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その日早上がりの真希がスタッフルームで帰り支度をしていると、ドアをノックして酒井が入ってきた。前日あれだけ飲んだというのにお酒を一切残した様子もない大男は、真希を見つけるといっそ清々しいほどの笑顔でお疲れ様ですと言った。
「今日はもうお帰りですか?」
この男はどういう体の構造をしているのだろう? 雅人なんかは明らかに二日酔いでぐったりしていたというのに。
「オレの顔に何かついてます?」
まじまじと見つめる視線をくすぐったそうにして、酒井は顔を触った。
「あ、いえ、ごめんなさい」空笑いを浮かべて目をそらす。別に深い意味があって見ていた訳じゃありませんから。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず――っていうことわざがありますよね」
「は?」
何の脈絡も無く酒井の口から突然出た意味不明な言葉に、真希は小首を傾げた。
「あれ、知りません?」
「いえ、言葉は知ってますけど」
「この言葉通りです。聞けば片山さんはまだ『NEXT』に行っていないそうですね。片山さんは店長だし、この店の事は誰よりも知っている。つまり己の事は熟知していますよね。なら敵――『NEXT』の事を知れば赤字を打開する対策も取れるはずです」
そこまで聞いて真希はこの男が何を言いたいのかようやく分かった。
「片山さん、『NEXT』に行きましょう。オレも一緒に行きますから」
「あー……」
正直行きたくなかった。ヤツがオープンしてもうすぐ三カ月経つのに、未だに行っていない理由は言ってしまえば、負けを認めてしまう事が恐かったからだ。自分が勝てるわけないと諦めてしまえば、スタッフを鼓舞することなど出来るはずも無くなってしまう。
「あの――」
断ろうと口を開くと酒井は「じゃあ、考えておいてください」と言いたい事だけ言って返事も聞かず出て行ってしまった。
「行きたくないんですけど――」
閉まったドアを睨んで小声で呟く。返事を聞く前に出て行ってしまうとは勝手な奴だと腹立たしくなる。ただ、断られると分かっているなら正しい判断だと思う。そう考えてしまう自分にもう一度腹が立った。
外に出るとセミの鳴き声が耳についた。時刻は午後六時を回っていたが、夕日はまだ空に掴まってショッピングモール全体を茜色に染めている。暑さは若干和らいでいるはずなのに、一歩外に出ただけで額から汗が出て来るようだった。
けど、こういう時歩いて通える距離はありがたいなと真希は思った。『NEXT』の事を考えると気が重くなったが、顔を上げて、夕暮れの街を歩いているだけで少し気分が軽くなる。何かと物事を考え込む癖はいつまでたっても直らないが、歳を重ねれば対処法だけは色々と覚える。真希にとって歩く事もその一つだった。
大通りを渡り住宅地に入ると、遠くから微かに祭囃子の練習の音が聴こえてきた。そうか、もうすぐ夏祭りだっけ。
子供たちが練習しているのだろう。決して上手ではない祭囃子をぼんやりと聴きながら、不意に思い出したのは普段なら絶対引っ張り出さないような記憶だった。
あれは真希がまだ小学生だった頃、当時体が弱く病気がちだった真希は仲の良かった男の子に誘われて一度だけ夏祭りに参加した事があった。
男の子に連れられて小さな集会場を利用した練習場に行くと、同年代の子供たちや、少し年上のお兄さん、お姉さん、そしてそれらを指導している大人たちと、狭い室内に人がごった返していて真希は目を回した。
