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学園に入学したらひとつ年上の婚約者が女と堂々イチャついていた

リッセマン伯爵家の娘であるアビゲイルは思い出した。

五歳の頃。

婚約者と庭にいるときに、好奇心に駆られた二人が岩を持ち上げたら裏にびっしり虫がついていたことを。

そんなどうでもいいことが頭をよぎりながら、アビゲイルは二階の窓から中庭を見ていた。

前髪をカチューシャで上げたホブヘアーは黒髪で目も黒茶。

はっきり言えば地味なうえに、顔立ちも可愛いかと言われれば一応可愛いのではと思わせる程度。

そして何より表情がスンと何を考えているのかわからない無表情だった。

隣にいる、友人になって数週間のヌーリエとはえらい違いだ。


「あれ、アビゲイルの婚約者だよね⋯⋯」


言いにくそうに気まずそうに口を開いたヌーリエを一度見て、アビゲイルはもう一度中庭を見下ろした。

ベンチにはヌーリエの言ったとおりアビゲイルの婚約者が座っている。

金髪にたれ目という保護欲をそそりそうな女子生徒と並んで。

ついでに女子生徒が婚約者の腕に、腕をからめている。

腕を絡められているアビゲイルの婚約者は、ナティルという。

ザカスティ公爵家の嫡男だ。

肩まである髪はまっすぐな金茶色。

隣の人物に向ける瞳は赤褐色だ。

穏やかな雰囲気は、派手な美しさではなく人形のように綺麗で眺めていたくなるものだった。

五歳の頃からのひとつ年上の婚約者。

一足先にこの王立学園に入学していたナティルを追うように、今年アビゲイルは入学した。

けれど入学式のあとに挨拶に行ったら、金髪の彼女を腕にぶらさげてそっけなく返事は一言。

それで会話終了だ。

初対面の人間同士だってもうちょっと頑張って会話するはずだ。

漏れ聞く話によると、入学式の一ヶ月程前からこんな状況らしい。

そうなのかと思いつつ、だからかとも思う。

一ヶ月前から手紙が来ないし、お茶に誘っても予定があると断られてナティルからは誘われない。

入学式がじつに一ヶ月ぶりの再会だったのだ。


「大丈夫?」

「ええ」


おそるおそる問いかけてきたヌーリエに、アビゲイルは平坦な声で答えた。

ヌーリエは視線をうろつかせて、言いにくそうに唇を開く。


「噂じゃ半年前に編入してきた人なんだって。ピルキッシュさんと言うそうよ。殿下やその周りの方々と仲が良かったけれど、あんまり接点のなかったナティル様と急に近くなったらしくて」

「なるほど、友人から恋人に発展したと」

「アビゲイル!」


あっさりと言いにくいことを結論として出してしまった友人に、ヌーリエが悲鳴のような声を上げる。


「その⋯⋯ナティル様は人気があって、今年婚約者が入学してくるって噂になってたらしいんだけど、その直前だったから、その」

「注目度が上がったわけね」


どおりで視線がうるさい筈だ。

すべては婚約者が原因だったらしい。

もう一度ちらりとナティル達を見やってから、アビゲイルは顔をそらしてもともとの進行方向へと歩き出した。

「アビゲイル!」とヌーリエが呼ぶ声が訊こえたけれど、アビゲイルは振り返ることもしなかった。 

 

