第一話 二俣川一丁目 レジャーランドの怪
青空麻鈴は横浜の石川町駅前雑居ビルの一階でかき氷を食べている。
店の前に置かれたロッキングチェアーの上で昼寝をする黒猫。愛猫のサリー。そうそう、この名前は尊敬する魔女の先輩である『魔法使いサリー』から頂いているそうだ。
ハーフアップの髪にあてがったタオル地のヘアーバンドスタイルのあせどめ。黒いジャンパースカート。二十代半ばの麻鈴。かき氷を食べ終わると大きくノビをした。
「うーん。随分この生活にも慣れてきたなあ。また逢野さんのお手伝いも楽しくなってきたし……」
親戚のおじさんが持つ、この横浜の中心部に近い店舗物件を借りて念願の雑貨店オープン。破格値家賃、格安で貸してもらったこの物件、その恩恵の代償としておじさんからは一つだけ条件を授かった。それはこのビルの管理人を兼務することだ。
管理人業務の手当賃金分を賃料から相殺するかたちで、格安になっているという仕組みである。
麻鈴は毎朝、建物前の掃き掃除、階段手すりの拭き掃除、レターボックスの整理整頓と手を休めない働きぶりだ。
そんな管理人業務のなかで伯父から仰せつかった最大に特筆すべき事がひとつ。
「いいかい、麻鈴ちゃん! 二階には探偵事務所がある。逢野探偵事務所というんだ。毎月家賃が遅れがちなので、気をつけて見張っていてくれ。悪い人じゃ無いが、結構な……、いや、ものすごいズボラな人だ。事務所家賃の支払いが遅れないように気にかけてほしい」
おじさんの言っていた通り、上の階の窓には、カッティングシートで大きく窓ガラスに貼られた『逢野探偵事務所』という文字が看板がわりに掲げられている。
麻鈴の店舗の横にある階段から二階へとあがる。探偵事務所へと行くための入口だ。そんな隣人との出会いが麻鈴の生活に刺激とやる気を起こすようになるとは、当初は思いもしなかった。
さて前口上はこのくらいにしよう。今回のお話は横柄な男性依頼人の登場から始まる。
「おい、探偵!」
見るからに面倒そうな性質の格好。サングラスに派手なストライブのスーツを着た、堅気すれすれといった人物が逢野探偵事務所を訪れた。
対応に出た興信所の人間。こちらはこちらで別の意味で面倒そうな人物だ。見るからに冴えない身なりの大男。よれよれのスーツのサイズから、がたいのよさはすぐに分かる。刑事コロンボのファションセンスに似た身なりの男だ。もちろん凝れお洒落でもないし、褒めてもいない。しゃくれた顎に、ゲジゲジ眉毛、髭はいつ剃ったのか分からないくらい、酷い放置状態。冗談でもイケメンとここに書くことは出来ない男がドア口に向かう。
そう逢野探偵事務所所長、逢野安間郎である。
「なんですか?」
途中、換気扇脇の灰皿で吸っていたシケモクをもみ消すと、申し込み票を挟んだバインダーを持って訪問者のほうに寄っていった。
「オレは戸塚で観光農園を営んでいる保土谷用宗というものだ」
「観光農園……」と小声で復唱する逢野。
名乗った男は堅気ということで一安心。逢野は彼の面前で肯く。
「戸塚に住んでいる保土谷さん。隣町の名前が名字なんですね。ややこしいな」
「なに?」
ギロッと睨む保土谷。要らないことを口にする野暮男の逢野。相変わらずである。
「いや何でもございません。どうぞこちらへ」
依頼客と分かれば話は早い。案内をするまでだ。保土谷は逢野に言われるまま応接ソファーのあるほうへと身を移す。そして偉そうに腰掛けるとため息をひとつついて話し始めた。
「今日来たのは、女との浮気がバレそうなのでアリバイ作りに協力して欲しいんだ」
「は?」と意味不明の表情の逢野。聞き役がマリン嬢なら『なにそれ? ちょーいみふ!』と乱れた日本語で馬鹿にしそうだ。
そりゃそうだ。ここが探偵事務所である以上、この場合は、逢野のとった態度のほうが正しい。探偵事務所はアリバイを崩すことはあっても、荷担することはない。そんなことしたら、下手すればこっちがお縄である。
「おんなとの浮気のアリバイ工作を手伝えと言うことだ。何度も言わせんな」
保土谷は少々怒りっぽい性格のようで困った顔の逢野。
するとターバン風のヘアバンドの女性が横からすっと保土谷にお茶を差し出した。本作品の主役、青空麻鈴嬢登場である。
「お茶をどうぞ!」
その様子を見た逢野は、肩をがくっと落として、
『またこいつだ』というあきらめ顔で恨めしそうに麻鈴を見る。しゃしゃり出てくるのはいつものことだ。『毎度毎度、よくも飽きもせずに首を突っ込む変な女』。麻鈴のことを逢野はそう思っている。
そんな逢野の事はつゆも気にかけず、麻鈴はいけしゃあしゃあと聞き取りを始めてしまう。
「保土谷さんは奥さんと二人暮らしですか?」
「うん。正確には近くの離れにうちの母親が住んでいるけどな」
「その浮気相手とは愛人契約は結んでいますか?」
「そんな面倒なことはしていない」
「奥さんに何故バレたんですか?」
「オレの財布にあった彼女との浮気旅行のレシートや領収書から調べたようだ」
「その領収書のあたりを詳しく教えて下さい」
申し込み票に丹念に聞き取ったことの書き込みを続ける麻鈴。
「先月、二泊三日で湯河原の鄙びた温泉宿に泊まったんだ。組合の接待と女房には伝えていた内緒の旅行だ」
「なるほど」
興味ありげな顔でメモ取りを休まない麻鈴。その横で苛立ちから顔をしかめる逢野。
「だけどその領収書から宿泊先と飲食した場所のレシートなどを細かく調べて、オレと女性だけで訪れていたことがバレてしまったんだ」
