この写真、撮ったの誰だっけ?
前書きとイイワケ
元々はブログ用に書いていたネタの一つです。
それをちょっと広げたらどうなるのかな?
なんて考えている時、飲み友達数人に、書いてみればと言われ、お遊びで書き始めたものです。
基本的にフィクションですが、元ネタがある部分は、事実に基づいています。
中には友人のエピソードなんかも含まれていたりします。
でないとこんな私に書けるわけありませんよ。
登場人物の名前は色々いじっていますが、当事者がみれば全員のことがわかる程度になっています。シャッフルはしていますが……
それより何より、一番大事なことは「やおい」だということです。
違いますよ。男性同士の恋愛物という意味ではありませんよ。
私が高校生だった頃の一部であり一時でしかありません。何か特別なことが起ったわけでもないし、劇的な結末がある物語でもありません。こんな感じの高校生だったなぁって感じでしかありません。それを承知で読んで頂けるのであれば光栄です。
プロットも書かずに書き始めているので、わけのわからない状態になっていたり、箇条書きのまま放置されている部分がありますが、愛嬌ということで許してください。
読んだ感想を教えてもらえると、めっちゃ嬉しいです。
意味の通らないところ、訳のわからないところ、説明不足なところがあれば指摘してください。
どうか、よろしくお願いします。
舞台は、学校では蛇口をひねればお茶が出ることで有名な関西の町。
約三十年前の高校の文化祭前後の数日の出来事。
無口で暗い高校生の物語です。
無茶苦茶拙い文章ですが、お付き合いください。では、
1
「文化祭に出す作品作ってんねんけど、間に合いそうにないねん」
お茶汲み場から両手にコップを持って戻ってきた僕を一瞥し、宮川は岡山の座る席の机に勢いよく両手をつき続けた。
「お願い。手伝って欲しいねん」
夏休みも終わり、再開された授業とやらを受けるために学校に通う高校生活。単調でつまらない日々の刺激として、次に用意されているイベントは体育祭と文化祭だ。体育祭の役員や文化系クラブの部員は、毎日定められた下校時刻ギリギリまで、エアコンなんてものが校内どころか、この世にすら存在を疑うしかない教室の中、準備を行なっていた。
そんな中、ある文化系クラブの部長を務める宮川もまた、最後の仕上げとばかり毎日奔走していた。
「俺、お前んとこの部員ちゃうで。それに、そういうんが面倒くさいから部活とかやってへんのに」
岡山は彼と目を合わせようとせず、カバンから出した弁当の包を机に広げながら、厄介ごとを言ってくる友人を適当にあしらった。
「せやから頭下げて頼んでるんやんけ。知恵貸して欲しいねん。お前の頭ん中に入ってるもんが欲しいねん」
「ほな、脳みそだけ貸したるから持ってけや」
岡山のいつもの軽口も、この時ばかりは宮川の眉間に皺を作る材料にしかなっていなかった。進学科に席を置き、しかも学年上位の成績を誇る宮川が、わざわざ昼休みに普通科の教室にまで足を運び、成績の悪さでは、知らないものがいない岡山に頭を下げ、頼み事をするなんてよっぽどのことなのだろう。我関せず、昼食を取るクラスメイトの中にも、同級生の告白劇でも見ているかのように、ちらちらと視線を送る者がいるほどだった。
お茶の入ったコップを岡山の前に起き、僕は自分の机を岡山の机と向かい合わせにして彼の正面に座った。
「なんの話ししてるん?」
「宮川が面倒くさいこといいよんねん」
「ほんま頼むわ。力貸してーや」
「面倒くさいなー」
岡山は灌がれたばかりの熱いほうじ茶をすすると、手の中で小さな波紋を作るお茶から目を離さず、懇願の眼差しを送る宮川とは、向き合うことを避け続けた。
「手伝うてくれたら、毎日お茶汲みしたるから」
自分を真似たような軽口を言った宮川を上目遣いに一瞥した岡山は、取手の付いたプラスチックのカップを机に置くと、なにやら企みが滲んだ視線を宮川ではなく、正面に座る僕の方へ向け言った。
「のりとしがやるんやったら、手伝ったってもええで」
「えっ? なにそれ」
突然降りかかる火の粉とはこんな感じなのだろうか。驚く僕に、開かれていた窓から湿り気の残る風が通り抜けると同時に、宮川の勝機を感じた作り笑顔がこちらに向けられた。
「のりとしもお願いするわ。せなあかんことはいっぱいあんねん。人は多い方が助かんねん」
宮川から話しかけられたのはどれくらいぶりだろうか。おそらく小学四年生以来になると思われる。岡山はさっきまでの僕の立場だった『他人事』を装って自分の昼食の準備を進めだした。他人事から当事者になってしまった途惑う僕に、宮川はこれまでの経緯を岡山にも聞こえるように説明しだした。
暇な日々を時間の潰し方を考えることで過ごしていた僕には、具体的な断る理由が見つからない。僕の頼まれると嫌とは言えない性格は岡山もよく知っているはずだ。そんな僕に選択権を預け、『他人事』を決め込む岡山に、ため息交じりの視線を送り、俯き加減に「別にいいけど」と答えると、宮川は岡山の肩を軽く叩き、「おおきに、ほな岡山もよろしくな」と、そう言い残し、足速に教室を後にした。岡山は僕と宮川のやりとりなど気に留めることなく、母親に作ってもらった弁当を食べ続けていた。
「なぁ、ほんまええの?」
「…………」
「これで良かったん?」
「ええんちゃう」
僕は、ますます自分とは関係が無いと言いたげに返事を返した岡山に巻き込まれ、どうせ暇なのだからちょっと位は手伝ってもいいかと思いだした風の岡山を巻き込み、宮川の依頼を引き受けることになった。宮川部長が率いる映画研究部の作品を作る手伝いをすることになった。
文化祭が終わるまでという約束で。
その日の放課後、映研の部室に足を運んだ僕は、楽しい高校生活を、ときめく青春を送ることになる。それについてはまた別の機会に語るとして。
縁も無く来る機会も無いはずだった部室棟は想像以上に荒れていた。学校の敷地の北西の端にあるその建物は木造の平屋で、向かって左半分に運動部系が三つ、右側に文科部系の部室が三つ並んで一棟になっている。映画研究部の部屋は一番右端で、木製の扉には落書きや傷と共に誰がいつ作ったかわからないボロボロの「映研」と素人が彫刻刀で掘ったのが丸わかりの木製の板がブサイクに釘で打ち付けてあった。
恐る恐る開けた扉の向こうでは、見覚えのある幾人かと下級生数人がすでに集まっており、宮川部長が岡山を紹介している最中だった。
決して派手ではないこの部の活動は文化祭での作品発表こそが唯一成果を見せることができる場であり、一番の晴れ舞台でもある。こと三年生は高校生活の部活における集大成ともなる作品になるため自ずと力も入る。
彼らの作っていた映画は8ミリフィルムで撮影され既に完了し(撮了と言うらしい)、現像もほぼ終わっているようで、編集と音入れがこれからの作業となっていた。作品は十分ほどの短編らしく、内容は単純な恋愛物。主演は、二年の時に東京から転校してきた劇団在籍経験有りの、進学クラスで宮川と席を並べる辻井真紀子が演じる。ショートボブでクリッとした瞳がチャーミングな彼女の身長はこの部で一番低く、小動物のように可愛がられるタイプに見られがちだが、その容姿に似合わず姉御肌で、とても面倒見がよく、いつも下級生に囲まれていてた。部内で見かけるときは制服のリボンの色が間違っているのではと思ってしまう。辻井は東京にいる頃、幼いうちから舞台のレッスンを受けていただけあって、演技が飛び抜けて上手い。田舎の素人が作る映画には勿体ないくらいの逸材である。それもあってストーリーは彼女がいたからこそと言えるものになったようだ。その相手役として部長の宮川。恋敵兼監督が副部長の菅原。他にも色々な担当はあるが、ほぼこの3人で撮影は行われたようだった。三年の男子は宮川と菅原のみで、カメラや編集機・スプライサーを扱えるのはこの二人しかいないということで、ここからは岡山を交え三人で作業を進めると宮川から宣言がなされた。
