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タイランド

作者: 花澤 直



20代半ばから後半にかけて、弟はバックパッカーのようなことをしてアジアのいろんな国を歩き回っていた。韓国を皮切りに、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、ベトナム、カンボジア、ネパール、そしてインド、様々な国を渡り歩いた。時折国際電話をかけてきた。母が電話に出る時もあったし、僕の時もあった。僕が出ると弟はたいてい少し興奮気味に「今どこどこの国にいるよ、こっちは元気でやってるけど、そっちはどう?」というようなことを言った。僕はいつも「こっちは普通だよ、お母さんも元気」と儀礼的に素っ気なく答えた。自分と弟との温度差を感じた。僕は電話を早く切りたかった。「それと・・・ちょっとお金が足りなくなって、また少し送ってくれないかな、後で必ず返すから」と頼んでくることもあった。世の中にはお金を貸す側と借りる側の人間がいる、となにかで読んだことがある。そして多くの場合、借りる側の人間の方が豊かな人生を送るという話だ。僕は、貸す側だった。また時には「直ちゃんまだ仕事してないの?だったらちょっとこっちに来ない?すごくのどかだし、いいところだよ」と言ってくる時もあった。僕はうんまあ考えとく、と言うような曖昧な返事で切り抜けた。弟は行く先々で友だちを作った。現地人や、同じようにバックパックしている人たちやコーディネーター。日本に帰ってからも交友を続けているようで、メールのやりとりをしたり、たまには彼・彼女らをうちに連れてきて夜を飲み明かしたりしていた。壁一枚を隔てた弟の部屋から、ひっきりなしの笑い声や、スピーカーから流れる日本のではない音楽のリズムや、グラスを重ねる音やらが聞こえてきた。灯籠やなにかで薄暗くライトアップしたその部屋からは、お香や、たばことは違う、燻した草のような匂いもした。僕はなるべく意識をそっちにやらないようにして、自分の部屋でテレビを見たり本を読んだりお酒を飲んだりした。


 日本に帰ってくると弟は引っ越しのバイトをしてお金を稼ぎ、ある程度貯まるとまた海外へ出かけた。そしてお金が尽きると(あるいは借りるのも限界が来ると)帰ってきた。だいたい半年おきくらいだ。行く時にはたくさんのお土産を持って行った。ウイスキーや、古いレコードや、ちょっとした化粧品なんかを。そして帰ってくる時もたくさんのお土産を抱えてきた。出かける際にはいつも気まずそうな顔をした。母がそんな場当たり的な生活をしているのをよく思っていないからだ。弟も母にはあまり頭が上がらない。いつも「今回で最後にするから」というような言い訳をして出て行った。


 そんな生活を2、3年ほどした頃、弟はおそらく自分のイメージする世界に近い国を見つけたのだと思う。タイだ。もう、いろんな国をあちこち歩き回ることをやめ、タイに直行するようになり、タイという国の素晴らしさを僕や母に言い聞かせるようになった。母はどちらかというと―というかかなり―排他的な傾向があり、タイに対しても(それがインドであれジンバブエであれ)不潔で粗雑で治安が悪い後進国という印象をあからさまに示し、弟を苛立たせた。自分が気に入ったものを頭から否定されるつらさに弟の表情が歪んだ。母は飛行機に乗ることすら危険だと言った。弟は飛行機が落ちるより日本での電車の脱線事故や交通事故の方が断然多いと弁明した。「お母さんが毎日乗ってる電車の方がずっと危ないんだよ?」正論だった。それでもそういうデータなんかを持ち出しても母を心底納得させることは不可能だった。僕は気持ち弟の側に立って、母のタイに対する悪い印象を払拭させることに荷担した。でもそれはあくまで中立、公正という立場に立ってのことで、僕自身も本当を言えばタイなんかに興味があるわけでもなかった。


 それでも弟はタイに行くのをもちろんやめなかったし、だんだんタイに行くために日本に出稼ぎに来ているような感じにすらなっていた。「日本は社会が世知辛くて余裕がなくて息苦しいよ」弟はそう言った。それは僕も感じてるし、たぶん多くの人が思っている。「タイはね、おおらか。人も社会も活気があって、生きてる感じがする」