□  □  □  □


学年が違っても、食堂などは全学年が入り乱れている。

そうすると、必然的に目立つ人物なんかも同じ空間にいることになるので、そこにいる人間の目がその人物へ集中することにもなってしまう。

周りからはひそひそとひそめているつもりで、ひそめられていない話し声がさざなみのように訊こえてくるし、不躾な視線もバッシバシに刺さってきていた。

食事のトレーを持っているナティルに、ピルキッシュが楽しそうに話しかけて歩いているのが見える。

ときおりトレーを片手で持って、ピルキッシュがナティルの腕を掴んでいた。

トレーを落とすからそれはやめた方がいいだろうに。

テーブルで食事をしていたアビゲイルは、フォークを持ったままその二人をじっと見る。

くすくすと周りから訊こえる声は笑っているので、おそらくアビゲイルを馬鹿にしているのだろう。

食事の手を止めたまま二人を見ていると、ピルキッシュはベタベタとナティルに触れているけれど、ナティルはトレーを両手に持ったまま好きにさせて笑っている。

そして、席を探すように目線を動かしたあと、パチリとアビゲイルとナティルの目があった。

けれどすぐに、ふいとそらされてしまう。


「アビゲイル、大丈夫。気にしちゃ駄目よ」


ヌーリエが自分がされたかのような青い顔で、声を震わせる。


「ふむ」


少し考えるように小首を傾げたあと、アビゲイルは無表情で食事を再開した。

ヌーリエが微妙な顔をしていたけれど、さっさと食べて立ち上がる。

慌てて追いかけてきたヌーリエと食堂を出たところで、アビゲイルは立ち止まった。


「やあ、どうも」


目の前に男子生徒が立ちふさがるように現れたからだ。

ゆるいウェーブの茶色い髪に瞳。

それなりに顔は整っているけれど、ナティルをつい思い出してしまえば、そこそこの顔と思うことは許してほしい。

一学年上の、ナティルと同じ二年生。

第二王子のプリスクだ。

アビゲイルの知る限り、顔見知り程度の仲だというナティルからの情報がある。

ぺこりと頭を下げると、ヌーリエが死にそうな顔をしていたから先に行っていいと目くばせをした。

プリスクに頭を下げると、まるで獲物から逃げる仔兎のようにヌーリエは青い顔でさささっと立ち去って行く。

普段に比べて動きが素早い。

それを見送りつつ、プリスクに向き直った。


「君、ナティルの婚約者だよね」

「アビゲイル・リッセマンと申します」

「大丈夫かい?」


名前を名乗ると、間髪入れずによくわからない心配を口にされてしまった。

意味がわからない。

アビゲイルは本人的には訝し気な顔をしたつもりだったけれど、表情筋はかけらも動かなかった。


「何がでしょうか?」


不思議そうに問いかけると、プリスクの隣にいた男子生徒が口を挟んできた。


「強がらなくていいって。ナティルのことだよ」


あからさまに同情の顔をしているのは、確か父親が騎士らしくプリスクの傍にいる一人だ。

仮に騎士男としておこうとアビゲイルは思った。

ヌーリエは案外ゴシップ好きで、色々と訊いた気がするけれど有益だなと思う情報以外はあまり覚えていなかった。

アビゲイルと第二王子が関わることなんて、ほぼないと思っていたからだ。

婚約者であるナティルが懇意にしていたらそうではなかっただろうけれど、顔見知り程度と言われてしまえばそう思ってしまうのも仕方ないだろう。

アビゲイルが騎士男の言葉にどう返せばいいのやらと思っていると、プリスクが訳知り顔で口を開いた。


「入学してあんな状態なんてショックだっただろう。年上の方が年下の婚約者が入学する頃には変わってたなんて、ままあることだ」

「そうだぞ。愛想がつきるのも無理はない。可哀想に」


とうとう可哀想とまで言われてしまった。

アビゲイルは返事をした方がいいのかと思いつつも、口を挟む隙間がなくて困ってしまう。

眉が思わず下がるけれど、プリスク達が気づくほどの変化はなかった。


「婚約の解消はアビゲイル嬢からは難しいだろう」


それはそうだ。

ナティルは公爵家でアビゲイルは伯爵家。

力関係は火を見るよりも明らかだ。


「なんなら私があいだに入ろう」


だいぶ乗り気だ。

他人の婚約に何故そんなにテンションを上げているのか、アビゲイルにはわからない。


「⋯⋯お気遣いありがとうございます。でも気にしないでください」

「お、おい!」


ぺこりと頭を下げると、涼し気な無表情でアビゲイルはその場を歩き去った。


□  □  □  □


公爵邸で公爵夫人とテーブルを囲んで、アビゲイルは一級品の紅茶を一口飲んだ。


「ナティルは出かけているから気にしないでね。まったく、あの子ったら。学園で面倒事を起こすなんて」

「面倒⋯⋯まあ面倒ですね」


アビゲイルはカップをソーサーに戻して、一瞬考えたあとに頷いた。

月に何度か夫人とお茶を囲む習慣は、アビゲイルにとってなかなか楽しいものだ。

ふうとため息を吐いた夫人に、思わず苦笑してしまう。

口角が一ミリだけ上がった。


「せっかく婚約者が入学したっていうのに。本来なら不慣れな婚約者を気遣う立場よ、まったく。学園ではいわれのないことを言われたりしていない?」


焼き菓子をひとつ食べたあと、アビゲイルは素直に頷いた。


「大丈夫です。これおいしいですね」

「あなたの家から紹介された隣国のお菓子よ」

「なるほど、父が」

「あなたの家の商会は本当に、手広く手堅く商売していて素晴らしいわ。色んな珍しいものを取り扱っているし」


楽しそうに夫人が微笑んだ。

アビゲイルとしても家や父のことを褒めてもらえるのは、嬉しい。


「好奇心が旺盛ですから。兄も同じです」

「あら、じゃあ伯爵家は安泰ね。うちとの事業拡大も不安がないわ」


両手をポンと公爵夫人があわせて、満足そうに笑う。

そこでふと、アビゲイルは学校で言われたことを思い出した。


「そういえばプリスク殿下に婚約解消をすすめられました」

「⋯⋯あら」


すいと公爵夫人の瞳が若干細まった。


「ナティルと交流があるとはいえ、殿下が他家の婚約に口を出したのかしら」


公爵夫人の様子を特に気にせずアビゲイルは「ええ」と頷いた。


「解消したければ我が家からは無理だろうから、あいだに入ると」

「うふふ、そうなの。そんなことがあったのね」


ころころと笑いながら、公爵夫人はアビゲイルに向けてにっこりと微笑んだ。

その笑みはとても優雅でありながら、肉食のネコ科を連想させる。

美しい外見に反して、鋭い爪を持ち合わせる夫人だということをアビゲイルは知っていた。

なんせ息子のナティルとは五歳の頃からの仲なのだから、その家族とも同じ年月交流がある。