『け、自業自得じゃねえか』と内心の逢野。蚊帳の外にされたことも面白くないようだ。
「なるほど、そこまで奥さんに証拠を握られていますと、覆すのは不可能かと存じます。認める代わりに丸く収めるという手でならご協力は可能かと……」という麻鈴。しかしながら上手に保土谷を丸め込ませる方向に話を進める。そういうとこ、麻鈴の話術は一流だ。ディベートと誘導尋問と屁理屈を混ぜた適当会話の集大成である。
まるで所長の逢野の許可など必要ないかのごとく、ことは運び始める。もっと言えばどっちが所長か分からない。
『うぬぬ、この小娘め』
ギロリと睨む逢野の靴を、パンプスの底でバンと踏みつけた麻鈴。
「いでえ」と反応する逢野。
「あーら、ごめんあそばせ。足が滑った。おほほ」と手の甲で口元を軽く隠す麻鈴。
「この部屋のどこで足がすべるか? ここはスケート場じゃない!」
納得のいかない理屈にしかめっ面の逢野。
「ちなみに念のためその浮気相手の女性のお写真もあれば、申込書と一緒に提出してください」
「わかった」
保土谷は懐から写真を一枚出すと申込書の上にポンと投げ置いた。
興信所内の内輪もめを他所に、証拠の揃いすぎた浮気は隠蔽が不可能と観念した風の保土谷。
「やっぱり素直に謝ったほうがいいのかい? ねえちゃん?」
彼はサングラスを外すと、ひよこのようなつぶらな瞳で、怯えるように訊いてきた。外見とは裏腹に意外に小心で真面目な性格のようだ。愛人などの前では虚勢をはって、いきがった格好をしているのか、あるいは普段から大物ぶりたい性格なのだろうか?
「こういう時はケース・バイ・ケースなのですが、証拠を全て奥さんに握られている以上、事を静かに収めることをオススメしています。下手に隠蔽してその場だけをやり過ごしてもまた再燃したときに今以上の紛争に発展するのは必至です。だったら一度この場は静かに収めてしまい。二度目の時にはしくじらないように入念に緻密な計画で愛人との密やかなランデブーを楽しむことをおすすめします。でもこれに懲りて奥さん一筋になることが最善の方法ですけどね」
大人のどろどろした痴情のもつれ具合もわかった風に麻鈴は、保土谷を前にイニシアチブをとって、説明を行う。それに納得したようで、もうすっかり保土谷は麻鈴を信用しきっている。
「どうしたらいい?」
保土谷の言葉に、少し間をあけていたが窓の外から黒猫が事務所に入ってきたので、麻鈴は「あ、ちょっと失礼」といって立ち上がると黒猫を抱き上げた。よく見るとそのネコとなにやら耳打ちをしているのがわかる。使い魔のネコ、サリーがなにか情報を持ってきたのだ。
「この申し込み依頼のあと、新元町キャフェのチーズタルトをお土産に買って、ミナミムラのハンドバッグを赤いリボンをつけて包装してもらって下さい。そして湯河原温泉の『三石総合旅館』のギフトペア宿泊券と一緒にお渡し下さい。そして前回はお前を一月の休日に誘おうと思ったのに、高校の同窓会があると言って、一人で寂しかったんだ、と泣き言を言って下さい。それで何とか今回は収めることが出来ます。チーズタルトを食べる際に必ずこのティーバッグ、仲直り印のフレーバーティを一緒に飲んで下さい。それで万事解決します。上手くいかなかったらまた私にご連絡下さい。今言っただんどりを正しく踏んで、手順を間違えないで下さいよ」
渡されたティーバッグのパッケージには魔方陣が印刷されており、なにやら魔法の小細工の香りもする。
「うん、わかった」と保土谷。
「ただし二度と同じ過ちは繰り返さないで下さい。次は助ける手立てがありませんので」と厳しい口調でいう麻鈴。
「はい、先生」とすっかり大人しめの保土谷。入ってきたときとは大違いである。既に逢野ではなく麻鈴の方が、保土谷の中で先生になっている。上手く手なずけたものだ
「では成功報酬は五万円です。こちらの口座にお納め下さい」
そう言って麻鈴は請求書兼約束条項用紙を保土谷に手渡した。このあたりはしっかりしている。
勿論、数日後に報酬額以上の振込があったのは言うまでも無い。報酬額以上の超過分は麻鈴のチップになる。
この解決方法、種明かしをすれば、保土谷が書き終えた申込用紙の住所と氏名欄を見た使い魔の愛猫サリーは、瞬間移動で戸塚にある保土谷宅に飛び、妻の好物やお洒落のアイテムなど、片っ端から嗜好性を調べ上げて麻鈴の元に舞い戻ったというわけだ。そして魔方陣の覚醒アイテムであろうティーバッグで記憶をはぐらかすという方法に打って出たわけだ。魔法の使い方としては、決して褒められたやり口というわけでもないが、夫婦和合のために争いごとを回避するという方便では許容範囲と二人は踏んだようだ。
そんな案件があったことすら忘れていた数週間後のある午後のこと。ひとりの女性が探偵事務所を訪れる。
「すみません」というと女性は事務所に足を踏み入れた。
逢野は、
「ご依頼ですか?」といつものように訊ねる。
「はい」
返事をしたのは絶世の美女である。ウェーブのかかった色っぽい長い髪。ロングスカートのスリット丈の深い切り込みは、男心をくすぐる小悪魔なファッション。このむさい探偵事務所には不釣り合いな、妖艶かつ色めき謎めきの美女が現れた。
犬のように舌を出して、ハアハア言いっ放しで使い物にならない逢野にジト目で『アホ』と言い放つと、やはりお茶を持って応接セットに来たのが麻鈴だ。
