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帰るところを見失った俺を救ったのは、雑だけど誰よりやさしい幼なじみでした

作者: 155
掲載日:2026/05/15

「……へ?」


 二泊三日の地方出張から、たった今、恋人の桃香(ももか)と同棲しているアパートに帰ってきた。

 少しでも早く彼女に会いたくて、急いでドアを開けた瞬間、俺の口から漏れたのがその声だった。


「これって、どういうことだよ……」


 部屋の中は、がらんとしていた。

 家具も家電も消えている。部屋の隅に、俺の服らしきものが雑に積まれているだけで、ほかには何もなかった。


「えっ、桃香?」


 誰もいない空っぽの部屋に、俺の声だけがむなしく響いた。




「結果から言うと、家財道具一式と、少ない貯金を含めて全部持ち逃げされた」

「ははは。それはご愁傷さま。あんた、その女と出張中も連絡取ってたんじゃないの?」

「帰る当日の朝までは普通に連絡してた。でも、そのあと急に音信不通。今じゃ、どこにいるのかもわからない」

「警察には?」

「こんな恥ずかしいことで被害届なんて出せないよ……。取られた現金も十万くらいだし、もういいかなって……」

「なっさけな」


 桃香と俺――市木悠大(いちきゆうだい)は、六か月ほど前から付き合いはじめ、三週間前に同棲しはじめたばかりだった。


 そのとき家財道具はほとんど新品でそろえたから、ざっと三十万はかかっている。現金と合わせれば、決して笑って済ませられる額じゃない。

 それでも、何かしようという気力がまるで湧かなかった。

 だからせめて誰かに聞いてほしくて、幼なじみの飯島琴音(いいじまことね)に一部始終を話していた。


 琴音とは、生まれてから二十数年の付き合いになる。こんな情けない話でも包み隠さずできる、数少ない相手だ。実際、今回だって、琴音に吐き出せたからなんとか踏みとどまれている気がした。


「勉強代だと思ってさ……」

「悠大ってすごいねー。勉強代って言って、数十万をそのまま捨てられるんだ。偉くなったもんだよね」

「うっ……」

「全部取り返すのは無理でも、やることくらいはやったら? あんたも男なら、ついてるもんついてるでしょ」


 慰められるより、こうして歯に衣着せぬことを言われたほうがありがたい。ありがたい、のだけれど、琴音の言葉は遠慮がなさすぎて、弱っている心にまっすぐ刺さる。傷口に塩どころか、ハバネロを塗り込まれている気分だった。