「アビゲイルがお嫁に来るのを楽しみにしているから、ナティルのことは気にしないでくれると嬉しいわ」

「気にしていないので大丈夫です」

「そう、よかった」


まったく変わらない無表情で、アビゲイルは淡々と返事を返した。

もとよりアビゲイルは入学してから交流のない婚約者のことは、気にしていない。


「そうだ、以前から我が商会で出している飛び出す絵本なんですけど」

「あの画期的な本ね。懐かしいわ、二人共好きだったものね。よく二人で真似して作っていたのを覚えているわ」


公爵夫人の言葉に、アビゲイルは肯定するように頷いた。

ページを開けば、切り方を工夫された紙が立体的になる絵本だ。

アビゲイルが幼い頃に父親が他国で見つけて、販売した商品でもある。

今でも人気上位の商品で、何冊も種類が出版されている。


「あれがもうすぐ販売十周年になるので、何冊か絶版した種類を復刻することになったんです」

「もうそんなになるのね。あなたたちが五歳のときに販売が始まったものだから、月日がたつのは早いわね⋯⋯はやくナティルがあなたのところに戻るといいんだけど」


ふうとため息を零した公爵夫人は悩まし気に眉を下げている。

それに対して、アビゲイルはやはりまったく気にしていない素振りで。


「そうですね」


黒い髪を小さく揺らして頷いただけだった。


□  □  □  □


アビゲイルは背筋を伸ばして歩く。

その姿は感情を思わせない顔とあいまって、近寄りがたいものだった。

まっすぐ前を見る視界の先には、ナティルが歩いてくるのが見える。

入学してからいつも見る、ピルキッシュを腕にぶら下げている姿でだ。

隣を歩くヌーリエがチラチラとアビゲイルを見るけれど、アビゲイルは気にせず廊下を進んだ。

移動先の教室は二人の向こう側だ。

遠回りするには距離がある。

目前まで迫った二人に、ナティルへちらりと視線をやるけれど、ナティルがアビゲイルの方を一切見ることはなかった。

ピルキッシュに穏やかな笑みを向けるばかりだ。

それに一瞬足を止めると、ピルキッシュがたれ目を勝ち誇ったように細めた。

口元は完全に笑みの形に歪んでいる。

ちょっと根性の悪そうな感じが滲み出ていた。

そのまま歩き去って行った二人に、止めていた足をアビゲイルも動かしだす。


「アビゲイル⋯⋯大丈夫?」

「平気よ」


間髪入れずに答えたアビゲイルに、けれど周りからはひそひそと嘲笑まじりの声が訊こえてきた。


「かわいそー」

「惨めよね」

「そりゃ、あんな無表情なのよりピルキッシュ嬢のがいいよな」

「髪なんかも彼女の方が華やかだしな」


女も男も言いたい放題だ。


「ひどい⋯⋯」


ヌーリエは自分が嗤われたかのように、青ざめて俯いてしまった。

教科書を持っていた手に力が入っている。

その様子にアビゲイルはひとつ息を吐いた。


「私と一緒にいない方がいいわ」


アビゲイルの言葉に、はじかれたようにヌーリエは顔を上げた。

その顔は、どこかほっとした色を瞳に滲ませている。


「でも⋯⋯」

「居心地悪いんでしょ。私のことは気にしなくていいから」

「⋯⋯ごめん」


アビゲイルの言葉を否定せずに目をそらすと、ヌーリエは逃げるように小走りで去って行った。

それをいつもの無表情で見送っていると、背中から「あなた」と声をかけられた。

多分自分だろうと振り返ると、見覚えのある女子生徒がいる。

髪を高く結い上げている、たしかプリスクの婚約者だ。

あいにく学年がナティルやプリスク同様に上なので、あまり知らないけれど間違ってはいないはずだ。

それとは別に、数人の女子生徒が後ろに控えている。

噂を信じるならば、プリスクの側近候補の婚約者たちだ。

騎士男の相手もいる。

これもヌーリエ情報だった。


「なんでしょう」

「あなた、恥ずかしくないの」

「恥ずかしい⋯⋯?」


思わぬ言葉に、アビゲイルはおうむ返しに首を傾げた。

出会いがしらになんだろうと思っていると、プリスクの婚約者は居丈高にツンと顎を上げる。


「もっと毅然とした態度でピルキッシュさんに注意しなさい。見ててイライラするわ」


とりあえず文句をつけに来たらしい。

アビゲイルはどう反応するべきかと、茶色い目を一度ぱちりと瞬いた。

イライラするなんて言われても困る。

そんなこと、勝手にイライラされてもアビゲイルは反応に困るとしか思えない。

婚約者はそんなアビゲイルの表情筋の動かさなさに、くっと眉根を寄せた。


「そりゃあ殿下方も少しだけ彼女と懇意にはしていたけれど、苦言を申し上げたらわかっていただけたわ」


それは自分も浮気をされていたという申告ではなかろうか。

今現在、人のことが言えるアビゲイルではないけれど。


「自分の婚約者をもっとしっかりと見ていなさい。あんな状態を放置するなんて恥ずかしくてよ」


言い切った婚約者の声に被るように、後ろから甘ったるい声が訊こえた。


「みなさん、何してるんですかぁ?」


顔をそちらに向ければ、さきほどすれ違ったピルキッシュだ。

婚約者達が、射殺さんばかりに目尻を吊り上げる。

アビゲイルはさきほどよりも近くで見るピルキッシュをじっと見つめていた。

さきほど思ったよりもたれ目だなと、どうでもいいことが脳裏をよぎる。


「まあ、殿下たちの婚約者の方々じゃないですか」


手を口にあてて、キャッとピルキッシュがわざとらしく目を丸める。

それにプリスクの婚約者を筆頭に、ぐっと彼女たちの目力が増した。


「あなた、あいかわらず失礼ね」

「怒らないでください。もうみなさんの婚約者には近づいてないじゃないですか。一緒にいたのは半年くらいですよ」


カッと婚約者の顔に血の気が上がった。

どう見ても怒りで。

アビゲイルが知る限り、ピルキッシュが編入してきたのは半年前だ。

つまり最近までずっと一緒だった。

婚約者のいる男を周りに侍らせて半年間過ごしたらしい。

その婚約者たちにブチ切れられながら。

心臓が強すぎる。


「今はナティル様としか仲良くしていないわ。あら!そちらはナティル様の婚約者さんじゃない」

「アビゲイル・リッセマンです」

「ふうん」


自己紹介をすると、じろじろと全身を上から下まで確認するように目線を向けられた。

下までいった目線が、また上に戻り黒い髪と微動だにしない顔を見やる。

そして小さくくすりと笑われた。


「私、髪色が明るいから、あなたみたいに落ち着いた色が素敵だと思うのよね」


どう見てもそんなことは思っていない顔だ。


「ナティル様もかわいそう。あなたとの家の事業のせいで決まった婚約らしいじゃない。ナティル様は何も言わないけれど、きっと辛いわ。いつも無表情の何考えてるかわからない婚約者なんて、誰だって嫌だと思うもの」


