企み
芽依は、明麗の乳母だった。
明麗が何も告げずに碧の宮を去った直後、たった一人きりになってしまった宮でいたたまれなず、明麗の父王の宮に戻っていた。
神の世に戻られたら、お側にお呼びくださると言っていたのに、なかなかに機会が訪れずに、未だお呼びいただけないと思っていた矢先、明麗から連絡が来た。
自分の世話をするものを、父の宮から呼ぶと言って、あちらの王に許しをもらったとのこと。今は皇子が、畏れ多くもお世話をしているという。
芽依は、供を一人だけ連れて、月の宮へと必死に向かっていた。
やっと着いた月の宮では、明麗は宮から離れた屋敷に一人、住んでいた。何もかもが美しく新しい月の宮の結界内に、芽依は感嘆の声を上げた。
「なんと美しい場所でごさいましょうか、姫様。ご心配致しておりましたが、これならばゆっくりとお過ごしになられるのでは…。」
明麗は、寂しげに微笑んだ。
「芽依、それでも我は、災難に巻き込まれて…見よ。神の力を無くし、このままでは人として短い生涯を送らねばならぬ。」
芽依はじっと明麗を凝視した。明麗からは、神の気を感じない。芽依は慌てて明麗の手を取った。
「おお、何としたこと!なぜにこのような…。」
「龍王よ。」明麗は涙を流した。「何やら我が気にくわなんだ様子。まさかこのような事になるとは…我は…。」
明麗は泣き崩れた。芽依は明麗を抱き締めた。
「ああ姫様…!そのようにお嘆きにならずに。きっと戻す方法がございまする。我が、龍王に談判申し上げ…!」
芽依が拳を握り締めて震えながら言うと、明麗は顔を上げた。
「…そのようにしても、龍王は動かぬ。我は…良い方法を手にした。しかし我はただの人、主、我を助けてくれぬか…?」
芽依は決意を込めて頷いた。
「なんなりと!姫様のおためでありましたら、芽依は何でもいたしまする。」
明麗は微笑んで、パソコンを開いた。
「…これよ。」明麗は表示されたものを指した。「主、これを習得して、掛けてくれぬか。」
芽依はそれを見た。
そして、それを覚えて、明麗の言う通りに準備を始めたのだった。
「明人と嘉韻を呼び戻そうかと思ってるんだが。」
蒼が、十六夜に言った。今はまた、軍の会合の最中だった。十六夜は眉を寄せた。
「…だが、まだ数ヵ月だろう?嘉韻はまだしも、明人はやっと慣れて来たばかりだぞ?それはどうだろうな。」
信明が言った。
「確かにそう思います。二人が居なくても、宮は大丈夫です。有事にも何とかためらいながらでも、皆訓練通りに動く事が出来申した。王、もうしばらく様子を見られてはいかがでしょうか。」
蒼は難しい顔をした。
「…何か、嫌な予感がするのだ。」蒼は言った。「オレの予感は結構当たる。西に何かが起こるような気がしてならない。何かあって、あの二人が戦なれした軍神達に囲まれてこんなことに巻き込まれる事を思うと、気が気でなくてな。…ま、今度ばかりは気のせいであって欲しいものだが。」
蒼は考え込むように黙った。十六夜はそんな蒼を見て、言った。
「じゃあ、オレが毎日様子を見るようにする。月から行けばすぐだしな。安心しな、蒼。」
蒼は困ったように頷いた。
「頼むよ、十六夜。」
十六夜はそれを見て、内心心配だった。
蒼の予感は結構どころか、百発百中だ。今まで、この悪い予感というものが当たらなかった試しはなかった。西と言えば、西の砦一帯…ここからなら、龍の宮を過ぎて、小山を越えて、その向こうにある。月から見たら平坦だし、空を飛ぶ神達にとっては地の凸凹など関係はないのだが、距離はある。十六夜は一度月へ戻ると、また実体化して西へ降りるという方法を使って、毎日向こうを見に行こうと思っていた。
その次の日、西の砦では、明維が、空を見上げていた。
昼は見えないが、どこかにある、母の本体である月。しかし、母の気配を月に感じることはほとんどない。母は、月に帰ることが少ないからだ。
それでも、最近は軍神の真似事を始めたとかで、気を消耗した時などは、月に戻っていることがあった。明維はそれを感じ取れないかと、空を見上げることが多くなった。