「琴音は彼氏いたことないから、そういうこと簡単に言えるん――」


 ごつん。


「……っ!」

「黙れ」


 拳骨が頭に落ちた。

 たしかに今のは余計な一言だった。ほんと、情けない。




 結局、その足で琴音に半ば引きずられるように最寄りの交番へ行き、事情だけは話した。被害届はまだ出していない。

 その帰り道で、琴音がふと思い出したように言う。


「悠大、あんた寝る布団はあるの?」

「……いや。ベッドもなくなってたから、たぶん今日は床で寝ることになる」


 言われて初めて、寝床まで失っていることに気づいた。

 自分で思っている以上に、動揺しているらしい。


「ったく。しょうがないから今日はあたしんち来なよ。予備の布団くらいあるし」

「いや、それは悪いよ」

「悠大とあたしの仲で、いいとか悪いとかある? つまんない遠慮されるくらいなら、素直に甘えられたほうが気分いいんだけど」

「……うん。ありがとう」


 琴音とは、大学進学でこっちに出てきたのも同じ、就職してこの街に残ったのも同じだ。

 桃香という彼女ができるまでは、頻繁とまでは言わないまでも、ちょくちょく飲んだり飯を食ったりしていた。




「お邪魔します」

「いまさらでしょ。狭いのは相変わらずだから、そのへんは我慢してね」


 琴音の部屋を訪れるのは、たぶん一年ぶりくらいだ。前に来たのは、居酒屋で悪酔いして終電を逃し、泊めてもらったときだった気がする。

 桃香と付き合うようになってからは、なんとなく琴音と距離を置いていた。


 それなのに、久しぶりに入ったこの部屋は妙に落ち着く。散らかっていて、飾り気がなくて、生活の匂いがして――自分の部屋よりよほど気が休まる気さえした。


 俺たちは子どものころから、お互いの家を行き来していた。

 けれど、自分の部屋以上に落ち着ける場所なんて、琴音の部屋以外では感じたことがない。


「麦茶でいい? それとも麦酒?」

「……麦酒のほうで」

「そう来たか。仕方ないな。今日は飲んで忘れさせてやろうじゃないか」

「うす」


 琴音の実家とうちの実家は、歩いて五分もかからない。田舎で子どもの数も少なかったから、近所で年の近い相手といえばほとんど琴音だけだった。小さいころから毎日のように遊んで、兄妹みたいに、あるいは姉弟みたいに育ってきた。


 嫌なことがあると、どちらかの家に集まっては、お菓子やジュースで憂さ晴らしをする。

 そんな習慣が、大人になった今も形を変えて続いているのだから、なんだか不思議だ。


「どうせなら、もう少しぱーっとやろうよ。あたしがつまみ作るから、悠大は駅裏の酒屋で酒買ってきて。普段飲まないようなやつがいいな」

「わかった。じゃ、つまみ代も含めてあとで折半な。行ってくる」


 ここらへんは、いちいち話し合わなくても通じる。

 桃香といるときは、何をするにも機嫌をうかがっていた気がする。好きだったから負担だと思わなかったけど、今思えば、あれは少し変だった。


 歩いて十分の酒屋に来たものの、普段飲まない酒と言われても、正直よくわからない。いつも飲むのは、安い居酒屋の生ビールもどきか、焼酎か、うっすら色のついているだけのハイボールくらいだ。考えてみれば、飲んだことのない酒のほうが多いのかもしれない。

 多すぎても少なすぎても困るので、名前だけは知っている酒を三本、炭酸水、氷、それから琴音の好きなコーラを買って帰った。




「あ、おかえり。ちょうど唐揚げが揚がるところ。氷、買ってきてくれた?」

「ただいま。もちろん。炭酸水も買ってきた」

「さすが。言わなくても察してくれるの、悠大くらいだわ」

「褒めても何も出ないぞ。何しろ今の俺は、自分の寝る布団さえない男だからな」

「よしよし。自虐できるなら、まだ大丈夫」


 背中をばん、と叩かれる。

 地味に痛い。でも、その雑な優しさが妙に心地よかった。別にマゾってわけじゃない。たぶん。


「で、何買ってきたの?」

「まずはバーボン」

「ワイルド系っすか」

「それからテキーラ」

「確かに飲んだことない。小さいグラスで一気飲みするイメージしかないや」

「あとウォッカ」

「こっちのコーラであたしを悪酔いさせる気まんまんってことでいいのかな」


 オレンジジュースとライム果汁も買ってきたから、それっぽくは飲めるはずだ。正しい飲み方かどうかはわからないが、どうせ琴音と飲むんだ。スタンダードも常識も、たぶんいらない。


「よっしゃ。唐揚げもできたし、まずはビールで乾杯。題して、騙されてへこんだ悠大をぶっ飛ばせ会!」

「なんか気に食わないけど……まあいいや。乾杯!」


 八時ごろから飲みはじめて、気づけばもう一二時。

 全部飲み切るほどではないにせよ、ボトルはしっかり減っていた。俺も琴音も、酒に弱いわけじゃない。でも、ザルってほど強くもない。今日はたぶん、ふたりとも少し飲みすぎている。