 そんな風に思わせるタイという国はどんなものなんだろう、ふとそう思わないでもなかった。


 その頃の僕は長い間社会の枠組みからこぼれ落ちたまま、這い上がることの出来ない状態が続いていた。何もすることなく、ただ毎日をやり過ごしていた。貯金も底を尽きかけ、焦りだけが募る日々だった。だから弟が次のタイ旅行の時に僕も一緒に行かないかと誘った時は、タイに行くことを良く思っていない母親すら、気分転換にいいんじゃないかとその提案を大いに僕に推した。お金はお母さんが出すから、とまで言った。僕は海外旅行をしたことがなく、それどころか旅行というもの自体に全く興味がなかったが、徐々に良い刺激になるのでは、という期待をうっすらと持つようになっていった。それでも行こうという決断はなかなか出来なかった。行くべきかという気持ちと、行ったところでどうしようもないという無力感の中をさまよった。でも結局は行くことになった。半ばなし崩し的な形で。


 僕は二つの条件―というか宣言のようなもの―を提示した。まず、帰りたくなったらすぐ帰る。それから向こうでたとえ昼まで寝ていても、どこへも出かけようとしなくても、文句を言わないこと。自分のペースを乱さないで欲しい。まるで病院か療養所に移ることになった重病患者のようだ。でもその時の僕の暮らしからすると、タイにしばらく滞在するというのは大きい不安があったのだ。母から出してもらったものを含め、30万くらいのお金を持って行った。飛行機代も含めて。それで1ヶ月は暮らせる算段だった。「もし気に入ったら、僕、向こうで働けるからもっと長くいられるよ」と弟が言った。そんなこんなで僕たちはタイへ向かった。


 そのタイで過ごした1ヶ月の体験で僕の人生観を大きく変える出来事に出会った、となればよかったのだけど、話はそううまくいかない。僕はどちらかというと疲弊して日本に戻ってきた。

 タイではほとんどをカオサンという世界中の旅行者が集まる賑やかな場所で過ごした。毎日がお祭り騒ぎみたいな街だ。始めの方こそ、弟はタイの名所、美しい海があるビーチや、寺院、王宮、それから建物の建設ラッシュが進み急速に都会化しつつあるバンコクなどを案内したが、何を見ても何をしても興味を示さない僕にだんだんいらいらが募っていったようだった。何人かの弟の友だちにも会って紹介された。タイ人もいたし、日本人もいた。男性もいたし、女性もいた。でも僕は誰に対しても無愛想に接した。弟のようには出来ない。僕らはまたカオサンに戻り、そのはずれに安いアパートを借りた。管理人室はまるでパチンコ屋の換金所みたいにいかがわしく、エレベーターは上に着くまで100年かかった。弟は日中、以前にも働いていたというヒップホップ・バーでウエイターとして働き出し、僕は昼頃に起きてやることもなく一人でテレビを見たり、弟が働いてるバーに行ってみたりして、夜はお酒を飲んで寝た。日本にいる時とたいして変わらない。弟は「とにかく朝からお酒でも飲んでのんびりしていればいいよ」と言った。「頭の中を空っぽにすればいいんだよ」でも僕にはうまく出来なかった。ある時お昼に起きてアパートの下の小さな屋外レストランに行くと弟が一人で昼食をとっていた。僕の姿が見えると「今日仕事休みだったから、どっか食べに行こうと思って朝から直ちゃん起こしたのに、起きないから一人で来た」と言った。不満げな言い方だった。僕は僕のペースを守らせてと行く前に言ったでしょ、とやはり不満げに言った。僕らはケンカした。タイに来てもそんなんじゃ意味ないじゃん、と弟。そうだよ、意味ないよ、と僕。僕は期待されたくなかった。タイに来てよかった、楽しかった、と思ってくれるという期待を押しつけられるのが嫌だった。僕は弟みたいには出来ない。帰る、僕はそう言った。わかった、と弟も諦めるように言った。帰りの飛行機の手続きなどを弟が黙々とやった。弟はまだタイに残るということだった。僕らはバンコクの空港で別れた。日本に着くと心からほっとした。でも日本に何かがあるわけでもない。どこにも僕のための場所なんかない。


