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目覚まし時計が鳴る前に玄関チャイムの音で真希は目を覚ました。
枕元の時計を見ると時刻は午前十時を回っていて、あれ? と首をかしげる。眠気でぼんやりしながら今日は休みだったと思い出した。
休みの日にこんな朝からの来客予定は無いし、そもそも勧誘のたぐいなら無視して二度寝しようかと思っていた真希はベッドから起きるつもりは無かったのだが、玄関から聴こえた思わぬ声に飛び起きた。
「片山さん、おはようございます」
聞き間違いかとも思ったが、もう一度ノックと共に聞こえたのは間違いなく大家さんの声だった。――大家さんがあたしに一体何の用だろう。
しばらくベッドの上で固まっていた真希は何度目かのチャイムでようやくベッドから降りた。真希の足元で寝ていた虎之助が何事かと首を上げる。
虎之助の顔を見てまさか、と思った。
まさかあたしが猫を飼ってる事がばれた?
急いで虎之助を抱き上げ、どこか隠す場所が無いか探す。急に起こされた虎之助はのんびり欠伸をして真希の腕の中で手足を伸ばした。
お風呂場に連れて行ってドアを閉める。曇りガラスの向こうにはっきりと猫の姿が分かる。お風呂場はダメだ。
押し入れに入れて戸を閉めてみる。これなら見えないけど、鳴かれたら一発アウトだ。それでなくとも起きたら朝ごはんをねだるのが日課なのに。
虎之助を抱えたまま右往左往していると、ベランダから物音が聴こえた。もしかして、と窓を開ける。仕切りから顔を覗かせると隣の伊藤が洗濯物を干していた。
「あの!」と声をかけると、伊藤は一瞬驚いた顔を見せたがすぐににこやかに「おはようございます」と言った。
「すいません、少しの間だけ虎之助を預かってもらえませんか?」
朝っぱらから慌てた様子で突拍子もないお願いをしたにもかかわらず、一言で事情を察した伊藤は聞き返す事も無く了承してくれた。
仕切りの隙間から虎之助を隣のベランダに行かせる。何事が起きているのか解るはずもない虎之助は抵抗するかと思っていたが、案外嫌がることなく素直に隣に行ってくれた。
虎之助のトイレを急いでバスタブの中に隠して、真希は一つ深呼吸をした。寝起き風を装ってドアを開ける。
「あ、片山さん。ごめんなさいね、起こしちゃいました?」
「あ、いえ。どうかしたんですか?」
「いえね……」
大家さんは言いにくそうに声をひそめて小声で言った。
「一回で犬を飼ってる方が居てね。苦情が来たんですよ。わたしもなーんか変だなぁとは思ってたんですけどね、まさか犬を飼ってるとは思わないでしょ。うちはペット禁止になってるんだから」
そうですねぇ。と答えつつ背中に冷や汗が滲んだ。
話好きのおばちゃんである大家さんのこと、恐らく一軒一軒回って話をしているのだろう。道理で伊藤が何も聞かずに了承してくれたわけだと、今さら納得する。
「一応飼ってた人には話をして、出て行ってもらう事で納得してもらったんですけどねぇ。他にももしかしたら居るかもしれないから、わたしも形だけでも見て回らなくちゃいけなくてねぇ」
「大変ですねぇ」
「いやいや、まさか片山さんが飼ってるとは思ってないから。一応そういう事があったよって事だけ覚えてもらえればね」
まさか飼ってないでしょ? と大家さんはおおらかに笑った。
まさか、ねぇと真希も笑顔を見せるがうまく笑えていたかどうか自信は無い。
「なるべくみなさんを疑いたくはないから、部屋の中を調べる様な事はしたくないの。わたしはみんなを信じてるからね」
じゃあね、と大家さんが帰って行くのを確認してドアを閉める。閉めた後でどっと力が抜けた。
――一応飼ってた人には話をして、出て行ってもらう事で納得してもらったんですけどねぇ。
大家さんの言葉が頭の中でリピートした。
きっとあたしも、ばれたら一階の人と同じようにやわらかに強制退去になるんだろうな。
野良猫だった虎之助を家に入れた時から何となく心の奥で覚悟はしているつもりだった。しかしつもりはつもりで、どこかでばれないだろうと高をくくっていた。それは年月を重ねるごとに強くなり、初めは注意していた事もいつしかしなくなった。今ではご飯もトイレの砂も普通に買って帰ってくるし、服についた猫の毛もあまり気にならなくなっている。今考えれば明らかに油断していた。恐らく一階の人もそうだったに違いない。
