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きまぐれスイッチ!  作者: usk
夏の思い出
5/8

5



 荷物の整理をしていた伊藤は、隣から聞こえた猫の声に思わず手を止めた。隣の女性が隠れて飼っている虎之助くんの姿を思い出して顔がほころぶ。


 引っ越し直後に迷い込んできたのは人懐っこい猫だった。いるはずもない三階のベランダに猫の姿を見つけた時は驚きもしたが、元々が猫好きの伊藤は迷うことなく部屋の中に引き入れた。

 野良猫だったら警戒して入ってこないかと思っていたが、恐る恐る中に入ってきた猫はずいぶん人に慣れていて、これはどこかで飼われている猫だとピンときた。そこで伊藤は隣をあたってみることにした。

 伊藤の部屋はアパートの奥から二番目なので両隣に可能性があったが、なんとなく伊藤は奥の部屋に住んでいる人だと確信していた。というのも、入居直後から猫の声は聴こえていたからだ。初めは外の野良猫が鳴いているのだと思ったが、それにしては妙に声が近くから聴こえる。左隣の部屋(奥から三番目)は小さい子供のいる家庭のようで、子供の声は聴こえるが、子供がいるなら猫の気配は名前なり、音なりですぐに分かる。となると、可能性は一番奥の部屋に絞られるというわけだ。

 迷い込んできた猫は伊藤が抱き上げると大人しく体を預けて喉を鳴らした。あまりの可愛さに思わず返すのを躊躇しそうになったが、ぐっと堪えてドアを開ける。通路に人の姿が無い事を確認して、伊藤は素早く隣の部屋のチャイムを押した。

 面識のない隣人の部屋のチャイムを押すのは少し勇気が必要だったが、これだけ大人しい猫の飼い主ならば悪い人ではないだろうと思った。はたして、伊藤の予想は的中し、慌ててドアを開けた隣人は一言目に猫の名前を呼んだ。随分慌てていたのだろう、部屋着のまま飛びだした女性は猫と一緒に見知らぬ男がいた事にドアを開けてから気付き、バツが悪そうに笑った。

 はっきりと年齢を聞いた訳ではないので分からないが恐らく同年代と思われる女性は片山と名乗った。第一印象は妙に親近感の湧く人だった。伊藤と同じ無類の猫好きなのだから、それもそのはずだった。


 また声がした。たぶんご飯の催促だ。ふと近所のコンビニエンスストアにいる野良猫を思い出した。ろくに食べられないのが野良猫の性とはいえ、あまりに痩せていたその猫を伊藤が放っておけるわけがなく、仕事帰りに毎日缶詰を買ってあげていた。おかげで最近は毛艶も良くなり健康的になってはきたが、反面、人に慣れ過ぎて自分から餌をもらいに来るようになってしまった。伊藤の帰りを待っているような姿を見ると、自分のしている事は間違っているのではないかとも思ってしまう。とはいえ、自分の帰りを待っている節のある猫を放っておけないのが伊藤である。葛藤しながら、それでも缶詰を買ってしまうのだ。

「片山さん、いないのかな?」

 時計をみて不意に心配になる。そろそろ午後十時になろうというのにまだ仕事が終わらないのだろうか? 飼い主がいなくては飼い猫はご飯も食べられずに待つしかないというのに。

 自分の飼い猫でもない猫の事を心配してしまう伊藤を、気の合う友人はよく「猫バカ」とからかった。自分でも猫に関してはバカだと自認しているから「猫バカ」の称号は甘んじて受けている。たとえ世界を敵に回しても自分だけは猫の味方でいようと心に決めていると言った時は、さすがに頭を抱えられたが。

 伊藤の猫好きは女性の好みにも影響していた。人付き合いがうまく、友人の多い伊藤は昔から異性にもてたが、決まって選ぶのはわがままで勝気な女性だった。伊藤自身は好きになった女性と付き合っているだけなのに、友人から言わせると「猫好きが猫を選んでいるだけ」らしい。わがままな女性に振り回されている自分に気付き、その事を納得したのはつい最近だった。


 しばらくして隣のドアが開く音がして猫の声が変わった。ようやく帰ってきたご主人さまに安心したのだろう。その甘えた声に伊藤も安心する。するとリビングで携帯が鳴った。


「あ、ごめんねこんな時間に。今大丈夫?」

「ん、どうした?」

 電話の主は伊藤と一緒に移動になった大野さおりだった。

「ちょっと相談したい事があって」

「なんだよ、改まって」

 さおりとは同期で入社当時から成績を競い合った仲だ。歳も同じで能力もほぼ同等となれば、お互いが意識し合うのは当然で、二人が付き合うようになったのは必然だったと言える。しかし、能力が同じなら反発しあうのも必然で、互いに競い合った仲はいつしか足の引っ張り合いになった。そんな状態でいい仕事ができるはずも無く、二人仲良くミスをして、二人仲良く飛ばされたという訳だ。

「伊藤くんは、店の近くに同業者がいる事知ってる?」

「ああ、『D‐SPORT』だろ?」

「今日、その店長が偵察に来たの」

 誰に聞かれる訳でもないのにさおりは声をひそめた。

「うちももうオープンして三カ月でしょ。そろそろ売上も落ちてきた頃にライバルに先手を打たれたらたまったもんじゃないわ」

「まぁ、確かに売り上げは落ちてきてるけどそんなに気にする事か?」

「伊藤くんは楽観的すぎるよ。あたしは早く本社に帰りたいの。その為にはここで『D‐SPORT』なんかに負けていられないんだから」

 相変わらずの向上心に苦笑する。飛ばされた事で二人の関係は修復されたが、捉え方は間逆だった。さおりは持ち前の向上心で本社復帰を切望し、伊藤は現状を受け入れた。元々田舎育ちの伊藤にはこの土地があっていたが、さおりは違うようだった。

「で? 僕に相談してどうするつもり?」

「悪いけど今のチーフなんかより伊藤くんの方がよっぽど頼りになるから相談してるんだけど?」

 対面していなくても声のトーンでムッとしたのが分かる。

「早めに手を打たないと、窮鼠に噛まれるからね」

「はいはい。僕の方も何か考えてみるよ」


 お願いね、と念を押してさおりは電話を切った。自分の言いたい事だけ言って満足するさおりを選んでいるあたり、異性に対する好みは幼い頃から変わっていないのだな、と痛感する。

 それにしても、いくら同業とはいえ『NEXT』の半分にも満たない規模の『D‐SPORT』まで偵察しているのだからさおりの仕事に対する取り組みには恐れ入る。――僕も見習うべきなのかな。と伊藤は天井を見上げた。


 隣の部屋からは相変わらず虎之助くんの甘えた鳴き声が聴こえていた。





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