メンヘラクソビッチ姫
「またアイツ、病みポストしてるよ」
スマホの画面を覗き込みながら、クラスの女子たちはクスクスと笑い合っていた。黒髪にピンクのメッシュを入れ、化粧の濃い美少女──彼女の名は姫乃。
SNSでは「メンヘラクソビッチ姫」と呼ばれていた。
姫乃のアカウントには、毎日大量の病み投稿が流れてくる。「死にたい」「消えたい」「またリスカした」「愛されたい」。そのたびに、フォロワーたちは「大丈夫?」「話聞くよ」とコメントをする。しかし、その裏で彼女の投稿は嘲笑の的になっていた。
「またリスカの写真載せてるよ」
「かまってちゃんすぎ」
「本当は死ぬ気ないんでしょ?」
教室の片隅で、姫乃はスマホを見つめていた。嘲笑されていることに気づかないふりをするのも、もう疲れた。リスカした傷口はもう赤黒く腫れて、痛みは鈍くなっていた。
なぜこんな風になったのか。
──それは、あの日からだ。
中学時代、姫乃は明るく、友達も多かった。けれど、一人の男に出会い、すべてが狂い始めた。
年上の彼氏。優しくて、ちょっと危険な香りのする彼。
「お前は俺がいないとダメなんだから」
最初は甘く、やさしい言葉だった。でも、それは次第に束縛へと変わった。連絡を返さなければ罵倒され、会えない日は怒鳴られた。ある日、彼は姫乃の腕を掴み、強く引っ張った。そのときにできた痣を見て、姫乃は気づいた。
「ああ、私、もう壊れちゃったんだ」
それからは、すべてがどうでもよくなった。
彼の愛が欲しくて、自分を傷つけた。痛みが、私を生きていると証明してくれた。けれど、そんな関係は長くは続かなかった。彼は「面倒くさい」と言い残し、姫乃を捨てた。
──私は、ゴミになった。
学校では、「アイツ、ヤリ捨てされたんだって」と噂された。友達もいなくなった。居場所がなくなった。
唯一の居場所は、SNSだけだった。
「お前のポスト、面白すぎw」
「またリスカしてんの?w」
知らない誰かが、姫乃を嘲笑う。それでも、誰かが自分を見てくれていることが嬉しかった。嘘でもいい、「生きててほしい」なんて言葉がもらえるだけで、生きている意味があるような気がした。
そんなある日、彼女の投稿に一つのコメントがついた。
「君の痛み、僕には分かるよ」
見知らぬアカウントだった。アイコンはシンプルな月の画像。プロフィールには「傷ついた者の味方」とだけ書かれていた。
──誰?
姫乃は、そのコメントの主にDMを送った。彼の名前は「透」だった。透は、姫乃の話を否定せず、ただ静かに聞いてくれた。
「姫乃は悪くないよ」
そんな言葉をかけられたのは、いつ以来だっただろう。
それから、姫乃は透と毎日話すようになった。学校では一人だったけれど、スマホの中には透がいた。
「君はもっと自分を大切にしなきゃ」
「でも、私なんて、生きてる意味ないよ」
「そんなことない。君は君のままでいい」
透の言葉は、いつも優しかった。
ある日、透が言った。
「会って話さない?」
心が揺れた。ネットの人と会うのは危険だって分かっている。でも、透なら……。
指定された場所は、小さなカフェだった。
カフェの入り口で、姫乃は震える指でドアを開けた。
そこにいたのは、黒縁の眼鏡をかけた、やせ細った男の子だった。
「初めまして、姫乃ちゃん」
その笑顔は、SNSのアイコンよりもずっと柔らかかった。
透もまた、傷ついていた。彼は、かつて姫乃と同じようにいじめに遭い、自分を傷つけたことがあった。だからこそ、姫乃の苦しみが分かると言った。
「僕はね、姫乃ちゃんに生きていてほしい」
その言葉が、姫乃の心に染み込んだ。
誰かに、こんな風に願われたことがあっただろうか。
それから、姫乃は少しずつ変わった。リスカの頻度は減り、SNSの病みポストも少なくなった。
「私、変われるかな?」
「変わる必要なんてないよ。姫乃ちゃんは、姫乃ちゃんのままでいい」
姫乃は、初めて涙を流した。
それは、悲しみの涙ではなく、救われた涙だった。
学校では相変わらず孤独だったけれど、もう一人じゃないと思えた。
スマホの中には、透がいる。
いや、スマホの中じゃない。
──私の心の中に、透がいる。
それだけで、もう、死にたいとは思わなくなった。
姫乃は、そっとスマホを閉じた。
もう、「メンヘラクソビッチ姫」じゃない。
私は、ただの「姫乃」。
それでいいんだと思えた。
姫乃は、小さく微笑んだ。そして、そっと自分の傷ついた腕を撫でた。
新しい朝が、ゆっくりと、姫乃の世界に差し込もうとしていた。