「本日はどの様なご用件で?」とさっそくワンコと化した逢野を横目に仕事に取りかかる麻鈴。
テーブルに置かれた申込書には、見覚えのある戸塚の住所と氏名欄には見覚えのある名字だ。申込人欄には「保土谷三保」とある。
「あれ?」と麻鈴は首を傾げた。
「なにか?」
三保は申込書から視線を外し麻鈴を見る。
「戸塚にある農園の方ではないですか?」
麻鈴の言葉に「ウチをご存じで?」と三保は驚いた。
「ええ、以前にイチゴ狩りで……」と濁して答える。まさか『ダンナサマの浮気の件で』とは口が裂けても言えない。
「ああ、そうだったんですね。ありがとうございます」
麻鈴が改めて申込書に目を通すと、身辺調査依頼という欄に丸がついていた。
「身辺調査ですか?」
「はい」
「よろしければ、口頭で詳しく伺えますでしょうか」
「はい」
ペンを置いた三保は麻鈴に落ち着いた口調で話し始めた。
「実は私、夫のいる身なのに、先日何の縁もない高校時代の同級生に求婚されまして……」
「結婚のプロポーズと言うことですね」
「はい」
「その辺のお話を詳しく教えて頂ければ」
麻鈴の言葉に三保はその状況を説明し始めた。
その日、農園の受付に出ていたのは三保だった。夫の保土谷用宗は留守の日だった。
夫の母、義母の美代子は「あんた、孫の顔も見せてくれないんだから、家の手伝いでくらいは役に立ってよね」と辛辣な言葉を浴びせる。自分はネコの相手をしてご機嫌だ。
「はい」
逆らうこともなく健気に従う三保。
「全く孫さえ産んでくれりゃ。それは大事にしてやるのに、つくづく不憫な嫁だよ」
嫌みなのか、嘆きなのか、叱咤激励なのか、よく分からないトーンでぼやく姑である。
農園の受付事務所は母屋から五百メートル離れた場所なので、義母の監視は少ない。近所の若い主婦はそんな環境にあるため、三保が受付にいる日は長話をしにやって来ることも多い。
以前麻鈴が感じていた保土谷の妻とは随分イメージが違うのだ。夫の浮気を宿泊先などのレシートから見破るなどのやり手のイメージと思ったのだが、三保本人はどちらかと言えば温和しめの人だ。
動きがあったのはその午後で三保の高校時代の同級生の男性が農園の受付に顔を出したときにだった。
「西谷三保ちゃん!」という声に聞き覚えがあった。旧姓で呼ばれるのは久しぶりだ。
「鶴ヶ峰君」
かつての高校のクラスメート。生徒会会長である鶴ヶ峰大和である。
「この家に嫁いだの?」
「うん」
「僕はこの先のショッピングモールに新店を出すんで視察に来たんだ」
「新店?」
「うん。大学を出てからベンチャー企業の勉強をして、複合賃貸物件の新しい可能性をコンセプトにした不動産会社を開いたのさ。特にアーバンリゾートの可能性を追求する物件に特化して販売を行っている。今回は総合開発会社との共同事業をこの近辺に仕掛けるために動いているんだ」と鶴ヶ峰は言う。
農園の三保には聞き慣れない言葉、不動産開発の業界用語が羅列されてあまり意味が分かっていないようだ。
「すごいわね」と愛想笑いの三保に、
「なんなら三保ちゃん、今の暮らしを捨てて僕の元に来ないかい? 高校の時から好きだった君に不自由な暮らしはさせないよ」と甘い言葉を囁く鶴ヶ峰。受付小屋をみすぼらしいと思ったのだろう。大きなお世話である。
だが焼けぼっくいの様相で、その日から彼の口説きが始まったのだという。
「でもその日は、なぜか珍しく、うちの主人が私の好物のチーズタルトとお気に入りのバッグを買ってきてくれて、二人でお茶もしたんですよ。そんな日に他の人に靡くことはありませんでした。でも日をあらためて彼は私が受付にいる日に現れては求婚をしてくるんです。彼の目的はなんなのか、純粋に恋慕なのかを調べて欲しいのです」
「費用は相場で、一日でおおよそ二万円程度になります。それを通常は二週間程度の調査となりますので、かける十四日分となります」
ビジネスライクな麻鈴の説明の後で納得する。
いずれにせよ依頼用件を述べたことで三保も落ち着いたようだ。ただ意味の分からない同級生とこの歳で自分がモテるという事はない、と踏んだ彼女が、少々困り果てての身辺調査依頼だった。
「なるほど、ご依頼の件、承諾しました。ただし身辺調査の場合は先ほども申し上げましたが、結構なお時間と費用が発生するのですが大丈夫でしょうか? 交通費などの実費負担と日割り報酬で二週間ほどかけて調べるので、おおよそ三十万円は見ておいてください」
「承知しました」
「それで求婚の彼は主に何曜日の何時頃に受付所にやって来ますか?」
麻鈴の問いかけに三保は顎を親指で押さえながら、
「……そうですね。多いのは月曜日の午後ですね。あと土曜日の早朝、七時頃です」と答える。
「分かりました。では明日の土曜日にはり込んでみます。三保さんはいつもと変わらずに農園見学者の受付接客をしていてください。私は物陰に潜んで待っているので、彼が来たら何かしらの合図を下さい」
「はい。では私は駐車場の清掃などがありますので、明日の六時には販売所におります。打ち合わせの件は、その時にお声がけください」
三保はそう言うと、安心した顔つきで折り目正しい所作で立ち上がる。そのまま一礼をすると探偵事務所を後にした。
彼女が帰った後に事務所に残されているのは、麻鈴とむすっとした顔の逢野である。右手で顎に頬杖をついて、空いている左手の人差し指でテーブルをトントンと叩いている。この仕草、明らかに怒っている。