 僕らはそれぞれの日常に戻っていった。線路の分岐点を右と左に別れるように。帰ってきた僕に母が「どうだった、タイは?」と聞いた。僕は「うん、いろいろあったけど良かったよ」と答えた。弟はやはり半年くらいしてから帰ってきた。僕らはタイでの話をほとんどしなかった。母に聞かれた時は、海が綺麗だったとか、何がおいしかったとか、当たり障りのないことを話した。

 日本に帰ってきた弟の日常に少し変化が現れた。毎晩夜遅くにパソコンに向かって誰かと喋るようになった。会話の内容までは聞こえなかったが、日本語の抑揚ではない。相手は女の人のようだった。その女性の後ろでいつも犬の吠える声が聞こえていた。それから弟がタイについて僕や母に話す内容の中に「日本語学校に通うタイ人の女の子」がよく登場するようになった。僕は嫌な気がして、話を聞き流していた。


 それから弟は日本で調理師として働き始めた。いつか日本でタイ料理の店を出したいとか、タイで日本料理の店をやりたいとか、そういう未来の夢を話すようになった。以前のように半年働いて半年タイに行くというようなことは出来なくなったが、それでも弟はいつもタイに行きたがっていた。3日間でも休みがあると、いそいそと準備をしてタイに出かけた。僕はまるで息継ぎのために時々深海から浮上するクジラみたいだと思った。


 僕の方はというと、なんとか社会的な場に復帰して―つまり仕事をして―生活するようになっていた。しばらくのブランクがあったから、その生活に慣れるのに時間がかかったが、やがてこなせるようになった。


 そんな折、弟が「タイの日本語学校の子が日本に遊びに来るっていうから、うちに連れてくる」と言い出した。母も僕も戸惑った。そういうシチュエーションに慣れていないのだ。でも弟はかまわずその子を連れてきた。彼女が弟と一緒にうちの玄関に現れ、僕と母が迎えると、彼女はいくらかぎこちない笑顔を向け「コンニチハ、ハジメマシテ」と言って手を拝むように合わせてお辞儀した。僕は「ナマステ」と言って手を合わせてお辞儀を返した。冗談のつもりだったが、誰も笑わなかったし、つっこまなかった。僕は場の空気が読めないのだ。彼女は何度もお辞儀をしながらうちの中に入っていった。そして部屋の中を遠慮深く見渡した。それから素敵なお宅ですねとでも言うようににっこり笑った。彼女は黒髪を長くしていた。肌は浅黒く、一見してアジア系の女性という感じだった。目が大きく、笑うとえくぼが出来た。間違いなく美人の部類だ。彼女の名前はフォン、ということだった。フォンちゃん、と弟は呼んでいた。でもそれはニックネームで、タイでは生まれた時にまずニックネームをつけられ、それから本名を戸籍に登録しに行くのだそうだ。家族ともたいていニックネームで呼び合っているらしい。「フォン」は、「雨」の意味があって、雨期に生まれたからつけられたそうだ。本名は複雑な長い名前で、一度聞いたが忘れてしまった。それでいいらしい。

 お茶とお菓子を出して4人でテーブルを囲んだ。フォンちゃんは笑顔を絶やさなかった。弟が通訳となって、彼女についてのことをいろいろ聞いた。生まれはタイの田舎町で、学校に行くためにバンコクに出てきたこと、日本が好きで日本語学校に通っていて、いつか日本に来たいと思っていたこと、将来は弁護士を目指して勉強をしていること、学生時代はバドミントンをしていて、兄弟は何人いて、お父さんはどんな仕事をしていて・・・云々。健康的な明るさがあり、感じのいい受け答えだった。僕はほとんど会話に入らず、ただ視線を彼女の背後あたりに泳がせ、時折頷いたりしながら、ひっきりなしにたばこを吸っていた。こういう場合に自分がどんな風に振る舞えばいいのかわからなかった。

