なんでも譲る姉の私には、妹の婚約者を寝取る理由がない……わけではない
チチ……と小鳥のさえずりが聞こえ、目が覚めた。
癒し魔法のようなキラキラとした朝の陽射しがまぶしい。
ああ、すがすがしい。こんなに気分がいいのは何年ぶりかしら。
身体はまだ少しだるいけれど、隣で眠るエルの規則正しい寝息に安堵する。
ちゃんと、いた。
朝になったらいなくなってた、なんてことにならなくてよかった。
起こさないようにそっと寄り添い、寝たふりをしながら薄目を開けて観察する。
マロン色の髪に長いまつ毛、瞼の下には緑色の瞳が隠れていて、普段は無口なその唇が柔らかいことは、もう知っている。
「う……ん……」
エルが寝返りを打つ。なにやらムニャムニャと言っていて、いつものすまし顔とは違った一面を見せる。
なんだか、すごく可愛い。
エル――エルンストは、ラントン王国の第一王子だ。今年で二十歳になる。
我がアリネラ王国とはピッリ河を隔てたお隣同士で、十年前に橋が架けられて以来、馬車でも行き来できるようになった。
お互いの王都が対岸にあって近いので、気軽に会えるってわけだ。
アリネラ王国は、国土の半分以上が農地という農業国だ。他には、ダイヤモンド鉱山とペペルデの王領に小さなルビー鉱山がある。
一方、ラントン王国は工業国。我が国で使う農耕機はすべてラントン製、宝石の加工もお願いしている。
共に大陸の端っこにある小国同士、持ちつ持たれつの関係である。
私はアリネラ王国の第一王女、セシリア。十八歳になった昨夜、妹メリッサの婚約者であるエルと一夜を共にした。
妹の婚約者と、どうしてこんなことになったのか――と、それを説明する前に媚薬入りの酒瓶をどうにかしなくちゃ。
私は小声で呪文を唱えて、酒瓶と使用済みのグラスを異空間へと移動させた。証拠隠滅、これで完璧!
あとでバレたら、いろいろと面倒だもの。
魔法っていいよね。すっごく便利。
王女に生まれていなければ、絶対に魔術師になっていたわ。
それくらい魔法が好きだったけれども、王家には私と妹しか子がいないので「将来、女王になるのだから」と諭されて泣く泣く諦めたのだ。
たまに王宮魔術師のヘニー・バウスに指南を受けて、少しばかりの魔法を使えるようにはなったけれど、全然、物足りない。
振り返れば、諦めの多い人生だったと思う。
私には、幼い頃から、将来国を背負うべく厳しい教育が課されていた。
宰相のクルト・ボーンからは、「セシリア様だけが頼みの綱です」なんてプレッシャーをかけられて、来る日も来る日も勉強、勉強の日々。
というのも、国王のお父様がのほほんとしていて頼りにならない。お母様もこの国一番のチューリップ畑を持つ農園主の娘なので政治に疎いのだ。
これが大国ならば、貴族でもないお母様は王妃になれなかったのだろうけど、何せ、のんびりとした国だ。
王太子だったお父様が、視察に赴いた先で平民だったお母様を見初めた末の恋愛結婚がまかり通ってしまうくらい、王侯貴族と平民の距離が近い。
せめて次代くらいはしっかりせねばこの国は危うい、としわ寄せが私にきたわけだけど、それは、もういい。
二つ違いの妹メリッサが病弱で「十歳までは生きられないでしょう」と医師に言われていたため、両親の寵愛をかっさらっていったのもよしとしよう。
「セシリアは、メリッサが生まれるまで両親を独り占めしていたのだから」
「お姉さんなんだから、それくらい我慢できるでしょう?」
「メリッサは病弱でかわいそうなのだから」
そういう理屈で、我が家では何事にもメリッサが優先されていた。
私も、妹は長生きできないんだと思えばこそ、当たり前のように譲ってきたの。
たとえば、自分の髪飾りやリボンを欲しがればプレゼントしたし、ドレスを選ぶ優先権もメリッサのもの。彼女が寂しいと言えば、それが私の誕生日であっても主役の座はメリッサだった。
十二歳で公務を手伝うようになり執務室で必死にペンを走らせている間、庭からは両親とメリッサがお茶の時間を楽しむ声が聞こえてくるようになった。
私は文句一つ言わなかったのよ。どれだけ、寂しくてもね。
妹が、死を宣告されていた十歳を過ぎて、ずいぶんと身体も丈夫になったのでもう大丈夫だと医者に太鼓判を押された頃、私はお父様とお母様に呼ばれた。
十四歳になった日のことだから、はっきりと覚えている。誕生日のお祝いをもらえるのだと期待で胸が高鳴っていたんだもの。
「この国はメリッサに継いでもらおうと思う。健康になったとはいえ、他所に嫁ぐのは心配だからね」
開口一番、お父様に告げられた。ニコニコと、さも名案だと言わんばかりに。
「え?」
びっくりして二の句が継げないでいると、お父様はこう続けた。
「それでセシリアには、お隣のラントン王国の王太子妃として嫁いでほしいんだ。第一王子のエルンスト君、会ったことがあるだろう? 前々から両国間で縁組をという話があってね」
「そうなのよ。で、第二王子のフレット君を王配として婿にということなの。メリッサが、この国を出るのは不安だと泣くのだから、そのほうがいいわよね」
これでメリッサも安心するわ、とお母様も微笑んでいる。
「それは国王としての決定ですか?」
国王として――あえてそう訊いた意味を深く考えもせずに、お父様はあっさり頷いた。
「うむ。国王ヘンドリックとして決めたことだ」
その瞬間、私のこれまでの努力は水の泡と消えた。
せめて国益とか、国民のことを考えて決めてほしかった。それが国王というものでしょ?