「おい、助手」
「はい?」
「勝手に案件引き受けてどうすんだよ」
「三保さんの件ですか?」
「他になにがある」
いつになく結構なご立腹だ。人妻とはいえ結構の美人、彼女と全く話すことが出来なかった。そっちの文句にも思えなくない。
「それなら大丈夫、私に任せてください。いつものようにササッとかたづけて、所長が隣の居酒屋でシコタマお酒を飲めるだけのお金を稼いであげますから」と平然と笑っている。まあ、大きな声では言えないが、魔法を使えば『ちょちょいのちょい』ということだ。
すると今日は悄気た顔で、
「そう言うことじゃなくて、お前自分の店はどうすんだよ。定休日じゃないだろう。パーマンじゃないんだからコピーロボット(※1)なんか持ってないだろう」
「ああ、休んじゃいますよ、二週間ぐらいさらっと定休日にしちゃいます」
逢野は困った顔で、
「おれは人のこと言えた義理ではないけど、そんないい加減な商売やっていて大丈夫なのか? と言いたいんだ」と心配した。珍しく真面目だ。
「大丈夫。あなたのために……」と言いかけて、真っ赤になる麻鈴。この娘、サリーに冗談は顔だけにしておけと言われそうだ。
「もとい、管理人業務の上でテナント家賃のためには大切な仕事です」とすぐに言い直した。
『ああ、危ない! ダメなあなたのためなら、健気な私はがんばれちゃうのよ、なんて言いそうになったじゃない。まるで献身的な奥さんじゃないの。私ったら。なにこの私のラブコメモード全開の台詞。吐いたら取り返しのつかないところだった』
勝手に火照った真っ赤な顔の麻鈴だ。胸をなで下ろしながらも、この時、自分が、放ってはおけないダメ男に掴まる典型的な世話付き女であることに麻鈴は初めて気付いたのだ。
横で日向ぼっこしていた使い魔のサリーは「けっ」とそっぽを向いて、「お前、もうそれ言っているようなもんじゃねえか。オレにはもう分かったぞ、お前の偏った恋心が。あのダメ男とねんごろになる日も遠くないな。魔法学校のサマンサ先生もイギリスの田舎で泣いておられるだろうよ。ダメ男にダメ女、お似合いだ!」と後ろ足で耳の下を掻きながら麻鈴のダメさに愛想を尽かしたようだった。
横浜駅から神奈川の都市型私鉄で相模鉄道というのが県央部に向かって走っている。通称の『相鉄』の呼び名のほうがしっくり来る人も多い。
二俣川という駅で藤沢市の湘南台駅と海老名市の海老名駅へと分岐して走っている。どちらも小田急線と接続している駅だ。本来はそういう意味合いの地名ではないのだが、結果的に二股に分かれる分岐駅でもある。
二俣川は神奈川県民ならほぼ誰でも知っている運転免許センターでお世話になる最寄り駅である。実は麻鈴がこの場所に辿り着いたのは、三保が探偵事務所を訪れてから三日後の事だった。
珍しく社用車を出してくれた逢野は、麻鈴とサリーを乗せて、保土谷の経営する農園の受付センターから、例の求婚男である鶴ヶ峰のキャデラックを追いかけてきて、着いた先がこの町だったのだ。
「このあたりは二俣川だな。また隣町の名字だ。しかし戸塚に住む保土谷さんのつぎは二俣川に住む鶴ヶ峰さんかよ。今回の案件は呪われているのか、いかれているのかどっちかだな」とぼやく逢野。
すると逢野の肩に飛び移ったサリーが尻尾でぴしっと頬を叩く。
「いかれているのは、お前の頭だ!」と言った。もちろん逢野には「ニャー」としか聞こえない。
「このばかねこ。ネコ鍋にするぞ!」と逢野はサリーを捕まえようとしたが、サリーが一足先に後部座席に飛び移って逃げた。そして「ばーか。ネコ鍋ってのは食べ物じゃねえんだよ。よく社会勉強してから言葉を使え!」と加えた。
一連の様子に麻鈴は大笑いである。
すると「あれ?」と麻鈴と逢野は顔を見合わせた。
キャデラックの助手席から出てきたのは、三保の亭主、保土谷用宗を誘惑した女性だった。写真で見たのと同じ清楚なストレートの姫カット。華奢な作りのワンピースに、肩幅サイズのボレロを引っかけた様相。中年男性の好きそうな清楚系の装いだ。ところがそう格好とは裏腹に態度の悪いくわえ煙草に顎で鶴ヶ峰に指図をしている。
「おいおいおい」と逢野。
「結構、組織的な感じもしますね」と麻鈴。
「おい、麻鈴。お前今回はこの件から手を引け」
徐に心配そうな顔の逢野。彼女の身を案じる顔つきだ。彼の優しさからだろう。
「大丈夫ですよ」といつもの調子の麻鈴。
「いや、相手が悪い。見てみろ」
キャデラックを降りた二人の行き先は、雑居ビルの薄暗い階段に向かっている。そこには『生北横浜都市開発興業』という看板があった。
「あの看板がなんですか?」
「生北組のトンネル会社だ」
「知っているんですか? 反社?」
「いや、それほどのものじゃねえが、法律すれすれの阿漕な商売で知られている地上げ屋だ」
「地上げ屋が何で?」
そう麻鈴が言った後に逢野と麻鈴は顔を付け合わせて目を見開いた。
「農園の土地!」
二人の声が重なる。
その様子にサリーは「けっ。ようやく分かったか。下等動物どもめ」と前足をぺろぺろとナメながら高みの見物のような物言いをした。そして車の開いた窓から身を乗りだして、いつものように雨どいを伝って、彼らが入って行ったビルの隙間に消えていった。
「サリーお願いね」
麻鈴はすがるような瞳でサリーの行った先を目で追った。
一方の逢野は誰かに連絡を取っているようだ。情報収集なのだろうか?
