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「こうくん?」
電話口で真希の母、幸子はとぼけた風でも無く真希の言った名前を繰り返した。頭の上に「?」を浮かべて首をかしげる様子が目に浮かぶ。
「そう、昔あたしが子供の頃仲の良かった男の子がいたじゃない」
真希がそう言うとまたしばらく黙る。
不意に思い出した懐かしい名前を母なら知っているかと思い、久しぶりに電話したのはほんの気まぐれだった。久しぶりに聞く母の声は相変わらず長閑でゆったりとしていた。全く変わらない雰囲気で安心する。
母のマイペースには慣れたもので、愛猫の虎之助が喉を鳴らす振動を膝の上に感じながら黙って待つ。すると忘れた頃に「あー……」と間延びした声が聴こえた。
「そう言えばいたね。確か、松本くんだったかしら」
「松本っていう名字だった? あたしあだ名しか思い出せなくてさぁ」
松本、松本、と頭の中で反芻してみるが、いまいちピンとこなかった。
「転校したんだよね。あれは確か――」
「あんたが十歳の時、だから小学校五年生の時だね」
いつもは会話のペースが遅い母が、この時だけは即答だったので真希は「おや?」と思った。
「あの時はあんたものすごい泣いてね。ヤダヤダって駄々こねて大変だったんだから」
「あら、そうだった?」
「あの頃のあんたはわがままでねぇ――」
自分の覚えていない子供時代の話を聞かされると妙に恥ずかしい。当時の自分は「こうくん」との別れをまるでこの世の終わりのように悲しんだのかもしれないが、今の真希にとっては思い出す事も困難なほど過去の話だ。今さら昔はこうだった、なんて言われても「ああ、そう」としか言いようが無かった。とはいえ、今回は自分で振った話なので多少の恥ずかしさは甘んじて受ける事にする。
「出発の日の朝、松本くんがお別れに来てくれた時も会いたくないってきかなくてね。結局最後のお別れも出来なかったのよねぇ」
そうだったっけ? 真希の記憶にはそんな場面は残っていなかったが、もしそうだとすると「こうくん」には悪い事をしてしまったなと、今さら軽い罪悪感を覚えた。
「でも、どうして急にそんな事訊くの?」
「別に、ただちょっと思い出しただけだって」
真希の言葉に嘘は無かった。ただ本当にほんの少し気になった程度の事で、今さら彼の名前を知ったところで何をどうするわけでもないし、たぶんまたすぐに忘れてしまうだろう。母が彼の名前を知っていても、知らなくても、これをきっかけに母の声を聞きたかっただけかもしれない。そう思って真希は伊藤の言葉を思い出した。
確かに、きっかけが無いと親にも電話しないんだから救いようがないわ。
「あんた、仕事忙しいのかもしれないけどたまにはコッチにも帰ってきなさいよ。お兄ちゃんも心配してるわよ」
「はいはい」
また始まったか、と母に聞こえないように小さくため息を漏らす。
隣から何かが倒れるような音と共に伊藤の大きな声が聴こえて、膝の上で落ち着いていた虎之助が顔を上げた。まだ片付かないと言っていた荷物が倒れたのだろうか、渋々崩れた段ボールを直す伊藤の姿を思い浮かべて笑いが込み上げた。あくまで真希の想像でしかないが。
スマートフォンの向こうでは、まだ母がいつ帰ってくるのか訊いていた。
*
「で、いつ帰ってくるの?」
昼間の暑いさなか、客足が遠のいた店内にお客様の姿が無いのをいい事に、スタッフルームに引っ込み事務作業をしていた真理子が、部屋を出ようとする二人に向かって訊ねた。
「え?」
「え? じゃなくて。『NEXT』に行くのは分かったから、何時に帰ってくるの?」
「さぁ? 何時になるかはわからないよ」
真希はちらりと後ろを見る。真希の後ろには行く気満々の酒井がドアノブを掴んだまま待機していた。
「まぁ、別に帰ってこなくてもいいけどね。店閉めるのなんて、わたしと雅人だけで出来るし」
「その時はお願いね」
「はいよ。なんだったら二人で食事にでも行ってきたら?」
パソコン画面を見ながらのその言葉は、付き合いの長い真希には冗談だと分かったが、背後の大男はそうは思わなかったらしい。「はい」と頭の上から快活な返事が聴こえて、真希は思わず肩をすくめた。
「お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
予想外の返事にはさすがの真理子も顔を上げて酒井を見上げた。この男には冗談が通じないのか? と目で真希に訴えかける。どうやらそうみたいだ、と真希も無言で答えた。