真希を誘った男の子は毎年参加していて、周りの大人たちとも顔見知りだったが、当時の真希は引っ込み思案で極度の人見知りだったので、練習場に着いて早々帰りたくなっていた。それでも、男の子にばちを渡され太鼓を叩いてみると自分で叩く太鼓のリズムに心が躍った。隣に男の子がずっと付いていてくれた事も大きかった。彼が常に真希の事を気にしてくれていたから、その後も真希は練習にも通えたし、無事お祭りに参加する事も出来た。
そう言えば、アレが最初で最後のお祭りだったな。
あの後男の子はすぐに転校してしまって、翌年から真希はお祭りには参加しなかった。彼のいないお祭りには参加する気になれなかったのだ。
「あれ? あの子、なんて名前だったっけ」
「あ、片山さん。今お帰りですか」
思い出せない名前を必死に考えながら歩いていると、アパート近くの公園から声をかけられた。見ると伊藤が「どうも」と手を上げている。
「今日は随分早いんですね」
「あ、はい。今日は早上がりだったもので。あの、何をしてるんですか?」
「いやぁ、祭囃子が聴こえたもので見に行こうとしたら道に迷ってしまいまして。慣れない街を歩き回るものじゃありませんね。汗をかいたのでそこの水場でタオルを濡らしてました」
あはは、と笑う伊藤につられて真希も笑顔になる。
「あれ、まだ練習ですよ」
「あ、道理でいくら探しても見つからないわけだ」
「お疲れ様です」
伊藤は近くの自販機から缶コーヒーを買ってきて、一本を真希に手渡した。元々なかったのか、取り払ってしまったのか、公園内にベンチは無かったが、子供用の鉄棒は真希の腰の高さとほぼ同じで、寄りかかるのに丁度良かった。
お礼を言って缶コーヒーを受け取ると、伊藤も缶コーヒーを開けながら真希の横に並ぶ。
「伊藤さんは今日お休みだったんですか?」
「ええ。休みの内になるべく部屋を片付けちゃおうと思って朝から奮闘したんですけど、まだまだ終わりそうにありません」
困ったように笑う伊藤を見て、なぜだか心が和んだ。なぜだろうと思い返すと、困ったように笑うその仕草が兄に似ていた。伊藤を見かけるとなぜだか話をしたくなるのも、きっとそのせいで勝手な親近感を感じているのかもしれない。
「まだ半分以上は開けてない荷物が残ってますし、もうしばらくはソファがベッド代わりの生活が続きそうです」
まぁ、こうして見ると体格も顔も警察官をしている兄とは似ても似つかないけど。と真希は伊藤に気付かれないように小さく笑った。
「一人ではなかなか進みませんよね。友達とか家族が手伝ってくれると早いんですけどね」
「恥ずかしながらまだこっちに友達がいないもので。まさか部屋の片付けの為だけに神奈川から友達を呼ぶ訳にもいきませんしね」
「あ、伊藤さんの地元は神奈川なんですね」
何気なく訊いた質問に、伊藤は「あぁ、」と曖昧な返事をした。
「地元っていうか、まぁ、そうですね。神奈川には長く住んでました」
はっきり地元と言わずに言葉を濁したのが少し気になったが、すぐに伊藤が「ここは」と言ったので頭に浮かんだ疑問は形になる前に消えてしまった。
「ここはいい所ですね。僕が住んでた街に似てます」
「そうなんですか? この辺田舎ですよ。ちょっと行くと周りは田んぼだし、セミはうるさいし。って、まだここに来て三年のあたしが言っちゃ悪いか」
今まで静かだった公園内に突然降ってわいたようにセミの鳴き声が響き渡った。まるで「田舎で悪いか」とセミの怒りを買ったような気がして、内心でごめんねと謝ってみる。キミたちの鳴き声は案外嫌いじゃないよ、と。
「僕が住んでた所も夏になるとセミの大合唱でしたよ。ずっと田舎で育ってきたから未だに田舎が好きなんですね、きっと」
「あら、意外と田舎者?」
「ええ、それも筋金入りのです」
そう言ってにっこりと笑うと、伊藤は園内をぐるりと見渡し、公園に入るのなんて何年振りだろう。と小さく呟いた。
「大人になると毎日が同じことの繰り返しで、何かきっかけが無いと何事も始めるのが億劫じゃないですか。今日だって祭囃子が聴こえなかったら、道に迷わなかったら、暑くなかったら、絶対にこの公園にも入らなかったと思うんです」
