トラゾウは友だち
でも、一応説明させてほしい。私は、いや私たちは、大事な事を忘れてしまっていたのだ。トラゾウが恐れた、トラの覆面を被った一人とトラの覆面を被った一頭と変なロボットのお面を付けた一人が、今ここに誰もいない事を。
せめて私だけでもとお面を探したが、見当たらない。外した時に、確かバックパックにぶら下げたはずなのに。帰ってくる途中で落としたのだな。探しに行きたいが、阿部君と明智君が許さないに決まっている。絶体絶命という状況が、安全であるはずのこのアジトで起こるなんて、誰が想像しただろうか。
そうは言っても、私は強靭な精神力を持っているので、ほんの少しだけ開き直り、阿部君と明智君を見た。二人とも自分たちが素顔だったことに、今さら気づいたような顔をしている。やはりお互いの顔を見て気づいたのだろう。もちろん私の想像だけど、案外当たっているかもしれない。
と、色々考えていたが、いつまでも肝心なものから目を逸らしてはいけないようだ。私は、大好物は後で食べるが、嫌いな物は……食べない主義なのだ。いや、なんか、それは違うな。嫌いな物でも食べると言っておかないと、この場から逃げると思われるかもしれない。うーん、逃げてもいいかい? 優しいみなさんが、いいと言ってくれても、地球上で1、2を争う極悪人が許してくれないので、私はトラゾウと対峙しないといけない。阿部君と明智君に比べたら、全く恐くない。阿部君と明智君も、それに気づいておくれ。
私は複雑な感情を抱えながら、トラゾウに注視した。一つ安心したのは、トラゾウは起きただけで、暴れるわけでも喚き散らすわけでもない。もっと言うと、じっと大人しくしてくれている。私の位置からはトラゾウの顔が見えないのでなんとも言えないが、期待を込めて、トラゾウの機嫌は悪くないということにしておこう。
腹をくくったものの、ここからどうすればいいんだ? 頼れるのは、この中で生物としても距離も一番近い明智君だけだと思って、再び私は明智君に目を向けた。
な、なんと、私は初めてのものを見てしまったのだ。明智君が、いや、犬という生物があからさまなゴマすりをしている姿を。両前足で揉み手をし、阿部君が焼いていたホットプレートの上の肉を指差し、案内する気が満々だ。おそらく、トラゾウの目の前に並べてある生肉に感心を示さないので、焼いた方ならと勧めているのだろう。猫がよくやるような、生きた生肉で遊びませんようにと、願いながら。
阿部君がサスマタで押さえていなかったなら、すぐにでも連れていっただろう。しかし阿部君の考えでは、トラゾウが肉の方へ来るのではなく、肉をトラゾウの方へ運びたいようだ。運ぶのは、もちろん明智君か私だけど。
本来なら、阿部君はいつでも逃げられる玄関側にいたかったのだろう。だけど、トラゾウを背負った私が玄関側にいたのだから、できるだけ奥に逃げるしかなかったのだ。なのに、トラゾウが奥に進んだら、阿部君のスペースは狭くなり、逃げるのが困難となってしまう。いざとなれば、奥は壁ではなくガラス戸なので、開ければ簡単に逃げられる。ただ、透明なガラス戸だし阿部君に閉める余裕があるとは思えないので、トラゾウはお構いなしに突進して阿部君を追撃するだろう。
阿部君の気持ちは痛いほど分かる。だけど、せっかくトラゾウが大人しくしているのだから、私は明智君の考えに賛成だ。
「阿部君、明智君はトラゾウをホットプレートの所に連れていきたいんじゃないかな?」
「そう見えますけど、それは……。リーダーが、この肉をトラゾウの前まで持っていってくれませんか?」
やはりそうか。だけど、ここで素直に「はい、分かりました」とは言い難いぞ。
「うーん。明智君、トラゾウはどっちが喜ぶと思う?」
「ワンワワンワッワーン。ワワーン」