宮川が岡山の紹介をしている間中、台本の表紙を見つめていた菅原が視線を上げ具体的な話を始めた。
「一番悩んでるんはオープニングとエンディンの曲やねん」
続けて宮川も、
「それが決まらへんかったら前に進められへんねやんか」
宮川が岡山の頭の中のどの部分が欲しかったのかは予想通りだった。彼の音楽の素養は広く、僕も岡山のセレクトで何枚ものレコードをカセットに録音して貰っていた。それ以外にも彼にこちらの気分や好み、使用する用途を伝えると次の日には、完璧なセレクトの曲を六十分にピタリと収めたカセットを用意してくれた。
岡山は渡された台本をゆっくりとめくりながら、そんなもんお前らの好きしたらええんちゃうんと、投げやりには答えてはいるが、授業中には見たことがない思案の表情が見て取れる。
その後も、ここにはこんな感じの音が欲しい、とか。音が先、絵が優先とかで作品全体像の説明が続けられた。後輩たちは進む会話を一人一人に渡されていた自分だけの台本と真剣に向き合いながら聞いている。もちろん僕には台本の用意などなかったので、たまたま隣にいた下級生の女子に見せてもらい、何となく内容だけは知ることになった。
とは言っても僕がその作品に直接関わることはない。もしかすると下級生達も同じように思っていたのかもしれない。後輩たちの真剣だと見えていた表情も、しばらくすると進行する台本のページに付いて行かなくなったところを見て、先輩たちとの温度差を感じてしまった。
そんな中、集中力が切れた僕は、見せてもらっていた台本から目を離し窓から見える中庭に目を預けていた。
「何、ぼーっとしたはるんですか?」
「……とんぼ」
「とんぼ?」
「アキアカネがようけ飛んでるなぁ、と思て」
「ふーん、でも、今はこっちに集中せなあきませんよ」
隣の下級生に注意されてしまった。
彼女の膝の上で、真新しい折り目が付けられていく台本に目を戻した時には、かなりのページが進んでいた。
一通りの説明を受けた岡山は台本をカバンに押し込むと、だるそうに立ち上がった。
「ほな、明日までにはなんか考えとくわ。行こ、のりとし」
「よろしくな、期待してんで」
菅原らしくないちょっと弱気な声に手を振り「ほななぁ」と言って部室を出る岡山に続き、膝の上で閉じられた台本の上に手を置き、さっきまでの僕のように窓の外をぼーっと眺めていた隣の下級生に、ありがとうとお礼を言って軽く頭を下げ、僕も部室を後にした。
やっぱり暑かった次の日、授業を終えるとすぐに、岡山と二人で部室へ向かった。
「のりとし、お前ちょっと楽しそうやな」
「そうか? そんな風に見えるか? いつもと変わらんけど」
「歩き方がいつもとちゃうっていうか、なんか足取りが軽いっていうか、部室に早く行こうとしてみたいに感じるで」
「お前の気のせいやろ」
「まぁええわ。俺もこの重いレコードとCDをはよ置きたいし」
昨日と何ら変わらない落書きだらけの部室の扉を開けると、昨日と違い三年生の女子部員二人が掃除の真っ最中だった。
箒を手にトレードマークのポニーテールを揺らして、丸顔を愛想よくこちらに向けた直子が、「いらっしゃい」と微笑んだ。通称ナオとはクラスメイトで顔見知り。二年・三年と同じクラスで、たまに話をする程度で、取り立てて仲が良いというわけではない。彼女はいつも自分のことより人の心配をする。その性格からクラスメイトには慕われているが、面倒見がいいのとはちょっと違い、僕には他人のことが気になって仕方がなくて、口や手を出しているだけのように見えてしまう。悪意を持って言えば「八方美人のおせっかいやき」だ。
そのナオと一緒に掃除をしているスタイルのいい女子は、傷だらけのテーブルを拭きながら、「ふん」と、鼻を鳴らし、サラサラ黒髪のストレートロングを左手で耳にかけ、勝気な目を存分に使いながら、近づくなオーラを僕に向け放ちまくっている。愛想のいいナオとは対照的な性格の知香は、僕の中では同学年で一番苦手な女子だと言っていい。彼女は以前ナオに紹介されたことがあったが、ほとんど話も挨拶もしたことがない。ナオ曰く、人見知りだけど普通にいい子だというが、僕に向けているその眼をいつになったら和らげくれるのか。聞くところによると知香は半端ないくらい金持ちの裕福な家のお嬢様だそうだ。雲の上に住むような人は苦手だ。底辺以下に身を置く僕は、そんな高貴なお方と目を合わすことすらおこがましいというか怖い。
岡山と彼女達は菅原を通して以前からある程度の面識はあったようだ。岡山は人との関係を築くのがとてもうまい。初対面の誰とでも物怖じせず話せるところはすごいというか羨ましい。知香の彼へ向けられる眼は明らかに僕へのそれとは違っていた。
昨日は初めてきた場所で緊張もあり、気に留めなかった部室内は、古さは否めず、とても綺麗と言えたものではないが、女子部員が多いためだろう、室内はそれなりに整頓されていて、雑多に置かれていると思っていたものも仕分けされ整理されている。
「えらいなー掃除してんの?」
言いつつ古参部員のように部室に入って行く岡山を盾に僕も続いた。
「そうやで、ほっといたらぐちゃぐちゃにする奴おるしな」
そう言った知香と、岡山の肩越しに目線が交わり、瞬間、お前は絶対に散らかすなと無言で仰せつかった。
「お疲れさんやな」
知香によって拭き上げられた傷だらけのテーブルに、担いでいたカバンを置きながら二人を労った岡山に、今までとは違うはけ口を見つけた三年女子ペアの愚痴が続く。
「ほんま、この部の男連中は片付けるってこと知らんねんから」
知香は頬の横を流れる艶々の長い黒髪を左手で耳に掛けながら言った。
「ほんで、あれがない・これがないってな。はぁー」
温厚なナオも愚痴とため息を吐くと、同時に両肩を落とした。
「昨日もあんたら帰ってから『編集テープがない』って大騒ぎやってんで」
「ほんでみんなで大捜索してんねんから」
ナオが箒をしまった用具入れの扉を閉めながら振り向き、眉間にシワを寄せ、知香に視線を合わせた。
「それ、見つかったん?」
僕はナオに訊いた。
「この引き出しの文房具が入ってるとこにあってん」
そう言いながら、ナオは部屋の角に置かれた机の一番上の引き出しをガタガタと開けてみせた。中には少し錆びの付いたハサミや、書けるかどうか疑わしいボールペンたちと一緒に、短くなって使い物にならないような白い編集用のマーカーが見える。
「昨日の部活前に、掃除当番やった千絵ちゃんが床に転がってるの見つけて、セロテープやと思ったみたいでここに入れたんやて」
「編集用のテープ知らんかったんや」
岡山は別に興味がないようで、カバンから台本を取り出しながら話を合わせた。
「教えてへんかったから、知らんのはしゃーないけど。でもセロテープみたいなもん引き出しに入れたんやったら、そう言うてくれたらええのに。それよりあの子みんなでテープ探してる時、一緒になってなんか探してるみたいやったけど、なに探してたんやろ?」
確かに知香の言う通りだ。菅原が文房具に紛れたテープを見つけた時、私がそれそこに入れましたって言っていたらしい。
「千絵ちゃんおっとりしてるから」
「あの子ちょいちょいぼけるよな。アホなんちゃう」
彼女をかばうナオであったが、終始呆れ顔の知香がとどめを刺した。
「その千絵ちゃんて、昨日どこに座っとった?」
とぼけた不思議ちゃんに少し興味を惹かれたのか岡山がナオに訊ねた。
「のりくんに台本見せてた子やで」
あの子やったらわかる気がすると言いたげな岡山は、あーあーと声にならないような息と共に、上目遣いの意味ありげな視線をこちらによこしたが、僕は表情を変えないよう努力しながら、わざと目線を外した。そんな些細な抵抗は、僕の趣味を知る岡山には何の効果ももたらさなかったどころか、全てが見透かされてしまったようで、岡山の口元が横に伸びたのがわかった。普段から感情を出さないよう、他人に心情を悟られないように振舞っているつもりだが、この時はとっさの判断で少々露骨だったかもしれない。幸い女子二人は、そのおっとりした後輩の天然エピソードを互いに披露することで盛り上がっていたため、僕たち二人の微妙なやり取りには気がついていないようだった。