「そうですね」
真希も園内を見渡す。確かに、近くのアパートに部屋を借りて以来三年もこの公園の前を毎日のように通っていたのに入ろうとは思わなかった。今日も偶然伊藤に会わなければそのまま素通りしていたはずだ。
「子供の頃はきっかけなんてなくてもやりたい事とかやれてたはずなのに、どうして大人になると出来なくなっちゃうんでしょうね」
独り言のように呟いて、伊藤は「あ、すいません」と頭を掻いた。
「何言っちゃってるんでしょうね僕は、なんか祭囃子を聴いたら昔を思い出しちゃって。恥ずかしい事言ってますね」と困ったように笑う。
「そんな事ないですよ」
確かに、人によっては「何言ってんだ、コイツ」と笑うかもしれない。けれど、真希はそうは思わなかった。むしろ、自分の事をズバリ言い当てられたような気がしていた。
あれこれと考えばかりが凝り固まって『NEXT』に行く事が出来なかった自分は、負けを認めるのが怖いと言い訳をして逃げてばかりで、行こうと思うきっかけを作ることすら避けていた。
「あたしも、そう思います」そう呟いて、真希は目を落とした。
伊藤の言う通り、きっかけが無い事を理由にして努力する事を諦めてしまっているのかもしれない。行きたくない理由はいくらでも思いつくのに、行く理由を考えようともしなかった事に今さらながら気付かされた。
時間にするとほんの数秒。二人の間に短い沈黙が流れると、真希は急に恥ずかしくなった。突発的な反省から我に返って伊藤を見ると、伊藤も同様にばつの悪そうな顔をしていて、思わず吹きだした。まさに「何言ってんだ、コイツ」状態だ。
「一体何の話をしてるんでしょうね」
「伊藤さんが振ったんじゃないですか」
「僕、子供の頃砂場遊びが好きだったんです」
鉄棒脇にある小さな砂場に目をやって、伊藤はわざとらしく明るい声を出した。
「あ、あたしも好きでした」
真希も努めて明るい声を出す。
「幼馴染の子とよく一緒に日が暮れるまで砂場遊びをしてました」
「子供の頃ってずっとおんなじ遊びでも全然飽きなかったですよね」
砂場に山を作ってトンネルを掘る。今にして思えば何が楽しかったのか解らないけど、当時は両側から掘り進めたトンネルが開通しただけで楽しかった。そう言えば、あの仲の良かった男の子とも、小さい頃はよく砂場遊びをしていたっけ。
「思い切って砂場遊びしますか? 誰かが忘れて行ったバケツもありますし」と、伊藤は砂場の横に転がったピンクの小さなバケツを指差して子供のように笑った。
「まさか」真希は目を丸くする。
「大の大人が二人で砂場遊びなんてしてたら近所中の噂になっちゃいますよ」
「変質者が出るからって、この公園が封鎖されたりして?」
「それに、三十近くにもなってそんな事出来ません」
「ですね」
思いがけず自分で年齢をばらしてしまい、真希はハッとしたが、ちらりと伊藤を見ると特に気にした様子もなかったので、まぁいいかと頬を緩めた。さっきの恥ずかしさに比べれば、歳がばれたところでどうという事もない。
必死に空に掴まっていた太陽が一日の役目をようやく終わらせようとしていた。代わりに月が昇り始め、段々と辺りが暗くなっていく。腕時計の針は午後7時半を指していた。
「さて」と伊藤は鉄棒から腰を離して「帰りますか」と言った。
「虎之助くんがお腹をすかせて待ってますよ。きっと」
「はい、帰ってご飯あげないと」
真希も寄りかかっていた鉄棒から身を起こす。不思議と体が軽いような気がした。
公園を出る際、あれだけ考えても思い出せなかった男の子の名前が不意にポロリと落ちてきた。同時にぼんやりとしか思い出せなかった古い記憶の断片が鮮明に蘇る。その全ての場面で真希は男の子の事を「こうくん」と呼んでいた。