「そうだ。生北横浜都市開発興業の動きを教えて欲しい」
いつもはひょうきんなゲジゲジ眉毛が、今は真剣な表情を作っている。
『はああ、ダーリン素敵』とヨダレを垂らす寸前の麻鈴。『蓼食う虫も好き好き』とはいうのだが、この姿を見るとサリーの言っていた「男の趣味は最悪だな」には共感せざるを得ない。
暫くしてサリーが戻ってきた。逢野は相変わらず建物の影で電話している。
「何か分かった?」
「あの地上げ屋の計画に二人が荷担しているのは間違いない」とサリー。
ワンテンポ遅れて逢野も戻ってきた。
「電話、何か良い情報でもあった?」
「ああ、どうやら、農園主の用宗氏に色仕掛けをしたのは、まだ確実じゃないんだが、あの会社と取引のある女探偵『拐かしのミーナ』かも知れない。それと奥さんのほうに接近したのが最近業務提携であの会社に出入りしている鶴ヶ峰だ」
「つまり二人とも同じ会社と関係していて、同じ目的で動いていたって事なのね。《《二股》》関係を使って双方から不倫での誘発トラップかあ。しかも《《二俣》》川の会社を使って」と麻鈴。
サリーは「ダジャレかよ、センスねえなあ、けっ!」っとしらけた顔で独り言だ。
「ああ。しかしあの女、ハニートラップで相手を骨抜きにするなんて荒技を一般の人に使うとは……。目的が他にあるかも知れない。彼らと提携した目的をもう少し調べた方がいいな」
「うん」と麻鈴。
「あいつらの立ち寄りそうな場所に網を張ってみるというのもいいぞ」
「そうね」
麻鈴はなにか妙案が浮かんだようで、無言のまま爪を噛む仕草をしながら、自分に念を押すように何度も小さく頷いていた。
「オレはもう少し仲間内から情報を仕入れてみる。それとなにかちょっとした食べ物と飲み物を調達してくる」
そういって逢野は、ふたたび車外に出るとコンビニの灯りがある方に歩いて行った。
「おい分かったぞ。生北横浜都市開発興業の思惑が」と逢野。戻ってきての第一声だ。
「なんなの?」
麻鈴の言葉に、逢野はメモ書きを見ながら、
「生北横浜都市開発興業はドリームポンドという池をテーマにした遊園地を戸塚に作るつもりだ。そこには巨額の資金が集められるようになっている。弱小地上げ屋がのし上がって天下を取るための足がかりとなるプロジェクトだ。そのために親玉の亜界組に命じられてあの辺りの土地の買い占めを仰せつかっているというわけだ」
「なるほど。地上げ屋にも下請けとかあるんだ」
麻鈴は合点がいったようで頷く。
「ちょっと相手がでかいので、ウチの興信所は三保さんと鶴ヶ峰の件が終わったら手をひく……」
逢野がそう言い終えようとしていたら、既に麻鈴の姿はそこには無かった。社用車に乗り込むと、やれやれという顔で「あの小娘は何を考えているんだ」と言って煙草に火をつけた。
「人の話を最後まで聞かないのは、お前と一緒だな」
人には通じない言葉でサリーは後部座席でふて寝すると、大あくびをして目を閉じた。
一仕事を終えたのか、『おきゃん娘クラブ』というガールズバーに立ち寄る鶴ヶ峰。扉を開けて彼が入ったのを確認すると麻鈴はある行動に出た。
『ここはアッコ先輩に借りた魔法のコンパクトで……』と麻鈴はガールズバーの退勤時間に店を出た店員のひとりになりすました。
「やまてくまかろん、あの可愛い店員さんになあれえ!」
すると今し方帰っていった清楚系のリボンをつけたミニスカートの可愛いホステスに変身する麻鈴。
「さて」と店に入るために歩き出した途端、腕を持って引き留められた。
「ドキン」とする麻鈴。
おそるおそる振り向くとそこには、麻鈴はどうでもいいと思っているが、その女性本人は麻鈴の永遠のライバルと思ってるらしい小野田小町が彼女の腕を掴んでいた。
「ハマの小町!」
「ちょっと面白そうじゃない。私もまぜなさいよ」と相変わらず腕を掴んで引き留めたポーズのままで言う。
「私もそのアンタと同じく『ハニーフラッシュ』で変装術を使うわよ。こんな面白い案件、あんただけ独り占めにはさせないわ」
そういうと今し方あがってきたもう一人の店員、袴姿の女性に化ける小町。
『しょうがない』という顔で少々しかめっ面の麻鈴は、小町とともに鶴ヶ峰の入って行ったガールズバーに潜り込んだ。
「あら、今し方、あがったのにナッキーちゃんと紅緒さんは戻ってきたの?」
なんと声をかけたのは用宗を手玉に取っていた浮気相手である。どうやらこのガールズバーのママということだ。どおりで男の心を操るというのはお手の物である。
「うん。ちょっと一杯だけ飲んでから帰ろうかな、って思って二人で戻って来たのよ」
「どういう風の吹き回し?」
グラスを拭きながらママは、疑っている顔で、
「犬猿の仲じゃないの。あんたら」と言う。
「まあ、今日は一時休戦ね」と話題をずらすために軽くあしらう麻鈴。