「ことね、へーき?」

「なにが?」

「飲みすぎてない?」

「飲んでるよ?」

「だよねー」

「だよだよ」


 俺も相当まわっているらしい。

 呂律がちゃんと回っているのかどうか、自分でもよくわからない。琴音もたぶん同じだ。


「悠大」

「んー?」

「トイレ、連れてって……」

「気持ち悪いのか?」

「おしっこ漏れちゃう……」

「女の子がおしっことか言うなよ」

「悠大にしか言わないし。ねえ、ほんとに連れてって……」


 漏らされたらたまったものじゃない。

 仕方なく琴音を背負って、トイレまで連れていく。小学生のころはよくこうして背負った気がするけど、こんなふうに触れるのはずいぶん久しぶりだった。

 思っていたより軽くて、やわらかかった。

 トイレの前で下ろし、「あとは自分でやれよ」とだけ言ってリビングに戻る。


 炭酸の抜けかけたコーラにウォッカを少し垂らし、一気に喉へ流し込んだ。

 琴音のことを女だと知らないわけじゃない。

 だけど、ひとりの“異性”として見たことは、今までほとんどなかった。なのに、さっき背中越しに伝わった体温を思い出すだけで、胸が妙にざわつく。


「いや、これは酒のせいだろ……。たぶん。たぶんな」


 ウイスキーにオレンジジュースって合うのかな、なんて考えながら適当にグラスへ注いでいると、トイレのほうから琴音の間の抜けた声が飛んできた。


「でーたーっ!」

「……やっぱ勘違いか」




 ベッドを背もたれにして琴音を座らせ、少しでも酔いがさめればと水を飲ませる。


「なんだこれ、水じゃん。酒を寄越せ、酒を」

「はいはい。いいから少し休め。今日は飲みすぎ」

「なんでー? 今日はめでたいんだから、もっと飲もうよー」

「なんで今日がめでたいんだよ。意味わかんないって。ほら、水飲め」

「……だってさ」

「ん?」

「今日がめでたいの、決まってるじゃん」


 琴音は半分閉じかけた目のまま、むにゃむにゃと続けた。


「あんたが、やっとその変な女と終わった日なんだから」


 思わず、手の中のグラスを見た。

 酒のせいで聞き間違えたのかと思ったけれど、琴音はたしかにそう言った。


「……それ、慰めになってる?」

「なってるよ。あたしの中では」

「自分本位かよ」

「悠大のくせにうるさい」


 琴音はそう言って、差し出した水を一口だけ飲むと、また眉をしかめた。


「人のこと、財布みたいに扱うやつ、あたし大っ嫌い」

「……」

「あんたが、平気なふりして笑うのも嫌い」


 いつもの勢いのある口調じゃなかった。

 ぼんやりと、でも妙にまっすぐで、酔っているからこそ取り繕えなかった声。


「だから今日はめでたい。悪いもんが、やっと剥がれ落ちた日だから」


 そう言い切ると、琴音はそのままベッドに横たわって目を閉じた。寝たのかどうかよくわからないまま、俺はしばらくその横顔を見ていた。


 悪いもんが剥がれ落ちた日。


 そんな言い方、普通はしないだろう。

 でも不思議と腹は立たなかった。むしろ、自分のお腹の奥の方に沈んでいたどろりとした何かを、言葉にしてもらえた気がする。


 結果だけ見れば桃香に騙され、金も家財も持っていかれた。

 それはたしかに最悪だ。最悪だけど、ほんとうにしんどかったのは、あの部屋でひとり立ち尽くしたとき、何より先に「自分が悪かった」と思ってしまったことなのかもしれない。


「……平気なふり、してたのかな」


 返事はない。

 琴音はすっかり寝息を立てていた。


 仕方なく、俺は予備の布団を敷いてもぐり込む。電気を消す前にもう一度だけベッドを見た。無防備に眠る幼なじみの顔は、子どもの頃と少しも変わらないようでいて、ちゃんと大人の女の人の顔でもあった。

