第1章(終) 間に合わなかった手紙
夜の王宮庭園は、昼とはまるで別の森だった。
枝の間に浮かぶのは月光ではなく、淡い光の粒だった。蛍にも似ているが羽音はなく、ゆっくりと呼吸するように明滅している。白樹の幹を伝い、空気を漂い、やがて溶けるように消えていく。
森そのものが、夜になると光を放つのだ。
ユリエルの白銀の髪にも、その粒が触れる。光を受けると乳白に近い色へと変わり、柔らかなウェーブが静かに揺れた。腰まで伸びた髪は緩くまとめられているが、完全には整えられていない。
前世で「まとまらない髪」とからかわれた髪は、今も確かに残っていて、エルフの世界でも異質であるようだ。
リュネがその髪に頬を寄せた。
「きれい」
「あらあら、ありがとう」
「昔はね、そう言ってくれる人はいなかったのよ」
小さく笑う。
整えようとするほど広がっていた百合江の天然パーマを「百合江は百合江だ」と、蓮は気にせず、清一さんは「ふわふわで君らしい」と、微笑んでくれた。
森の光が、静かに揺れる。
レンヴァルトの瞳が、夜の奥に浮かぶ。
星のない夜空のような漆黒。底の見えない静けさ。その奥に、感情が高ぶった瞬間だけ滲む赤銅の光。
蓮も、同じ瞳をしていた。
静かな時は何を考えているのか分からない。だが怒りや迷いが走ると、奥に火が灯る。その赤は一瞬で消えるが、見る者の心に強く残る。
戦場で見たあの赤銅は、百合江の記憶を強く揺さぶり、長く眠っていた感情を鮮やかに呼び覚ました。
―――――――――――――――――――
百合江が蓮と出会ったのは、十代の終わり。
山間の村で、畑を挟んで向かいに住む青年だった。鉄黒に近い短い髪、夜のように深い瞳。笑うと目尻がわずかに下がる。
はじめは作物や天候の話をしていた。
いつの間にか、畑の端で並ぶ時間が長くなり、言葉がなくても隣にいることが当たり前になっていた。
目が合うと、どちらからともなく逸らして笑う。
そんな、静かなはじまりだった。
戦うより、作ることを好む人だった。
「争っても、腹はふくれない」
よく、そう言っていた。
だが国が揺れ、徴兵の紙が届いた。
「本当は、行きたくない」
蓮は月の下でそう呟いた。
その漆黒の瞳の揺らめきが蓮の涙のように見えて、百合江は息を飲む。
止めたかった。
行かないで、と。
でも言えなかった。
止めれば、彼の決心を揺るがせてしまうと分かっていたから。
「でもな、ここがなくなったら、お前が笑う場所がなくなる」
少し微笑んでいるような表情には決心が浮かび、瞳には赤銅の光が差し込んでいた。
戦うことで守る。
百合江の平和を。
それが彼の選択だった。
出征の日、百合江は笑って送り出そうとしていた。
笑わなければと思った。
泣けば、彼の決意を揺らしてしまうとわかっていたから。
門の前で、蓮は一度だけ足をとめた。
そして、何も言わずに百合江を抱きしめた。
鉄黒の短い髪が頬に触れ、彼の鼓動が伝わってきた。
蓮の温かさと匂いを、百合江は今でも覚えている。
「行ってくる」
「……うん」
――行かないで
――必ず、帰ってきて
最後まで言えなかった。
蓮もまた、「待ってほしい」とは言わなかった。
蓮が村を離れてから数日後、百合江はようやく手紙を書いた。
震える手で、「帰ってきて」と。
出征後に綴ったその言葉は、間に合わなかった。
手紙は蓮の手に届かず、戦死の知らせだけが薄い紙一枚で届いた。
言えなかった言葉が、喉の奥に残った。
間に合わなかった。
それでも人生は続いた。
清一さんと出会ったのは、その数年後。
穏やかな人だった。無理に笑わせようとせず、無理に忘れさせようともしない。ただ隣で寄り添い、守ってくれる人だった。
「忘れなくていい」
そう言ってくれた。
百合江はその言葉に救われた。
清一さんもまた、戦地へ赴いていたが戦争を誇ることはなかった。
守るということの重さを、語らずに理解していた。
清一さんと、結婚し、子を持ち、孫を抱いた。
穏やかな最後を迎えた清一さんを見送り、百合江は静かに百年を生きた。
そして百歳の夜、自分の布団で目を閉じた。
終わりは、静かだった。
それなのに。
――なぜ、また始まったの
レンヴァルトの瞳が鮮やかに思い出される。
鉄黒の髪。鋼の気配。
そして漆黒の奥に滲む赤銅。
王太子の姿の先には、あの時の蓮のように葛藤があるのだろうか。
――私は森の民
――彼は鋼の民
――わたしは戦いたいわけじゃない…
今度こそ。
間に合わせたい。
戦場へ向かう誰かに、言えなかった言葉を。
行かないで、と。
帰ってきて、と。
百合江が抱えた後悔は、ユリエルの中で確かに息をしている。
それは恋ではない。
……まだ。
リュネが見上げる。
「ユリィ ないてる?」
ユリエルは頬に触れる。
指先が、静かに濡れている。
「……あらあら、そうね」
「少し、思い出がこぼれただけよ」
森の光がゆっくりと漂う。
終わりを知っているからこそ、今を選ぶ。
また生きることの意味は、まだ見つからない。
〜第1章 【完】〜
「森と鋼のあいだ」を読んでいただきありがとうございます。作者のヒトツキト樹です。
やっと第1章の最後まで辿りつきました!
ついつい長くなってしまいがちですが、お付き合いいただきありがとうございます。次からは第2章です。ユリエルとレンヴァルトの関係が少し深まります(たぶん…)
森と鋼はまだまだ緊張状態です…(たぶん…)
引き続き、よろしくお願いします。
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