 弟と彼女が帰ると、母は「良い子だったねぇ」と感心していた。一目で気に入った、という風だった。


 一週間くらい日本にいた後、いったん彼女がタイに帰ってすぐに、弟が仕事場の近くにアパートを借りて一人暮らしをするようになった。するとしばらくしてフォンちゃんがまた日本に来て、転がり込むように弟のアパートに居着いた。なるほど、そういうことか、と思った。ビザなど、どういう風になっているのかわからなかったが、フォンちゃんはしばらく日本に滞在することになったらしい。僕がタイに行った時とは正反対に、フォンちゃんは弟が仕事に行っている日中も、一人で精力的にあちこちを見物して回っていた。どこどこでイチゴ狩りが出来ると知ると出かけ、綺麗なラベンダー畑があると出かけ、地域のお祭りがあると出かけ、何もない時は街に出てショッピングを楽しんでいた。食べ物にも興味が旺盛で、どこのそば屋がおいしかったとか、味噌汁はなめこが絶品だとか、日本茶もコンビニで買うペットボトルのお茶やティーパックタイプの物を好まず、きちんと急須で入れたりと、かなりのこだわりも見せていて、そんな話はみんなを笑わせた。あまりにあちこちで歩いてだいたいのことを覚えていったためか、母と二人でちょっとした小旅行に行った時、バスの乗り場がわからない母を引っ張って「オカアサン、コッチコッチ」などと言って、母がフォンちゃんに教えられてついていった、という笑い話まで生まれた。また、自転車で1時間もかけて地図を見ながらうちまで一人で来たこともあり、別の日に僕が車で彼女と弟をアパートまで送る際「オニイサン、コッチノミチ、チカイ」と言って僕らを驚かせたりした。とにかく笑いが絶えなかった。始めの頃はフォンちゃんが一人でうちに来ると、僕とフォンちゃんが英語の辞書を使いながら意思を疎通させ、それを母に伝えたりしていた。

「フォンチャン、キノウ、イッタ、パビックオビ・・・ウーン、パビックオビ、ナニカナ?オニイサン」

「パビックオビ?なんだろ」

 辞書を開く。フォンちゃんが指を指す。

「ああ、Public・officeね、役所のこと」

「ヤクショ・・・ハイ、ソシテ、フォンチャン・・・」という感じだ。でもそのうちフォンちゃんが何を言いたいのかコツがわかるようになってきたし、日本語を覚えるのも早かったので、出来の悪い通訳者を介さなくてもなんとなく身振り手振りも交えて、会話が成立するようになっていった。時々母と彼女が話しているのを聞いていると、話がかみ合っていない時も、なんとなく、そうそう、うんうん、と言って会話が流れていくので、それはそれでいいと思うようになった。

 母はフォンちゃんが気に入っていたし、フォンちゃんも足繁くうちに通っては母とお喋りをしたり、買い物に行ったりしていたので、二人は相性がいいというか、意気投合する感じになっていた。彼女はうちに来ると必ず僕に手を合わせて「ハンサムナオニイサン、コンニチハ」とか「スコシヤセタミタイ」と言ってお腹をさすってきたりと、なんとかコミュニケーションをとろうとしてきたが、僕はあいさつもそこそこに自分の部屋にこもって、彼女が帰るまでそこを出なくなるようになっていった。弟も含めて4人で食事をする時も、テレビのバラエティー番組にいちいち反応して大声で笑ったりしているその場に、僕はいたたまれず、食事が終わると自分の食器を流しに放り込み、自分の部屋にこもった。時には疲れて具合が悪くなった。


 二人が結婚をするという話を、僕は直接聞いていない。ある時母が僕に話の流れの中で「ほら、もう二人も結婚するでしょ」と僕も当然知ってることを話すように言った。でも僕は全然知らなかった。うん、と僕は平然を装って言った。心臓が変なリズムを刻んだ。