 ドキッとしたのは酒のせい。

 そう言い聞かせたところで、胸のざわつきは少しも収まってくれなかった。




 翌朝、目が覚めた瞬間に猛烈な後悔が襲ってきた。

 頭がガンガンに痛い。喉もからからだ。しかも知らない天井――ではなく、知りすぎている天井だ。


「起きた?」


 台所のほうから聞こえた声に、のろのろ上半身を起こす。

 琴音はもう着替えまで済ませていて、コンロの上の鍋をかき回していた。


「……おはよう」

「はい、おはよう。悠大、顔死んでるね」

「そっちもな」

「失礼な。あたしは元気だし」

「声がかすれてる」

「酒焼けですー」


 くるりと振り向いた琴音の目の下には、しっかり隈ができていた。元気なわけがない。

 ただ、それを絶対に認めないのが飯島琴音という生き物だ。


「味噌汁できたから飲みな。しじみ入り」

「神かよ……」

「知ってた」


 昨夜のことを、どこまで覚えているのだろう。

『めでたい』だの『平気なふりが嫌い』だの、いろいろ言われた気がするのに、琴音はまるで何もなかったみたいな顔をしている。


 聞くべきか迷っているうちに、湯気の立つ椀を押しつけられた。

 しじみの出汁が胃に落ちる。驚くほど沁みた。


「今日はどうする?」

「……部屋、片づけないとな」

「よし。じゃ、朝飯食ったら行こう」

「え、来てくれるのか?」

「一人で空っぽの部屋に戻したら、また変な顔するでしょ、あんた」


 変な顔ってなんだよ、と言い返そうとしたけれどやめた。

 たぶん、図星だったからだ。




 昼前、俺たちはアパートに戻った。

 昨日は衝撃が強すぎてろくに見られなかった部屋を、今日は少しだけ冷静に見回すことができる。


 ほんとうに、何もない。


 冷蔵庫のあった場所はまだ真新しく四角く凹んでいた。テレビ台が置かれていた壁際には、埃の跡が残ったままになっている。たった三週間だったけど桃香が掃除をしていなかった痕跡だった。

 そのほか生活がごっそり切り取られた部屋は、不気味なくらい静かだった。


「うわぁ……」


 琴音が遠慮なく顔をしかめる。


「想像以上だね」

「だろ……」

「これはもう『夜逃げ』じゃん」


 おいこら、言い方。

 でも、その雑なくらいの率直さに少し救われる。


 俺は部屋の片隅で無造作に積まれていた自分の服を仕分けはじめた。スーツ、シャツ、部屋着、下着。露骨に「お前のものだけ残しました」と言わんばかりの選別に、いちいちむかつく。