僕はテーブルに広げられたCDとレコードを整えながら、彼女たちの話に耳を傾けた。
この日から岡山・菅原・宮川は実作業に着手した。岡山の持って来たレコードやCDから使えそうな音源を選び、使用する音楽の時間からフィルムの編集ポイントを算出したり、その反対に撮った絵の長さから、その場所に相応しい音楽や効果音を選んでいく。その作業は実にアナログで、フィルムを手で切ったり貼ったりも繰り返す。
僕の手伝う作業はというと、ポスターの糊付けだった。文化祭での映研ブースでは映画のポスターを展示する。そのポスターをベニヤ板に貼る作業を手伝うことになっている。仕切りは知香とナオの三年生コンビが行い、実作業は下級生が担当することになり、僕はそこにまざる。しかしこの程度なら手伝いなんて必要ない。特に僕が手を出すほどのことでもない。それ以前に人手も足りているように見える。頭を使うこともないし、暇つぶし程度に手伝っておけば問題なさそうだ。岡山の作業とは違い気楽だ。
薄々気がついていたけど、宮川が、やることがいっぱいあると言ったのは、やっぱり岡山を引き入れるためのブラフだった。でも、そのことはもうどうでもいい。待っているだけの時間も多そうだし、明日からは本でも持って来よう。
ポスターを貼り付けるには、スプレーノリを使用するため、部室内ではできない。フィルムの編集をやっている横でできる作業ではないので、ポスター班一行は部室の前の中庭で作業をすることになる。今の時期、部室内は蒸し風呂のごとくで、広いとは言えない締め切られた部屋の中、三人の暑苦しい男子がお互いの体温を上げるようにひしめき合っているところと比べると、中庭でも直射日光を避けられる木陰にでもいれば、そこはもう天国と言って良い。
展示するポスターの選定は三年生の知香ナオコンビの独断で行われる。運び出された大きなダンボール箱には丸められたポスターが刺さるようにして整然と並んでいる。知香とナオは二人してそれらを一枚ずつ丁寧に開き伸ばし、選別していく。前年までに使用されたものはすでにベニヤ板へ貼り付け済みのため、それらは一覧出来るよう下級生の手で、部室棟の塀に立てかけられていった。
この選別作業はなかなかどうして、前に進まない。選び方に意見の対立があるからなどではない。それは、とても仲がいい二人で選んでいるからである。要は大掃除が進まないのと同じで、ポスターを一枚開くごとにその映画の評論や思い出話で時間が潰されていくからである。
ほぼ立方体の箱に整然と刺さる丸められたポスターの中でも、比較的新しいと思われる一枚を伸ばした知香が嬉しそうに叫んだ。
「これめっちゃ懐かしいわ」
「懐かしい言うほど昔のか?」
「これな、宮川と初めて観に行ったやつやねん」
「へーそうなんや。でも知香の好きなジャンルと全然ちゃうんちゃう?」
「そやねんけど、観たら結構ハマって続編も行ったんやで」
無理やり広げられ巻き戻ろうとするポスターを手で押さえながら、目を細め口元を緩める知香の正面で、うっすらと微笑んだナオの横顔が見えた。
今日は全く進展がなかった。使用するポスターが一枚も決められることがなかった。塀に立てかけられたポスターたちは西日に照らされただけで再び暗い部室へと片付けられていった。
2
「一緒にご飯食べよ」
「うん」
廊下を駆けてくる直子に佳奈は振り返り笑顔で答えた。
佳奈と直子は山の斜面を切り開いて整備された新興住宅地に住むご近所同士の幼馴染で、同じ幼稚園・小中学校に通っていた。そして高校も同じ。ほぼ同じ学力の二人が示し合わせて受験をしたのだから当然同じ高校に通うことになる。もちろん今までも違うクラスになることがあったけど、仲の良さは変わらなかった。
高校でも別のクラスになり別のクラブに所属することになったが、その関係を崩すほどのことではなかった。佳奈には兄弟が多いが皆男で、佳奈にとって一人っ子の直子は双子の妹のような存在だった。佳奈は癖のある猫っ毛のショートヘアで直子より身長が低いため、二人でいるといつも妹に見られがちだが、積極的でしっかり者という性格は、やはり姉といったところだ。
旧館の一階、北の端にあるその部屋の鍵を開け入った佳奈に続き、直子がドアを閉め上履きを脱いだ。
「お邪魔しまーす。ここに来たら緑茶が飲めるのがええよな」
「なんやて? それが目的やったんか?」
「ちゃうって。敵情視察」
「敵ってなんやねん。その方が悪いんちゃうん。なんか企んでるような気がするんは、気のせぇかなぁ」
佳奈は茶道部の部長で、気が向くと部室でお昼を取っていた。
学校ではお茶は蛇口をひねれば出るが、それはほうじ茶で、茶道部の部室に来ると緑茶が飲める。直子は否定したがそれが目的の一つではあったようだ。もちろん佳奈にはそれがわかっている。自分もそのためにわざわざここまで足を運んでいるのだから。
「ほうじ茶ってちょっと匂いがきつく感じることあらへん?」
「せやなぁ。わかるわ」
「今朝、お弁当の中身見て今日は緑茶やと思てん」
直子は何度もここに来てはいるのだけれど、学校内で畳に座りお弁当を広げるのは、いつだって新鮮に感じている。
佳奈は話を戻した。
「で、敵情視察って何なん?」
「それは嘘なんやけど、ちょっと頼みたいことがあんねん」
急須からお茶を注ぐ手を休めることなく佳奈は訊く。
「面倒くさいことなんか?」
「ううん。あんなぁ、文化祭の時にな、うちの部のブースを観に来てくれはったお客さんになぁ、お茶、出したいねん」
「そんで?」
「当日ここの炊事場貸して欲しいんやけど、あかんかな?」
「ええに決まってるやん」
茶托に乗せた茶碗を差し出す細い指が止まる。
「ん? でもそんだけちゃうやろ。そんなことやったらこんな辺鄙なとこより、もっと近くてええ場所あるんちゃうん?」
やはり幼馴染だけのことはある。完全に見透かされた返事に直子は続けた。
「う、うん。それとな、女子みんなで着物か浴衣着ることになったんやけど着付けも手伝って欲しいねん。ここで」
この茶室は文化祭の時には茶道部の展示ブースになる。当日は設えに、自分たちの着付けにと、おそらくは手一杯になるはずだ。直子はそれを承知でのお願いである。
「ええで」
「えっ、ほんま?」
即答されたいい返事に直子は目を見開いた。
「まぁ、顧問の承諾も必要やけど、うちらはそんな派手なことせぇへんし、去年も時間の余裕あったから。ええで。ほんでナオの頼みやもん」
「おおきに。ありがと。助かるわ」
「たいしたことないって、それにいっぺんナオに着付けしてみたかってん。ええ機会やわ」
佳奈は向かい合わせに座る直子のスカートから覗く自分より少しふくよかで白い足から視線を外し、覗き込むように不敵な笑みを浮かべるが、佳奈の入れたお茶を、目をつむり味わいながら飲み干す直子にはそれが見えなかった。
「おかわりちょうだい」
無邪気な直子に、はいはいと、短いクセのある髪をかき上げながら佳奈は答えた。
「そんでな、映研のお茶出しも手伝って欲しいんねんけど」
「小出しにすんな!! いっぺんに言え!」
「ごめーん」
「わかった、わかったから。なんでもしたるさかい」
お茶の香る小さな和室では、昼休み中笑い声が絶えることはなかった。障子越しの柔らかい日の光は、設えのない殺風景な床の間と銅でできた炉壇を底まで包んでいた。
3
今日も岡山と二人して部室へ行く。掃除当番は一年生だった。
「他の奴らはまだ来てへんの?」
岡山は誰か答えてくれるだろうと、全員に聞こえるよう訊ねた。
「もう来やはると思うんですけど」
丁度そこに菅原と知香が、揃って入って来た。
「今日もよろしくな」
菅原の特に誰に向けたわけでもないその挨拶に後輩達は、はいと答えた。
