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あれ以来、伊藤とは顔を合わせるたび少し話をするようになった。と言っても話題は猫の事だけなので、歳はいくつなのか、仕事は何をしているのかなどのプライベートな事は一切話さなかった。伊藤の口から出たのはせいぜい「今忙しくてなかなか部屋を片付ける時間が取れません」という言葉くらいだった。
それに話をするようになったとは言え、真希もそこまで伊藤に興味があった訳ではない。たまたま隣人に猫を飼っている事がばれ、たまたまその隣人が猫好きだったというだけの話で、だからといって仲良くなろうなどとは思わなかった。
それでも、朝の「おはよう」と夜の「お帰りなさい」を何日かに一回でも誰かに言ってもらうのは真希の心を少しだけ晴れやかにするものだった。
「昨日『NEXT』行ったんだけどさぁ」
そんな晴れやかな気分を一言で台無しにしたのは真理子だった。
「めちゃくちゃわたし好みの男がいてさ、店員で。なんかがっかりしちゃった。何でうちには雅人みたいなちんちくりんしかいないわけ? 不公平じゃない。あっちは超大型店でイケメン豊富。対してこっちはBランクの上、男と言えばちんちくりん……はぁ、モチベ上がんね」
そう言って真理子はカウンターに突っ伏した。さりげなく後ろで聴いていた雅人が、さりげなくうなだれているのが見えたが、真希は見えないふりをした。
同性の真希から見ても身長の低い真理子は無い物ねだりなのか、身長の高い男性を好む傾向があった。その真理子から言わせると真希よりも少し小さい雅人はいくら顔立ちが良くとも、ちんちくりんと言うわけだ。
「大体さぁ、スポーツ用品店なのにいい男がいないってどういう事よ。普通何かしらスポーツやってれば背も伸びるってもんでしょ? サッカー選手だかなんだか知らないけど背の低い男なんか――」
「まぁまぁ、真理子の言いたい事は分かったから」
とうとうと始まった真理子の自論をこれ以上展開させては、後ろで小さくなっている雅人が立ち直れなくなってしまうと思い、慌てて止めに入る。真理子が意図的に言ったのかどうかは知らないが、まさに雅人はサッカー経験者で背が低いという条件にぴったり一致していた。
ちらりと見ると、雅人は今にも泣きそうな顔をしていたが、今回は天災だと思って諦めてもらうしかない。
「でもさ、一人だけ『NEXT』にも背の低い男がいてさ、なんか妙に可哀想になっちゃった。回りのみんな大きいのに一人だけ頭一つ小さいの」
言いながら真理子は思い出し笑いを堪え切れず「くっくっく」と声を殺して笑った。
「そんなこと言って、あんた確か職場内恋愛否定派じゃなかった?」
「目の保養と恋愛は別物だって。働いて疲れても、目の保養があるのと無いのでは感じる疲れが違うってものでしょ」
「おっさんか」
脱力気味に突っ込む。
「っていうか遅くない? 今日から来る予定の新しい売り場営業担当」
「そう言えばそうね。道にでも迷ってるのかな?」
ヤツがオープンして以来赤字続きの店を危惧して、本社が取った対策は自社ブランド強化のための売り場営業担当を寄越す事だった。
自社ブランドの強化に一体どれほどの効果があるのか真希はあえて本社に問う事はしなかった。正直それほど期待はしていないが、何もしないよりはいい。
「あの、すみません」と声をかけられたのは、午後になり相変わらずガランとした店内を巡回している最中だったので、真希は「はい」と一段上の声を出して満面の営業スマイルで振り返った。すると、声をかけてきたのはお客様ではなく、スーツを着た長身の男性だった。
「初めまして。わたくし本日からコチラで売り場営業を担当いたします、酒井と申します」
スーツの男性はまっすぐ真希を見つめ丁寧に挨拶をすると、店長さんはどちらにおられますか? と訊ねた。
あ、この人が新しい売り場営業さんか、と男性をしげしげと眺める。長身の真希と比べても頭一つ大きかった。典型的な体育会系男子、それも長身の爽やか系とくれば、先ほどの話ではないが真理子が食いつくだろうな、などと考えつつ真希は苦笑を堪え切れなかった。
「わたくしが店長の片山と申します」
「あ、これは失礼しました。予期せぬ事故で電車が遅れてしまい、到着が遅れてしまいました事をお詫びします」
「いえ、構いません。それでは今日居るスタッフに紹介しますので少々お待ち下さい」
真希がそう言うと、酒井は「はい」と良く通る声で快活に返事をした。打てば響くような返事というのだろうか、スタッフを集めて戻ってくると行儀よくお辞儀をする。まさに体育会系。礼儀のしっかりしたその姿を見て、案の定真理子の目が光ったのを真希は見逃さなかった。
朝にあれだけ不満を言っていた真理子がこの機会を逃すわけも無く、酒井さんの歓迎会をしようと言いだした時も、真希は別段驚く事も無かった。ただ、閉店時間の午後十一時以降に急に行って入れる店があるのかどうかが問題だったが、真理子曰く「電話しとけば余裕」とのことで、営業時間内にも関わらず悪びれる様子も無く居酒屋に予約の電話を入れていた。
乾杯の号令と共に酒井は最初の一杯を一気に飲み干した。豪快な飲みっぷりに周りから拍手が巻き起こる。
「酒井さんってお酒強いんですか?」