 唯一残っていた家具は俺が実家にいたときから使っていた小さなタンス。その引き出しの一番下に手を入れたとき、ふと違和感を覚えた。


 薄い箱が、ない。


「……あれ」

「どうした?」

「いや……」


 もう一度、服をどける。引き出しを抜く。押し入れを開ける。

 ない。探していた小さな木箱が、どこにもない。


「悠大?」

「木の箱、見ていないか。これくらいの、古いやつ」

「いや、知らないけど……何入ってたの」

「腕時計」


 答えた自分の声が、思っていたよりも低かった。


「じいちゃんの形見」


 琴音の顔つきが変わった。


「……大事なやつじゃん」

「中学の卒業のときに、親父から渡されたんだ。じいちゃんが使ってたやつで、見た目だけは綺麗なくせに壊れていて使えなかったけど、だからって捨てられなくて……」


 普段はほとんど開けない引き出しにしまい込んでいた。

 金になるような品じゃない。古くて、動かなくて、たぶん他人から見ればただのガラクタだ。


 でも、俺にとってはそうじゃない。


 昨日までぼんやりしていたイライラが、そこで急にはっきりした輪郭を持つ怒りとなった。

 金がどうとか、家具がどうとか、そういう話じゃない。あれだけはだめだ。


「……取り返す」


 思わず口に出る。

 琴音は一拍だけ黙って、それから短くうなずいた。


「うん。取り返そう」


 その一言が、驚くほど頼もしかった。




 とりあえず部屋に残っていたものをまとめながら、俺たちは手がかりを探した。

 桃香のものは綺麗さっぱり消えていたが、完璧というわけではなかった。


 流しの下に丸めて捨ててあったコンビニ袋の中から、明細書が一枚。大通りにある宅配便会社のやつ。日付は、俺が帰ってくる前日。

 配送先の住所が途中まで書かれていたが近隣の市だというところまでしか破れていてわからない。


 さらに、洗面台の裏に落ちていたメモには、見覚えのないハンドルネームらしき文字列が書かれていた。


「これ、なんだろ」


 琴音がメモをひらひらさせる。


「SNSのIDっぽい」

「桃香の?」

「悠大のじゃなければそうじゃない? その子、フリマサイトとか使っていなかった?」


 そういえば、そんなこと言っていた気がする。使わなくなったコスメや服を売るのに便利とかでメ◯カリとかジ△ティーとかいったかな。

 琴音はすぐに自分のスマホを取り出し、メモの文字を打ち込んだ。


「あ、ビンゴ!」

「え、マジで」

「……うわぁ」


 画面をのぞき込んだ瞬間、思わず間抜けな声が出た。

 そこには、見覚えのありすぎるローテーブルの写真が載っていた。背景の床の模様まで、間違いなく俺の部屋のものだ。


『美品 北欧風ローテーブル 早い者勝ち』


「北欧風って。イ△アならともかくニ◯リだろそれ」

「そこじゃないでしょ」


 さらにスクロールすると、電気ケトル、ドライヤー、見覚えのあるラグ。

 そして、数点先にそれはあった。


『アンティーク腕時計 ジャンク品』


 写真は表側だけだったけれど、くすんだ銀色の文字盤に、じいちゃんの腕に巻かれていた革のバンド。間違えるはずがない。

 心臓が嫌な音を立てた。


「……これ」

「だね」


 琴音の指が、スマホの画面を素早く叩く。


「まだ売れてない。出品されたばっかだ」

「どうする」

「どうするもこうするも、買うふりして接触するしかないでしょ」

「そんな簡単に――」

「大丈夫。あたしがやる」


 琴音はきっぱり言って、その場でメッセージを打ちはじめた。

 驚くほど手際がいい。


『今日中に受け渡しできるなら即決します。駅前ならすぐ行けますがいかがでしょうか?』


 送信。

 数十秒もしないうちに返信が来た。