軍神が、頭を下げた。
「明維殿。」
明維は振り返った。
「何用ぞ。」
「は、月の宮より参ったと申す初老の女が、維月様よりのお届け物を持って上がったと申しておるのですが…いかがいたしましょう?」
明維はそちらを向いた。
「母上から?」
母は、時に父上に内緒で着物や、それに人の世の食べ物などを送って来ることがあった。明維は、頷いた。
「ここへ通せ。」
軍神は頭を下げた。
「は!」
しばらくして、見たことのない初老の、しかし品の良い女が入って来て頭を下げた。明維は言った。
「表を上げよ。」そして、その手にある厨子を見た。「それが、母上からの?」
相手は頷いた。
「はい。なんでも蒼様がお気に入りの食物とのことで、我ら、このようなものをお届けしても良いものかと悩んだのでありまするが…。」
明維は苦笑した。確かに、神に食物をなど、驚くであろう。
「良い。見せよ。」
「はい。」
女は、厨子を傍のテーブルの上に置くと、紐を解いて中身を見せた。明維は中を見て頷いた…これは、先々月にも月の宮から我に送って来たものではないか。侍女達が戸惑い気味に持って来たものだった。
「そうか。月の宮には、良い職人が居るとの事で、母が数か月前にもこれを我に送って参ったわ。」
それは、苺のタルトだった。母がとても好むもので、しょっちゅう食べていたのだそうだ。ゆえに同じように食べさせられていた蒼もそれを好み、龍の兄弟も皆、小さい時からこれを食べさせられていたので自ずと好きだった。これを食べると、母を思い出す。
「ご苦労だった。母上とはお会いしたのか?」
その女は首を振った。
「維月様はお戻りになっておりませぬ。こちらにご連絡だけが入りまして、急ぎ参った次第でございます。」
「そうか。」明維は穏やかに微笑んだ。「ご苦労…」
明維は、眩暈を覚えた。こんなことは初めてだ。相手の女が、気遣わしげに寄って来る。
「明維様?いかがなさいましたか?」
明維は、膝を付いた。何かが自分を抑え付けるような感覚…。これはどうなっている。
明維は、何も分からなくなった。その女は、フッと微笑んだ。
「では、こちらへ。」女は手を差し出した。「まずは明麗様をこちらへ呼ぶよう、蒼様に打診するのです。」
明維は、巻紙を手に取った。そしてそこに、蒼に向けての書状をしたためた。
蒼は、眉を寄せた。
「…解せない。」
十六夜が蒼を見た。
「何が?明維は何を言って来たんだ。」
蒼は書状を十六夜に渡した。
「明麗を明維が引き受けたいと。」蒼は書状に目を通す十六夜に言った。「なんだって明維が?確かに見つけたのは明維だけど、全く興味もないようだったのに。」
十六夜は書状を降ろした。
「…明維の字だな。」十六夜は、月を見上げた。「あいつは、明麗どころか維月以外の女は皆眼中にないよ。あからさまに嫌悪感を示すから、相手の女もすぐに諦めて寄って来ないってのが通例だったのに。それが、明麗を?あんなことをしでかしたのに、何を考えてる?しかも、今は人だ。結婚なんて出来ねぇし。」
蒼は考え込んだ。
「どちらにしろ、維心様の許しなくそんなことは出来ない。他の王族ほど自由でないのが龍の王族だからな。明維だって第二皇子だし、望んだからって誰でも自分のものに出来る訳じゃないし…それにしても、何だって明麗なんだろうな。」
十六夜は明麗の屋敷のある方角を見た。
「…特に何もしてないみたいだな。ま、したくても出来ないか。人なんだしよ。」
蒼は頷いて、巻紙を用意した。
「維心様に聞いてみる。」
「まどろっこしいな。」十六夜は言った。「オレがひとっ走り龍の宮まで行って来るよ。明維からの書状を貸しな。見せて話してくらあ。」
蒼は眉をひそめて十六夜を見た。
「…礼儀に反するんじゃないの?」
十六夜は鼻を鳴らした。
「今更なんだよ。行ってくらぁ。」
十六夜は、明維の書状を懐に収めると、スッと飛び立って行ったのだった。




