プロローグ ー百年の終わりー
百年、生きた。
山あいの家で、朝霧の匂いを吸い込みながら目を覚まし、土を触り、火を起こし、季節を数え、 何度も、何度も、春を迎えた。
荒れ果てた世界で子を育み、世界が豊かに移り変わる中で孫を抱き、友が先に逝き、夫の死を見届けた。
世界は静かに形を変え続ける中で生きた。
百合江は、最期の夜も穏やかだった。
窓の外では、冬の星が凍るように瞬いている。
指先はすでに感覚を失いかけていたが、不思議と怖くはなかった。
戦争で焼けたあの土地に、もう一度、苗を植えた日のことを思い出していた。
灰の下から芽が出たとき、 ああ、まだ終わらないのだと思った。
──でも。
あの人は、帰ってこなかった。
「帰ってきて」と書いた手紙。
震える指で、何度も書き直した文字。
あれは、間に合わなかった。
百合江は目を閉じる。
家族を愛し、愛され、幸せな人生だった。
ただ、間に合わなかったことだけが。
それだけがずっと、胸の奥で小さく痛んでいた。
けれど。
「終わりを知っているからこそ、今を選べる」
それが彼女の人生だった。
最後の息は、驚くほど静かだった。
音もなく、百年を生きた命の重みが、溶ける。
──そして。
森の匂いがした。
土よりも深く、
鉄よりも重い、
知らないはずの、大地の鼓動。
彼女は目を開ける。
透き通る天蓋。
高く伸びる白樹。
淡い光を帯びた空気。
そして、自分の指先が、
人ではないほどに細く、長く、美しかった。
「……あら?」
声が若い。
胸の奥に、百年分の記憶を抱えたまま、
彼女はゆっくりと起き上がった。
終わりの先に、続きがある。
それは間に合わなかったことへの罰か、
それとも、もう一度の機会か。
彼女はまだ知らない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
今度こそ。
間に合わせる。
森の奥で、
まだ見ぬ鋼の音が、遠く響いていた。
はじめまして。
「森と鋼のあいだ」を読んでいただきありがとうございます。作者のヒトツキト樹です。
この物語は、百年の人生を終えた女性が、
エルフとして生き直すことから始まります。
森と鋼の民が対立する世界で、
彼女はやがて敵国の王太子と出会うことになります。
ゆっくり更新していきますので、応援していただければ嬉しいです。




