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大野さおりは憤っていた。
「伊藤くんはどっちが正しいと思う?」
ジョッキを片手に、だいぶ目の据わってしまったさおりがじっと伊藤の顔を伺う。仕事帰りにどうしても飲みたい気分だと言うさおりに付き合って、居酒屋の個室でもうかれこれ三十分ほど同じ様なやり取りを繰り返していた。
「僕はさおりが正しいと思うよ」
テーブルに置かれたチラシを手にとって伊藤は、こないださおりが言っていたのはコレか、と眉を下げた。このチラシと、その日行われたミーティングがさおりの苛立ちの原因だった。
「先手を打たれちゃダメなんだって、わかってる?」
「ああ、わかってるよ」
チラシには一目で分かる『Dーsport』の店名と『大幅値下げ』の文字が印象的に書かれていた。自社ブランドの商品を思い切りよく値下げするらしい。
「なのにあのアホチーフは……」
小声でくだを巻いてさおりはジョッキに残ったビールを一口に煽った。
*
「先月の売上ですが、純売上で1628万と三カ月連続の黒字となりました。これは近々に出店した中ではうちだけです。みなさん、ご苦労様でした」
満面の笑みを浮かべてチーフの佐々木洋介は頭を下げた。ミーティングに集まったスタッフから自然と拍手が巻き起こる。皆口ぐちに「お疲れさまでした」であるとか「よかったね」であるとか「頑張った甲斐があったね」であるとか、喜びの声を上げた。
「やらしい話ですけど、この調子で行けば賞与の方も期待が出来ると思いますので、いい流れを崩さないよう、来月からもお願いします」
佐々木の言葉にスタッフ一同が色めき立つ。
現場の士気を上げるためにお金の話をするのはある意味で正しい。皆貰えるものなら多いに越したことはないのだから。とはいえ、そう言った事を軽々しく口にする人間を伊藤は個人的に好まなかった。だから、言ってしまえば伊藤はチーフの事をあまり好きではなかった。似た者同士のさおりも同じだった。
だからというわけではないだろうが、現場のスタッフが盛り上がりを見せる中、水を差すようにさおりの切り出した話はタイミングが悪すぎた。
「佐々木チーフ、少しだけお話いいですか?」
そう言ってさおりが机の上に出したのは、あのチラシだった。
「これは?」チラシを手にとってちらりと見た後、チーフは冷ややかな目でさおりを見下ろした。
「チーフもご存知でしょうけど、近くのショッピングモールに出店しているスポーツ用品店のチラシです」
「ああ、そう言えばありましたね、小さい店が」
「価格を見て下さい、どれもうちよりも三割は安く設定されています」
さおりに促されて面倒くさそうにチラシに目を通すと、「で?」と佐々木はチラシを机の上に戻した。
「確かに、うちよりも安いですね。コレがどうかしました?」
「どうって、明らかにうちを意識した打ち出しですよコレは」
さおりの声がにわかに大きくなった事に気付いた数人のスタッフが怪訝そうにコチラを振り返った。
「ふむ」と佐々木は顎に手をやって少しだけ口を閉じた。そしておもむろに微笑を浮かべると、「気にする事もないでしょう」と言いきった。
「弱小店舗が少しばかり価格を安くして客を呼ぼうとするなんてよくあることですよ。どうせやりきれなくて自滅するのがオチです」
「佐々木チーフ、これを見て下さい」
佐々木の態度に一瞬言葉を失ったさおりを見かねて伊藤が間に入る。
「オープンから三カ月の売上推移表です」
机の上に差し出したグラフには、オープンから三カ月間の売上と商品別の売上高の推移が書かれていた。先日さおりの電話を受けて急きょ伊藤が作ったグラフだ。
「売上なら、さっき言いましたよね? いまさら何です?」
「確かにチーフの言う通り、この三カ月黒字を続けていますが、売上で見ると下降傾向にあります。特に――」
「あのね」伊藤の言葉を遮って佐々木が苛立たしげに口を開いた。
「本社さんにはわからないかもしれませんけど、現場には現場のやり方がありますから」
わかりやすい侮蔑の意味を込めて佐々木は二人を「本社さん」と呼んだ。その言葉にさおりの耳が赤くなる。明らかに逆鱗に触れた瞬間だった。
「内勤のお二人には別の仕事があるでしょう? こんな小さな事にかまってる暇なんて無いはずですけどね」