じゃあ後お願いね、とドアを開ける。酒井が先に部屋を出たのを見計らって真理子は真希を呼び止めた。
「あんた、大丈夫?」
「え?」
「あれだけ行きたくないって言ってたのに、急じゃない。あの大男に何言われたのか知らないけど、あんたの事だから負けて帰ってくるんじゃないかと思ってさ」
いつになく真剣な眼差しの真理子は少し苛立っているように見えた。
「なに言ってんの、大丈夫に決まってるでしょ」
伊藤と話したことで行ってみようと思い立ったものの、正直行くのは恐かった。きっかけは酒井の言葉じゃなかったけど、大筋で真理子には見抜かれていたらしい。
「わたしに言わせれば、こんなの勝ち負けじゃないんだけどね。でも、あんたは負けず嫌いの癖に気が弱いから行ったら勝てない相手にきっと飲まれて帰ってくる」
「でも行かないと」
「行くなって言ってるんじゃないよ。行くんだったら負けて帰ってくるなって言ってんの」
「うん、ありがと。行ってくるね」
気の合う同僚に笑顔を残して真希は部屋を出た。
「あんたやっぱり分かってないよ。ものの見かたを変えないと行っても何も変わらないのに」
手のかかる戦友を見送って真理子はパソコンに向き直り、さて、どうするかと腕を組んだ。
敵地までの移動はあっという間だった。酒井の運転がスムーズだった事や、平日で道が空いていた事を差っ引いてもほんの十分弱で到着すると、改めてなんて近いんだろうと思わされる。
「さぁ、行きましょうか」と、一人足早に入口へと歩いて行く酒井とは対照的に、真希は圧倒的に巨大な店舗に早くも気おされていた。
およそスポーツ用品店とは思えない大きさの店舗は、真希の勤めるショッピングモールと比較しても遜色がないように思えた。一店舗で、この大きさなのだ。もちろん、店内には大手ファストフード店などが出店しているし、雅人が「店内にボルダリング教室がありました」と言っていた事から、その全てが売り場ではないが、それにしたって大きすぎる。
真希は無意識に昔読んだドン・キホーテの物語を思い出していた。
あの小説で主人公のドン・キホーテは大きな風車を巨人と思い込み突撃し、あっけなく吹き飛ばされて野原を転がった。それを読んだ時はただバカみたいな物語を純粋に楽しんでいたが、今は自分が主人公になったような気分だった。
巨大な店舗を前に、ドン・キホーテのように無鉄砲な突撃をする勇気なんてあたしにあるわけない。ようやく奮い立たせた気持ちがみるみるしぼんでいくのを感じた。
片山さん、と名前を呼ばれてようやく我に帰る。見ると酒井が入り口前で手を振っていたので慌てて入口へ向かうが、この時すでに真希はだいぶ気勢をそがれていた。
店内に入ると、まず天井の高さに驚いた。ゆうに4~5メートルはあるだろうか、視界が広く、商品の多さが全く気にならない。天井近くの棚にはそれぞれ各スポーツのディスプレイが施されていてどこに何があるのか一目瞭然だった。
いらっしゃいませの声と共に一人のスタッフが近づいてきた。ネームプレートを見ると名前の上に「コンシェルジュ」と明記されている。
「本日は何をお探しですか?」
「あぁ、ちょっと見に来ただけですから、お気になさらずに」
酒井がそう言うとスタッフは「かしこまりました、どうぞごゆっくり」と丁寧にお辞儀をした。そしてまた別のお客様に声をかける。あのスタッフはお客様の案内を専門にやっているのだと分かると真希は呆然とした。これだけ広い店舗だとコンシェルジュが必要になってくるのか。
「まずはざっと店内を見て回りますか」
酒井はそんな事にはまるで頓着ない様子で、どっちから行こうかな、と左右を見渡した。
分かっていた事だが、アイテム数では勝負にならなかった。
例えばポピュラーな所で言うと、サッカー。『D‐SPORT』で扱っているのはせいぜいボール、シューズとウェア、それとグローブが少々。それがここにはそれらのほかに、各チームのレプリカユニフォームやアンダーウェア、有名選手のファンアイテムやバッグなど広いスペースを取ってこれ見よがしに置いてある。この規模で様々なスポーツの専門用品が売られているのだ。
それに、商品が多いという事は幅広い年代層をカバーしているという事でもある。ジョギングウェアなどは年配向けの色の物が多数見受けられた。それもディスプレイがしっかりしているからお客様も迷わずに選びやすい。シューズなどはその最たるものだ。
トレーニング器具の充実も圧巻だった。ダンベルなどの簡単なものから、ベンチプレスのような大掛かりなものまで置いてある。スポーツに関連する物はほぼ全て取り揃えてあると言っても過言ではないのではないか。