ピルキッシュが戻ってきたのは、これが目的だったらしい。

簡単に言うと牽制だろう。

お前は必要とされていない婚約者だと。


「だってアビゲイルさんのことなんて一言も話さないもの。いつも私の話を訊いてくれるわ」

「いつも⋯⋯」

「そう、いつも」


ピルキッシュの顔が優越感に歪む。


「じゃあ、ナティル様のところに戻らなくちゃ」


自分に向けられたわけではないのに、婚約者たちが歯ぎしりしているのを見やると、アビゲイルはゆっくりと考え込むように足元を見やった。


「いつも話を訊いてくれる」


ぽつりと零した言葉は、廊下の床へと消えていった。

それから二カ月半近く。

あいかわらず学園はナティルとピルキッシュ、そしてアビゲイルの三人の話で盛り上がっていた。

主にピルキッシュとアビゲイルだ。

ナティルの腕に絡みついて、甲高い声で笑っているピルキッシュ。

それをじっと見つめるだけのアビゲイル。

どうみても婚約者を美人にかすめ取られた、かわいそうな女という構図だった。

ナティルの方はあいかわらず、自分からピルキッシュへと距離を縮めたり触れたりはしないけれど、穏やかに笑って一緒にいる。

今日もそんな光景を、廊下の窓からアビゲイルはじっと見ていた。

窓枠に頬杖をついて見つめるさまは、女生徒のあいだで流れる惨めな女を体現している。

たまに視界に入るヌーリエは、目があうとすぐにそらされるようになった。

プリスクの婚約者には忌々しそうに睨まれる。


「んー⋯⋯」


ナティルを見下ろしながら、考えるように少しだけアビゲイルは目を細めた。

端から見たら微々たる変化で誰も気づくものはいないだろう。


「アビゲイル嬢、大丈夫かい?」


最近すっかり訊きなれた声に振り返ると、予想通りにそこにはプリスクがいた。

後ろには、たしか宰相のところの三男だったかなとあやふやな知識でしか覚えていない眼鏡男と、侯爵令息であるやたら年下らしさアピールの強いキラキラ少年がいる。

また来たなと、アビゲイルは特に感慨もなく向き合った。

入学してからの二ヶ月半近く、何度も声をかけられている。

内容はいつも同じだ。


「またナティルを見ているのかい」

「ええ、まあ」


あっさりと肯定すれば、プリスクに痛ましい顔をされた。

見れば、後ろの二人も沈痛な面持ちだ。

よほどアビゲイルが同情的に見えたのだろう。


「君は表情を変えないから周りからはわからないけれど、俺にはどうしても辛そうに見える」

「そうでしょうか」


淡々と答えれば、眼鏡男がそっと目を伏せた。


「いつもナティルたちを見ているでしょう。気になりまして」


たしかにいつも見ている。

視界に入ったら、ついつい目で追ってしまうのだ。

そんなアビゲイルをプリスクたちは可哀想なものを見る目で見つめてくる。


「いっそ諦めたほうがいい。何度も言ったが、俺があいだに入る。今婚約を解消すれば傷も浅いし、いい条件の相手もいる」

「大丈夫です」


表情筋を動かすことなく断言すると、ますますプリスクの瞳に哀れさが浮かんだ。


「遠慮しなくていいんだよ。辛くて仕方ないんでしょ」


キラキラ少年が必死な眼差しで言い募るけれど、アビゲイルはそっと目礼すると。


「気になさらないでください」


いつもと同じ返答を返したのだった。


□  □  □  □


夏季休暇に入る前の大規模なお茶会。

ホールにはいくつもの丸テーブルが置かれ、生徒達が着席している。

壇上があり、そこには挨拶をするべくプリスク達が立っていた。

ナティルもそこにいる。

アビゲイルが入学してから、プリスクたちと一緒にいるのを見るのははじめてだった。

ある程度プリスクが挨拶の言葉を口にして「ではお茶会を———」と続けようとしたときだった。


「お待ちください。ここで発表させていただきたいことがあります」


遮ったのはナティルだった。

生徒達が一瞬でざわつきだすのを耳にしながら、アビゲイルは小さく吐息を吐いた。

ナティルの傍ではプリスクを筆頭に、騎士男と眼鏡男とキラキラ少年が顔を青くして、立ちすくんでいる。


「おい、まて!まだ」


プリスクが声を荒げるけれど、ナティルは気にせず生徒達の方へと歩を進めた。

そして迷いなくピルキッシュの元へ行き、その手をとる。


「ナティル様!」


ピルキッシュがアビゲイルに嘲るような目を一瞬向けたあと、頬を染めてナティルを見上げた。

ナティルはいつものように穏やかな笑みを浮かべている。

みんながみんな、アビゲイルへと視線を集中させていた。

すべて同情的なものだ。

遠くに座っているヌーリエは、真っ青な顔をしている。

椅子に座ったまま、ピルキッシュは夢見る乙女のように睫毛を震わせた。


「ナティル様、嬉しい。私———いたっ」


甘ったるい声から一転して、ピルキッシュの声音が変わった。

よく見ればナティルの掴んでいるものがピルキッシュの手から手首に変わっている。


「あの、なに、離して」


