんよ? きっと午後には忙しくなりますから」
酒井の言う通り、午後になると徐々に客足が増え始め、気がつけば目玉商品の前には小さな人だかりができ始めていた。
『スポーツの秋到来! お子様とスポーツを始めませんか』と書かれたPOPの前には体の大きな酒井と小さい雅人が並んで接客をしていて、まるでPOPの通り親子のように見える。二人の周りには主婦と思しき人達が熱心に二人の話に耳を傾けていた。
「なんだかんだで上々の反応じゃない?」
いつものようにカウンターに肘をついて真理子はまんざらでもない声を出した。ちらほらとレジに来るお客様も増え始め、ようやくと言った感じでカウンターから肘を下ろす。
「なんか、急にお客様増えたよね」
「当然でしょ。主婦は忙しいんだから。買い物に出る時間ってのは決まってるもんでしょ」
「そうかもね」
入口の人だかりが呼び水となって、店内にも人が増え始めるとようやく真希にも手ごたえに似た感覚が湧いてくる。
「あのデコボココンビが何気に張り合ってるから接客にも活気が出てるしね」
「なんで雅人はあんなにやる気なの?」
妙に張り切って接客に精を出す雅人を見ながら頭に浮かんだ素朴な疑問を口にすると、真理子はポカンと口を開けて声にならない声で「は?」と言った。
「あんた、マジで言ってるの?」
「ん? あたし変な事訊いた?」
まぁ、あんたらしいか。と一人で納得して真理子は頷いたが、何が自分らしいのか真希には意味が分からなかった。どこかバカにされたようで納得がいかなかったが、それ以降真希も接客に追われ始めてしまい、問いただす機会を失ってしまった。
やはり新しい打ち出し初日の売り上げは全員が気にしていたようで、閉店後、スタッフルームのパソコンの前には固唾をのんで見守る全員の視線が集まっていた。パソコンの前に座った真希を取り囲むようにして全員が食い入るように画面を見つめている。狭い部屋に大の大人がすし詰め状態になっていると息がつまりそうだった。特に人一倍体の大きい酒井の圧力がものすごい。
「どうですか?」雅人が心配そうな声を上げる。
それを合図にと言う事でもないが、集計ボタンをクリックする。するとレスポンスよく一日の売り上げ集計が画面に表示された。
「……総売上、五十六万八千円」画面の数字を見て真希はホッと息を吐く。
「六万八千円の黒字だわ」
真希の安堵の声を聞いてスタッフルームに小さな歓声が響いた。よし! と大きな声を上げる雅人の横で満足げな顔をして酒井が頷く。真希の肩にポンと手を置いて真理子が眉を下げた。まぁ、こんなもんでしょ。と目が言っている。
「まぁ、初日にしては上々の結果ですね」
酒井は、まぁまぁですと謙遜しながら鼻の穴を大きく広げた。
「この調子なら、週末はもう少し期待してもいいんじゃないでしょうか」
「久しぶりの黒字ね。まぁ、よかったんじゃない?」
そっけないふりをしながら、真理子の頬も緩んでいる。なんだかんだと言いつつも一応は心配していたようだ。
「みんなありがとう。みんなのおかげで約三カ月ぶりに黒字になる事が出来ました。と言ってもまだ一日だけですけど、これは企画を提案してくれた酒井さんを始め、みんなが頑張ってくれた結果だと思います」
全員の顔を見ながら真希が挨拶をすると、それぞれがそれぞれの反応をする。
「何よ、改まって」と照れ隠しに真理子は肩を叩いた。
「ココで働いているからには頑張るのは当たり前です」と雅人は意気込みを強くした。
「大丈夫、今月末にはもっといい結果になりますよ」と酒井は相変わらず自信満々だった。
「それにしても、あの人は何だったんだろう?」
雅人が思い出したようにそう呟いたのは店の明かりを消して、外に出た後の事だった。
「あの人って?」
「いや、今日来たお客さんの中に、やたらと商品の事を詳しく訊いてくる人がいたんですよ」
そう言って雅人が顔をしかめると、酒井も思い出したように「ああ、いましたね」と手を打った。
「若い人だったから、お子さんがいるとも思えないんですけどねぇ。とにかく綺麗な人でしたよ」
「何それ?」
「あの人がいなければもう少し売上伸ばせたのになぁ」
つまらなそうに聞く真理子の横で雅人が悔しそうな声を上げる。
「スラっと背の高い女性で、ちょうど片山さんと同じくらいはありましたかね。スポーツ選手か、もしくはモデルのような、そんな印象の人でしたね」
「ふぅん、まさに酒井さんのストライクゾーンってわけだ」
真理子の鋭い突っ込みに酒井はたじろぎ、真田さんって恐いですね、と真希に耳打ちした。あら、今頃気づいたんですか? と返すと、さらに顔をひきつらせた。
「案外スパイだったりしてね」
「どこの?」
何気なく呟いた真理子の言葉に素早く反応したのは雅人だった。
「決まってるじゃん、この近くでライバルと言えば――」
指を立てて真理子は笑みを浮かべた。この近くで同業者と言えば『NEXT』しかないが、わざわざ偵察を入れるほどの事ではないはずだった。何せ『NEXT』と『DーSPORT』では規模が違いすぎる。
それは無いわ、と真希と雅人の声が重なる。冗談に決まってるでしょ。と真理子は真顔で答えた。