彼女
彼女と目が合った。
それは偶然であるが、決して気のせいなんかではない。
確実に僕の目を見ていた。
僕の瞳に反射する彼女の眼は、いつも笑っている彼女が映す朗らかな三日月の目ではない。
見開かれた彼女の眼は一体どのような感情を持ち合わせていたのだろう。
その問いを投げかける猶予なんて僕にも彼女にもなかった。
何故なら、彼女は真っ逆さまに落ちているのだから。
瞬間、彼女が発した音とは到底思えない歪な音が響き渡る。
分厚いアスファルトに叩きつけられ、圧力により逃げられなくなった体内の気泡がはじける。
それと同時に血管が破裂し、近くにそびえる一本の木を赤く染める。
骨はひしゃげ、彼女の肉を裂き、鋭い枝が空を見上げる。
僕は、その1秒間を脳裏に焼き付けさせたまま、美しかった一輪の花をただ立ち尽くし、茫然と見ていた。
アスファルトを焦がす夏の朝。
僕は学校の正門に辿り着く。
鞄なんて持っていない、意味がないからである。
身だしなみ検査を行う体育会系の教師を横目に僕は教室へ向かう。
特に何も意味はないと知りながらも気まぐれで下駄箱の戸を開ける。
そこには当たり前のように上履きは入っていない。
意味もないため息をつき、土足で教室へと向かう。
すれ違う男子生徒の馬鹿げた笑い声。
廊下の隅でひそひそと語る女子生徒の汚く漏れる笑い声。
僕は、眉を顰めることもなく、自分の教室へ入る。
教室に入ると、今まで以上に下品な騒音が空間を支配していた。
席に向かう間、僕もクラスメイトもおはようのあいさつの一言を交わすことなんてない。
僕の机。
その上に数本の花が活けてある花瓶が置いてある。
周囲を見渡すと、クラスメイトは変わらずに談笑を続けている。
僕は何事もなかったかのように花瓶をそのままに机に座った。
それから間もなくして、一人の女子生徒が教室に入る。
それに気づいた女子生徒たちは、彼女の周りに群がり始める。
彼女の発した力ない「おはよう」の声を境に、人語を聞き取れないほどの声にかき消され、会話は聞こえない。
今回のターゲットは彼女だ。
彼女は前までこの学校で人気のあった女性だ。
容姿端麗な上に学力もトップ、そして幼い頃からテニスを嗜んでおり、運動神経も抜群。
そして何より、誰にでも見境なく優しく、人の気持ちを汲み取れる感情の持ち主である。
彼女は、この学校に咲き誇る一輪の花だ。
そう、前までは。
ふと気配を感じ、横を見ると彼女がいた。
僕の机の横で俯きながら悲しそうな表情を浮かべていた。
恐らく、その視線の先には僕ではなく、花瓶の花が映っているのだろう。
その時、不意に彼女の肩に腕が回り、彼女の肩が跳ねた。
「よぉ百合子、今日学校終わったらカラオケ行かね?」
そう言葉を発したのは、彼女の肩に腕を回す女子生徒だ。
その後ろにはにやにやと笑う女子生徒が二人いる。
「で、でも…」
彼女はらしくなく、おどおどしながら視線を泳がせている。
彼女の手を見ると、左手で右手を覆い隠すように包み、きゅっと握りしめている。
「暫く部活休むんでしょ?だったらいいじゃん、私たちに付き合ってよ」
「…っ」
心なしか、女子生徒の腕の力が強くなった気がした。
それを見ても僕は何もせず、見ているだけだ。
「…あ?」
その時、女子生徒が僕の机を見た。
その瞬間、顔が険しくなる。
「…コイツが全部悪いんだよ。百合子が構うことなんてねぇんだよ」
「…」
女子生徒は僕の机を睨みつけながら、二人の女子生徒を取り巻きに彼女と共に教室を後にする。
恐らくトイレに向かったのだろう。
再び周囲を見渡すと、教室の騒音は落ち着いており、彼女たちの出て行った教室のドアを眺める生徒たちで溢れていた。
中には僕の方向を見て睨みつけてきている生徒もいる。
僕はため息をつき、教室から逃げるようにその場を後にした。