一度こういう事が起こるとみんな敏感になるだろう。
一階の人の二の舞になる事だけは避けたかった。その点で言うと真希には二つの幸運に恵まれていた。一つは隣が伊藤だった事。もう一つは真希の部屋が三階の一番奥だという事。上は無いし、下の階にも音はほとんど漏れない。そして隣が一件しかないから、よほどの事が無い限り伊藤の部屋がクッションとなって他の部屋には虎之助の声は届かないはずだった。
あとは真希自身が気をつければ、例えば虎之助のご飯もいつも利用するホームセンターではなく、もう少し離れた場所で買うとか、服に着いた毛を入念に取り除くとか、それくらいの事でばれずに済むはずだ。
そこまで考えてようやく安心する。安心したところで開けっぱなしだった窓から伊藤が呼んでいる事にようやく気付いた。
*
「いらっしゃいませ!」
ショッピングモールに来たついでに店によると、普段聞かないような声が聴こえて真希は目を丸くした。
お昼時の店内にはいつものようにお客様の姿は少なかったが、雅人は来店客一人一人に大きな声で挨拶をしている。店の奥からは酒井のよく通る声も聞こえた。まるで二人で張り合うかのように声を出し合っている。二人のおかげで店に活気が出ているようだった。
「あ、片山さん」
真希に気付いた雅人が手を振って小走りで近づいてくる。
「どうしたんですか? 今日は休みなのに」
「てか、雅人こそどうしたの? なんか元気じゃない」
「俺はいつも元気ッスよ」
可愛らしい笑顔を浮かべて雅人は真希を見上げた。思わず眉が下がる。
「雅人ってさぁ、身長何センチだっけ?」
「え? 163くらいですけど」
頭の中で計算して自分よりも十センチ以上小さい事に改めてため息が漏れた。平均よりも背の高い真希は見上げられる事には慣れているが、時々こうして確認しては無駄に成長してしまった自分にがっかりする。
「片山さんの好みにぴったりでしょ?」
どこまで本気なんだか、からかい口調の雅人に真希もつられて笑顔になった。
「それは無いわ」
「うわ、ひでぇ」
真希がすげなく言い返すと返す刀で言葉が帰ってくる。雅人とのこういったふざけたやり取りは嫌いじゃなかった。
「でも本当にどうしたんですか? 休みの日に店に来るなんて珍しい」
「別にご飯食べに来たついでにちょっと寄っただけだよ」
伊藤に虎之助を預かってもらったお礼をしたいと言うと、伊藤は別にお礼なんてと断った。それでは真希の気が済まなかったので、もうすぐお昼時だったし、ならせめてお茶を奢る事で無理矢理合意させた。とはいえ、アパート近くにお店は無いし、真希も伊藤も車を持っていないので近くで簡単な食事ができる場所と言えばこのショッピングモールしか無かったのである。
「ご飯? もしかして男ですか?」
意外と鋭い突っ込みに一瞬顔が引きつる。
「まさか」と咄嗟にごまかした後で、別にごまかす必要も無かったか、と思いなおした。
「怪しいなぁ」
当の伊藤が近くにいない為、一端ごまかしてしまったからにはごまかし通すしかないと、真希はいつものように叩くふりをして何とかやり過ごした。こんなことなら伊藤の携帯に着信があった時素直に待っていればよかったかな、と思う。
*
少し話をした後、じゃあ頑張ってねと手を振って真希は店を出た。
「ちょっとちょっと」
雅人と真希のやり取りをカウンターから見ていた真理子は真希の姿が見えなくなったのを見計らって雅人を呼んだ。
「なんでもっと突っ込まないのよ」
「え? だってただご飯食べに来ただけだって……」
どう見てもごまかそうと必死だった真希の言葉を鵜呑みにしてしまう雅人の人の良さに、真理子は眉間を押さえた。
「あんたバカなの? ひとりで飯に来る訳ないでしょ」
真理子は時計を見て休憩時間まであと少しなのを確認して、雅人の頭をがっしり押さえて睨みつける。
「休憩早めに取るから、後よろしく」
そう言って、有無も言わさずバックヤードへ引っ込むとバッグを持って急いで店を出た。