「ガオーン、ガガッガオー、ガオン」
明智君は自分の考えをジェスチャーを交えて説明してくれたが、当然ながら私には理解できなかった。それでも、トラゾウが明智君に対して何かを言ったくらいは分かった。
「明智君、トラゾウと話せるのかい?」
「ワワン」
「阿部君、私では明智君が言いたい事が分からない。とりあえず、そのサスマタを外して、明智君が振り向けれるようにしてあげてくれないか? そうすれば、阿部君は明智君の声と表情とジェスチャーで会話ができるだろ?」
「そ、そうですね。もしトラゾウが暴れたら、明智君とリーダーでなんとかしてくださいね」
「あ、ああ」
不思議なことに、明智君の表情も態度も普段に戻っている。トラゾウとの短い会話が、よっぽど明智君を安心させたのだろうか。トラゾウとの初対面の時は今にも食べられそうな感じだったとはいえ、実際に何か危害を加えられたわけではなかったし。
白シカ組組長宅にいる間も、たまたま私たちが忍び込んだ日は晩ごはんがないと言われてキレていただけで、普段は一般的な猫のように家の中を自由に歩き回っていても、組長は平気だったのだろう。その証拠に、トラゾウのあの部屋には檻や鎖なんかもなく、襖で仕切られていただけだった。
トラゾウはキレさせなかったら、何も恐れることなんてないのかもしれない。誰だって前触れもなしに晩ごはん抜きだなんて言われたら、キレるのも当然だ。もし私が明智君に同じ事を言ったなら、明智君はものすごい形相で、私をヘッドロックして壁に叩きつけるに決まっている。例え明らかな冗談だと分かるように言ったとしても、明智君は笑顔で、私をヘッドロックして壁に叩きつけるだろう。
私が俯いて一人黙考している間に、事は動いていた。阿部君と明智君と、そしてトラゾウが、楽しく話しながら、ホットプレートの置かれたローテーブルを囲んでいたのだ。阿部君と明智君が横並びになり、向かいにトラゾウの配置で。それも、阿部君の正面がトラゾウだ。
「リーダー、いつまでもそんな所に突っ立ってないで、一緒に食べましょ」「ワンッ!」「ガオー!」
驚かない。驚くわけがない。私はすっかり耐性ができている。当たり前に、私は空いている席に着いた。そう、トラゾウの横に。恐くない。恐がるわけがない。玄関まで一番近いのは、私だ。
ホットプレートを見ると、私の近くのお肉は、何かちょっと違うような。おそらくこれは、明智君が白シカ組のバーベキュー跡から盗ってきた肉だ。文句なんて言わないで、とりあえず一枚食べる。美味しい。これがこんなに美味しいのだから、阿部君と明智君とトラゾウの前の高級和牛はどれだけ美味しいのだろうか。
あれ? そう言えば、あの高級和牛はブロック肉だったような。お土産にとなった時に、トラゾウだけでなく私たちにも食べてもらおうと、白シカ組が気を利かせてわざわざ切ってくれたのだな。
いや、違うな。私たちに気を使ったのではない。自分たちのために最善を尽くしたのだ。私たちの気が変わって、トラゾウを返しに来ないように。どちらにしても、そういう小癪なまねをする前に、トラゾウに対して気を使うべきだったな。結果として、揉めることもなくトラゾウを白シカ組から離せたのだから、私としては申し分ないが。トラゾウが、白イノシシ会組長が言っていた猫だとしてだけど。うん、きっとそうだ。
これで白イノシシ会組長との約束を果たせたのだから、阿部君と明智君が奪ったへそくりの300万円のことは何も言わないだろう。後は、トラゾウの行き先が決まったら、報告するか。寄付金を頂かないといけないからな。よし、善は急げだ。
「阿部君、明智君、トラゾウに聞いてほしい事があるんだ」
「リーダーが聞けばいいじゃないですか。すぐ隣にいるんだし」
「そ、それは……」