二人は同じクラスで、授業以外でもいつも一緒にいる。皆が知る公認のカップルというイメージではあるが、二人してそれを完全に否定する。どう見ても付き合っているようにしか見えない二人の振る舞いは、誰が見ても恋人同士なのだけれど、二人ともそれを絶対に認めようとはしない。
二人はテーブルに向かい合わせで着いた。
「なぁポスターの方、進み具合はどない?」
「全然先が見えへんねん。頑張ってるつもりなんやけどなぁ」
「まぁ知香ちゃんしっかりしてるから心配はしてへんねんけどな」
部室をさっと見回し、菅原は続ける。
「ナオちゃんちょっと抜けてるとこあるし」
「そんなことあらへんて。ナオがおらんかったら私なんもでけへんもん」
そう言って黒く長いサラサラと柔らかそうな髪を左手で耳に掛ける。
「知香ちゃんが仕切って引っ張っていってやってな」
傷と落書きだらけのテーブルの上に降ろされた知香の手を覆うように菅原の節の太い掌が重ねられた。
「そんなことするから結婚間近とか言われんねん」
岡山は視線を泳がせ、隣に立つ僕にだけ聞こえる位の声で呟いた。後輩達は頬を赤らめる先輩を見なかったことにするように、二人を背にして掃除ではない何かを始めた。
菅原と岡山は編集の準備を始める。フィルムやスプライサー・編集機をテーブルの上に並べながら宮川が来るのを待った。後輩達と知香と僕はポスターを中庭に出す準備を進めた。ポスターの入った段ボールを抱える後輩のために知香がドアを開けると、そこに宮川が笑顔で立っていた。彼は頭を下げ、しきりにお礼を口にしている。
「ありがとな。ほんま助かるわ。忙しいのに悪いな」
その先にはナオと佳奈の姿が見える。
「ええって、毎年うちら文化祭ん時って暇やし、顧問の承諾も取れたから、協力させてもらうから」
佳奈はナオから頼まれたことを、早速顧問に交渉したようで、その結果全面的にOKをもらったことを報告に来たのだった。
「茶道部ってほとんど部員おらへんやんか、せやから着付けの勉強のためモデルになってもらえって、顧問に言われたし、自分のためみたいなもんやから」
「ありがとな。おおきにな」
お礼を繰り返す宮川に、どう取集をつけて良いのかわからない佳奈は苦笑いを浮かべるばかりだった。そんな二人がいたたまれなく思い始めたナオに助け舟の如く知香が尋ねた。
「どうしたん?」
「こないだ言うてたやんか、当日のお茶出しとか、着付けのこと」
「あー」
「佳奈が顧問の許可もろて来てくれてん」
「そうなんや、おおきに」
知香も軽く頭を下げた。
「ほな、俺、作業始めるわ。当日よろしく」
ヒラヒラと手を振り宮川は部室に入っていった。
佳奈は映研の部員達とはほぼ面識がなかったようで、知香も例外ではなかった。僕はナオから紹介され、ちょっとばかり面識がある。知香と違い佳奈はまだとっつきやすい。
「こっちが知香でこっちが佳奈」
ナオがそうお互いを紹介した。
「着付けを手伝って欲しいのは私と知香の二人だけやねん」
「そうなんや、もっといるんかと思てたわ」
「和装しよって決めた時はみんな乗り気やったのに、後輩等はなんか遠慮しだして、決まってるんは今んとこはこの二人だけ」
ナオと知香は中庭での作業のため準備をする後輩たちに視線を送る。
「ほんま文化祭時くらいはっちゃけてもええのにね」
佳奈は知香の言葉に大いに頷きながら彼女の全身を足元から舐めるように見上げた。
「今の宮川っていうのが部長なん?」
「せやけど」
「ふーん。噂やと成績を鼻にかける嫌味な奴って言われてるけど、全然そんなことないんやな」
「それって誰情報? 至って普通の普通。まぁ頭ええから、難しい言葉使たりするときあるから、そう思われてしまうんかもしれへんな」
「そうなんかもな。でも腰が低くて、ええ奴って感じやん」
部室のドアを見つめる佳奈の瞳は心なしか熱を帯びているようだった。
「どうしたん?」
「いや別になんでもない。ほな、うち、部室に戻るわ」
佳奈は小走りで校舎の影へと消えて行った。
太陽の視線はまだまだ秋を感じさせず中庭に降り注ぐ。まるでここだけが太陽から注視されているかのように。
「暑いね」誰からともなく出たセリフに「だよね」と誰ともなく答えた。
中庭で進められるポスター選びは順調とまでは行かないまでもそれなりに進んでいる。ナオと知香がポスターを選んでいる間、僕は中庭の隅にある桜の下で持ってきた本を広げた。部室内の編集作業も、たまに聞こえる喧嘩一歩手前のような怒号と、笑い声などからそれなりにゴールへは向かっているようだった。
「お疲れ様ぁー」
先ほどより少々トーンの高い声で佳奈が戻ってきた。正確には彼女はもう一人の女の子と一緒に校舎の影から現れた。彼女達の手にはお盆が乗り、その上には氷の浮く緑茶が、程よく汗をかいたグラスに入って並んでいる。
「差し入れぇー」
「どうしたん? めっちゃサービスええやん」
ナオの言葉にちろっと紅い舌を出した佳奈は、お盆からグラスを受け取っていた子に尋ねた。
「中に何人おんの?」
「三人です」
そう聞くと佳奈は自分の持ってきたお盆に乗った五つのグラスのうち二つをその子に押し付けるように渡し、残りを持って部室に入って行った。両手にグラスを持った子は中庭を見回し、木陰で本を読む僕のところまで冷たいお茶を持ってきてくれた。
胡乱げな視線を部室に向ける知香がナオに尋ねる。
「あの子、ああいう子なん?」
「ああいう子ってのが、どういう子かわからへんけど、まぁ普通に気がきくで」
部室から笑い声が聞こえ、しばらくすると佳奈と一緒に宮川が出て来た。佳奈はお茶を運んで来たもう一人の女の子を宮川に紹介した。
「この子も文化祭で着付けとお茶出し手伝ってくれるって」
「二年の島田寛子と言います。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
宮川は佳奈に向かって続けた
「いろいろ気ぃ使てもろてありがとな」
「いえいえ、そんなことあらへんって。出来ることなんでもやるし、遠慮せんと言うてや」
「ほんまおおきにな。ほな、作業に戻るわ」
宮川は先ほどと同じように手を振り部室に戻った。
次の日も同じ時間に佳奈は冷たいお茶を持って現れた。
「あの子どうしたん?」
「ほんまどうしたんやろ?」
「あんたら家近いんやろ。仲ええんやろ。なんか訊いてへんの?」
詰め寄る知香に、ほんま知らんて、と肩をすくめるのがやっとのナオだった。
「昨日は一緒に帰れへんかったから、話ししてへんねん」
「まぁなんとなくわかるけど」
「そうなん? 何がわかるん?」
「あんた鈍いんちゃう?」
ナオはちょっと頬を膨らます。
「誰なんやろ……」
知香の呟きは細やかに秋の気配を感じる微風が揺らした桜の葉の擦れ合う音にかき消された。
4
「なんかめっちゃ悪いことしてるみたいやない?」
「とうとう私ら不良になってしもたんちゃうか?」
真面目な佳奈と、もっと真面目な知香の会話だ。後ろを歩いていたナオが二人の間に割って入り二人と腕を組んだ。
「校則では禁止してへんねんし、開いてるんやから出入り自由やん」
僕たちの通う高校は休み時間に学校の外に出ることが許されていた。そもそもグランドが校舎のある敷地に隣接しておらず、徒歩十分ほどの場所にあったため、生徒達は体育の授業を受けるためには必ず学校の敷地から出て移動しなければならなかった。グランドと校舎の間は人通りもそれなりにあり、商店街とはいわないまでもコンビニや文具店・お好み焼き屋にケーキ屋と店が何件も立ち並ぶ少し賑やかな通りだ。昼休みになるとそこに買い出しに出る生徒は毎日少なからず存在した。
今日は自宅に家族が不在ということで、僕達は菅原の家で昼食を食べることになり、学校の真裏にある彼の家へと向かっている。菅原の家は、裏門から出ると一分もかからない距離だが、鉄でできたその門はさすがに登下校の時間以外は鍵がかかり閉じられていた。
「いつもは裏門乗り越えて行くんやけど、今日は女子おるしでけへんな」
「あんたらしょっちゅうこんなことしてんの?」
驚いたように佳奈が岡山に振り向いた
「しょっちゅうて、そんないっつもちゃうで、週に一回くらいかな」