「ナッキー、ここに来なよ」と例の鶴ヶ峰がボックス席の自分の隣の椅子を掌でポンポンと叩く。
そして小町には、「紅緒ちゃんはお向かいにどうぞ」と言う。
遠くから「あからさまね」と嫌みを言うママ。
「何でだよ」
鶴ヶ峰の不服そうな言葉に、
「同級生の女ひとりも落とせないのに、ウチの店の子をたらし込もうなんて節操のない男」ととびきりのパンチのある言葉だ。
だが情報収集が麻鈴の目的だ。
「ねえ、スコッチ、この銘柄の三十六年物ってどうなのよ? やっぱ浸かりすぎててダメなのかしら?」
白々しく片目を見開いてあざとくねだってみる麻鈴。
「飲みたいの?」
「あなたが飲むのならご一緒しますよ」と麻鈴。
ママは『よくやるわ』と高みの見物だ。本当はボトルが入れば五千円以上のお小遣いをもらえるというルールがあるのでやっていると思っている。だがそんなルールはつゆも知らない麻鈴は単に彼を酔ってつぶすための強いお酒を選んだというだけである。
「よし良いだろう」
鶴ヶ峰は鶴ヶ峰で、ナッキーを酔わせてお持ち帰りしてやろうという良からぬ考えを抱き始めた。いずれにせよ、利害は一致してボトルが入ることになった。
アルコール分五十パーセント近いお酒。日本酒でせいぜい十パーセント前後だ。どれだけ強いかは誰もが知る知識だ。
案の定、お酒に強い麻鈴と小町は全く倒れず、鶴ヶ峰の方がぐでんぐでんである。
「あらあ、鶴ヶ峰さん酔っちゃったかしら?」
麻鈴の言葉に「みゃだみゃだ、にょめうよお」と左右に揺れながら答えている鶴ヶ峰。
「この程度で酔いつぶれたら、同級生のハートはつかめないわよ」とそれとなく聞きかじったさっきの話題を転換している。
「ぶわあか。西谷三保はもう、じきゃんのもんらいなのさあ。おれのうでにとびきょんでくるんだあ。二人でレジャーランドぉけいきゃくだあ」
ろれつの回らない口調で、強がっての自慢が続く。
「上手くやりぇば、おんにゃと土地はおれのもにょ。あとはその土地の権利ひょをじょうにょうして、ほうひゅうをもりゃって億万長者になるのさ、おれは。みてろよ、鶴海さんのお役に立って天下取りだ」
半ば机に額を押しつけて上機嫌でぺらぺらと話す鶴ヶ峰。鞄の横ポケットにはレジャーランドの基本計画書がさしてあった。
すかさず麻鈴はバレないように抜き取った。そしてあのコンパクトをカメラ代わりに、「らみれろらみれろはいチーズ」といって、計画書を上手に膝に隠しながら複写した。
一通り資料の複写が終わると、ふたたび元の場所にさす。麻鈴はご機嫌で、「ああ、鶴ヶ峰さん酔いつぶれちゃった。わたしももう帰ろう」と言って、手元ではICレコーダーのスイッチを切った。十分に証言を手に入れたようである。
「じゃあ私も帰ろうかな? ママお休み」
小町も袴姿で立ち上がる。
「つるみさんだって」と元の姿に戻った麻鈴が呟く。
「言っていたわね」と返す小町。やはり自分の姿に戻っている。
「誰だろう?」
「この一件のフィクサーなのかな?」
腕組みで難しい顔の麻鈴が歩きながら言う。もう少しで社用車の近くである。
そこに「おい、どこにいっていたんだ」と駆け寄る逢野。
「あ、所長」
小町がお辞儀すると、逢野は「あ、どうも」と少し照れたように頭を掻く。刑事コロンボが奥さんのことでいじられている時の仕草に似ている。
「私たち、ガールズバーに潜入して鶴ヶ峰の口からうまく供述を取りました」と麻鈴。そしてその録音を聞かせる。
逢野は「おい、なんでこんなに音声が明瞭なんだ。かなり近くで録音していないか? お前潜入聴取の裏技でも持っているのか?」と不思議そうである。
「現代のは、機材が良いのよ」と麻鈴はイケシャーシャーと返す。口が裂けても魔法のコンパクトの話など出来ない。
「そんな機材がねえ」
納得がいっていない様子の逢野から話題を変えさせる麻鈴。
「って、このガールズバーにはママがいて、それが用宗さんの誘惑女でした」
「うん。やっぱりなあ。今しがた仲間スジから確かな情報を手に入れたよ。やっぱりあの女、その本人だった。女探偵の敦賀實奈、通称『拐かしのミーナ』といって、最近ではハニートラップの仕掛け人として有名で、派手に動いている女なのだそうだ。それで上手く男をたぶらかして、手に入れたその大金で次々と新しい事業を始めるという。女の武器を使って男を狂わせる、やり手の私設探偵なんだ」
「え? 同業者?」と麻鈴。
「そう悪徳同業者だ」
逢野は自分に親指を向けて「ああ、オレと同業者な。お前は雑貨店主だ」と線引きをする。
「あらそうだったわね」と惚けながらも、麻鈴は「じゃあ、本件では彼女も地上げ屋に雇われて荷担している口ね。鶴ヶ峰と同じ立場だわ」と言う。
「……ということは、フィクサーらしき人物である鶴海なる人物をあたれば鍵は開くという事ね」と小町はもっともらしい意見でまとめた。