メリッサが不安で泣いてるから……って、なによ、それ。
誕生日プレゼント? もちろんなかったわ。
だって、その日の両親は、メリッサのことで頭がいっぱいだったんだもの。
こうして私は、次期女王の座をメリッサに譲って、今度はエルの婚約者としてラントン王国に通い、お妃教育に励む日々が始まった。
でも、いい。
エルを好きになったから。
王族が好きな人と結婚できるなんて幸運でしょ?
そう、幸運なのよ。
私はエルとの結婚だけを心のよりどころに頑張った。
大変だったけれど、充実していた。
エルは口数は少ないけど優しいの。
次期国王として私以上に多忙なのに、不慣れな隣国の王宮で勉強する私のためにお菓子を差し入れてくれたり、休憩時間にお茶に誘ってくれたり、手を引いて庭の散歩に連れ出してくれたりするのよ。
私と同い年のフレットがやんちゃで、ちょっかいをかけられることが多かったのだけれど、それとなく追い払ってくれたし……っていうか、フレットのヤツ、乙女にカエルを投げつけるなんてありえない!
将来の義母、サマンタ王妃にも「セシリアちゃんが嫁いで来る日が楽しみだわ!」と気に入られていた。
両親からは忘れられた誕生日のお祝いを、ハンネス国王とサマンタ王妃は欠かさずに贈ってくださった。もちろん、エルもね!
それらはメリッサの目に触れないように、ラントン王宮の私の部屋にある。
もし羨ましがられたら「譲ってあげなさい」って言われるに決まっているから。
私はエルと二人で、生涯をラントン王国に捧げる覚悟だった。
あ、そうそう、それで私が妹の婚約者と、どうしてこんなことになっているのかって話だったわよね。
私たちの婚約が解消されたの。
まさに青天霹靂。
エルはメリッサの婚約者になった。
きっかけは、やはり妹の一言だった。
「わたくし、お姉様みたいに、たくさんお勉強をしていないから、きちんとこの国を治められるか不安です。聞くところによると、第二王子のフレット様も騎士団の仕事がお忙しくて、帝王学を修めていないそうなの。どうしましょう」
というようなことを、お父様とお母様に訴えたらしいの。
確かに、フレットは頭で考えるよりも体を動かすほうが得意で、現在は騎士団長として軍に在籍している。
でも、そこは他人を当てにするのではなく、できる限り自分で努力すべきでないかしら?
あくまでフレットは王配で、女王はメリッサなのだから。
見たところ、彼女は毎日のんびりしている。
以前、宰相のクルト・ボーンに探りを入れたら「陛下が、メリッサ殿下のお身体に負担をかけるなと仰せなのです」と渋面でこぼしていたっけ。
そんなお父様のことだから、世継ぎの教育を受けたエルを王配にって安易に考えたのよね。
帝王学を修めた二人をくっつけるより、引き剥がしてそれぞれの『女王』と『国王』の補佐につけようって魂胆なわけよ。
その話をされたのが、昨日の私の誕生日のこと。
お妃教育で王宮を留守にするようになってから、お父様は、私への関心がさらに低くなった。誕生日なんて、もはや覚えていないのだろう。
「ちょうどエルンスト君とフレット君も同席していることだし……」
お茶の席に皆を集めたお父様が口火を切った。
ちょうどって何よ?