菅原に視線を向けたその横で、佳奈がゆっくり首を振りながら大きなため息をついた。
「ええやんたまには。楽しいやろ」
岡山のその言葉に3人の女子は口元を緩めた。そんな女子を見つつ岡山がポケットの財布を確認する。
「ちょっとコンビニ寄るわ」
「大丈夫やで」
知香の言葉に皆各々顔を見合せた。
「何が大丈夫なん?」
「せやから昼ごはん買うんやろ。大丈夫やて、私作ってきたから」
「えっ!!」
驚いた声をあげたのは岡山ではなく他の女子二人だった。そして三人お互いの視線が交わる。
「昨日岡山のこと菅原から聞いて、ほんで……」
知香を遮るように佳奈が続ける。
「うちはナオから聞いてん。今日、菅原の家行ってみんなでご飯食べる言うから……」
「私はのりくんから聞いてて、今日がいい機会やと思て……」
母親が体を悪くし入院したことで、岡山は昼食をコンビニのお弁当やおにぎりで済ませていた。そういえば僕は数日前にナオにそんな話をした覚えがある。佳奈はナオから聞き、知香は菅原から聞かされていたようで、各々が岡山の分まで弁当を用意してきていたのだった。
「めっちゃ嬉しいわ」
とは言ったものの岡山にも流石に困惑は隠せない様子だった。
「あーわかった。お前ら俺のこと肥えさせて喰うきなんやろ」
「そうそう。ようわかったな」
「なんや今頃気付いたんか」
憎まれ口や軽口を叩く岡山はいつも愛されている。僕はこういう岡山を羨ましく思う。こうなれればと思う。
でも、三人の女子に囲まれ、菅原に冷やかされながら歩く岡山を後ろから見ていると、いつものように僕には絶対に無理だと思った。
「ただいまぁ」
誰もいない家に向かって挨拶をした菅原は、ポケットから鍵を取り出し玄関の扉を開けた。
「今日はほんまに誰もおらへんねんから、気ぃ使わんでええで」
そう言った菅原の後ろから、お邪魔しまぁすと口々に他のみんなもヒヤッとする家の中へと玄関をくぐった。
「二階の俺の部屋、案内したって」
岡山にそう告げ菅原は一階の奥へと入って行った。残された五人は岡山を先頭に階段を上がり二階にある菅原の部屋へと入った。まるで自分の部屋のように振る舞う岡山とは対照的に、僕を含め四人は立ち尽くしていた。しばらくすると自身の昼食の料理の乗ったお皿を持って菅原が入ってきた。
「さすがに六人やと狭いな」
彼の部屋は決して狭くはない。六人でもそれなりにくつろげるだけのスペースはある。僕の家から比べるととても広く羨ましい限りだ。
「適当に座って」
家主に促され皆各々好きな場所に座り持ってきたお弁当を開ける。普段は教室の机で食べる代わり映えしない食事も、場所が変わればそれだけでテンションが上がり、話も弾む。
もちろん岡山の前にはそれぞれ特徴のある三つの弁当箱が並んだ。知香が用意したのは朱塗りの小さな二段重ね。佳奈のは少々大き目のアルマイト製。ナオが持ってきたプラスチック製の弁当箱には猫のキャラクターがプリントされていた。
「こんな沢山食えへんわ」
「遠慮せんと食べてや」
佳奈に言われて、頑張るとは答えていたけれど一人で食べ切れる量じゃないのは本人がよくわかっていたようで、菅原と僕に手伝うよう促し、まず佳奈が持ってきた弁当を開いた。
「お茶欲しない?」
知香が部屋を見回した。そやねと、ナオが答えると、
「入れてきたるわ」と、菅原が立ち上がると、「ほな私、手伝う」と言って、知香も彼の後に続き階段を降りて行った。二人が消えるのを見計らったように、箸を持ったまま顔を突き出し佳奈は訊いた。
「なぁなぁ、あの二人、付き合ってんの?」
まっすぐな質問に三人は顔を見合わせる。
「やっぱりそう見えるやんな」
どこか心配げに、呟くようにナオは答えた。
「この家入った時から、なんか、新婚さんの新居にお邪魔しましたーって感じやん。新婚さんいらっしゃーいって感じやん」
ナオが頷く。ちょっと違うけど。
「付き合ってへんねて、ただの友達やって」
「嘘やん。絶対嘘やん」
「声大きい、大きい。下まで聞こえんで」
ナオの制止に佳奈は自分の口を両手で押さえた。あの二人の言動には疑われてもおかしくないところが多々存在するが、本人達が否定しているのでそれを認めるしかない。「あの二人は付き合ってるん?」の菅原と、知香を知るほとんどの奴等の答えは一致していて「知らん。ほっとけ」が解答のようである。
「そんな気になんの?」
岡山がアルマイトの弁当箱を見つめながらボソッと訊くと、佳奈は口から手を外し、全然、と答え自分で焼いたと言っていた卵焼きを口に入れた。それを見て岡山も手に持つ弁当箱に入っていた卵焼きを口に投げ入れた
「お待たせぇー」
戻った知香の持つお盆には不揃いなお茶碗とコップが並んでいる。
「ごめんなぁ。茶道部みたいに綺麗な茶碗が揃わへんかってん」
お茶を配る知香の後ろに、綺麗やなくて悪かったなぁ、と笑いながら菅原が立っていた。
「ほんまにあんたら付き合ってへんの?」
質問と同時に佳奈は知香の手元に視線を向ける。
「みんなに言われるけど、ほんまのほんまにただの友達やて。付き合ってへんて」
知香が手に持つ茶碗の中でお茶が不自然には揺れなかったことで、佳奈は少しだけ納得したようだった。
昼休みはさほど長くない。くだらない話をしているとすぐに学校に戻る時間になった。真面目女子三人はそうでもない男子三人を残して午後の授業に戻った。
「あいつら真面目やな。ちょっとくらいサボっても大したことないのに」
「いや、あれが普通やねんて」
「内申書のこととかあるからな」
「ところで菅原ってほんまに知香と付き合ってないん?」
「しつこいな、ここだけの話し、あいつ宮川のことが好きなんやで」
「ええぇっ」
想像もしなかった返答に、岡山と僕は二人して菅原を見やった
「多分ナオちゃんは知ってんで。知ってんねんけど、知らんふり。知香ちゃんはナオちゃんに色々相談してるみたいやけど、みんなには内緒やて」
知香の秘密をいとも簡単にバラした菅原に岡山が詰め寄った。
「ほんでお前はどうやねん」
「俺も別に、何も」
淀むその言葉を振り切るように続ける
「それより、お前は佳奈ちゃんのこと好きなんやろ」
「ええぇっ」
今度は僕一人。珍しく俯いた岡山を見やった。
「何や、とばっちりかえ。ええやんけそんなこと」
「やっぱそうか。いつでも相談乗ったるでぇ」
岡山の弱みを握ったと勝ち誇ったように、したり顔の菅原だったが、僕からするとどっちもどっち、引き分け状態にしか見えない。
六時間目が終了するチャイムが聞こえる。
「戻って、やるか」
「そやな」
そんな二人の後に続き、僕も一緒に部室へと向かった。
5
体育祭前日の実作業最終日
「のりくん何もしてへんのに何でここにおるんやろ。知ってる?」
ナオの疑問が、手にしたポスターを思い見る知香に届く。
「うん。知ってる」
知香は顔をあげ即答した。
「のりとしは今、明日の体育祭で撮る写真のオーダー受けてるんやて。注文やて」
「オーダーって?」
「体育祭の時ってみんな可愛い衣装着たりするやん。その写真を撮るオーダー」
「そんなん写真部に任せたらええのに。それに自分でカメラ持って来たらええだけやん」
「私もおんなじこと、のりとしに訊いてんな」
「なんて言うてた?」
「まず写真部は自分らで現像とプリントするから基本白黒やんか」
「確かにそうやな。いまどきカラーやないなんてな。それで?」
「自分のカメラ持って来てもちゃんと撮れたか心配やろ、現像するまでわからへんやん。それにカメラって意外と邪魔になるから無かったら無かったで助かるやろ、って」
「なるほど。現像代とかバカにならへんもんな」
ナオは納得し頷きながら、知香から差し出された丸めたポスターを掴んだ。
「実はもう一つあるねん」
知香は周りの後輩を気にしつつ、ポスターごとナオを引き寄せ小さな声で続ける。
「好きな人の頑張ってるとこ撮ってくれんねて」
ナオはゆっくり知香に寄り添い。彼女の耳元に囁いた。
「宮川のこと頼んだん?」
