2話 尊師様
湖水殿は、湖とその後ろの山が一直線に見える位置に建てられていた。
入口で靴を脱ぎ、裸足で中に入って行く。一階には板敷の道場のような大広間があった。階段で二階に上がると、長い廊下があり、両側にいくつもの部屋があったが、突き当りの部屋にだけはドアがなく、すだれがかけられ、お香の匂いが流れ出ていた。老師はまっすぐにその部屋へ向かった。
「尊師様、入ってもよろしいでしょうか。リルーネシュバッティン、そしてエイマリア国王女フェリーシア・ロッキーチャックをお連れしました」
中からは何の物音も聞こえなかったが、人の動く気配が感じられた。
「老師殿、、ありがとう。入られよ」
老師はすだれを引き上げると、二人を中へ通した。
部屋の中は物がほとんどなく質素だった。ただ正面に、外に広がっている湖とその後ろの山々が迫ってくるかのように、壁いっぱいの大きな窓があり、尊師と呼ばれる人は、その窓の前でこちらに背を向けて座っていた。
老師は部屋の隅から座布団を持ってきて、二人にすすめた。
二人は無言でそれに座った。
尊師はゆっくりとこちらに向き直った。窓の外の方が明るいので、顔が影となってはっきりとは見えないが、年の頃はクリストファー国王と同じくらい、髪の色は赤朽葉色、、、リルネと同じ髪色だった。
「よく来てくれた。歓迎しよう、リルーネシュバッティン。そして、、同じ魂の力を持つ者、フェリーシア」
尊師の声は低く澄んでいた。その目は二人を見ているようで、見ていないようでもあった。神々しい威圧感と軽やかな清涼感が共存し、まだ若さを感じさせながらも、この世の者でないような近寄り難さがあった。リルネもフェリーシアも尊師の纏っている威容にあてられ、しばらく、言葉を発することができなかった。
しばしの沈黙の後、尊師は視線をしっかりと二人に合わせた。
「時を超える者たちよ、その働きに感謝を述べる。人の思うだけ世界がある。今身を置く世界に誠実であることがこの大地への孝行となる。しかしその理は絶対ではない。すべてを理解する人間はいない。だから生は楽しい」
尊師は微笑んでいる。
リルネはだんだん平常心を取り戻してきた。尊師に聞きたいことは山ほどあるが、それをどう表現したらいいのか、自分の知りたい答えをどう聞き出したらいいのか、迷っていた。
「尊師様、、あの、、尊師様が、あの旧大陸と新大陸の時間を超える橋を、架けられたのでしょうか」
尊師はリルネを見た。微笑んでいる表情は変わらない。
「歪の橋を架けたのは私であるし私ではない。人の魂はエネルギーの塊、エネルギーには質があり、精誠の尽くされたエネルギーは大地の大いなる糧となる。大地はそれを記憶する。人はエネルギーを育み、大地はそれを記憶する。そしてその大地に人は育まれ、精誠は後代へと受け継がれていく。何世代にも渡り、受け継がれてきた精誠は大きな力となる。私はそれをお借りして橋を架けた。それもまた一つの宇宙の理となった」
リルネは理解しようと必死だが、言葉が慣れない。しかし、こんな機会は滅多にないだろうから、今、聞かなくてはいけないと思った。
「その橋は、、なぜ、渡れる人と渡れない人がいるのですか」
「エネルギーの質によるもの。歪の刻印はまさしく大地が生み出した刻印。大地はすべてを受け入れるが、自らを自身で滅することはない。しかし人間は大地を滅することがある。大地が臨界点を越えた時、歪の刻印は生まれ出た。この星は自身を守るために、歪の刻印を生み出されたのだろう」
リルネはわかったようなわからないような、、しかし、次に聞くべきは、、と頭を巡らす、、だが、うまくまとまらない。
尊師が話を続けた。
「しかしそれもまた、新たな理を生む。刻印は魂の澄んだ者が持つものとされていた。だが、魂が澄んでいながらも、異質なものが紛れ現れた。人の悲しみや苦しみは雲の流れのようなもの、そして、それは喜びの基とはならない。ただ、なぜそこに高揚を発するのか、それも自身の思いでなく、他の思いによって高揚を得る」
そこで、尊師は口を閉じた。
リルネは、これが老師が言われていた例の[ある時からの兆し]のことだと思った。しかし、いまいち何を言っているのか、、わからない。
「尊師様、その高揚を得るのは人なのですか」
尊師は口を閉じたままだった。しかしリルネも、答えを欲するようにじっと尊師を見つめた。
「私と変わらぬ人だ。大地が受け入れている人である」
「あの、、それは問題なのでしょうか」
リルネはおそるおそる聞いた。
「刻印は良心の証し、大地より時空を超える資格を与えられし者。この星が自身を守るために生み落とした刻印を有す者たち、、。しかし、同時に大地を滅する者にもそれをお与えになった。いや反対、、大地の刻印を奪う人間が生まれ出づることができたのだ」
尊師は目を伏せた。
「私はそれらに歪の橋を渡ってほしくはない、、、」
尊師の声から清涼な響きがなくなった。
「あの、、その人たちに、歪の橋を渡らせないよう、、することはできないのですか」
リルネにはそっちのほうが不思議だった。ただ行かせなければいいだけの話ではないのか、、、それとも、その人たちが誰だかわからないということなのだろうか。
「刻印は大地の生み出ししもの。私はそれを拒むことができない」
ああ、論理破綻っていうやつか、、とリルネは思った。現実的な対処法はあるだろうにと、、不謹慎にも、思ってしまった。誰だかはわかるけれども、その人を止める理由がないということなのだ。
この方は、本当に純粋な人なのだなと思った。理想と現実を分けて考えることなどしない。いや、理想でなく、現実の中に生きているから、引き裂かれているのだ。これ以上この方に、無造作に物事を問うのは失礼だと思った。
「尊師様、大事なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。心より感謝いたします」
リルネは本心からそう思った。
尊師の部屋を退室すると、三人は外へ出た。
「わしは、このまま残るが、二人はどうする」
リルネはもう少し湖にいたい気持ちもあったが、フェリーシアがストレスを感じていないか心配だった。
「私たちは散歩しながら、宿舎に戻ろうと思います」
リルネはフェリーシアの顔を見ながら言った。
フェリーシアもうなづいた。
帰る道すがら、リルネは自分が思ったこと考えたことをフェリーシアに話した。彼女はリルネが思っていた通り、尊師の言う言葉が理解できなかったという。
「あなたはつくづく、こういう世界に通じている人よね。尊師様に質問するにしても、私には何からどう質問したらいいのか、まったくわからなかったもの」
フェリーシアは、お手上げと言わんばかりに両手を広げて言った。
「あの方は瞑想される方だから、きっと、相手が理解しやすい順序で話をするのではなくて、頭に浮かんでくるものそのままに、話しているんだと思う。だから人から見れば、まとまりのない話になるけれど、その代わり嘘とかはなくて、偽善もないんだと思う、、、。確かに、、聖者と言えば、聖者よね、、。納得してしまう」
それがリルネの持った、尊師の印象だった。