エルは私の誕生日を祝うためにわざわざ来訪してくれたのよ、とカチンとくる。
フレットは、たぶん、メリッサに会うために来たのだと思う。普段、忙しくてなかなか会いに来られないから。
だけど、この期に及んで、私はようやくエルとの結婚話が具体的に進むのだと期待してたのだ。サマンタ王妃も「もうすぐ十八歳だから、そろそろ結婚式の日取りを決めなくてはね」とおっしゃっていたから。
甘かったわ。
「――だからこの際、エルンスト君を我が国の王配にとハンネス国王にお願いしたところなんだ」
ほくほく顔で報告するお父様の言葉を聞いて、脳天に衝撃が走った。
お願いした、の?
次期国王として手塩にかけて育てられたエルを、そんなに軽々しく「ください」とお願いするなんて厚顔無恥としか言いようがない。
お父様とハンネス国王は幼馴染みだ。親しい間柄だけれども、これはさすがに気分を害するのではないかしら?
「お、お父様、エルは……エルンスト様は、幼い頃より、将来国王となるべく精進しております。ハンネス国王が、反対なさるのではないですか?」
そう、エルを簡単に手放すはずがない。
私は心のどこかで、この婚約が覆るはずがないと安心していたの。
お父様は私に「そうなんだよ」と大きく頷いてから、エルに視線を移した。
「ハンネス国王が『ルビー鉱山くらいはもらわないと割に合わない』と言うので、この国の将来のためになるならと考えて引き換えることにした。エルンスト君、あとで正式な書面にするから、お父上に渡してくれないか?」
ルビー鉱山? 王領ペペルデのルビー鉱山のこと?!
衝撃の第二波が、私の頭を直撃した。
これは、まずい。
お父様は気づいていないけれど、確実にハンネス国王を怒らせた。
建国前、地方の有力豪族でしかなかった我が家が王家として認められたのは、あのルビー鉱山のお陰である。
その昔、治水工事が行われるまでのピッリ河は、何度も氾濫を繰り返す暴れ川だった。その度重なる水害で痛手を負った人々を救ったのが、我が一族が治めるペペルデのルビー鉱山による富だったのである。
敵味方なく救いの手を差し伸べ、豪族たちをまとめ上げた。そして民に認められて国を興すに至るのだが、その礎となったルビー鉱山のすべての権利は、国王だけに認められている。
実際に、ルビー鉱山を有する者が、王であると建国時の法典に定められている。
それは、国王が国民のために尽くすという誓いだ。
要するにハンネス国王は、エルを婿に欲しければ国をよこせと言っているのだ。
遠回しに婿入りを断っているのだが、一国が手に入るならばどちらでもいいのだろう。
抜け目のない人だから、エルを次期国王として扱いながらも正式に立太子させていないのは、こうしたことを見越していたのかもしれない。
当然、次期国王として教育を受けてきたエルは、そのことに気づいているはず。
「は……」
「お父様っ! 突然そんなことを決められても困ります。せめて一日、気持ちを整理する時間をください。お願いしますっ!」
エルが口を開きかけたので、彼が「はい」と返事をする前に慌てて立ち上がり、大声で割って入った。
とにかく、ここは時間を稼がねば。
のほほんとしたお父様のことである。法典など読んだこともなく、国を売り渡そうとしている自覚がないに違いない。
「うわっ、びっくりした。そうか、そうだな。書面を用意しなければならないし、君たちのサインも必要だ。明朝、もう一度話す時間をくれないか。二人とも、今夜はここに泊っていくといい」
お父様はもう決定したことのように言い、おっとりと部屋を出て行った。
メリッサは、ニコニコしている。この笑顔はお父様にそっくりだ。
天真爛漫で、つい守ってあげたくなるような。
けれど、毒だ。
「よかったですね、お母様。ルビーだけでいいんですって」
「あそこの鉱山は、今はほとんど採石できないもの。ハンネス陛下は欲がないのね。素晴らしい方だわ」
母娘が呑気に会話を交わす。
私はエルをちらりと見るけど、感情が表に出る人ではないので何を考えているのかわからない。いつものすまし顔で、黙ったまま何かを話す気配もない。
国の利益のためなら、メリッサの王配となる気があるのか。ないのか。
いや、国益以前にこの無邪気な笑顔にコロッと参っている可能性もあるし……。
そう考えたら、胸がズキリと痛んだ。
「そういうわけだから、これからヨロシクな」
目の前にフレットの大きな手が差し出された。
面食らっていると強引に手を取られ、握手される。