きょとんとした雅人を尻目に、真理子は久しぶりに面白くなりそうだと、軽快に真希の後を追った。
*
ショッピングモール入口に戻ると、伊藤は真希が戻ってくるのを待っていた。どうやらすでに電話は終わっているようだ。
「お待たせしました」と声をかける。伊藤はコチラこそすみませんと頭を下げた。
どこに行こうか伊藤に訊ねると、越してきてから日が浅い事もありまだ詳しくないと言うので、真理子とよく話題に上るカフェに案内する事にした。
二階の奥まった場所にあるにもかかわらず、あたりに香ばしい香りを漂わせていて客足が途絶えないこの店は、コーヒーの味もさることながら、軽食も手が込んでいて真希のお気に入りだった。
注文を取りに来た店員にオススメのコーヒーとサンドイッチを注文する。伊藤も同じものを注文した。
「いい店ですね」伊藤は店内をぐるりと見回して、うんうんと頷いた。「雰囲気が良い」
お気に入りの店を褒められては、真希もまんざらでもない。
「この店にはよく来るんですか?」
「ええ、仕事終わりに。あ、あたしこのショッピングモールで働いてるんです」
そうなんですか。と伊藤は少し驚いた表情を見せた。
「あ、今あたしなんかにショップ店員は似合わないと思ったでしょ?」
「そんなこと無いですよ。いやぁ、奇遇だなぁと思って。実は僕もショップで働いてるんです」
「あ、そうなんですか?」思わず声が跳ねる。
「なんか似てますね、僕達」伊藤は頭を掻きながら困ったように笑った。
「おんなじ猫好きですしね」
「ですね」
注文したコーヒーとサンドイッチが届くと、伊藤はサンドイッチを一口つまんで頬を緩めた。
「おいしいですね、このサンドイッチ」
「でしょ? コーヒーにもよく合いますよね」
大きめのパンに挟まれたレタスが皿からはみ出るほど野菜たっぷりで、一つ注文するとそれだけで満足できるサイズなのに、コーヒーとセットでワンコインで済んでしまうのが嬉しいところだ。伊藤もこれでこの値段ですか、と目を丸くしていた。
「他のメニューも試してみたいですね」
「ホントはケーキもいきたいところですけど、太っちゃうからなぁ」
思わず出てしまった呟きに、伊藤は少しくらいなら大丈夫でしょう、とメニューを開いて迷わず店員を呼んだ。
「何がいいかな、チーズケーキ?」
「あ、ダメですって、あたし太りやすいんです」
注文を取りに来た店員を慌てて止める。
「たまには自分にご褒美もいいでしょう? 今日は朝から大変だったんだし」
「でも……」
「実は僕が食べたかったんです。でも一人で一個は多いので、よかったら半分こしましょう」
そこまで言われて断れるほど真希は自分に厳しくない。なにせここのチーズケーキは絶品なのだ。伊藤の言う通り自分へのご褒美として、仕事を頑張った時などに食べに来るくらい真希の中では特別なものだった。
どうするのか成り行きを見守っていた店員に、伊藤はチーズケーキをお願いしますと頭を下げた。
「太ったら伊藤さんのせいですからね」
真希が精いっぱい意地悪く笑ってみせると、伊藤は困ったように笑った。
結局絶品チーズケーキに舌鼓を打ってしまい、気分の良さも手伝って口が軽くなった真希の話は止まることなく、気がつくと随分時間が経っていた。どうにも自分ばっかり話をしていたような気がして申し訳なくなる。雰囲気が兄に似ているせいだろうか、伊藤と話をしているとどうでもいい事まで話してしまうような気がした。
「なんか、すいません。随分時間を取らせちゃいましたね」
いつの間にか店内には真希と伊藤の姿しかなく、二人きりだと思うと妙に気まずくなる。
「いえ、僕も今日は暇でしたから」
伊藤は穏やかに笑って、楽しかったですと言った。お世辞だとしても少し安心する。
「じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「はい、あ、ここはあたしが出しますからね? お礼なんだから」
真希が伝票を掴んで立ち上がると、伊藤はありがとうございますと頭を掻いた。
「でも、チーズケーキ代は僕が出しますね。太らせちゃったら責任取らなくちゃ」
「その時はいいダイエット方法を教えてくださいね」