『可能です。夕方六時、東口ロータリー前で』


「……ほんとに釣れた」

「釣れたね」


 琴音はスマホを見たまま、静かに息を吐いた。


「悠大。行ける?」


 逃げたい、という気持ちはたしかにあった。

 桃香の顔を見るのも、あの声を聞くのも、正直しんどい。


 でも、形見の時計がある。

 それに、ここで逃げたら、たぶんまた同じ顔をする。空っぽの部屋で立ち尽くしていた、あのどうしようもない顔を。


「行く」


 そう答えると、琴音は「よし」とだけ言った。




 午後六時少し前。

 駅前は買い物客に仕事帰りの人、学校帰りの学生でごった返していた。


 ロータリーの端に立っていると、見慣れたワンピース姿が人波の向こうに見えた。

 桃香だ。


 胸のあたりが、すうっと冷たくなる。

 三日前まで「早く会いたい」と思っていた相手なのに、今はもう別の生き物みたいだった。


「……来た」

「うん」


 琴音は俺の少し後ろに立ったまま、前へは出てこない。助けるつもりはあっても、まずは俺に話させるつもりらしい。

 桃香は俺の顔を見るなり、露骨に眉を寄せた。


「え、なんで悠大がいるの」

「その時計、俺のだから」


 できるだけ平らな声を出したつもりだった。

 でも、喉の奥がひどく乾いていた。


 桃香は小さく舌打ちした。


「はぁ……面倒。だから手渡しは嫌だったのに」

「じゃあ売るなよ」

「だって要らないし、すぐに現金化出来るならしかたないでしょ」

「俺には要る」


 桃香は肩から下げていたブランド物の小さなバッグを開け、布に包まれた時計を取り出した。

 雑に持ち歩かれたのか、革ベルトは少し曲がっている。箱は捨てられたみたいだ。

 それを見た瞬間、腹の底から何かが湧き上がった。


「それだけ返して終わりにする気か」

「は? なに、その言い方」

「家具も現金も持っていっただろ。合鍵もまだ返ってきてない。このことは警察にも相談した」


 その言葉に、桃香の表情がわかりやすく歪んだ。

 隠しているつもりだろうけど、ほんの少しだけ。


「大げさなんだけど」

「大げさにしたのはそっちだろ」


 自分でも驚くくらい、声は震えていなかった。

 たぶん後ろに琴音がいるからだ。振り返らなくてもわかる。あいつは今、絶対に腕を組んでしかめっ面をして睨んでいる。


 桃香はしばらく黙っていたが、やがて息を吐いた。


「……借金、あったの」

「借金?」

「元彼の。保証人とか、そういうのじゃないけど、放っとけなくて。で、どうせ悠大なら、強く出ないと思った」


 さらっとした口調だった。

 まるで「駅前に新しいカフェできたんだよね」くらいの軽さで、とんでもないことを言う。俺と付き合いながら元彼とも切れていなかったのか。


「何でも許してくれそうだったし。優しいっていうか、鈍いっていうか」


 その言葉を聞いても、なぜか頭に血はのぼらなかった。

 代わりに、自分でも驚くほどにすっと冷めた。

 ああ、やっぱりそう見えていたんだ、と納得してしまったのかもしれない。


「……そうかもな」


 桃香が目を細める。


 たぶん、ここで俺がまた曖昧に笑うと思ったのだろう。

 でも、もう笑えなかった。


「でも、それと人のもの盗っていいのは別だろ」

「盗ったって、人聞き悪――」

「おまえが悪いことしたからそう聞こえるんじゃないのか」


 自分の口からそんな言葉が出たことに、一番驚いたのはたぶん俺自身だった。

 桃香も一瞬、言葉を失った顔をした。


「まずその時計を返せ。部屋の合鍵も。持っていった金と家財の処分益もだ。警察には、出品画面もメッセージも全部見せる事ができる」

「……脅してるの?」

「ただの事実を言ってるだけだ」