「途中参加にしては、良い出来だ」と逢野。
そこで麻鈴はハッと気付く。
「小町さん、また首を突っ込むの?」と迷惑そうだ。
「アンタが首を突っ込めるのなら、私にだってその権利はあるわ。だって雑貨店主に出来るのなら私にだって出来るもの」と自信たっぷりの返しに出る。
逢野も麻鈴もその理屈に文句は言えず、強引ではあるが理にかなった彼女の屁理屈に頷くしかなかった。
「それともダーリンと二人の謎解きに邪魔がはいるのが嫌なのかしら?」と小町は意味深に麻鈴をからかう。
「別に」とそっぽを向いた麻鈴の顔は、言葉とは裏腹『その通りよ』と言いたげだった。
事務所に戻った三人と一匹はまず鶴ヶ峰、敦賀實奈、生北横浜都市開発興業、そして謎のフィクサーらしき鶴海という人物の相関図生成に着手した。
「この計画したレジャーランドはなぜ戸塚の保土谷農園、この場所限定なんだろう」
「騙しやすい土地転がしに向いた家族だったんじゃないの? 実際、亭主の用宗氏はあの女に騙されて、イチコロになる手前だったんだから」と小町。その横でサリーは聞こえないフリをしながらも丸まって頷いている。
「それで間一髪、奥様の三保さんのおかげでそれが阻止された。一方の土地転がしたちは、旦那がダメだったから今度は妻にターゲットを変えて、送り込んだのがあの鶴ヶ峰氏ってわけね」と麻鈴。
今し方写してきた複写を出力したあの資料を事務所の応接テーブルの上に広げる。
「お前準備良いな」と逢野。
「ふふん。私のこと、好きになっちゃった?」と褒められて上機嫌の麻鈴。頬杖ついて満面の笑みで逢野を見つめる。
「ぶっ」と一旦口に含んだお茶を吹き出す。
「汚いないわ」としかめ顔の小町になのに、相変わらず麻鈴は優しく微笑んでいる。そしてキッチンペーパーで丁寧にテーブルを撫でるように拭いている。精一杯の愛情アピールである。
「けっ! 気持ちわるっ。壊れたおんな麻鈴」とサリーは興味ない素振りでそっぽを向く。『使い魔』は通常魔女の協力者ではあるが、この物語での使い魔は魔法学校への近況報告係でもあるのだ。
その逢野への気持ち。日頃が日頃の憎まれっ子麻鈴だ。彼にそんな屈折した恋心など伝わるはずもない。彼女の得体の知れない笑みとオーラに少々寒気を感じる逢野。武者震いか悪寒か分からない震えが彼を襲う。
『こいつが薄笑みを浮かべているときは要注意だ』と気を緩めない戒めのモード、『一時停止』、『止まれ』のサインと逢野は読み取った。どうやらこの二人の恋路はまだまだ前途多難の風が吹く。そして恋の『一方通行』の麻鈴、二俣川の運転免許センターで指導を受けてくると良いのかも知れない。いや、そんな都合の良い交通ルールはない。
「まあ、今現在分かる範囲での答え合わせとしては……」
逢野の言葉を遮るように麻鈴は「実はフィクサーの鶴海という人物の事が気になっているの」というと、
「その件もおおよそ見当はついている」と逢野。
「お前さんが仕入れてきたそのレジャーランドの発起人の欄を見てごらん」
逢野の言葉に麻鈴は手元にある書類を見ると、予定資産管理人の欄に保土谷鶴海の名前が記載されていた。
「保土谷鶴海……」と小町。
「これって」と麻鈴。
「ああ、これもさっき保土谷用宗氏にあたってみたところ、彼の遠縁に該当する人物で、もしも用宗夫妻に子どもが出来なければ、あの農園の土地権利がこの人物に全て委ねられる事になるようだ」
「何ですって?」
麻鈴は正義の怒りで握った両手にパワーが集まっていた。
その隣で小町は、
「麻鈴。そういう悪巧みへのお仕置きに関しては、私にお任せなさい」と笑顔で怖い言葉を口に出した。
サリーは煙たい顔で「魔法学校で黒魔術の使用を禁止されているのは知っているな」と小町に念を押すように諭す。
「分かっているわ。冗談と真面目の境界線すれすれでお仕置きして差し上げるわ」とサリーにウインクする小町。
「まとめると、歳いった母親が三保さんに子どもを望んでいたのは、そう言うことね。嫌みというよりもあの保土谷家と観光農園の行く末を案じていたのね。土地家屋や財産の権利を鶴海氏に持って行かれることを知っていたから執拗に孫という言葉を出していたということになるわ。でもそれで用宗氏のほうは子どもの出来ない三保さんを諦めて、良い感じになったハニトラ女の『拐かしのミーナ』に子どもを産むことを託したって訳ね。でも奥さんの直感でそれは阻止された。それで今度は地上げ屋サイドは鶴ヶ峰を使って奥さんの存在をあの家から出してしまおうと考えたのね。でも用心深い奥さんは私たちに依頼してきた。謎物語はこれが顛末」
麻鈴は全てを悟った顔で笑う。
「そしてこの所有権が宙に浮く可能性のある農園に目をつけたのがあの不動産会社って感じかしらね」