「セシリアは政策に詳しいから気が楽だよ。俺はそういうの、兄貴と違ってからっきしだからな。どちらかというとメリッサもそうだろう? 足りないところを補うって意味では、この組み合わせが一番いいのさ」
ほんの数年前までゲジゲジ虫だのカエルだのをけしかけてきた男が、この縁談に乗り気であるとは心底意外だった。
苦手なことを人任せにするような態度にムッとして、何か言ってやりたいけど、今は時間がない。
「ああっ、そういえば、コリーに急ぎの用があるんだったわ。ちょっと失礼します」
さも用事を思い出したように取り繕うと、私は急いで部屋を出た。
そして、王族しか知らない隠し通路を使いクルトの部屋までダッシュで駆け抜けたのだった。
「クルト、クルトっ……!」
宰相の部屋にお父様がまだ到着していないことを確認して、隠し扉を出る。
「どうしたんですか? そんなところから」
クルトは、ハァハァと息を切らす私に驚くも、すぐに冷静な表情に戻った。
愚王の代わりに政務を取り仕切るこの宰相のお陰で、我が国は、なんとか持ちこたえている。
切れ長の瞳の美男なのに四十近くになっても、いまだ独身。
かわいそうに。きっと激務が祟っているのだわ。
「き、緊急事態よ。お父様が来る前に、国璽……国璽を隠してっ」
「国璽ですか? 隠すったって、出せと言われたら従うしか……」
「か、鍵よっ。国璽を入れてある金庫の鍵! うっかり持って出かけたことにして、明日まで時間を稼ぐの。早くっ」
ただ事ではない私の剣幕に何かを悟ったのか、クルトは、はじかれたように動いた。
「ニック!」と腹心の部下を呼び寄せ、金庫の鍵を押しつけて耳元で指示する。
ニックが足早に扉を開けて出て行った数秒後、すれ違うかのようにお父様が現れ、私は隠し扉のある本棚の陰にサッと身を潜めた。
案の定、隣国と正式に書面を取り交わすので国璽が必要なのだと言っている。
クルトが「正式な文書は文言が重要なので、あとで陛下の執務室へ伺います」と適当に理由をつけてお父様を追い返した。
ま、間に合った……。
いかに国王といえども、国璽がなければ外交文書は作れない。
私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
心臓がバクバクと音を立てている。
「それで、どういうことなんです?」
キリッと鋭い視線を向けられ、私はここに来た経緯を説明する。
婚約者のすげ替えからルビー鉱山に言及すると、クルトの顔がみるみるうちに強張った。
そりゃまあ、そうなるよね。
「あのバカがっ……」と吐き捨てたのは、聞かなかったことにする。
だって、私も同じ気持ちだもん。本人に悪気がないから、余計に質が悪いのよね。
「陛下を説得します」
クルトがお父様に会いに行こうとするのを「今さら、無駄じゃない?」と引き止める。
「もうあちらに話が通っているのよ。メリッサはともかく、フレットまで平然としていて驚いた様子はなかったから、知らないのは私だけだったのかもしれない。それに、一国の王が頭を下げて頼んだことをあっさりと取り消すの? 国の体面はどうなるの? これ以上、ヘマをすれば両国間に亀裂が入るわよ」
「じゃあ、どうしろと……」
「こうなったら、あちらの非を追及して対等に持っていくしかないわね」
「ラントン王国側に、非はないでしょう。礼を失したのは、うちの陛下です」
「だから作るの」
「は? どうやって」
私は手招きをして自分の傍にクルトを呼び、耳打ちをする。
「今夜、エルと寝る。私を傷モノにしてもらうのよ」
これでエルは責任を取って私を娶らざるを得なくなるから、婚約者のすげ替えはできないし、この話は流れるはず。
そして私は好きな人と結婚できて万々歳! うん、名案。
「はぁ? 私は反対です。セシリア殿下を傷モノにするだなんてとんでもない!」
「じゃあ、他に方法ある? 明朝までにお父様やメリッサを説得して、あちら側の機嫌を損ねないように婚約者を元に戻せる?」
クルトが暴れ馬のごとく鼻息を荒くして反対するので、代案はあるのかと問うと途端に勢いがなくなった。
「それは……ルビー鉱山をダイヤモンド鉱山に変更してもらう……くらいですかね。我が国としては、かなりの損失ですが」
「それだと国は守れても、エルは王配のままだから私と結婚できない。ねえ、クルト、私にだって譲れないものがあるの。今までは、なんでもメリッサに譲ってあげたじゃない。だからエルだけは取り上げないで。お願いよ」