空いている方の手でナティルの手を剝がそうとするけれど、その手ではびくともしていない。

異様な展開に、生徒たちも息を呑んで二人を見ていた。

もちろんアビゲイルはいつもの無表情だ。


「離すわけないだろう」


ナティルはあいかわらずの穏やかな笑みで続きを口にした。


「隣国のスパイなんだから」


言った瞬間、ピルキッシュの顔が真っ青に悪くなる。

周りの生徒達が大きくざわつき、プリスク達も苦い顔を浮かべていた。

必死にナティルの手から逃げ出そうとするピルキッシュだけが、凍り付いた空間のなかで動いている。


「おい!勝手なことをするな。もっと泳がせると言っただろう!」


問い詰めるようなプリスクの顔色は強張っていて、これが彼の想定外の出来事だと物語っていた。

アビゲイルはその顔とナティルをゆっくりと見比べる。


「保留期間はここまでと約束していたはずです。そもそも、この女に近づいて半月で証拠を掴んだのに、これ以上泳がせる意味がありません」


ナティルの言葉に生徒たちが「証拠?」「スパイの?」とひそひそと確認するように近くの人間と言葉をかわしだす。


「二人が親密になったのって、入学式の一ヶ月前よね」

「半月ってことは、入学式の時点で証拠は掴んでいたってこと?」


そんな言葉に、プリスクの後ろにいる男たちが動揺しているのか、忙しなく目線をさまよわせている。

そんななか勇気ある生徒が一人、そっと手を上げた。


「あ、あの、スパイってどういうことですか?」


そちらにナティルがちらりと視線をやる。


「隣国と懇意にしている商会が紛れ込ませた人間を、利害関係のある貴族が養子に入れたんだ。編入試験は試験官に金を積んだようだけれど、あとは殿下たちにつきまとって、なにか益になる情報を掴むなり陥落させるなり考えていたんだろう。私はスパイの証拠を押さえるおとり役だ。証拠はすでに提出されている」


証拠の提出という言葉に、いまだに逃げようとしていたピルキッシュの顔色が真っ白になるほど青ざめた。

はくはくと何度も口を開閉している。


「婚約者の入学直前に命じられて、半月で結果を出したのに証拠の提出は先延ばし。あまつさえアビゲイルには秘匿するように言われたおかげで、何ヶ月も無駄にした」

「む、無駄って⋯⋯ずっとバレなかったのに⋯⋯」


いまだに穏やかな笑みを浮かべているのがむしろ異様に見えるのか、ピルキッシュの声は震えていた。


「殿下達が君に気づいたのは、私がおとりとして君に近づき始めた時期からだ」


つまり入学式の一ヶ月前。

その言葉の意味に気がついた婚約者達がもの凄い勢いでプリスク達へ顔を向けた。

見つめる婚約者達もプリスク達も、双方顔色がとてつもなく悪い。


「私は殿下たちと行動することは多くなかったし、この女が現われてからは近づかなかった。たまたま君と会話をしたときに違和感を持って、殿下に調べるように進言したんだよ」


最後の言葉はピルキッシュに向けてだった。

しかし途中から生徒達の頭のなかは別の事に占められていた。

ピルキッシュの編入は半年前。

スパイ容疑がかかったのが入学式の一ヶ月前。

つまりプリスク達はそれまで、素の感情でピルキッシュを持ち上げてデレデレだったのだと。

アビゲイルは婚約者達が苦言を呈したらおさまったと言っていたけれど、それとは関係なかったんだなと、どうでもいいことをぼんやり考えていた。

ただたんにスパイの可能性が出て、我に返っただけだったのだ。

それは婚約者達も他の生徒もいきついた結論だ。

全員の白けた目がプリスク達に注がれている。


「はあ、警備兵」


ため息をつくと、ナティルはピルキッシュの手首を掴んだまま引っ張り上げた。

きゃあと無理やり立たされたピルキッシュに、そのまま足ばらいをして床へと倒れ込ませる。

その一連の動作も穏やかに微笑んでやったものだから、ピルキッシュは未知のものを見たような顔で信じられないとナティルを見上げていた。

ナティルに呼ばれた常設の警備兵があわててピルキッシュの腕を拘束する。

生徒たちはピルキッシュへの行動に目を丸くしたあと、ナティルの方を見て背筋を粟立たせていた。

全員が何が起きたかわからないという顔をしていたのだ。

たしかにナティルはいつもおだやかな笑みを浮かべているけれど、こんなことを平然とするときまでその表情なのかと。


「そこで大人しくしていてくれ」


拘束されたピルキッシュに変わらない笑みを浮かべると、そのままナティルは何の迷いもなく早足で歩き出した。

全員がその先を見れば、アビゲイルがいつもの無表情で椅子にちょこんと座っている。

周りは驚いたり目を瞠ったりしているけれど、アビゲイルはいっさい動揺していなかった。

あいかわらずのスンとした表情だ。

目の前まできたナティルに、覆いかぶさるようにアビゲイルは抱きしめられた。


「はあ⋯⋯」


一息つくようなナティルのため息もだけれど、それよりも今まで一言たりとも言葉を交わしていなかった二人の予想外の接触に、特に嘲笑っていた女子生徒達が動揺を見せている。