しっかりと隣をキープした真理子の質問に酒井は大きな口を真横に広げ、「ええ」と真っ白な歯を見せた。
「大学時代に先輩方に鍛えられました。おかげで今でもザルです」
和やかに始まった歓迎会は、主役の酒井に質問が集中した。その全てに酒井は丁寧に答える。
本社が送り込んできた秘密兵器の名前は酒井敏明。年齢は真希や真理子よりも四つ年上の三十三歳。「学生時代はずっとラグビーをやっていました。今はフットサルで多少汗を流す程度ですけど」との事。道理でガタイがいいわけだ。
誰かが訊いた「彼女はいるんですか?」の質問には、頭を掻きながら「いえ、恥ずかしながらこの四年ほど一人ぼっちです」とその時だけは苦笑いを露わにしたものの、酒井が恥ずかしそうにしたのはその質問だけで、他の質問には堂々と答えた。中でも仕事に関してはよほど自信があるのか、入社以来売り場営業一筋で過去それなりの結果を残している。と酒井は豪語した。
自信満々に言うだけあって、酒井は口が達者だった。みんなからの質問に答えつつ、一人で一方的に喋らないように自らも質問を返す。あるいは場の支配に慣れているのか歓迎会は酒井のリードで進んで行った。
「片山さんは学生時代何をされてたんですか?」
みんなのやり取りを一人黙って見ていた真希は、不意をつかれた質問に思わず「ん?」と素で返していた。
「スポーツは何かされてたんですか?」
「あ、あたしは中学、高校と6年間バスケットをしてました」
「なるほど」
酒井は満面の笑みを浮かべて道理で、と大きく頷いた。
「道理で背が高くていらっしゃる。今でも何かやられるんですか?」
「いえ、今は特には……」
そう答えながら、真希は内心でため息を吐いた。酒井に悪気は無いのだろうが、真希にとって身長の話題は気の重いモノだった。
自分の身長が真希には最大のコンプレックスだった。この身長のせいで学生時代は恋愛の対象としての格付けはいつもランク外で、全くと言っていいほどもてなかった。よしんば告白されたとしても自分よりも高身長の男子バスケ部員や、異常にガタイの良い柔道部員やラグビー部員。真希の好みとは程遠い男たちばかりだった。
幼馴染の親友に「選り好みしている場合じゃないでしょ」と叱られ、妥協して付き合ったこともあった。「付き合っていくうちにだんだん好きになっていくから」と親友が言っていた通り、付き合っているうちに段々と愛情に似た感情は湧いてきたが、妥協で始めた恋愛が長続きするはずも無く真希の恋愛はいつも短いモノだった。
「いくつになっても体を動かすのは気持ちいいですよ。今度一緒にフットサルに行きませんか?」
「フットサルですか? あたしやったことありませんよ」
「そんなに難しいモノでもありませんよ。なんだったらバスケでも構いません。こう見えて僕もなかなかやるんですよ」
そう言って酒井はシュートを打つマネをした。
「いえ、あたしは――」
「片山さんを狙っても無駄ですよぉ」
端の方から急に割り込んできたのは雅人だった。
「片山さんの好みは、優しくて、気が弱くて、背の低い男性ですから」わざわざ背の低いという部分を強調して、雅人は「ね、片山さん」と得意げな笑みを浮かべた。
いつもなら「殴るぞてめぇ」と怒る所だが、酒井のいる手前そんな訳にもいかず、真希は曖昧な表情を浮かべるしかない。
「なるほど。それは残念です」と、言った酒井は言葉とは裏腹に残念そうな顔をしていなかった。
「フットサルだったら俺が付き合いますよ。こう見えても俺、インハイ経験者ですから」
そう言って雅人は満タンにビールの入ったジョッキを一気に煽った。確かあんまりお酒に強くないはずの雅人にしては思い切った行動のように思えた。
「なるほど。それは手ごわそうですね」と酒井は張り合うわけでもなく、事もなげにジョッキを空けた。
酒井の歓迎会は明日も店があるから、と言う理由で二時間を待たずに終わった。それでも自分でザルだと言っていた酒井は一人間を開けず飲み続け、短い時間に十杯近くは飲んでいたが。
居酒屋の前で電車組と歩き組みに別れる。と言っても歩き組は真希と雅人だけで残りは全て電車組だ。「お疲れ様」と手を振ると「お疲れさまでした」と酒井は腰を直角に曲げた。
ほろ酔い気分で深夜の街を歩く。夜とは言え熱帯夜のため、歩いているとじっとりと汗をかいたが、静かな街並みをゆっくり歩くのは気持ちが良かった。
雅人も黙って隣を歩いていた。若干飲み過ぎたのか足元が少しふらついている。少し心配になった真希は手を貸そうとしたが、大丈夫と断られたので仕方なく雅人のペースに合わせて歩く事にした。
無言で歩く事は苦痛ではなかったが、珍しい事もあるものだと真希は思った。いつもは人をからかうのが好きで良く喋る男がむっつりした様子で、ついに別方向に別れる地点まで終始無言だった。
「じゃあね」と真希が手を振ると、雅人はようやく「あの」と口を開いた。
「俺、あの人を好きになれそうにないです」
「は?」急に何を言い出すのだ、と真希は目を丸くする。
「打倒『NEXT』ッスかね」
「え?」
「俺、頑張ります。来月はきっと売り上げ達成しましょうね」
「ん?」
なぜ急に雅人がやる気になったのか解らず「どうしたの?」と真希は聞き返したが、雅人は明るい笑顔を残して早足に闇に消えて行った。