15話 厨房長の怒り
老師は湖のほとりで、リルネの修練の様子を見ていた。今やリルネは誰よりも高く宙に舞い、滞空時間も指数関数的に伸びている。
さすがじゃな、、気の扱いも体内への流し方もすべて感覚で覚えおった。血は争えぬな、、と、老師も感心しきりであったが、なぜリルネがこうも必死に修練を積んでいるのか、焦燥感はどこから来ているのか、、それは老師もわからなかった。
神仙峯の危機に対して本能的に備えようとしているのか、、大地がそうさせているのか、、老師には知るすべもないが、ただ時に適ったことであることはわかっていた。それは何より本人が証明していた。時期に適うことは本人の努力以上に事がうまく運ばれていく。まさしく今のリルネはそれを体現しているかのようだった。それほどまでにリルネの上達速度は常軌を逸していた。
「お~い、リルネよ~」
老師は湖上に浮いているリルネを呼んだ。
リルネは老師の声に気づき、そのまま宙を蹴ってジャンプしてきた。
リルネは呼吸を乱すこともなく、静かに老師の前に着地した。
「おぬしは、地の気脈と空気の圧と風の匂いを感じ取ることができるか」
そう言って、老師は次の訓練に入った。
同じ時、大聖殿の厨房で、またひと騒ぎ起きた。
「誰か、リョンファンを呼んできてくれ。これはどう考えても行き過ぎだ」
恰幅のいい厨房長は、目の前の鹿肉を見て言った。
狩猟班から月に何度か獲った獲物が届けられてくる。それ自体は何年も続いている通常の出来事であったが、ここ数か月の間、それが少し変わってきていた。
狩った獲物は狩猟班でいったん処理され、皮と肉にきれいに分けられる。宗派によっては肉を食べないコミュニティもあるが、全体を統括している大聖殿の食堂では肉料理も出るし、だしに動物の骨を使うこともある。もちろん、ベジタリアン用の食事も注文があれば用意する。
どちらにしても食材として届けられたものは、自然の恵みとして余すところなく、綺麗に使われるのである。
ところが、いつからか肉に傷みが見え始めた。最初は皮を剝ぐ作業を、今は素人がしているのだろうと思っていた。しかし、だんだんと切り口も荒くなり、肉自体も打撲のような筋肉の損傷が、隠されることなく全体に広がり始めていた。
リョンファンが入ってきた。
「どうしたんですか、厨房長。また食材と調味料の要望ですか、、」
リョンファンはまたかというように厨房長に近づいて行った。
「リョンファン、これを見てみろ、、。この間、オレの言ったことを覚えているか、、。また一段とひどくなっているだろう。これはもう、、感謝して捧げられた捧げものではない、、」
調理台に乗せられている鹿肉をリョンファンも見た。
「あ、あああ、、」
リョンファンも言葉にならなかった。
そこには、今までの狩猟班が届けてくれていた献品とは、かけ離れた姿の鹿肉があった。
「事務局長に伝えます。狩猟班には私の友だちもいるから、、私からも聞いてみるわ、。何でこんなに肉が傷んでいるのか、、」
そう言ってリョンファンが出ていくと、厨房長は調理台の鹿肉に祈りをささげた。そして、肉を切り始めた。
リョンファンは事務局長を見つけた。同時に事務局長もリョンファンに気づき先に言葉を発した。
「いつもの厨房長の文句か?」
「いやいや違いますって、今回ばかりは、、私も呼ばれて見てきましたが、先月見た時より、さらにひどくなっていました。あれでは、素人目にも下手くそを通り越して、わざとやっているようにしか見えませんよ」
「わざと肉質を落とすのか、、、?」
「う~~ん、肉質を落とすというか、、肉を叩いているような感じ、、?」
「どうして?」
「そんなことわかりませんよ。だから、狩猟班に確認を入れてくれっていうことなんです」
事務局長は度重なる厨房長の文句に、まあ、一度確認してみるかと、、重い腰を上げた。しかしそれは自分の腰でなく、リョンファンのだった。
「リョンファン、君、確か狩猟班の青年たちと知り合いだったね。何で肉の処理が雑なのか、ちょっと聞いてきてくれないか」
「へぇ、、まあ、、いいですけど。どうせ、私も聞こうと思ったしぃ、、、」
リョンファンは事務室を出て湖に向かった。
湖は北側からいくつかの細流が流れ込んできており、湖の南側に流れ出る小川の源頭部があった。神仙峯の果樹園や畑もこの小川から用水路を引いている。そのたもとに狩猟小屋はあった。
リョンファンは狩猟小屋に向かう途中、老師とリルネが水辺で話をしているのを見かけた。
「せいが出ますね。今日の夕食はおいしい、、、あっ、」
リョンファンは挨拶替わりにと話しかけたが、途中で言葉を引っ込めてしまった。
老師とリルネはリョンファンの方を振り向いた。
「どうした、リョンファン。今日の夕食はおいしくないのか、、」
ニタッと笑いながら、老師はリョンファンをからかった。
「いえ、、あはっ、おいしいかな、、きっと」
リョンファンは作り笑いをして、、、やり過ごそうとした。
しかし老師は、リョンファンの怪訝な様子を見抜いている。
「おぬしはこんなところまできて、、何用じゃ」
リョンファンは隠すことでもないと思い、事務局長に頼まれて狩猟班に会いに行くことを説明した。
「厨房長がそんなことを言っておったのか」
「はい。今回は我慢ならんって言って、、、あ、違ったかな、、」
老師は少し考えて、リルネに言った。
「リルネ、おまえもリョンファンについて一緒に行って来なさい」
リルネはきょとんとしていた。
「狩猟班には、歪の橋を架ける受持ち候補の者もいる。皆、よく修行をしている者たちだ。歪の橋を架ける受持ちたちには、尊師様は特に気を配っておられる。おまえも以前聞いたであろう」
リルネは記憶をたどった。記憶をたどったというより、老師は尊師がその時に発していた不安のオーラを再現してみせたのだ。リルネはそれを感じ取って、その場面を思い出した。
「あっ、はい。わかりました」
リルネは尊師が言っていた「橋を渡らせたくないもの」「異質のもの」のことを言っているのに気づいた。
「あの、老師様は行かれないのですか、、」
リルネは少し不安を覚えた。
「わしがいきなり行けば、あの者たちも委縮してしまうだろう。話を聞きに行くだけなのだから、心配はいらんよ」
リルネはうなづいて、リョンファンの後についた。
リョンファンは二人が何を話していたのかはわからなかったが、しかし新参者のリルネが、こうして老師様と阿吽の呼吸で会話しているのを見ると、とても気持ちがほっこりするのだった。