 弟が結婚する、当然成り行き上はそうなることもわかっていたけど、いざそれが現実になると、想像していた以上の戸惑いを感じた。


 国際結婚ということで、いろいろ複雑な手続きが必要になった。弟に頼まれて書類なんかを僕が役所に取りに行ったりもした。いつものことだ。弟が動く、僕が頼まれる。フォンちゃんもタイと日本を何度か行ったり来たりして忙しくしていた。僕の回りが忙しく動いていた。僕だけが取り残されているような気がした。


 結婚式は、タイで行われることになった。それも母から雑談の中に紛れるようにして聞かされた。また僕はうん、と知っているかのように答えた。僕も結婚式には当然行くものだと思われていた。行かない理由がない。でも僕は行かないと決めていた。僕は行かない。

 理由を僕は言わなかった。理由なんてどうでもよかった。ただ行かない、とそう伝えた。家族(兄や姉や)に反対されるかもしれないなと思った。何かを言ってきて欲しい面もあった。どうして行かないの?誰かに真剣にそう聞いて欲しくもあった。でも誰もそれを言わなかった。少なくとも誰かが僕に直接理由を聞いてくることはなかった。


 ただ結婚式のために家族がタイに行く前日、弟が僕に電話をかけてきた。

「もしもし」

「直ちゃん?今仕事中?」

「うん、でも大丈夫」

「・・・明日、本当に行かない?」すごく小さな声だった。

「うん、悪いけど」

「今からなら間に合うから。飛行機のチケットも、今からならなんとか取れるから。仕事は、インフルエンザにでもかかったことにして・・・」

「ごめん」

「どうしても?」

「ごめん」

 しばらく沈黙が流れた。弟の息づかいが聞こえた。弟は傷ついていた。すごく深く。

「ごめん」僕は繰り返した。

「・・・わかった、じゃあ、明日、行ってくるね。仕事頑張って・・・」電話が切れた。僕は人を深く傷つけた。でもそうしないわけにはいかなかった。


 結婚式から帰って、母は僕にそこで起きたいろんな出来事を話した。飛行機から見えた富士山がとても感動的だったこと(母は飛行機に初めて乗った)。みんな用事で出かけてタイのホテルでひとりぼっちになって、あまりにみんなが帰らなくてパニックになってフロントに駆け込んで事情を説明したけど言葉が通じなかったこと。みんなが帰ってきて、どんなに不安だったかを訴えたら軽くあしらわれて、大泣きしたこと。向こうの両親がいい人で、またタイに来て下さいと言われて、また行きたいと思ったこと。立派な結婚式だったこと。家族の思い出がいくつか増えたわけだ。でも僕はその外側にいた。自ら望んで。


 その後もそれまでと変わりなく、月に一度くらいの頻度で弟とフォンちゃんがうちに遊びに来たり、フォンちゃんが一人で来たり、母とどこかへ出かけたりした。結婚式に行かなかったことで僕に対するフォンちゃんや弟の態度が変わるようなことはまったくなかったが、僕の方が以前より増して二人に対して距離を置くようになっていた。僕は弟や彼女が来るといつも静かに混乱した。弟だった人間が他人のようになった気がしたし、いつまで経ってもフォンちゃんと打ち解けなかった。何か決定的なことが起きてしまった気もしていた。そうして意味もなく(いや、あるのだが)いらいらするようになった。みんなと不機嫌に接することもあった。周りでは嫌なことが起きているわけでもないし、むしろ祝福すべきことが起きていたのに、僕の心はかき乱され、沈んだ。自分にさえいらいらした。


 二人は将来の夢を時々母に話した。いつかタイに永住するつもりだと話す時もあれば、別の日にはやっぱり日本で暮らそうかな、と話す時もあった。フォンちゃんも弁護士の勉強は辞め、弟がいつかお店を出す時のために会計士の勉強を始めた、という話が出たりしていた。

 

 そんな風に一年くらいが経った頃、弟たちがやはりタイで暮らすように決めたという話を聞いた。例によって風の噂で聞くみたいにして。もう少しお金を貯めて、それでも今年中には向こうに移りたいという計画らしい。向こうでは当面料理屋で働いて(ある程度つてはあるらしい)資金と時期を見て、いつかは独立して店を持ちたいとのことだった。弟とフォンちゃんには夢があった。フォンちゃんはお金を貯めるために、パートタイムで働いていたのをフルタイムに変えた。そのせいか、うちに来ることがだんだん少なくなっていた。いろいろ忙しいのだろう。僕はほっとした。母は二人がタイで生活していけるかを心配していた。弟たちは、大丈夫だよ、なんとかなるよ、とそのたび母をなだめた。