しかも全体的に決して高いわけでもない。価格で競争しても圧勝は難しいか。『D‐SPORT』で設定出来る最低のラインでようやく、といったところだ。また、さらりと置いてあるプレミア品や価格の高い物が心憎い。高級志向のお客様も満足できる品揃えだ。くやしいけど、うちでは売れなくてもここなら売れるかと思わされてしまう。
しかし、真希が一番驚いたのはスタッフの質の高さだった。各カテゴリーに専門スタッフが当たり前のように付いていて、お客様の要望に対応しているのはもちろんの事、店内スタッフも新店舗とは思えないほど商品を熟知していた。よほど研修がしっかりしているのだろう、これならよほどの事が無い限りお客様を待たせる時間は最短で済むはずだ。真理子の言う通り背の高いスタッフが多いのは置いても、スタッフ全員に活気があった。
お客様はバカではない。いくら大手でも商品の質が悪ければ客は入らないし、質が良くても値段が高ければ誰も買わない。そしていくら商品の質が良く、値段が手ごろでもスタッフの接客が悪ければリピートしてくれない。商品の質、そしてスタッフの質。この二つが揃って初めてお店は機能する。そう意味で言えば『NEXT』はその両方が最高品質だった。
ようやくもう一度入口にたどり着いた頃には、すっかり意気消沈していた。何を見ても、どれをとっても、勝てる要素が見つからない。たった一度店を一周しただけなのにどっと疲れが押し寄せてくる。真理子の言った通り、真希は飲まれかけていた。
しかし酒井は逆だった。店内を見ていくつかの欠点を確信していた。今まで営業で全国の『NEXT』を渡り歩いてきた酒井だからこその確信だった。まだやれることはある。その為には横で肩を落としている頼りないパートナーをやる気にしなければいけない。
「片山さん、見ましたか?」
入口まで戻ってきたところで、酒井は小声で真希に話しかけた。
「各カテゴリーの売り場に、うちの商品が少なくとも必ず入っています」
「ええ」
その事には真希も気付いていた。一応自社商品の事は熟知しているつもりだ、見逃すはずがない。
「これは、チャンスですよ。自画自賛するわけじゃありませんが、うちの商品は低年齢層に人気です」
「確かに自社商品だけを見れば、うちの方が多少安く設定してありますけど……」
「いや、まだ下げられるはずです。その辺りは本社と相談になりますけど、うちの武器は掛率です。これは絶対に『NEXT』はうちには敵わない。低年齢層向けの商品を買うのは親御さん、特に母親が多いでしょう? すぐダメにしてしまう物なんかはなるべく安く済ませたいはずです」
なるほど、と真希は首肯する。
確かに、スポーツをやっている子供には道具を買ってあげなければいけない。それも、練習量に比例して道具の痛みは早くなる。真希もバスケットに打ち込んでいた頃はシューズが平均半年持たなかった。子供心に母親に「シューズがダメになった」というのが辛かった思い出がある。
「この近くに学校はありますか?」
突然の質問に真希は目を丸くした。確か近隣に小学校と中学校があったはずだと、頷く。
「やっぱり。この辺りって住宅地が多いじゃないですか。って事は必然的に子供の数も多いはずです。となると、主力商品は低年齢層向けの商品になります」
「要するに、うちの商品ですか?」
酒井はゆっくり頷く。真希の目に少しだけ光が戻ってきたのを確認して、白い歯を見せる。
「そうなると、これだけ距離が近いのは逆に都合がいい」
「より値段の安い商品が近くにあるなら、そっちの方がいいですよね」
「それに、親目線で見るなら商品が多すぎるのも考えものです。商品が多いとどうしても目移りしちゃいますから」
「シューズを買いに来たのに、アレもコレもじゃ困っちゃいますものね」
ようやく頼りなかったパートナーの顔に笑顔が戻ってきた。もうひと押しかな、と酒井は「行きますか」と言った。
「それを踏まえて、もう一度回ってみましょう」
*
店を出ると空はすっかり夜の色が強くなっていた。店内を見ているうちに随分と時間が経っていたようだ。それでも、駐車場は真希たちが来たときよりも車の数が多かった。さすがは天下の『NEXT』といったところか、恐らく閉店間際まで客足が遠のく事は無いのだろう。
広い駐車場を見渡してホッとため息が漏れた。それは決して悲観的なため息じゃなかった。
真希よりも少し遅れて出てきた酒井は真希の背中が伸びている事にホッとした。なんとかやる気を取り戻してくれたようだ。
「お待たせしました」
背後から声をかけられて振り向く。店を出る前に「先に行ってて下さい」と店内に消えたけど、何をしていたんだろう?