二人を包む一瞬の静寂の後、彼女の耳に掛かっていた黒髪がするりとひと束滑り落ちた。中庭に淀んだ空気は熱を孕み知香の頬をますます染める。ナオは知香の表情を周りに悟られないよう話を進めた。
「理由はわかったけど、何でここにいるんかは謎やん」
「文化祭の準備で映研手伝ってるっていうことにしてるみたい。実際そうなんやけどな。のりとしに会いたかったら映研に行けばいいってなるやん」
「そうか、忙しいときに探し回らんでも済むしな」
そんな話をしているとまた、彼に近づいていく人物がいた。その女子はさながらラブレターでも渡すかのように彼に手紙のようなもの差し出し、受け取ったのりとしと二言三言会話を交わし去って行った。
僕は体育祭の数日前の昼休みに知香からいきなり呼び止められた。下から見上げる上から目線の声かけには答えたくはなかったが、一度なら無視することができても、何度も名前を呼ばれては振り向かざるをえない。
「おい!! のり!! のりとし!!」
女の子から声をかられるのは、僕にとってこの時期特有の行事だけれど、その声には正直振り向きたくはなかった。
「なに無視してんねん!!」
仕方なく、諦め顔に決まり切った言い訳で振り返った。
「あれ? 知香ちゃんに僕なんかが呼び止められるなんて思ってなかったから、空耳かと思ったわ。で、なんかよう?」
こちらに一歩踏み込む知香に、胸倉を掴まれるかと思ったが、さすがにそれはなく二の腕を握られ薄暗い階段に置かれた掃除用具入れの脇まで引きずられた。
「ちょっと、なに?」
「あんたの噂、聞いたんやけど」
その一言だけで彼女がなにを言おうとしてるのかは理解した。人に頼み事するのにこのやり方はどうかと思う。お嬢様の行動は僕にはわからなさすぎる。
「ん? なにそれ?」
惚けてみせるも、彼女には全く届いていない。まぁ、わかっていたことだけど、その疑問に答える返事はなく、一方的な話が始まった。
「体育祭の時に、私の言う通りに写真撮ってくれるって聞いたんやけど……」
知香が言い淀み照れて俯くという貴重な仕草を拝んでも、私の言う通りなんて言われると、答えたくもなくなる。僕は返事をしなかった。顔をあげた知香は瞳だけ僕の肩越しにウロウロさせ続けた。
「誰の写真でも撮るんやろ? 秘密は守ってくれるんやろな。そうやって人の秘密握ってどうにかするつもりとちゃうやろな。まぁ、のりとしがそこまでできるとは思ってへんけど」
なら、言うなや。って思っても、このお嬢様の前では言葉にはできない。
「あんたに私の写真も撮らせてあげるし、ついでに撮ってほしい写真も私も撮ってもらうことに決めたから。知ってんねやろ? 誰を撮るんかわかってるやろ?」
どこまでも上から目線のお嬢様には、答える言葉なんて決まっている。
「うん、わかった」
拒否することなんて出来るわけない。
その後、いつまでたっても天上から目線のお嬢様からの質問攻めに、ありきたりの答えと一通りの説明を終えると、頃良く鳴った授業開始のチャイムに助けられ解放された。
体育祭の準備に駆り出された後輩達の穴を補うため、三年女子の二人も糊付けの作業に加わり、僕もそこに混ざることで、やっと手伝っている実感を得た。
中庭でのポスター班の作業は余裕を持って終了し散らかっていたものを片付けながら思い出したかのように知香がナオに言った。
「ナオも頼めば」
突然のフリにナオは無理無理と意味不明の返事を返した。
「そういえば、ナオって誰が好きなん?好きな人おらへんの?」
「無理無理」
「何が無理やねん。教えてぇなぁーー」
「無理やってムリーーー」
ポニーテールを揺らし駆け出したナオを知香が追いかける。狭い中庭で駆け回る先輩を下級生達は冷ややかな目で追いかけた。
まだまだ涼しくなったとはいえない夕方の空気の中、今日の夕焼けほどには赤くない小さなトンボ達が中庭を飛び交っていた。
「ほぼ完成やな」
「間に合ったな」
「お疲れさん」
部室内でも最終作業を終え、まだ巻き取りに余裕のある5号リールがテーブルの上に置かれていた。
「ほぼってどういうこと?もう終わってるやん」
「試写が終わって初めて完成やで」
首を傾げる岡山に菅原は答えたが、宮川はニンマリとするだけだった。
「外のみんな呼んでくるわ」
菅原が中庭に出た。
暗くなりかけた中庭では全てのポスターが集められ、下級生たちは次の指示が出されるのを待っていた。
「できたで、みんなで観よや。試写会するから全員部室に入って」
菅原の呼びかけに中庭で散らばっていた部員たちが部室に入って行く。
「お前も来いよ」
そう菅原に促されたが、まだ僕を頼りにしてここまで来てくれる誰かがいないとも限らないので、いいよ、本番までとっとくと断った。
開けられたドアから見えるテーブルには見慣れた編集機ではなく映写機が置かれ、彼らが作ったそのフィルムが掛けられている。部室にある明り取りの窓には、作業のため暗幕カーテンが引かれている。日が短くなったとはいえ、残照を浴びる部室での作業には暗幕は必要だ。カーテンの隙間から漏れる蛍光灯の明かりが消えるとともに、ドアの隙間から漏れる話し声が止み、一瞬の静寂が僕の前を横切った。見つめていた傷だらけの扉の向こうから、カチャッというメカニカルな音が微かに聞こえ、カラカラとフィルムが巻き取られる音が、音楽へと変わる。いかにも岡山が好きそうな曲がフェードアウトすると街の雑踏とアスファルトを蹴って走るヒールの音が続いた。
僕はドアから離れ中庭の端に立つ桜の木の下へ移動した。
たった十分ほどの作品に詰め込まれた彼らの青春はとても輝いていたに違いない。試写を観ることを断ったのはその眩さを直視したくなかったからだ。一つのことに打ち込み情熱を注ぐ。出来上がったものがどんなものであっても彼らにとっては青春の一ページの宝物のはずだ。語彙が足りなくありきたりの言葉しか並べられないがそれが真実で現実。僕には作れなかった、通れなかった道だ。そんなにも大切なものに駄作・つまんないと口に出して言わないまでも、心の中で軽んじそうになる自分を止めるには、その場にいないことを選択するのが最善であった。
部室から拍手が漏れる。耳を塞ぎそうになった手を止め、僕はその場を離れた。
6
体育祭の日、僕は忙しかった。そうオーダーを受けた写真を撮らなければならない。それ以外にも組対抗のリレーの選手にも選ばれている。何でこの僕がと思うけれど選んでくれたクラスメイトの意見は「お前逃げ足が速いやん」というのが主だったようだ。意味わからん。
それよりも写真である。写真を撮らなければならない。目立たないように、誰を撮っているのかを悟られないようにしなければいけないこともあった。さりげなく撮ったり、面と向かってお願いしたりと駆け回った。その中で知香からのオーダーは比較的楽だ。知らないやつじゃないし、どの競技に出るのかは前もってわかっている。それと宮川を撮ると、わかっているだけで倍の儲けになる。
岡山のために佳奈を押さえておこう。菅原のために知香を撮っておこう。彼らがその写真に興味がなくとも写っている本人達が欲しいと思うはずだから無駄にはならないだろう。特に佳奈は白組の応援団に選ばれている。どの組の応援団も普段は絶対着ることができない少々際どいデザインの可愛い衣装を着て競技に参加していた。その華やかな一日を残す写真を欲しがらないはずがない。
体育祭が終わると撮った写真をプリントするためグランド脇に隠しておいた自転車で行きつけのカメラ屋さんに急ぐ。そこで僕はいつも無理を聞いてもらっていた。
「こんばんは、いつものやつなんですけど」
閉店間際のお店に飛び込んだ僕の体操服を一瞥した店主は、期待通りの返事をしてくれた。
「わかった。明日の朝取りにおいで。やっとくから」
「でも明日は早くて、朝にここの前通るのは七時半ごろなんですけど」
五本のフィルムを鞄から出しカウンターに並べると、店主はフィルム一本ずつの枚数を確認しがら受付の書類を書いていく。
「えらい早いんやな」
「はい、文化祭の準備もあるんで明日はいつもより早いんです」