「え!え!?」

「あの二人、一緒にいるところ見たことないのに」

「何あれ」

「でもおとりって言ってたから、一緒にいなかったのはわざと?」


男子生徒も女子生徒も巻き込んでざわめきが大きくなるばかりだ。

目線も二人に全員が集中させている。

抱きしめられているアビゲイルはその視線も話し声も気にすることなく、ひとつ小首を傾げた。


「終わった?」

「終わった。やっとだ」


アビゲイルの言葉に、プリスクがバネにはじかれたようにナティルを見やった。

聞き捨てならない言葉だったのだ。


「ナティル!アビゲイル嬢には口外禁止だと言ったはずだ!計画に支障が出るからと!」

「言ってないですよ」

「訊いてないですね」


ナティルはアビゲイルを抱きしめながら。

アビゲイルはナティルに抱きしめられながら声を揃えて、キッパリと断言した。


「だ、だったら何故そんな知っていたような態度なんだ。ナティルに冷たくされ、沈んで寂しそうにしていただろう。演技だったのか?」

「寂しそうにはしてないです」


完全なる誤解である。

アビゲイルはただ視界にナティルがいたら見ていただけだ。

そもそも声をかけてもいないから、冷たくされた覚えはない。


「だったら余計に知っていたとしか思えないだろう!」


もはや怒鳴り声にも近いプリスクに、アビゲイルはゆるりと唇を開いた。

その瞳は凪いだままだ。


「いえ、だって目が⋯⋯」

「目?」

「ウジ虫を見るような目で愛想笑いをしてたから、なにかあるなと思って」


何てことないような淡々とした言葉に、その場にいた全員が絶句した。


「ウ、ウジ虫⋯⋯」


ウジ虫呼ばわりされたピルキッシュだけが、あえぐように声を震わせる。

アビゲイルとしては事実を言っただけなので、こんな反応をされても正直困った。

ただ、絶句、もしくはドン引きしている生徒達のなか、ナティルの反応だけは違った。

アビゲイルから体を離した彼は、微笑んでいた。

ただしいつも見せていた穏やかでそつのない笑顔ではなく、その眼差しはとろけるように甘ったるい。

「ひぇっ」「うわっ」とナティルのその眼差しに、悲鳴が上がる。

特に女生徒から。

頬を赤らめ、なかには茹って鼻血を出してもおかしくない顔色の生徒もいる。

そして全員の共通認識が生まれた。

そりゃあこんな顔を知っていたら、今までのナティルなんて完全に演技でもしている訳ありだと思うだろう。

そんな周りのことなど気にせず、ナティルは蜂蜜のような瞳でアビゲイルの頬をするりと撫でた。

ほんのわずかにアビゲイルの右の眉がぴくりと動く。


「さすが、アビゲイルはすぐにわかると思った」


ふふ、と笑うナティルごしにプリスクの婚約者達が視界に入ったけれど、すぐに視線を顔色悪くそらされた。

何故だと思って、そういえば婚約者達がもっと自分の婚約者をよく見ろと忠告してきたことを思い出した。

彼女たちにはブーメランのようになってしまったようだ。

プリスク達は自分の意志でピルキッシュに侍り、それでいてスパイとも気づかなかったのだから、見ていなかったのはどう考えてもあちらだった。

そりゃあ気まずいだろう。

アビゲイルとしては気にならないけれど、向こうは気になるらしい。


「岩を持ち上げたら虫がびっしりいた時と同じ顔してたから、よほど気持ち悪いんだろうなと思って」


うっかり幼い頃を思い出してしまったくらいだ。


「わかったんだ」


嬉しそうに口元を綻ばせたナティルに、アビゲイルはふっと小さく息を吐いて口端を吊り上げた。


「わかるわよ」


再びざわりと生徒がざわめく。

当然だ。

入学してから一切の表情が変わらないことで、ナティル達とは別の意味でも注目を浴びていたアビゲイルが無表情以外を浮かべているのだ。

しかも自信満々の不敵な笑み。

所詮ドヤ顔だ。

しかも渾身の。

無表情との変化が激しすぎる。

けれど唯一ナティルだけは驚いていなかった。


「久し振りだ、その可愛い顔」

「私以外は等しくどうでもいい困ったさんが浮気なんて出来るわけないもの」

「そのとおりだよ」


ナティルが嬉しそうに頬に触れていた手を滑らせて、地味と言われる黒い髪にさらりと一度指をとおした。

そんな甘やかな二人の背後では、こそこそと生徒達が顔を寄せあっている。

主にナティルと同じ二年生だ。


「え⋯⋯どうでもいいの?」

「等しく?」

「あんなにいつも愛想いいのに?こわっ」


たしかにつねに笑顔で穏やかな対応をしていた人間が、周りに興味をまったく持っていないなんて発覚したら動揺するしかない。

しかも人をウジ虫と同等に見る感性持ち。

実はナティルはこう見えて社交的だったりする。

それら全部がどうでもいい案件だったとしたら、とんだサイコパスだ。


「殿下」


びくりとプリスクの肩が跳ねた。


「そもそも俺だけをおとりに指定したのは、何の嫌がらせです?」

「そんなつもりはない」

「そこの三人に頼めばよかったのではないですか?殿下含め最初から率先して仲を深めていたのですから」


ナティルの言葉に、プリスクだけでなく他の男三人も顔色悪く体をびくつかせた。

それぞれの婚約者が今にもナイフで襲ってきそうな目で睨んでいるからかもしれない。

下手したら刺し違えてでもという気概すら感じる。


「婚約者が近くにいない俺を選んだというのであれば、まだ納得しますが。でも入学式の前には証拠を掴んだのに、そのあとも何ヶ月もおとりを続行。あげく婚約者には内密にときたものです」