 そんなある日のことだった。弟が高校の同窓会に行くため泊まりで出かけることになった。そしてその間フォンちゃんがうちに泊まりに来た。フォンちゃんが一人で泊まりに来るのは初めてだった。僕はどうしたものか、と思った。母が寝てしまった後、彼女と二人で過ごさなければならない時間を思った。いったいどう過ごしたらいい?そんな状況は今までにはなかったことだ。でもその時間はちゃんと来た。母が寝て、フォンちゃんの後に僕がお風呂に入り、上がると「オニイサン、ビールノミマスカ?」と言われた。僕のために買ってきてくれたのだ。僕は自分の部屋に直行したかったが、やはり少しは彼女と一緒にいないといけないと思い、ビールを飲みながらテレビを見た。フォンちゃんは冷蔵庫からライチジュースを出して飲んだ。テレビでは、けばけばしい色合いの安っぽいセットの前でお笑いタレントが面白おかしく自分の失敗談を語っていた。僕もフォンちゃんも黙ってそれを見ていた。スタジオから甲高い笑い声が聞こえた。僕は笑う気には全然なれなかった。最後にテレビを見て笑ったのはいつだろうと思った。でも思い出せなかった。僕はリモコンを取ってチャンネルを回した。フォンちゃんは僕の出方を窺ってるみたいに見えた。NHKでチャンネルを止めると、クラシック音楽をバックにどこか外国の風景を映していた。

「セーヌ・リバー」とフォンちゃんが言った。川と建物の様子だけでわかったのだ。それからカメラは空を飛び、大きい立派な公園を空撮し始めた。向こうに見覚えのある建造物が見えてくる。

「triumphal arch」とフォンちゃんが言う。

「ん?」

「トライアンフル・アーク・・・ニホンゴデ、ナニカナ、オニイサン」

「ああ・・・凱旋門のこと?」

「ガイ・セン・モン」とフォンちゃんが繰り返す。「ナポレオン、ツクッタデショ」

「そうなの?」

「ソウ、ラオスニモ、アル」

「ふうん」何でも知っているものだ。

「フォンチャン、フランス、スキ」

「どうして?」

「フランス、キレイダカラ」

「行ったことある?」

「ウウン、イキタイデス、オニイサンモイキマショウ?」

「そうだね」行く理由がない。

 会話が途切れる。テレビはニュース番組に変わり、どこかの国の金融破綻を報じている。二人で黙ってそれを眺める。誰かと二人きりになると、いつも相手を退屈させていないかと不安になる。そしてそれはたいていの場合的中している。

 フォンちゃんがテレビの横に置いてある絵本を見つける。この前姉たちがうちに来た時に子供たちと遊んで置きっぱなしになっていたものだ。

「コレ、ナンデスカ?」

「ウォーリーを探せって言って、たくさんの人の中から主人公のウォーリーを探す、まあ子供の遊びの本」

「ワァ、スゴイネ」彼女がパラパラとページをめくる。

「この表紙の、赤と白のストライプの服を着た人を、この中から探すんだよ」

 フォンちゃんは探し始めた。その本の絵柄はほほえましく、ユーモアに満ちていた。ひとつのユートピアだ。僕と弟は昔よくこの本で遊んだ。ウォーリー探しに飽きると、例えば「この中で一番痛そうな人」とか「一番威張ってる人」を探した。それをやりだすと、このウォーリーの世界から離れがたくなり、夜遅くまで夢中にやっていたものだった。

