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猫が逃げた。
猫は予知能力があると言うが、今にして思えばあの時うちの愛猫には未来が見えていたのかもしれない。
いつもは外になんてまるで興味も無いような素振りだったので完全に油断していた。せかくの休み、今日は徹底的に掃除をしようと換気の為ベランダの窓を開けていたのだが、それがいけなかった。
掃除が終わり窓を閉めると、綺麗になった部屋に猫の姿が無い事に気がついた。慌てて部屋中を探したけど、後の祭りだった。
幸いここは3階なのでアパートの外に出る事は無いが、いかんせんこのアパートはペット禁止である。ベランダ伝いに他の部屋にでも行かれたら大家さんにばれてしまう。それに、いくら猫とは言え足を滑らせて落下しないとも限らない。
最悪の事態を想像して片山真希は頭を抱えた。大家さんにばれたら即退去だろうか。それとも愛猫を処分しろと言われるだろうか。それより何より愛猫は無事だろうか?
普段あまり慌てないたちの真希だが、こと猫に関してだけは違った。以前、幼馴染の親友に「あんた結婚しないの? っていうか、男作る気あるの?」と訊かれた際「あたしは今のところ、にゃんこさえいてくれたらいいや」と答えたほどの猫好き。しかも逃げ出した猫、虎之助とは一人暮らしを始めて以来3年間一緒に生活してきたのだ。慌てるなと言う方が無理だった。
探しに行こうか、ベランダから呼んでみようか、悩みながらおろおろと部屋を行ったり来たりしていると不意に玄関チャイムが鳴った。
来た、と思った。思わず心臓がドキリと音を立てた。なぜだか分からないが忍び足で玄関へ行くと恐る恐る覗き穴を覗く。すると聞きなれた鳴き声が聴こえた。
「虎之助!」
考えるより先に声に反応してしまった。あわてて玄関を開けた後でしまったと焦る。
「よかった、やっぱりお宅の子でしたか」
愛猫の虎之助は見知らぬ男性に抱かれていた。すっかり落ち着いた様子でのんきに「にゃあ」と鳴いている。
「僕の部屋のベランダで鳴いてたんです。ここは3階だし、外から来るはずは無いから、もしかしたらお隣さんかなぁと思いまして。まず先にコチラにお伺いして良かったです。このアパート、ペット禁止ですもんね。幸い真っ先に僕が見つけたので恐らく他の誰にも見られてはいないと思いますよ」
それにしても大人しい猫ちゃんですね。と男性は真希の愛猫を見つめて目を細めた。
「あ、申し遅れました。僕昨日隣に引っ越してきた伊藤と申します」
普段人見知りの虎之助がすっかり落ち着いている様子をボーっと眺めていた真希は、あ、と思った。慌てていたとは言え、部屋着にはだしのままたたきに立って不格好のまま玄関を開けた姿がお隣さんの第一印象になってしまったことに今さら気がついた。
とりあえず背筋を伸ばして「片山です、よろしくお願いします」と早口で挨拶をする。軽く会釈をするとまとめきれていない髪がはらりと落ちて真希をさらに赤面させた。
*
「はぁ……」
「どうしたんですか? 深いため息なんか吐いて」
休日明け、ガランとした店内を眺めながら真希が無意識に吐き出したため息に高村雅人は珍しいモノでも見るかのように目を丸くした。そして案の定「片山さんがため息を吐くなんて珍しいですね」と笑った。
「あたしがため息吐いちゃいけない?」
「まさか、そんな事言ってませんよ。いやぁ、あの片山真希もやっぱり人なんだなぁ、と」
「殴るぞてめぇ」
軽く叩くふりをすると、雅人はごめんなさいと首をすくめた。その仕草に思わず笑みがこぼれる。
二歳年下の同僚、高村雅人は人懐っこい笑顔が特徴だった。元々顔立ちの良い雅人は、この笑顔で購入を迷っていた幾多の女性客を購入へと導いているともっぱらの噂だが、同僚の真希でさえこの笑顔にはたまにドキッとさせられるのだから、あながち嘘とも思えなかった。
「でも、ホントにどうしたんですか?」
「何でもないよ」
すぐに人をからかうくせにさりげなく心配してくれる辺り、雅人のもてる要素がちらりと窺える。
先日の失態を思い出してため息が漏れたなんて口が裂けても言えるわけがなかった。あの後男性の方が何も言わずに帰ってくれたので事なきを得たように思えたが、今思い返してみると恥ずかしさは計り知れない。たかがお隣さんとは言え最悪の第一印象だ。間違いなく『だらしない女』と思われただろう。
「もしかして、片山さんも『NEXT』行ったんですか? あの規模の店が近くにできるとへこみますよね」
雅人の口から出た『NEXT』は全国展開の超大型スポーツ用品店だ。真希の勤める『D・SPORT』とはよく言えばライバル関係にあたると言えるが、誰の目から見ても格の違いは明らかだった。『NEXT』が近所に出店すると聞いた時は負けず嫌いの真希のこと、やってやると息巻いたが、建設が始まった店舗の規模を見て愕然とした。『D・SPORT』もショッピングモール内では1、2を争う売り場面積を誇るが、『NEXT』はケタ違いだった。三百台は停められるかと思われる駐車場に巨大な店舗。そんなものを見せられてはさすがの真希も意気消沈せざるを得なかった。
「やばいッスよね。俺悔しいけどテンション上がりましたもん。店内を見ながら、あぁ、こりゃうちの売り上げも落ちるわけだって納得しちゃいました」
「バーカ、納得すんな。あんたには頑張ってもらわなくちゃいけないんだから。あたしは後でいいから、先に休憩行ってきな」
「はーい」