 少しの沈黙。

 駅前の雑踏だけがやけに大きく聞こえる。


 やがて桃香は、手にしていた腕時計を押し付けるように渡してきた。

 続けてアパートの鍵もバッグの中のから取り出して苛立ったように差し出してくる。


「もういい。返せばいいんでしょ」


 俺はそれを受け取った。

 壊れているはずの時計は、手のひらの中で妙に重く感じる。


「今言われた分、すぐに全部は無理。でも現金だけなら返せる。あとで悠大の口座に振り込む」

「……」

「返せるだけは返すから。だから、それで終わりにして」


 自分勝手にもほどがある。

 だけど、もう言い争う気力はなかった。


 俺が黙っていると、後ろから琴音が一歩だけ前に出た。

 低い声で、でも笑いも怒鳴りもなく言う。


「振り込み、今日中ね。逃げたら次はちゃんと被害届だから」


 桃香は露骨に顔をしかめたが、何も言い返さず、人混みの中へ消えていった。

 去っていく背中を、追いかけたいとは思わなかった。それどころか目で追うこともなかった。


 あんなに好きだったはずなのに、不思議なくらい。


 手のひらを広げ握っていた腕時計を見る。

 裏蓋の擦り傷も、バンドの小さなひびも、そのままだった。


「……よかった」


 思わず漏れた声に、琴音が横からのぞき込む。


「間違いない?」

「うん」

「そっか」


 それだけ言って、琴音は俺より先に歩き出した。

 いつもならもっと何か言うくせに、こういうときだけ余計なことを言わない。


「琴音」

「んー?」

「……ありがと」


 振り向いた琴音は、少しだけ目を丸くして、それからふいっとそっぽを向いた。


「いまさら」


 ずんずん歩いていく琴音の耳が少し赤かった。




 その夜も、結局俺は琴音の部屋にいた。


 まだ俺の部屋には何もないし、ベッドもないし、第一、あの空っぽの部屋にひとりで帰る気にはなれなかった。

 琴音はスーパーで買ってきた焼きそばをキャベツだけ入れて炒めたらフライパンのまま出し、俺らはそれを取り皿も使わずにつつく。

 昨日よりずっと手抜きな夕飯なのに、妙に落ち着いた。


「で、現金はほんとに振り込まれた?」

「さっき確認したら入ってた」

「へえ。やるじゃん、あいつ」

「そこは褒めるところじゃない」

「たしかに」


 しばらく黙って麺を啜る。

 窓の外では、どこかの部屋のテレビの音がかすかに聞こえる。生活音だ。ごく普通の、誰かの暮らしの音。

 それが妙にありがたかった。


「なあ、琴音」

「ん?」

「昨日、言ってたこと」

「なにを」

「今日はめでたい、とか。平気なふりしてるの嫌い、とか」


 途端に、琴音の箸が止まった。

 わかりやすい。こんなにわかりやすいやつだったっけ、こいつ。


「……酔っ払いの戯言ですー」

「覚えてるんじゃん」

「いや、別に、うっすらと?」

「へえ」

「おかしな笑い方すんな」


 からかうつもりはなかった。

 でも、言葉にすると少しだけ楽になる気がした。


「昨日、あのあと寝る前に考えたんだよ」

「なにを」

「俺、桃香のこと好きだった。たぶん本気で」

「……うん」

「でも、好きっていうより、嫌われないようにしてたのかもしれない」


 琴音は何も言わない。

 その沈黙がありがたかった。


「機嫌損ねないようにして、変なこと言わないようにして、金使ってもいい顔して。そうしてるうちに、それが恋愛だと思い込んでた」


 手元の焼きそばから、もう湯気は立っていなかった。


「でも、琴音って女の子は、相変わらず昔からずっと、このままだったなって」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる」