「コレカナ?」フォンちゃんがウォーリーを見つける。うん、当たり、と僕が言う。次のページを開いてまた探し始める。僕はどこにいるかを知っているので横で見ている。彼女が時々似た人を指さす。「コレカナ?」僕は、違う、それじゃないよ、ほら、ズボンが違う、と正す。うまくウォーリーを見つけられると次のページをめくる。あるページではある王国の結婚式のような場面が描かれていた。画面の上の方で、新郎新婦―おそらく王子と王女―が手を取って階段を下りてきている。側では王様や王妃のような出で立ちの人物が見守っている。階段の左右に楽団がいて音楽を奏でている。下の方では貴族たちが料理を食べたり、ダンスを踊って祝っている。例によって群衆がお祭り騒ぎをしながらその周りを埋め尽くしている。その様子を遠くから撮影するテレビクルーもいる。ウォーリーはそんな群衆の中を左手から右手に颯爽と通り抜けようとしている。フォンちゃんは少しして彼を見つける。僕は頷いて、次のページが開けられるのを待つ。次は石器時代のページだったはずだ。マンモスが中央にいて、男たちがそれを狩る場面。でもフォンちゃんはページを繰らずに、結婚式の場面を見つめ続けている。そして王女を指さし、僕の方を見上げ「フォンチャン、イタ」と言って笑顔を作る。「あ、ほんとだ」と僕が調子を合わせる。それから王子を指し、弟の名前を言い、王妃を指し、オカアサンネ、と言う。僕は心臓の鼓動が早くなるのを感じる。フォンちゃんは絵の中を見回し、ドコカナ、ドコカナ、とつぶやく。誰を探しているのか僕にもわかる。しばらくして「ア、イタ、イタ、オニイサン」と嬉しそうに僕の顔を見る。彼女が指さしたのは王族の列に並んでワインを飲みながらにこやかに笑っている男だ。

「違う」僕は言った。「僕じゃないよ」

 フォンちゃんは哀しそうな顔をしてまた本を見つめる。ドコカナ、と言いながら。「コレカナ?」と指さす。貴族たちの中にいる背の高いおしゃれな格好をした紳士だ。「それも違う」僕は言う。ここに僕はいないよ(、、、、、、、、、)、心の中でそう言う。それでもフォンちゃんは真剣な顔で探し続ける。ドコカナ、ドコカナ・・・。彼女の声が少し涙ぐんだようになる。「コレカナ」「違う」「コレ?」「違うよ」何度か同じことが繰り返される。「ドコ?オニイサン!」彼女が哀しげな声で言う。張り詰めた空気が流れる。僕は結婚式に参加しなかったことで傷ついたのは弟だけじゃなかったことに初めて気付く。僕は目をつむる。心が揺れ動くのを感じる。それからちょっと待ってて、と言って席を立って自分の部屋に行き、24色の色鉛筆を持って戻る。僕は何も言わずに藍色の鉛筆を取って王子と王女が下りてくる階段の下に、後ろ向きに―つまり彼らの方を向いた姿で立っているタキシードを着た人物を描き始める。まず背中を描き、そこから伸びる足を描く。片足を階段の一番下に乗せる。頭を描き、その上にシルクハットのような帽子をかぶせる。それから靴を描く。先が尖っていて、ぴかぴかに磨かれた黒。フォンちゃんは黙ってそれを見ている。両腕をだらんと垂らせて描き、いや、違うと思い直して消しゴムで消し、二人に向かって両手を広げる格好にする。片方の手には大きな花束を持たせる。これを描き終わったら―僕の中である感情が湧く。これを描き終えたら、彼女に伝える言葉がある。僕が二人に言うべきだった言葉。それでも口にすることもなかった言葉。二人が心から望んでいるだろう言葉。それを言おう、そう思う。フォンちゃんが赤い鉛筆を持ち「カイテイイデスカ?」と聞く。「いいよ」と言う。彼女は花束の花を彩り始める。赤の次は黄色、そしてピンク、オレンジ。花がこぼれ落ちそうなくらいにたわわに咲く。それから花束の手元と、帽子にリボンをつける。それで完成。僕らは満足したようにそれを眺める。彼女が僕たちが描いたその人物を指さし、いたずらっぽく笑っいながら、ささやくように言う。「オニイサン、ココニイタ」

「うん」僕は頷いてから深く息を吸い込む。そしてその言葉を言う。

―結婚、おめでとう。





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