「どうですか? 少し希望が見えてきたんじゃないでしょうか」
「どうでしょう。見えたとしてもまだほんの少しのような気がします」
「ほんの少しでも見えたならそれでいいじゃないですか。後はやってみればいい」
この男はどうしてそう前向きなのだろうと、酒井の自信に満ちた顔を見上げ首をかしげる。
「オレが思うに、片山さんは気持ちで負けてるだけなんです。あの店は片山さんが店長でオープンから三年ずっと黒字だったじゃないですか。それは、間違いなく片山さんの実力です」
不意に酒井の目が真希の目を捕えて思わずドキリとさせられた。そう言えばこうして見下ろされるのは随分久しぶりかも。
「頑張りましょう。片山さんならきっと黒字に出来るはずです」
この男は昔の青春ドラマに出て来る先生みたいだな、と眉が下がる。くさいセリフを恥ずかしげも無く言う酒井に真希の方が恥ずかしくなったが、自分の実力を認めて、信じてもらえるのは悪い気はしなかった。
「あ、ところで飯どうします?」
「え?」
残念ながら冗談が通じないのは冗談じゃなかったようだ。
改めて食事の誘いはきっぱり断り、真希は店に戻ろうか逡巡したがやはり今日は直帰する事にした。酒井は少し不満げだったがそこは敢えて無視する。二人だけで食事をするほど親密にもなっていないし、また親密になる予定もない。
じゃあ、せめて送ります。と酒井は助手席のドアを開けた。さすがにこの申し出は断れなかった。これまで断ってしまうと酒井のプライドを傷つけてしまうと思い、ならアパート近くのコンビニエンスストアまで送ってもらう事にした。――まぁ、すぐそこだけど。
「ホントにここでいいんですか?」
ショッピングモールの見える位置に駐車して酒井は目を白黒させた。
「今日はありがとうございました。その、色々と」
お礼を言って車を降りる。何か言いたげな酒井の顔がちらりと見えたが、真希はゆっくりと運転席側にまわってもう一度頭を下げた。
「お疲れさまでした。これからも私達の店をよろしくお願いしますね」
「あ、はい、もちろんです。頑張って黒字に戻しましょうね」
どこか腑に落ちないような顔をしながら酒井はそれでもなんとか口角を上げた。
駐車場を出る酒井を見送って、真希はよし、と小さく気合を入れた。
敵の存在がいかに大きくとも、やれることがあると分かった以上、あとはやってみるしかない。真理子の言った通り飲みこまれそうになったけど、酒井のおかげでなんとか持ち直した。さすがに実績を上げているだけあって状況判断は的確だった。あの冷静な判断力は見習わなくては、と小さく握りこぶしを作る。
すると間延びした声と共に足元にここを根城にしている野良猫がすり寄ってきた。お腹をすかせているのかと思いしゃがんでみると、どうやらそうでもないらしい。お腹も膨れているし、以前よりも毛のツヤもよく見えた。
「お前、最近元気だね」頭をなでてやると、機嫌良さそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
以前はこんな風に撫でてやる事も出来ないほど人を警戒していたが、どうも最近は人に慣れてきたらしい。チラリと目をやるとその原因の名残が見えた。駐車場の隅に空けたばかりと思われる猫缶が置いてある。おそらく伊藤のものだろう。中身はすでに空っぽだった。
以前見た駐車場の隅でこっそりと猫にご飯を上げている伊藤の姿を思い出して、真希は目を細めた。
「よかったね、いいひとが来てくれて」
真希の言葉に答えるかのように、野良猫は幸せそうにゴロンと体を横たえた。
「あたしも頑張らなきゃね」
野良猫のお腹を撫でながら真希はそう呟いた。