雅人は気の抜けた返事を残してバックヤードへと向かった。
雅人にはそう言ったものの、明らかに以前とは違う集客率に嫌でも『NEXT』の存在が大きい事を思い知らされる。確かに雅人の言う通り近くにヤツ――『NEXT』と呼ぶのも面倒くさい――が出来てからというもの、売上は下がっていく一方だった。午前中を過ぎ、お昼を超え、夕方になっても一向に客足が増える気配は無い。
接客をしていてもお客様からヤツの名前を聞く事が多くなってきていた。曰く「あっちはもっと種類が豊富だった」であるとか「同じ商品なのにこっちの方が値段が高い」であるとか「あっちの方が専門用品がたくさんある」であるとか。
お客様から『NEXT』の名前を聞くたび体に一つずつ小さな石をくくりつけられているようだと思った。今や真希の体はくくりつけられた石の重みで身動きが取れない。
本社から突きつけられる売上目標も悩みの種だ。それまでは何とかギリギリ達成していた売上目標も、ヤツがオープンしてからの2カ月達成できていなかった。毎月月末に報告書と是正案を書いてメールをするのが真希の最近の仕事となっていた。月末が近くなるたびに今月も達成できそうにない売上目標に気が重くなるような気がした。
「真希はさ、考え過ぎなんだって」
業務終了後、バックヤードで帰り支度をしていると、同期スタッフの一人、真田真理子は本日の売り上げ集計を手にとって言った。
「見てみなよ。すぐ近くにあれだけ大型店ができたのに頑張ってるじゃん。今日だって、たった6万落ちだよ?」
「その6万落ちが毎日続いてるんだって」
「このくらいが限度なんだって、そのうち本社も分かってくれるよ」
「売上赤字でも?」
真理子の楽観的な考えに思わず眉が下がる。何事も深く考えずくよくよする事のない性格は真希とは正反対で真理子とは良く気が合った。真理子の考え方に救われた事もある。それでもどうしようもない事もあるのが現実だ。
「まぁ、とにかくさ、考えたって仕方ないよ。大変なのも全てはあの憎き『NEXT』のせいなんだからさ。真希は早く帰ってしっかり休みな」
ショッピングモールを出ると昼間の残りの熱気が襲ってきた。じめじめとした熱気は不快感を煽っているようだ。
真希はこの熱気を感じるたびに何かを思い出しそうになった。それがいったい何なのか、ただの感覚なのか、幼い頃の記憶なのか、はっきりとはしないが大切な何かを忘れているような切ない気持が押し寄せて来る。だが、それも毎回一瞬の事ですぐさま忘れてしまうので真希にはこの感覚がいったい何なのか確かめるすべが無かった。
帰ってから自炊するのが面倒で弁当でも買って帰ろうとアパート近くのコンビニエンスストアに立ち寄ると丁度出てくる男性と入れ違いになった。
「片山さん?」
思いがけず声をかけられて「え?」と顔を上げると、つい先日見たばかりの顔がそこにあった。ついでに思い出したくない記憶もよみがえり顔が熱くなる。
「片山さんも今お帰りですか? 僕もつい先ほど仕事が終わったところなんです」
「ああ、お疲れ様です」
「いや、恥ずかしながらまだ部屋が散らかり放題でして。近くにコンビニがあって助かりました」
「そうですか。失礼します」
話好きな男なのだろうか、立ち話がはじまりそうな予感に真希は会釈をして早々に店内に入り込んだ。無理矢理話を切り上げるのは失礼かと思ったが、どうせただの隣人だと自分を納得させる。本音を言えば一刻も早く立ち去りたかっただけだが。
しかし、雑誌を立ち読みしたりゆっくり弁当を選んだりと、なるべく時間をかけたにもかかわらず店を出ると伊藤の姿があった。なんで帰って無いんだよ! と心で叫びつつ伊藤を見ると、コチラに背中を向けて店の脇にしゃがみ込み何かをしているようだった。
無視して帰ろうかとも思ったが、不意に聞こえた猫の鳴き声が真希の興味を引いた。気付かれないようにそっと背後から近づくと、どうやらコンビニエンスストアを根城にしている野良猫を構っているようだった。
「猫、お好きなんですか?」
気がつくと声をかけていた。それは真希自身無類の猫好きで、このコンビニエンスストアを根城にしている野良猫の事はいつも気にかけていたからだった。
伊藤は座った体勢のままコチラを振り向くと「ええ」と目を細めた。
「昔から猫が大好きで。でもずっと団地暮らしで猫は飼えなかったので、こうしてよく野良猫と遊んでました」
良く見ると伊藤の足元には今しがた開けたばかりと思われる猫缶があった。恐らく弁当と一緒に買ったのだろう。丁寧に割りばしで中身をほぐしてあった。真希の視線に気がついた伊藤が慌てて隠す。
「あ、いや、これはお恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
「いえ、あたしもたまにやります」
どちらともなくお互いに笑いが零れた。
「虎之助くんはお元気ですか?」
「あ、はい。先日はありがとうございました。伊藤さんのおかげで大家さんにばれないで済みました」
「それは良かった。でも僕が大家さんに言うとは思わなかったんですか?」
当然の言葉に思わず「あ」と口を押さえると、伊藤は「嘘です。すみません」と大きく笑った。
コンビニエンスストアからの帰り道、気がつくとごく自然に会話が進んでいた。お互いが猫好きと言う事も手伝って話題に事欠く事も無かったが、それ以上に伊藤の物腰が柔らかくとても話しやすかったのだ。現在のアパートで独り暮らしを初めて3年経つが隣人とこんなにも親しく話をするのは初めてだった。