第1章 目覚めたら、森の民だった 1
――息が、吸えない。
胸の奥に、まだ「終わり」の余韻が残っている。
布団の重み、冬の星、指先の冷え、静かな痛み。百年ぶんの生活が、薄い膜のように身体に貼りついて離れない。
なのに、肺に入ってくる空気は――冷たいのに甘い。土の匂いが濃く、葉の青さが刺さるほど鮮烈で、どこか“光”の味がした。
百合江は思わず身を起こそうとして――そこで初めて、自分の身体が思う通りに動きすぎることに気づいた。
軽い。
骨が軽い。
関節が、きしまず滑る。
「……あら……?」
声が出た。若い。
それだけで、背中に冷たい汗が走る。
百合江は、手を見た。
指が長い。細い。爪の形が整いすぎている。皮膚は張りがあり、血管の浮きも、しわも、ない。長年畑仕事で固くなっていたはずの手のひらは、柔らかく――それでいて、見たことのない淡い光を内側に宿しているようだった。
「……あらあら?…」
思わず漏れた声に、自分でぎょっとする。
あまりにも自然に出た。百年染みついた口癖が、若い喉を通り、軽やかな音として耳に入る。
視界が揺れる。
眩しさに目を細めると、そこは見慣れた天井でも、木の梁も電球もない。
巨大な樹の根が、壁になっていた。樹皮は白く、脈のような輝きがゆっくりと流れている。天井に相当する場所は高く、葉の隙間から漏れた光が薄い粒子となって漂っていた。空気そのものが、静かに呼吸している。
森が、呼吸している。
百合江の喉が鳴った。
不意に、心臓が早鐘を打ち始める。
――死んだ。
――私は、確かに死んだ。
百年生きて、終わりを迎えた。
清一さんの亡骸を見送ってからも、畑を続け、孫の成長を見届け、最後は自分の布団で眠った。怖くなかった。むしろ、満ち足りていた。
なのに、どうして。
「……夢……?」
言葉にした途端、否定が追いかけてくる。
夢にしては匂いが生々しい。光が重い。肌に触れる空気の温度が、現実を知らせる”針”のように刺さる。
百合江は立ち上がった。足がふらつかない。若い身体は、まるで最初からこの森の重力に馴染んでいるみたいだった。
床は木ではなく、苔ではない。柔らかな織物――葉脈の文様が走った布が敷かれ、その下から樹の温もりが伝わってくる。足裏が、森に吸い込まれる感覚。
――落ち着いて。
――深呼吸。
百合江は大きく息を吸って、はきだした。
百年の癖で、まず状況整理をしようとする自分がいる。
怖いのに、頭は働く。戦争で焼け野原になった土地を“再生”させたあの時も、恐怖はあった。それでも手を止めなかった。
だから今も、震える指を握りしめて言い聞かせる。
「あらあら、百合江……落ち着いて……」
でも、その名前が、ここでは浮いている。
名前。
そうだ、名前が――。
「……っ」
鏡のようなものを探して視線を彷徨わせた瞬間、樹の壁に埋め込まれた水晶板が目に入った。淡い光を溜めたその板が、ぼんやりと像を映す。
百合江は、ゆっくりと近づき水晶板を見つめた。
そこにいたのは、知らない少女だった。
耳が――長い。
頬は若く、肌は透けるように淡い。
瞳は藤色。深い紫に、薄い光が差すたび銀の輪が揺れる。
そして髪――白銀に近い淡い色が、柔らかなウェーブで肩に落ちていた。
すべてが清く整っている、この森の気配の中で、その波は不自然なほどに自由だった。
百合江は指先でそっと、巻きつく髪をつまむ。
――なんだか、天然パーマみたいね。
どんなにきつく結ってもまとまらず、自由に跳ね回る髪はからかわれる対象となり、若いころは悔しくて泣いたこともある。
それが今は、まるで初めから“この人”の一部だったかのように、柔らかく光を含んでいる。
「……エルフ……?」
ぽつりと口から出た言葉。
妙に納得してしまった。
――エルフ。
――転生。
――異世界。
孫娘が好きだった漫画や小説。
「おばあちゃん、このお話面白いんだよ!」と顔を輝かせて、異世界に転生する話を何度も話して聞かせてきた。耳が長い種族。森に住む長命の民。魔術文明。王家と貴族。
百合江は、笑って聞いていた。
「そんなに綺麗な人たちがいるなら会ってみたいねぇ」と、茶をすすりながら。
でも――今、水晶板が映し出している、百合江であろう、その姿。
恐ろしいほど整然と孫娘との思い出の知識に当てはまってしまう。
百合江は震えてしまった。
理解できる。だからこそ、怖い。
――私は、戻れない。
――百合江の生は終わったはず。
胸の奥が、急に冷える。
失うことが怖い。何度も失った。でも、百合江は人生を全うした。穏やかに手放したはずだった。なのに。今、また“奪われた”みたいに感じてしまう。
ーー私は、ここでまた生きるの?
「清一さん……」
無意識に呼んだ亡き夫の名前が、森の空気に吸われて消える。
清一さんはもう、いない。
穏やかに息を引き取った横顔が脳裏に浮かぶ。八十八歳。白い髪。指先の温度がゆっくりと消えていった、あの夜。悲しかった。でも、納得していた。お互いに「よくやった」と言える人生だった。
――じゃあ、私は。
――なぜ、ここに?
答えのない問いが、喉元まで迫り上がる。
「森と鋼のあいだ」を読んでいただきありがとうございます。作者のヒトツキト樹です。
百歳で大往生した百合江の人生が再びエルフのユリエルとしてはじまります。
森と鋼の民が対立する世界で、
彼女はやがて敵国の王太子と出会うことになります。
応援していただければ嬉しいです。