「う……」
お祈りポーズをしてうるうるした目で見上げれば、クルトは観念したようにがっくりと膝をついた。
かくして侍女のコニーを仲間に引き入れ、入念な打ち合わせの末に作戦は決行されたのだった。
「セシリア様、お綺麗ですぅ」と身支度を手伝ってくれたコニーに送り出され、クルトが用意した媚薬入りの酒瓶を片手にエルの部屋へ。
「王領で作ったジュニパーベリーを加えた新しいお酒なんだけど、試飲して感想を聞かせてほしいの」
突然の訪れにびっくりしているエルに、見え見えな言い訳を告げればあとはこっちのもの。
無事に熱~い夜を過ごしたってわけ。
あ、エルが起きたみたい。
パチパチと瞬きをしている。
「セシー……」
エルは、私をセシーって呼ぶの。
そう呼ぶのはエルだけ。
彼をエルと呼ぶのも私だけ。
なんだか、特別な感じがするわよね。
「エル……?」
私は、たった今、目覚めたように装う。
身を起こしたあとは、どうしたらいいのかわからなくて俯いた。
だって、毛布で胸を隠しているとはいえ裸だし、恥ずかしいじゃない。
すると、その毛布越しに抱きしめられた。
「責任……取るから」
※※
その後、私とエルが抱き合っている現場を朝食の時間を知らせに来たコニーによって目撃され、早急にお父様に報告された。ここまでは手筈のとおり。
そして、再び皆が集まった応接間には、宰相もさりげなくメンバーに加わっている。
クルトの真剣な表情からは、もう愚王の好き勝手にはさせないぞ、という固い決意が伝わってきた。
お父様はしきりに額の汗をハンカチで拭う。目の下の隈もひどい。
それもそのはずで、一晩中、クルトに懇々と説教されていたのだ。
我が国でルビー鉱山がどのような意味を持つのか。しかも、それを知らないとは国王失格だと。
ハンネス国王の意図。その結果、危うく国を売るところだったこと。
お父様の無神経な発言が、そこまで幼馴染みを怒らせたのだということ。
悪気がなかっただけに、相当なショックだろうな。
ま、しょうがないけど。
昨夜の情事のことが知られているのだろう。お母様とメリッサの顔色が悪い。
フレットは、ムスッとして腕を組んでいる。
私はエルの隣に座って、しおらしくしている。
誰もが発言を控えて口を噤むなか、エルが「僕はセシリアと結婚します」と宣言した。
「そ、そうだな。四年間も婚約者同士だったんだし、それが最善だ。エルンスト君、それからフレット君、こちらの事情で振り回してしまって申し訳なかった」
お父様はエルに同意し、二人に深々と頭を下げた。
「いいえ、こちらにも非はありますから。顔を上げてください」
エルが私を傷モノにしたことを匂わせて、お互い立場は対等だとお父様を押しとどめた。
ここまでのやり取りを聞いて、やっとエルがこの手に戻ってきたのだと安堵した。
クルトを見るとわずかに頷いている。
この場でお父様が私たちの仲を認めた以上、もう覆ることはないはず、よね?
「あ、あのっ、一晩の過ちなら、わたくしは気にしませんっ」
黙っていたメリッサが、突然声を張り上げた。
何を言い出すのかしら、この子は?
お母様も「そ、そうよね。過ちは誰にでもあることなのだし」と調子を合わせている。
だからエルンスト君を王配に……と言いかけるのをクルトが「王妃殿下っ!」と黙らせた。
「メリッサ様が気になさらなくても、国の体面というものがございます。何より、国王陛下が正式にお決めになったこと。異を唱えるなどとんでもない」
ガツンと言われて、メリッサがうなだれた。そして未練がましく言い訳をする。
「でも……もともとは、フレット様が言い出したことなんですよ? 国を治めるための教育を受けていないから自信がない、と。だから、エルンスト様を王配にするのはどうかって。わたくしもエルンスト様ならと思って……」
メリッサは、熱のこもった瞳でエルを見つめた。
うわ、やめてよ。私のエルをそんな目で見ないで。
フレットもメリッサを唆したりして、どういうつもり?
自分がラントンの王になりたいってことなのかしら。
「残念ながら、僕にはそのつもりはないよ」
エルがきっぱりと断ってくれて、ほっとする。
「なら……わたくしがラントン王国へ嫁ぎます! お姉様、いいでしょう?」
メリッサが甘えた声で私に強請る。
いつもこの手でなんでも手に入れてきたから、今回もそのつもりなのだろう。
いいでしょう――って、よくないわ。ちっとも、よくない!