店主は一度白い天井を見上げ、ゆっくりは息を吐きながら壁にかかる時計を一瞥すると、五枚の預り証を差し出した。
「わかった。ええよ。明日は店やなくて、裏に回って自宅のベル鳴らしてくれたら出るさかい」
「ほんまですか。ありがとうございます」
頭を下げ預かり証を卒業証書のように両手で受け取った。リノリウムの床に反射する蛍光灯が眩しい。
「その代わり、沢山売ってまたプリント頼んでや」
「はいもちろん。頑張ります」
行事ごとにお願いし、その度にお世話になってはいるが、この日見た店主の眼鏡越しの思い出を語るような優しさ溢れる瞳は決して忘れることはないだろう。
僕は体育祭の写真を明日朝に受け取る確約を取り付け、一仕事終わった清々しさとともに学校に引き返した。もちろん明日からの文化祭の準備のためにだ。
映画研究部の上映室として割り当てられたのは、旧校舎西側の二階の教室で新校舎ができるまでは音楽室として使用されていた教室だった。そこにはまだ暗幕カーテンが残っており、簡単に上映室を作ることができる。
「やっぱりここなんやな」
知香が呟く
「しゃぁないやん。暗幕準備する手間ないんやもん」
僕は知らなかったが、気にもとめていなかったけど、映研のブースは毎年ここと決まっているようだった。
「何で視聴覚室とか使わせてくれへんねやろ」
「あそこはどっかのクラスがお化け屋敷に使うんやて」
「何で自分とこの教室使わへんの。それに段差があって危ないやん。どこのクラスなん?」
「柴田とこやって」
「生徒会長め、政治力使いやがったな」
「もう決まってんねんから、愚痴は置いといて準備してはよ帰ろ」
「はーい」
宮川の疲れている声に返事を返したのは同じく疲れている下級生の数人だけだった。
学校で所有し管理している8ミリの映写機はかなり古いもので、光量も低くあまり大きくは写せない。しかも昼間に暗幕カーテンで遮光したとしても、隙間から漏れる陽射しは映写の邪魔になってしまう。なので見栄えが悪くなることを覚悟で完全に光を遮断するようカーテンを黒いガムテープで壁や天井に固定する。しかし日が陰ってくると外も暗くなるのでどの場所から光が漏れるのかを見つけ出すことは難しくなる。
「続きは明日来てからやな」
菅原の呟きに宮川が頷く。
「ほな、今日はこれで解散。お疲れ様」
「お疲れ様でしたぁ」
「三年は残ってなぁ。明日の打ち合わせするさかい」
そう言うと宮川は廊下で待っていた佳奈を教室に招き入れた。明日の段取りを決めるために宮川が呼んだらしい。打ち合わせといっても午前のタイムテーブルの確認のみで、それ以降はお客さんの流れ次第ということになった。
しかし宮川からの話はこれで終わりではなかった。
「部外者がいるところでこんな話もなんやけど、えっと、映画研究部は今年限りで廃部になります」
普段聞かない宮川の言葉遣いと突然の告知に教室の空気が止まったように感じた。
「理由は何なん?」
冷静を装っているのだろう。菅原が手に下げる自身のカバンを見続け言った。
「部員の減少と顧問の不在。それと器材のメンテナンス費などがかかりすぎるし、フィルムとかのランニングコストも……」
「部員入ってけぇへんもんな」
知香が漏らす。
「来年から器材扱えるやつらがおらんようになるしな」
その菅原の言葉に宮川が続けた
「使い方とか教えへんかったんは、俺らのせぇやんか。ほんま後輩には悪いことしてしもたわ」
「お前ら全員留年して器材の使い方教えてやったらええねん」
さすがに岡山のいつもの軽口に反応する奴はいない。
「今の顧問も名ばかり顧問で部室になんか来たことないんちゃうん」
そう言った知香に菅原が頷いた。
ナオのすすり泣く声が聞こえる。佳奈は彼女の肩を抱き自らの胸へと導いた。閉め切られ静寂があるはずの教室に彼女の泣き声だけが響いた。
「もう、どうしようもないん?」
「そうみたい」
もう一度尋ねる知香だったが、宮川の力ない声が教室に落とされる。
「ナオが泣いてもしゃーないやん。今年いっぱいは部があるんやし、なくなるのは来年なんやから」
軽口ではない岡山の発言にナオは顔を上げ言った。
「そらそうなんやけどな、後輩になんも残してあげられへんかった自分が情けないねん」
やらなければいけなかったことを忙しさにかまけて放置してきた代償。ここにいる映画研究部の部員全員が心に背負うことになった。枷として。そして糧として今後生きることになるのだろう。
「後輩らにはまだ内緒な。今日は遅いからおしまいにしよ」
電気が消されようとしている教室の真ん中に置かれた教卓の上には、前を見据える映写機が佇んでいる。前を向き、しかも少し目線を上げるような姿勢をとるその映写機は彼らを励ましているように見えた。もし視聴覚室で設置していたならば、下を向いていたに違いない。
室内灯を消すためにスイッチに手をかけた岡山が教室の中を振り返り言った。
「ほら、あいつも前向いて進めっていうてるみたいやんけ」
7
文化祭当日、僕は朝から忙しかった。約束通りカメラ屋さんの玄関で写真を受け取り、そして行く先は映画研究部のブース、ではない。そこは、女子達が着付けのためにいるはずの茶道部の茶室、の隣にある音楽準備室だ。そこで昨日撮ってプリントされた写真を整理する。もらったオーダーを頭に叩き入れ手当たり次第に撮っているため秩序なく整理もされていない。百五十枚を超える写真を、そこに写っている人たちを揃えながら、サービスで貰った写真フォルダーに入れていく。その際ダミーを混ぜることを怠らない。これはかなり重要で守秘義務を全うするためには怠ってはいけない作業だ。その他にも団体写真等は見やすいよう順番を揃えたり、めくるページに流れを作るように並べる。これで売れ行きが変わるのだから不思議だ。最後にそれぞれに番号を振ると準備完了である。
早朝からの作業に若干の疲れを覚え廊下に出ると、そこで着付けが終わったばかりの浴衣姿の4人と出くわした。普段学校では見ることのないその装いが、見慣れた廊下を一変させる。私は閉めかけの扉から手を離した。
知香とナオがなんとなくこちらに向けポーズをとっているように見える。
「どないよ?」
「ええんちゃう」
と、自分としては精一杯に答えたのだけれど、ナオは足元に視線を落とすと、いこ、と知香の手を引き映研のブースへ向かっていった。部室の鍵をかけ終えた佳奈はしばらく僕を見据え「あんた勿体無いで」と謎の言葉を残し後輩を連れ二人の後を追って行った。長く続く廊下にはいつものゴムがこすれる音ではないカランカランと硬い足音が響いていた。
遅れて僕も映研のブースへと到着した。そこは昨日の帰る間際とは全く違う場所のようで、今すぐにでも客を迎えられるよう観客用の椅子が丁寧に並べられている。僕が少し手伝ったポスターは教室をグルリと囲むように配置され、四角い教室のスクリーンのある正面を除き一片ごとにテーマを決め、年代ごとに並べるという設営がなされていた。
椅子は沢山の人に座って見てもらうようには置かれておらず、椅子と机を組み合わせて、お茶を飲みながらの鑑賞ができるよう椅子の横に机を置く形で配置されていた。それは佳奈のアイデアだった。
宮川としては、お茶だけの振る舞いを考えていたようだったが、沢山余っているということで希望者にはお茶菓子として落雁も用意された。もちろんこれも佳奈が用意してきていたものだった。
「もういっそここが茶道部のブースでもええんちゃう」
眠そうな目をこすりながら岡山が現れた。そういえば茶道部の茶室はどうなっているのだろうか。見てきたやつによると、ここに来るより先に茶道部のブースを見に行った岡山によると、お茶を点てるのは1日3回で時間指定の制限あり、しかも予約制で行われるということになっていたそうだ。茶室の前には小さなテーブルが置かれ、その上にはファミレスで見るような、席待ちの名前と人数を書くノートが置かれていたそうだ。本当にどちらがメインなのかわからない。