机の上に置かれたチラシを指で叩いて、吐き捨てる様にそう言って佐々木は踵を返した。
*
「思い出しただけで腹が立つ!」
普段酒に強いさおりがここまで酔うなんて悪い酒だな、と伊藤はさおりを宥める。
「チーフは何も分かってないよ」
「まぁ、今日は日が悪かったんだよ」
伊藤! と突然指を向けられて、思わず伊藤は「はい」と答えた。
「うちの弱点は何か述べよ」
「は?」
「弱点よ、弱点。今後うちが痛くなる弁慶の泣き所」
突然何を言い出すのかと内心苦笑が漏れたが、その事については伊藤も考えていた。
一見、ありとあらゆる商品をそろえた『NEXT』は完璧に見える。広い店内をお客様が迷わないよう、サービスも充実しているし、接客に関しても厳しい訓練を潜り抜けた精鋭が行っているのだから落ち度は少ない。
それでも売り上げは落ちるのだ。黒字を続けていると言え、毎月三百万ペースで落ちていた。確かに、オープン当初は物珍しさからお客様が集まるので売上は伸びる。しかし売上が落ち着くのがオープンから三、四か月後だとすると、このままでいくと来月には黒字は厳しい。
完璧なサービスを目指した店で、なぜ売り上げが落ちるのか。
「一つは顧客のニーズ」
伊藤はまっすぐに目の据わったさおりの目を見て右手の人差し指を立てた。
「もう一つはターゲット」と中指を立てる。
「そして、最後にネームバリューにあぐらを掻いた価格設定」
薬指を立ててそう言うと、さおりは満足げに頷いた。
「さすがは伊藤くん。わかってるよね」
いつの間に頼んだのか、店員が持ってきたジョッキを受け取って口をつけると、さおりは伊藤の立てた三本の指の内の人差指を掴んだ。
「まず、ニーズ。お客様は何を求めているのか」
だいぶろれつが回らなくなってきていた。舌足らずな言葉でなお、今度は中指を掴んだ。
「そして、ターゲット。うちにくる客層はどうなのか」
そして、と薬指を掴もうとして掴み損ねる。
大丈夫? と声をかけると、大丈夫だよぉ、と間延びした声で答えた。――大丈夫じゃないな。
「そして、価格設定。この三つがうちの弱点。きっと来月からはこの三つが弁慶の泣き所になってくる」
「その上で、コレか」
さおりに指を掴まれたままテーブルの上のチラシに目を落とす。
「アチラの店長さんはだいぶやり手みたいだよ。少なくともうちのアホチーフなんかとは比べ物にならないくらい」
「タイミングが完璧だね」
「だからこそ早めに対抗策を考えないといけないのに。一度失ったお客様はもう戻って来ないんだよ」
敵の放った矢は確実に『NEXT』の心臓にまっすぐ飛んでいる。それは伊藤の作ったグラフにも如実に表れていた。
この三カ月の間で、徐々に売り上げが落ちて行く中、ほんのわずかな種類だけ、徐々に売り上げが伸びている商品があったのだ。それが低年齢層向けの商品だった。なお痛いのが低年齢層向け商品の主力がこのチラシの商品と丸被りなのだ。
「伊藤くん知ってた? この商品がDスポのブランドだったって」
「知らなかったよ」
あたしも、と声を小さくしてさおりはようやく伊藤の指から手を離した。
「自社の商品の事は当然熟知してるよね。むしろ今まで値下げしなかったのはこのタイミングを待ってたとしか考えられないよ」
同じ地域に出店している以上、ターゲットはどうしても被ってしまう。売上が落ちてきている今、『NEXT』が掴まなければいけない客層を根こそぎ持って行かれる可能性だってあるのだ。
「ねぇ、このまま何もしなかった場合の売上の試算って、すぐ出せる?」
「そうだな、二、三日あれば出せると思うけど。Dスポの集客数が分からない以上、それほど正確性は出ないよ?」
「それでもいいから、伊藤くんはそっちに専念して。あたしはエリアマネージャーに相談してみる」
足元もおぼつかないさおりの為にタクシーを呼び、運転手に住所を告げて、慎重にさおりをタクシーに乗せた。それでも無事に帰れるかどうか少し心配だったが、意識だけははっきりしていたので大丈夫だろうと思う事にした。残念ながらさおりを送ってから自分のアパートに戻るほど、お金に余裕は無い。
さおりを乗せたタクシーを見送って、腕時計を見る。時刻は午前0時を過ぎていた。
時間を確認した途端ドッと疲れが押し寄せて来る。あのコンビニエンスストアの野良猫はお腹をすかせて待っているだろうか、と自分にすり寄ってくる猫を思い、深いため息が漏れた。