「ダメよ、メリッサ。エルは私と結婚するの。さっき、お父様もお認めになったでしょう?」
大切なことだから、はっきりと言う。
お母様が「メリッサはかわいそうな子なのだから、そのくらい譲ってあげなさい」と責めるのを無視して、私は妹を見据えた。
「あなたはもう、病弱なかわいそうな子ではないはずよ。十六歳でしょ。子どもではないのだから、王族として……次期女王として責任感を持ってほしい。これからは守られるのではなく、あなたが民を守っていかなくてはいけないの」
「でも……」と、メリッサが自信なさげに呟くのをお父様が「これはもう決定事項だ」と諭した。
「優秀な王配が欲しいのならば、フレットではなく新たな婿を迎えたら? 自信がない者同士では心細いだろう」
私たちのやり取りを聞いていたエルが、メリッサに言う。
メリッサを唆したのがフレットだから、彼には結婚の意思がないものとして破談の方向で話を進めるつもりなのだわ。
あれ? 昨日の時点でフレットは、メリッサとの婚約が解消されて私の婚約者になったのだから、破談とは言わないのか。
あ、でも正式な書面にサインしていないから、私はまだエルの婚約者なのでは?
そうよ、それを含めた書面へサインするために、こうして集まる予定だったはず。
ってことは、もしかして私は妹の婚約者を寝取っていない? 嘘っ、ホント?!
まあ、細かいことは横に置くとして――。
「そうね。とっておきの人がいるから紹介するわ」
私は、しれっとエルに便乗する。
相手は、この国を切り盛りしている優秀な宰相のクルト・ボーンだ。
王配の大役を任せられるのは、もはや彼しかいない。
かなり年上だけど、美男だし、愛が芽生えなければ白い結婚でもいい。
私の子どもの一人が、将来この国を治めてくれればいいのだもの。
ともあれ、私がエルと結婚してラントン王国に嫁ぐことと、メリッサとフレットの婚約解消がこの場で決められ、お父様とエルはハンネス国王にも了承を得るべく報告に向かったのだった。
クルトも宰相として一緒について行った。お父様に任せるのが不安だったのだろう。
そのクルトの話によると、せっかく私が傷モノになって対等な立場だというのに、お父様はハンネス国王に泣いて謝っていたらしい。
自分勝手だったとか、許してくれとか、友達をやめないでくれとか。
そうしたら「謝る相手が違うだろう」と、お父様はラントン王宮の私の部屋に連れていかれた。奪われたくないものがたくさん詰まっているあの部屋に。
娘の誕生日を忘れていたことやメリッサを優遇しすぎていたことを叱られて、そこで初めて私に我慢させていたんだと気づいたらしいの。
それまでのお父様は、病弱のメリッサのために尽くすのが当たり前。娘が死ぬかもしれない恐怖で、一種の洗脳状態に陥っていた。
皆が婚約者の交代を喜んで賛成するはずだと信じて疑いもしなかったというから、びっくりするわよね。洗脳って怖い。
改心しなければ本当に国を奪うつもりだったと幼馴染みに言われて、やっと正気に戻ったってわけ。
帰ってきたお父様は、私にも泣いて謝り、お母様とメリッサに、この国のルビー鉱山のことと、国の危機だったことを教えていた。
二人は、顔面蒼白になっていた。
そりゃ、そうよね。
お母様は、お父様と同様に洗脳状態なだけ。メリッサも、甘やかされて育ったがゆえに無知なだけで悪意はないのよ。
だから憎めないというか、こんなふうに育ってしまって不憫だなと憐れむ気持ちのほうが強くて……。
これを機に、お父様とお母様とメリッサは、クルトによって一から教育されることになった。
クルトはクルトで、王配になるのは嫌だったのか「最低基準をクリアしなければ、教養のある新しい王妃を迎えて、新たに世継ぎを儲けてもらうことになる」と脅し……いや、発破をかけたのだった。
このままでは離婚させられる、と青くなった両親は真面目に勉強している。
メリッサも新たな王配候補は親子ほど年の離れたおじさんだと私に言われて、それは絶対に嫌だと真剣に帝王学に取り組み始めた。
人って、切羽詰まるとやる気になるものなのね。
私は、お妃教育のためにラントン王宮へ通う日々に戻った。
「そんなに俺と結婚するのが嫌だったのか?」
この日、お妃教育の授業が終わって、エルとお茶会をするために部屋へ向かっている途中でフレットに呼び止められた。
彼は、騎士団の仕事でしばらく王都を留守にするのだそうだ。
