第1章 目覚めたら、森の民だった 2
その時。
外から、足音がした。
軽い。
けれど迷いがない。規則正しく、そして――どこか“守る”気配を伴っている足音。
百合江は反射的に身構えた。
知らない世界。知らない身体。知らない自分。
ここで出会う誰かが敵か味方か、それすら分からない。
樹の裂け目が、扉のようにするりと開く。
木の繊維はほどけるように動き、光が差し込む。
現れたのは、背の高い青年だった。
――いや、青年に見えるだけで、きっと長命種だ。
髪は白銀。だが毛先にかけて若草色が淡く溶け、森の光を受けて春の葉のように揺れる。
瞳も同じ若草色で、深い静けさを湛えていた。
鎧ではなく、儀礼にも軍務にも対応できそうな上質な外套を纏い、胸元には簡素だが重みのある徽章が光っている。
何より。
その立ち姿はエルフの姿をした百合江に全身全霊で”守る”と伝えていた。まるで彼女の”盾”であるかのように。
彼は、室内を一瞥し、少女を見つけると、明らかに息を吐いた。
緊張をほどくための、短い呼吸。
そして距離の詰め方は慎重で、相手を驚かせない角度を選んでいる。
「……ユリィ」
呼びかけが、胸の奥に落ちる。
知らないはずの呼称なのに、なぜか耳に馴染んだ。
青年はほんの少し眉を下げ、百合江の顔を覗き込みながら柔らかく言った。若草色の瞳の中に光を反射すると、少女と同じ銀の輪が揺れている。
ーー......なんて綺麗な瞳なのかしら。
「目が覚めたんだね。……よかった」
「木々が君の目覚めを知らせてくれたんだよ」
その声の温度が、百合江の緊張をほどいた。
――あらあら、清一さんに、似ているような...?
顔立ちではない。雰囲気だ。
相手を落ち着かせようとする間合い。声の高さ。言葉の選び方。
心配すると、相手の顔を覗き込む。清一さんの癖が、そこに重なる。
百合江は、思わず一歩後ずさりかけて、足を止めた。
怖いのは、彼ではない。
“安心してしまうこと”が怖い。
青年はその揺れを見抜いたように、一歩下がり、距離を保つ。
「ユリィ。大丈夫。ここは安全だよ。君が倒れてから……ずっと、目が覚めるのを待っていた」
倒れて、から。
百合江の頭が追いつかない。
けれど青年の声には、説明より先に安堵がある。答えを押しつけず、ただ“生きている”ことを確かめたがっている。
「……わたし、が……」
「倒れた……?」
口を開くと、言葉がほどけない。
百合江の中で、百年の自分と、今の身体の自分が衝突している。
青年は、百合江を椅子に座らせると、ゆっくりと片膝をついた。目線を合わせるために。
自分の大きさを誇示しないために。
それは軍務の中枢にいる者の、無意識の配慮だった。
「おれはセラヴィ・カイル・アルヴァリス。君の兄だ」
――兄。
その瞬間、百合江の頭の中が真っ白になる。
「……兄……? わ、たしに……?」
セラヴィは頷き、微笑みをほんの少しだけ深くした。
若草色の瞳が、森の光に柔らかく滲む。
「うん。君はユリエル・イヴェルナ・アルヴァリス。俺の妹ユリィだ。……だから、戻ってきてくれて本当に良かった」
戻ってきて。
その言葉は、百合江にとって“転生”の意味に聞こえる。
けれどセラヴィにとっては、別の意味なのだろう。
倒れていた妹が目を覚ました。
それだけの、切実な祈り。
「……ユリエル……」
名を口にした瞬間、胸が痛む。
自分は百合江だ。百合江として百年を生きた。けれど今、口にした名は確かに“自分の喉”に馴染んでしまう。
知らないのに、知っている。
“この世界”の記憶が、薄い霧の向こうにある気配がする。だが百合江の記憶が強すぎて、霧が晴れない。
「ねぇ…セラ…ヴィ?」
「……私、どうして倒れてたの?」
尋ねる声が震えた。
「森と鋼のあいだ」を読んでいただきありがとうございます。作者のヒトツキの樹です。
ユリエルの兄セラヴィ登場です。彼はどんな活躍をしてくれるか楽しみです。
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