「それは、それが最善だと思っただけだ」


少しもにょりとした言い方ながらもプリスクが答えると、ナティルはアビゲイルからプリスクへとしっかり向き合った。

その顔は生徒達の見慣れた、穏やかな笑顔。

以前なら女生徒なんかは、きゃあきゃあ騒いでいたけれど今はとてもそんな気になれない。

何故ならアビゲイルいわく、等しくどうでもいいから浮かべている表情だと発覚してしまっているからだ。

プリスクも今までの笑顔に騙されてきていたのだろう。

やりにくそうに何かを言いかけては、口を閉じている。


「婚約の横やりをいれる気だったんでしょう?王女殿下からの婚約の打診を何度も断っていますからね。殿下は妹君をとても可愛いがってらっしゃいますし」

「それは、そんなことは」

「私が婚約者から解消を希望されるなり、仲がこじれるなりすればと思ったのでは?」

「うがちすぎだ」


ナティルの質問攻めに、プリスクは何とか負けまいとしているけれど分が悪い。

絶対にそれを狙っていたよなとアビゲイルはここ何ヶ月かを振り返った。

わざわざ申告などはしないけれど。

しかしナティルは追撃の手を止める気はないらしい。


「そのわりには何度もアビゲイルに仲介に入るからと婚約の解消を促していたそうで」

「なんでそのことを⋯⋯!」


呆然と呟いたあとに、プリスクはハッとした顔でアビゲイルに目線を向けた。

すでにアビゲイルの表情は無になっており、スンとしたものだ。


「公爵夫人に訊かれたので答えました」


あっさりと正解を吐き出した。

プリスクは絶句してアビゲイルを凝視している。

まさか事情を知らせず冷たい態度をとっている婚約者の母親と会っているとは、まったく予想していなかったらしい。

残念ながらアビゲイルは何度も公爵邸へお邪魔している。

ナティルが出かけているか、在宅していても私室から出てこないかで公爵夫人にしか会ってはいないけれど。


「アビゲイルはうちの母親のお気に入りなので、俺がいようがいまいがお茶に誘っているんですよ。そういうことなので、二度とアビゲイルはもちろん俺も巻き込まないでください。俺は殿下の側近になるわけではないんですから」