脳筋だし、もともと一か所に落ち着く性分じゃないのよね。
それで別れ際に「がんばってね」と言ったら、このセリフよ。
「フレットのことは嫌いじゃないけど、私はエルのことが好きなの」
「……ッ」
「フレットはエルをメリッサの王配に据えて、自分がこの国の王になりたかったの? それとも、単に王配になるのが嫌だっただけ? それでメリッサを焚きつけたの?」
この際だからはっきりさせようと思って、質問攻めにする。
「俺は……国王になりたかったわけじゃない」
「だったらなんで、エルから国王になる末来を奪うような真似をしたのよ。この前フレットは、私が政策に詳しいって言ってたよね。そんなの当たり前じゃない。将来、国を治める重責を担うために、私とエルがどれだけ勉強してきたと思ってるの? エルは、毎日歯を食いしばって努力しているの。もちろん尊敬しているわ。次期女王をクビになって辛かったときも、エルがいたから頑張れた。この先も苦労を分かち合って支えていくつもり。それなのに、自分はなんの犠牲も払わないで『足りないところを補う』とか『気が楽だ』とか、簡単に言わないでほしい」
フレットがぶっきらぼうに答えるものだから、私はつい不機嫌になって一気にまくし立ててしまった。
そうよ、エルは国王にならなければならない。
単純に、ルビー鉱山をダイヤモンド鉱山に変更してもらえばいいってもんじゃないのよ。
エルの王配への道を阻止するために、やっぱりあの日に夜這いしたのは正解だったんだわ――なんて、自らの行いを頭のなかで正当化していると「ごめん……」とフレットが謝ってきた。
あまりに素直なので私も「ごめん、言い過ぎたわ」と謝る。
「フレットだって、一生懸命に努力しているのよね。その方向が私たちとは違うだけ。この間の剣技大会も優勝したんですってね。すごいわ」
「俺は勉強が嫌いだったから、サボるついでに剣を振り回していただけだ。そのほうが性に合ってる」
「うん」
フレットは、体格がいいし動作も機敏だ。勉強が苦手とは言ってもまるっきりのバカではなく、奇襲などの大胆な戦略を考えるのは上手いし、その度胸も持ち合わせている。
その奇襲にやられて、こっちはいつもゲジゲジ虫だらけになっていたんだけど。
「悪かったよ。父上が条件に出したルビー鉱山に、あんな意味があったなんて知らなかったんだ。俺はさ、俺はただ……」
「セシー?」
フレットが頭を掻きながらモゴモゴと言いよどんだそのとき、後ろからエルに呼ばれた。
「あ、エル」
「遅いから迎えに来たよ」
「フレットが王都を離れるというから、挨拶してたの」
「離れると言っても、馬で一日の距離だろう? 大袈裟なんだよ、フレットは」
あ、そうなんだ。二、三年は帰ってこれないと聞いていたから、もっと遠いのかと思ってたわ。
エルはやってくるなり、私の腰に腕を回して抱き寄せた。
あの夜以来、頻繁にこういうことをするようになったのだけど、人前だとなんだか照れ臭いよね。
現にフレットは身体を寄せ合う私たちを見て、目のやり場に困っている。そして、ハァーと大きなため息をついてから明るく笑った。
「ハイ、ハイ。もう二度と二人の邪魔はしませんって。じゃあ、俺は準備があるからもう行くよ。次は、二人の結婚式で会おう」
フレットが踵を返す。
私は彼の背に向かって「またね」と手を振った。
そのあと、エルの部屋でローズヒップの甘酸っぱいクッキーを齧りながら紅茶を飲む。
いつもは向かい合って座っていたけど、近頃は横に並んでいるの。
つまり、なんていうか、二人の距離が近くなった、ってこと。
「そういえば、フレットは何を言いかけていたのかしら? 聞きそびれちゃった」
ふと思い出して、なんとなく気になってしまう。
その途端、エルはすました顔から苦虫を噛み潰したような顔に変わった。
「あいつは、前々からセシーのことが好きだったから。たぶん、そう言いたかったんだと思う」
「えっ~! カエル投げつけてたのに?」
「十四にもなって、好きな女の子にちょっかいかけるような、子どもじみたヤツなんだよ。あれから、ちっとも成長していない」
「ふうん?」
「セシーの両親はメリッサに甘いだろう? だから、彼女から言い出せば婚約者の交代が叶うと、あいつなりに悪知恵を働かせたんだろう。僕からセシーを奪おうなんて小癪なヤツめ、一生こき使ってやる」
そ、そういうことだったのか。