小町も付け足す。そして徐に手に握ったバトンを振りかざし、あたりに無数の星マークを降り注ぐ彼女。まるでイルミネーションのような星がコンマ数秒見えた。
サリーは眉をピクリと動かすと、小町を見て、
「お前、いま何かしたな?」と怪訝な表情だ。
事務所から窓の外を見ると、何故か鶴ヶ峰が石川町の運河沿いを走って逃げている。
「さあ、お仕置きタイム!」と小町。嬉しそうに鶴ヶ峰を高見の見物である。
サリーは雨どいを伝って窓から下に降りてみた。
「おにいさん、安くしておくわよ。寄っていって」といって髭の濃い女装した水商売風の人が、がに股で鶴ヶ峰を追いかけている。そのファッション、あの日のナッキーというホステスにそっくりだ。鶴ヶ峰は半泣きで「スミマセン、人違いでした。そのすじのお店の人とは知りませんでした。もう許して!」とベソかいて走る。
サリーはいつもの「けっ」とはいわなかった。「たちの悪いお仕置きだな。路上のキャッチセールスは違法だぞ。まるでゾンビの襲撃だ」と言う。
そして「桑ばら桑ばら……」と唱えながらも、何食わぬ表情でいつものパトロールに出かけていった。
事務所の窓からは鶴ヶ峰が見えなくなり、暫くして、そこに三保が依頼料金を支払いに訪れる。晴れ晴れとした顔つきである。
「こんにちは」と丁寧なお辞儀。
「やあ、いらっしゃい」
逢野は右手で応接ソファーに座ることを促す。
「失礼します」の言葉の後で、
「報告書拝見しました。彼もあのレジャーランドの取引に一枚噛んでいたんですね。この二週間分の報酬をお支払いに来ました。それとお礼もかねて、粗品をお持ちしました」と丁寧な言葉と態度で事務所に足を踏み入れた。
「どうぞどうぞ」と調子の良い麻鈴。すぐにお茶の用意である。
差し出された三十万円と手書きで隅っこに記された銀行の封筒を受け取り、中身を確認する麻鈴。いつものごとく枚数を確認して、自分の取り分をしっかりと抜いてから残りをテーブルの上、逢野の前に置いた。そして受領書に印を押すと三保に渡した。いつの間にやら麻鈴は経理事務もこなす。
「これはお口に合うといいのですが。皆さんで」と三保は洋菓子の詰め合わせを渡す。赤煉瓦を模した焼き菓子である。
「これはご丁寧に」と笑顔の逢野。菓子折を受け取って礼をした。一件落着の落ち着きである。
三保のおなかを庇う仕草に「おや?」と麻鈴は微笑む。
「三保さん、もしかして?」
「はい、三ヶ月を過ぎたところで」と笑う。
「おめでとうございます」
逢野と麻鈴は声を揃えた。
「跡継ぎ誕生で農園の騒動も一段落です。主人も義母もまだかまだかと子どもの誕生を待ち望んでいます」
事情を知る麻鈴の「いいですね」という笑顔も本心からである。
「おふたりもそろそろお子さんを考えてみては?」との声に、「いや、われわれはそういう関係……」まで言いかけた彼。その声をかき消して麻鈴はいう。
「ええ、私たちもそろそろよねえ」とテーブルの下で逢野の膝を抓っている。
「ええ? お前、コウノトリにでもお願いするのか?」と逢野は大まじめに麻鈴の言った自分には身に覚えのない答えに疑問を感じている。
「まあ仲がよろしいのね」と笑った三保。
「でもこれであの農園も安泰ですな」と逢野。
「ええ、おかげさまで。そして義母がなんで孫を欲しいと言っていたのかがよく分かりました。単に嫌みや孫ほしさという部分だけではなくて家と財産に直結していたなんて、まるで思いもしませんでした。それを教えて頂いたのもお二人のお力。なんとお礼を申し上げたら良いのか」
二人は無言で頭を下げた。ひとつの事件、案件が無事に終了されたと感じていたからだ。
だが探偵事務所の雑居ビル前の通りで、運河の堤防に寄りかかり窓を見つめる一人の男がいた。
「邪魔なやつらだ」
そう呟くと黒い身なりの男はスタスタと元町通りの方へと去って行った。
そんな事には気付かず、事務所の中で二人になった逢野と麻鈴。
麻鈴は膝元で日記帳を取り出すと、大きな文字で『ダーリン、子どもの名前考えておいてね♡』と見開きを使って書いた。
その文字をのぞき見た逢野がふたたびお茶を吹き出したのは言うまでも無い。そしてなぜか逢野はケメコに追いかけられるピュンピュン丸(※2)を脳裏で想像していた。キビシー!
了
次回は「第二話 綱島温泉二丁目 消えた同人誌」でお会いしましょう!
※1 マンガ『パーマン』が正義の味方として変身して活躍するときは自分の分身であるコピーロボットを自分そっくりに模写整形して留守番を頼む。
※2 つのだじろう原作のギャグ忍者アニメ。原作は『忍者あわて丸』という。物語のなかで鉢のようなヘルメットを被ってオレンジ色の着物を着ている苦手な女子ケメコに求婚されて、追いかけ回され、逃げ回るピュンピュン丸がお馴染みのシーンだった。主題歌の中で財津一郎さんが入れる『キビシー』は名台詞である。作者は第二期の再放送をよく見た。