「ならよし」


 そこでようやく、琴音も箸を動かした。

 けれど一口食べたあとで、ぽつりと呟く。


「……あたしは、嫌だったよ」

「え」

「悠大が、あの子の前だと変になるの」


 視線はフライパンに向けたままだった。


「一回だけ街で見かけたことがあったの。あんた、なんでも『いいよ』って言って、無理してるくせに楽しそうな顔して。見てて、ずっとむかついてた」

「むかつく、なのか」

「むかつくでしょ。こっちは子どもの頃から見てるんだから」


 そこまで言ってから、琴音は観念したみたいに大きく息を吐いた。


「……好きだったし」


 今度は、俺の箸が止まる番だった。


「ずっと、って言うと重いから言いたくないけど、まあ、それなりに。かなり。たぶん、だいぶ前から」

「琴音」

「でも別に、いま答えろとか言わない。今日あんなことあったばっかだし。あたしもさすがに、そのへんは空気読む」


 ぶっきらぼうに言うくせに、声はほんの少し震えていた。


「ただ、昨日の『めでたい』は本音。あんたがひどい目にあったのがめでたいんじゃなくて、あんたが変なところから戻ってこられるかもしれないって思ったから」


 そこで初めて、琴音はこっちを見た。


「……ごめん。性格悪いよね」


 そんな顔をするんだ、と思った。

 いつも偉そうで、遠慮がなくて、殴るときは本気で殴るくせに、こんなときだけ少し泣きそうな顔をする。


「いや」


 俺はゆっくり息を吐いた。


「性格悪いのは知ってる」

「ぶん殴るぞ」

「でも、たぶん俺、その悪さに何度も助けられてる」


 琴音が黙る。


「桃香との部屋……じゃなくて、俺の部屋か。あそこ、昨日帰ったとき、ほんとうに空っぽだったんだよ」


 自分でも何を言い出すんだと思ったが、口は止まらなかった。


「家具がないとか、金がないとか、そういうのももちろんきつかった。でも一番きつかったのは、帰ってきても誰もいないってことだった」


 琴音の睫毛が、わずかに揺れる。


「なのに、おまえんとこ来たら、散らかってるし、酒くさいし、飯うまいし、うるさいし……なんか、すげえ普通で」

「褒めてる?」

「褒めてる」

「ならよし」


 さっきも聞いたやり取りなのに、今は少し違って聞こえた。


「俺、帰る場所ってこういうところなんだなって思った」


 言ってから、さすがにくさいかな、と少し恥ずかしくなる。

 けれど琴音は笑わなかった。


「それ、ずるくない?」

「ずるいと思う」

「失恋したてでそういうこと言うの、反則」

「うん」

「最低」

「うん」


 そこで琴音はとうとう吹き出した。

 泣きそうな顔のまま笑うのは反則だと思う。


「……ほんと、ばか」

「知ってる」

「すぐ結論出さなくていいからね」

「うん」

「でも、期待はするから」

「うん」


 その返事をしたとき、自分の中でもう答えはほとんど出ていた。

 ただ、焦って言葉にしても、きっと今の俺には軽くなる。だからすぐには言わないでおこうと思った。

 代わりに、俺はテーブルの上に置いたままだったじいちゃんの時計をそっと撫でた。

 止まった針は、当然もう動かない。けれど、なくなったと思ったものが手元に戻ってきた、その感触だけで十分だった。


「そうだ」


 琴音が急に顔を上げる。


「明日、家具見に行こっか」

「は?」

「ちゃんとした布団も必要だし、テーブルもいるでしょ。最低限ないと生活できないじゃん」

「いや、でも金が」

「折半」

「なんでおまえが折半するんだよ」

「じゃあ貸し。出世払い」

「いつ返せるかわからんぞ」

「そのへんは一生かけて考えて」


 軽い口調のくせに、意味だけは妙に重い。

 またどきりとした。


「……じゃあ、とりあえず布団から」

「よし。ついでにカーテンも新しくしな。あの部屋、前のやつだと趣味悪かったし」

「あー、たしかに」

「あと変な観葉植物は却下ね。あんた絶対枯らすから」

「なんで観葉植物置く前提なんだよ」

「新生活ってそういうものでしょ」


 新生活。


 その言葉を、今度は悪い意味ではなく聞けた。

 失ったものはたしかにある。家具も、思い出も、たぶん恋だって少しはそうだ。けれど、空っぽになったからこそ入るものもあるのかもしれない。


「ねえ、悠大」

「ん?」

「おかえり」


 何気ない声だった。

 あまりに自然で、一瞬、聞き流しそうになるくらいに。

 それでも、その一言は、昨日空っぽの部屋で聞こえなかったどんな言葉よりも、まっすぐ胸に届いた。


「……ただいま」


 狭い部屋だった。

 散らかっていて、酒とソースの匂いがして、床には昨日脱ぎ捨てた靴下と酒瓶がまだ転がっている。


 でも今度は、ちゃんと返事があった。


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― 新着の感想 ―
女を見る目が無かった男の話なのかな? てか、家財一式持ち去る彼女の胆力に脱帽した。
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