「は!?待て!どういうことだ」

「学園でも必要最低限しか一緒にいることはなかったではないですか」

「それは、お前が勉強があるからと」

「そうです。卒業後はリッセマン伯爵家との事業拡大に関してと領地経営に専念するつもりですので、最初にお断りをしたんです」

「あれは謙遜じゃ⋯⋯」

「いえ、事実です」


にこにこと笑うナティルに対して、プリスクの顔色がいっそ紙のように白くなっていく。

対比が凄いなとアビゲイルは二人を見ていた。

正直飽きてきているけれど、退席が許される雰囲気ではないのはわかっている。

アビゲイルは一応、空気は読めるのだ。

プリスクはこれ以上なく焦ってナティルに説得を試みていた。

そりゃあ焦るだろう。

後ろ盾にする気満々に思ってた優秀な公爵家の人間に見限られたのだから。


「私を巻き込まなきゃ、それなりに協力してあげたと思うんだけど」


口の中でころりと言葉を転がすけれど、それが誰かの耳に届くことはなかった。

基本的に誰にでも平等だから、なにかやらかさない限りは優しいのだ。


「このことは父には報告してあります。公爵家の婚約者が侮辱されたなんて、我が家に泥をかけられたようなものです。抗議がいくと思うので、そのおつもりで」

「い、言うな、と」

「アビゲイルに話すなとは言われましたが、家に話すなとは言われていません。リッセマン伯爵家にも説明の手紙を送っているので抗議が行くはずです」


あらまあとアビゲイルはひとつ瞬きをした。

アビゲイルの家は流行が大事な社交界に置いて、かなりの影響を持っている。

プリスクの様子を見る限り、すべて独断専行だったのだろう。

いっそスパイに現を抜かした行動をごまかすついでに、アビゲイル達の婚約解消も一石二鳥で狙ったのかもしれない。

ピルキッシュのことはナティルによって公爵に報告しているようだから、多分プリスクは城でそれなりの叱責を受けるだろうなと思う。

そして、ちらりと見たプリスクの愉快な仲間たちも沈痛な面持ちなので、確実に道連れだ。

気の毒にと、散々に迷惑をかけられたアビゲイルはうなだれている男達を見やった。

それをさえぎるようにナティルが体をずらしてアビゲイルに手を差しだしている。


「お茶会どころじゃないし、帰ろう」


それもそうだ。

頷いてアビゲイルはその手をとって立ち上がった。


「騎士が来るように手配してあるから、その女はそのまま拘束しておいてくれ」


にこやかな笑みに、警備兵が引きつった顔で頷く。

拘束されているピルキッシュはまるで気味の悪いものでも見るような顔で、ナティルを見ていた。

よく見れば会場中がそんな状態だ。

けれど気にすることなくナティルはアビゲイルの手を引いて歩き出したので、アビゲイルもまあいいかとそのあとに続いたのだった。

手をつないで廊下を歩きながら、ナティルがアビゲイルに目を向けてゆっくりと細めた。


「これでアビゲイルと堂々と一緒にいられる」


その瞳は砂糖をシロップで煮たように甘い。

しかしアビゲイルはそれに特には反応を返さずに、小さく肩をすくめてみせた。

もちろん無表情で。


「よくハニートラップなんて出来たね。昔は人間全員を石ころと思ってるような目だったのに」

「アビゲイルがちょっとは取り繕えって言ったからだろ。父上にもアビゲイルの言うとおりにしろって口を酸っぱくするほど言われたしね」


ナティルも肩をすくめたあとで、繋いでいたアビゲイルの手を口元にもっていき、その甲へ小さくキスを落とした。

そして蜂蜜のように甘く笑う。

それにアビゲイルはスンとした表情を向けた。


「まさか結婚相手にいっさい興味ない人との婚約は嫌だって断ったのに、こんな目するようになるなんてね」

「アビゲイルだって私に興味ないって言い切っただろ」

「だから、婚約は保留でとりあえず友達からって言ったでしょ。お父様たちも賛成してくれたし」


キスをされた手にちらりと視線を向けたあと、アビゲイルは前方へと顔を向けた。

この婚約者は存外スキンシップをとるのを好むので、アビゲイルは好きにさせている。


「ふふ、相手の興味をいかに惹けるかの勝負になったんだっけ」


そうなのだ。

ナティルはかけらも他人に興味が持てない。

アビゲイルはそんなナティルに興味を抱けない。

しかし両親は二人を婚約させたいけれど、しょっぱなからこれじゃ破綻するのが目に見えている。

なので二人を頻繁に会わせていたのだけれど、そのうち静まりかえったお茶をするのも飽きたと、アビゲイルが提案したのだ。

どちらが相手の興味を惹けるか勝負しましょう、と。

ナティルは最初は興味をあまり持てなかったけれど、アビゲイルの刺繍を見て考えを改めた。

花や鳥、モチーフ模様が当たり前でそれ以外なんて考えられたこともない刺繍なのに、アビゲイルが刺してきたものは違った。

絵本のなかの人形みたいにデフォルメをされた、ナティルの姿を刺繡してきたのだ。

それはナティルの特徴をよくとらえていた。

アビゲイルは各国を渡り歩く父親のお土産などを参考に、面白そうなものを自分で準備してナティルに見せたのだ。

そんな刺繡を見たのははじめてで、ナティルは純粋に感嘆した。

それをきっかけに二人の戦いという名のお遊びは始まったのだ。

最終的にナティルは公爵令息にもかかわらず、三層にわかれた恐ろしく手の込んだケーキにさらにその場で飴細工で飾り付けをしてみせた。

これにはアビゲイルも驚かされたものだ。

ケーキも凄いけれど、飴細工にまで手を出すとは思ってもみなかった。


「そういえば母上に訊いたよ。絵本、何冊か復刻するんだって?」

「そうなの、十周年だから」

「思い出すな。あれで私は負けたんだ」

「⋯⋯そうなの?」


初耳なことに、アビゲイルはナティルを見上げた。

その目はここ数ヶ月の虫を見るような目ではない。

むしろ何故そんな目なのに誰も気づかないのか疑問に思って、観察しまくってしまった。


「飛び出す絵本が販売される前に、それを真似したもの作って見せてくれただろ?」

「あの歪なやつね。不覚だわ、もっとうまく作ったつもりだったのに、見せた時にそうでもなかったと思ったのよ」

「完璧だったよ」


その言葉にアビゲイルはむっと本当に小さく唇を尖らせた。

それも微々たる変化だ。

よほどテンションが上がらないと、表情筋が仕事をしてくれないのだ。


「ちょっとしか驚かなかったくせに」

「そのあと満足そうに得意気に笑っただろ。それまでにもだいぶアビゲイルに傾いてたのに、あれで落ちた」

「その顔で落ちるってどうなのかしら」


そのときの顔は、きっとさきほどの会場で見せたドヤ顔と同じだったのだろう。

会場でもつい自分の推理が当たったのが嬉しくてドヤッてしまった。


「いいじゃないか、可愛かったんだから。だから改めて婚約申し込んだんだ」

「⋯⋯そう」


なんか釈然としない。


「まあ普段の動かない表情も可愛いんだけどね」

「本当に変わりようが凄いわ」


幼少期との違いに高低差がありすぎる。

けれど言われた本人はさらっとそんなアビゲイルの言葉を訊き流した。


「久し振りに一緒に本を作らない?」

「私が見せてから、二人で作るのに夢中になったものね」


いいわよと声音をそっと弾ませたあと、アビゲイルはでも、と小首を傾げた。


「あの作った本どうしたか覚えてないのよね。結構な量を作ったはずなのに、いつのまにか消えてるんですもの。公爵家で処分してたのよね?」

「全部保管してるよ」

「⋯⋯え⋯⋯全部?」

「全部」


ギシリとアビゲイルの動きが止まった。

ギギギとぎこちない動きでナティルを見やると、とてもいい笑顔が返される。


「アビゲイルは自分が作ったものは捨てそうだったからね」

「まさか最初のも⋯⋯?」

「もちろん」


気持ちいいくらい堂々と頷いたナティルに、アビゲイルの顔色がサッと変わった。

学園に入学して以来、さっきのドヤ顔を除いて校内ではじめて顔色が変わった瞬間だ。


「いやああ!捨ててぇ!」


彼女らしくない悲鳴が廊下に木霊する。


「嫌だよ」


無表情がすっかり崩れ落ちたアビゲイルに、ナティルは宥めるようにそのこめかみへキスを落とした。




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