でも、メリッサもあの態度から察するに、エルのことが好きだったんだろうな。いくら言いくるめても、自分がその気にならなければ動く子じゃないもの。
「あのっ、エルは私でよかったの? あのとき、メリッサを嫁にもらう選択もできたはずでしょ。あの夜は、私がエルを襲ったようなものだし、そう主張すれば責任なんて取らなくても――――」
「ごめん」
不意に抱きしめられる。
私の顔はエルの厚い胸板に押しつけられて、発する声がくぐもる。
「セシーにあんなことさせて、本当にごめん。あの日、話が出たとき、すぐに断るつもりだったんだ。だけど妹のためなら、君は婚約解消に同意するんじゃないかと躊躇してタイミングを逃した。セシーは急いで部屋を出て行ってしまうし、フレットとは仲が悪いわけじゃないだろう? 二人が握手するのを見て、これはフラれたんだとショックでさ」
腕にグッと力がこもって、ドクドクと波打つ心臓の鼓動が聞こえてくる。
エルの表情は見えないけれど、こんなに感情をあらわにするのはめずらしい。
「私がエルを手放すわけないじゃない。クルトのところへ相談しに行ってたの!」
胸に顔を押し当てられたまま、モゴモゴと説明する。
「夜、部屋に来てくれたときは嬉しくて、理性が飛んでしまった」
「ああ、あれ? 媚薬入りのお酒だったから」
ようやく腕の力が緩んで、エルを見ると意味ありげな笑みを浮かべている。
ん? 何か変なことを言ったかしら。
恐る恐る「どうしたの?」と訊いたら「違うよ」と返された。
「ラントン王国の王族は皆、薬を盛られても対処できるように浄化魔法を習得しているんだ。もちろん解毒もできるし、媚薬も効かない、意識を失うほど酔っぱらったりもしない。セシーを抱いたのは、僕の意志だよ」
えええっ~! び、媚薬が効かない?
それは恥ずかしい。すっごく恥ずかしい。
でも、エルの意志だと知って、とても嬉しい。
「ええ、と……そ、それは便利ね。私もその浄化魔法、習えるのかしら?」
私は、おたおたしながら口走った。頬が熱くなっている。
その様子を見たエルは「もちろん」と答えて、私の唇にそっとキスを落とした。
一年後、私とエルの結婚式は国を挙げて盛大に執り行われた。
今までの無関心を穴埋めするかのごとく、両親は私の結婚準備に奔走していた。
この頃には、メリッサを特別扱いすることもなくなって「我がままを言うんじゃありません」なんて窘める姿も見られるようになったのよ。
エルは結婚を機に立太子して、私は王太子妃となった。
私は、ちゃんと浄化魔法を習得した。次は転移魔法を習うつもりだ。
まだまだメリッサが頼りないので、たまには様子を見に行かなきゃと思ってね。
両国の王都は近いとはいえ、転移したほうが早いし便利だもの。
魔法といえば、結婚式の日に両国の王宮魔術師による魔法花火が打ち上がって、すっごくキレイだったわ。
やっぱり、魔法はいいわね。
そしてメリッサは、結局クルトではなく伯爵家の次男アーヴェと結婚して王配とすることが決まった。
彼は、メリッサと同い年で、クルトの腹心の部下ニックの息子だ。
いずれ国の中枢で国政に携わるべく教育された優秀な青年である。
クルトの紹介で出会い、共に勉強に励んでいるうちに親しくなったのだそう。
当のクルトは、独身生活を続行中。いつ人生の春がやってくるのかは、神のみぞ知る。
フレットは、二年ほど騎士団の任務で王都を離れたあと、辺境伯の令嬢エルシェ様と婚約した。
彼女、すごいのよ。あのフレットと互角に剣で渡り合うんだから。
たまたま出場した剣技大会にエルシェ様も参加していて、すっかり意気投合したんだとか。これって、運命の出会いよね。
兎にも角にもアリネラ王国とラントン王国は、共に大陸の端っこにある小国同士。持ちつ持たれつで人々は、今日も平和に暮らす。
チチ……と小鳥のさえずりで目が覚めると、隣で眠っているエルがムニャムニャと呟く。
やっぱり可愛い。
そう思いながら、薄目を開けて観察しているときが、一番幸せ。
そのうち長いまつ毛がパチパチと瞬いて、エルと目が合う。
「セシー……」
「おはよう、エル」
私はエルのほっぺたにキスをする。
「おはよう」
エルは、いつも私の瞼にキスを返すの。
ああ、幸せ。
今日もここから、新しい一日が始まるわ。
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