こちら映画研究部のブースではOB・OGであろう人たちが浴衣姿のナオと知香の歓迎を受けている。その中、第一回目の上映が今始まろうとしていた。
用意された椅子は八脚で着席している人は六人。それ以外に数名の立ち見があった。第一回目ということで上映前にキャストとスタッフの紹介が宮川主導で進んでいる。さながら舞台挨拶のようだった。一通りの紹介を終え、それっぽいベルが鳴る。それを合図に僕は部屋を出た。僕にはまだ彼らの作品を見る勇気がなかった。
それに今日の僕にはまだまだやらなければならないことも多くある。カメラ屋さんとの約束を果たさなければならない。
人伝ではあるが、その後も映研のブースは人の入りは良く、少ない部員でやっと対応している感じだったそうだ。1日目の最後の上映が終わるころの時間を見計らい僕は映研のブースに行った。そこでは明日用のポスターに差し替える作業が行われていた。
「どないしよ」
「急に言われてもわからへんわ」
下級生達が映写機の後ろに集まっている。その足元にはポスターが散乱していた。
「今日みたいな感じにする?」
「そんなことしたら先輩に怒られるんちゃうか」
「誰かアイデア出してぇな」
「ほんまどないしたらええんやろ」
その様子を教室の隅でお茶を飲みながら見ている浴衣姿の二人がいた。
「あの子らどうするんやろな」
「知香、やっぱちょっと意地悪やったんちゃうかな」
ナオが知香の視線を覗き込む。
昨日宮川から告げられた廃部の事実は、このような形で下級生達を刺激することになったようだ。もともと二日目は別のコンセプトで展示する予定でポスターの準備がなされていたが、ほんの数分前に知香によって覆された。
「あんたら今回ポスターをベニヤに貼っただけやんな。なんか頭使うてへん感じがするねん。やからな、明日の展示はあんたらに任すわ。好きなようにやってみ」
先輩の前では「はい」と答えるしかなかった下級生達は返事をしてしまったものの、突如与えられた課題にどうしていいかわからず困り果てている様子だった。
「あの子ら固まって何してるん」
他のブースの見学から宮川と菅原が戻ってきた。その声に下級生の一人がいち早く反応した。
「部長。助けてください」
「どないしてん」
「知香先輩が虐めはるんです」
「はぁ?」と宮川が首をかしげたと同時に知香は飲みかけのお茶を吹き出し、散らかった教室の状況を見渡した菅原はこらえきれずといった感じで笑い出した。どうもこのポスターの件には菅原も一枚噛んでいるようだった。
「菅原、どういうことやねん」
「昨日の帰るとき知香と話してんけど、今回の文化祭で下級生の子等って、なんもやってへんみたいやから、ちょっとは頭使うことやらせたほうがええんちゃううかな、みたいな話が出てな。ほんならポスターの展示2日目をやってもらうのってどないやろ、いうことになったんやけど……」
知香は即答での賛成をしなかったようで、持ち帰ると言って別れたそうだ。
「うちも一晩考えたんやけど自分の中で納得がでけへんで。わかってるんやで、わかってんねんけど」
「昨日の話やとな、やってもらうんやったら今日の朝後輩みんなに伝えてあの子らに一日考える時間を作ったらなって言うてたんやけど、知香が朝なんも言わへんかったから、そのまま行くやと思とってん」
「でもな、昼ごはん食べながらナオと話しして、やってもらおうってことにしてん」
知香の硬く結ばれていた想いは、ナオの言葉で解きほぐされたようだった。
「でも、みんなに伝える暇なくて今になってしもてん」
さっきまで意地悪っぽく下級生を見ていた知香の目にうっすらとうるむ涙が見える。教室は静まり返った。
納得したとナオには言ったものの、強がっていなければ崩れてしまいそうな弱い自分がいることを知香は知ったようだった。
眼を瞑り聞いていた宮川が後輩達に向き合った。
「知香先輩はめっちゃいじめっ子やな。叱っとくから。時間ないけど頑張ってやってな」
と後輩達を励ます横で
「いじめっ子ちゃうわ」
そう言いながらナオから差し出された猫のプリントの印象的なハンカチを奪い取ると、みんなに背を向け教室の真ん中にある映写機のように上を向き、そのハンカチで目を押さえると、宮川の手が知香の頭に添えられた。
行き場を失い床に散乱したポスター達は、助け上げられるのを待っていた。
文化祭二日目。今日も僕はカメラ屋さんに寄ってからの登校だ。昨日注文を受けた写真をプリントしてもらっていた。料金は前金でもらっているので今日のカメラ屋さんへの支払いは自分の小遣いから持ち出すことはない。それ以上に昨日の現像代やフィルム代までも賄えるほどになっていた。
また今日も音楽準備室に向かう。そこで仕分けと整理をする。注文枚数の少ない人の写真はちょっと小洒落た便箋で包み名前を書く。多い人にはカメラ屋さんに無理を言って貰った簡易アルバムに入れて整理する。地味で面倒だけれど小遣いのため。利益も見えてきたのでテンションも上がる。作業を終え教室を出ると、そこで昨日と同じく、茶室から出てきた四人と会った。
昨日は気にも留めなかったが、知香のいつもはまっすぐ降ろされている長い黒髪は結い上げられ、揺れる簪がキラキラ光る。ナオのポニーテールにはウェーブがかかり真後ろではなく少し右で結わえられ、ちょっと大きな花飾りがあしらわれている。二人とも後れ毛がなんとなく色っぽい。今日はこちらから声をかけてみる。
「めっちゃ可愛いやん。似合ってんなぁ」
そんな僕のセリフに知香は眼を見開き、息をのんだのがわかる。
そんなに変だったかなと怪訝に思っていると、ナオがおおきにと笑顔を返し、知香の手を取ってブースに向かって長い廊下を歩いていった。繋がれた手を大きく揺らし歩く二人の後ろ姿を見ていた佳奈はゆっくりこちらに振り向き「よし、合格」と、柔らかい声で昨日と違う言葉を残し、二人の後を追って行った。
8
昼休みの後、校舎の前で記念撮影をすることになった。もちろん僕がカメラを構える。天気は良く、まさに秋晴れ。暑くもなく寒くもなく。部員全員を菅原が招集して展示ブースになった教室の窓が見える旧校舎下に集まった。
「みんなこっちやでー」
手を挙げる宮川の元に集まる部員から少し離れたところで僕は集合写真を撮る準備をする。二階の窓ガラスに外に向けて貼ってある「映研」の張り紙が入るような構図になるようファインダーを覗いては少しずつ後ろに下がっていく。三脚は立てず手持ちでの撮影が僕のスタイルである。部員達は花壇の段差を利用し二列に並ぶ。
「岡山、お前も入れよ」
菅原からの誘いが他の部員に伝染した。
「入れよ」
「おいでー」
僕の後ろに立っていた岡山はそこから動こうとせず大きく手を横に振った。
「ええわ、俺ここの部員とちゃうし」
落胆の声が漏れるも、僕がそれをかき消す。
「こっち向いてー、撮るでー」
数秒前の出来事などなかったかのように皆澄ました顔に変わり、構えるカメラを見つめた。二回のシャッター音の後、僕の右後方、視界の端で影が動く。と、同時に澄まして整列していた全員の表情が緩んだ。僕はファインダーから目を離さずそのままもう一度シャッターを切った。
「みんな、こっち来いよ」
菅原の再度の誘いに視界の端の影がまた動く。ナオや知香、それに下級生までもが手招きをしている。次の瞬間、ファインダーに切り取られた絵の中に着物姿の佳奈と、彼女に腕を組まれ天を仰ぎながら引きずられる頬の赤い岡山が入ってきた。
「みんなもうちょっとそのままなぁ」
集合写真を撮り終えると宮川が皆を制止し僕に駆け寄り、写真の撮影中ずっと胸に抱えていた8ミリカメラを差し出してきた。
「これでも撮って欲しいねん」
宮川は僕に一通りのカメラワークを指示し、元いた場所に戻った。
「みんなは動かんでもいいからな。ほな、スタート」
僕は指示通りカメラを回す。まず二階の「映研」の張り紙をなるべくアップで撮るところから始め、上からパンしつつ並ぶ全員が映るように画角を広げる、その後部員の顔がわかるようにズームし、片手で彼らに手を振る。それに答えるように手を降っている並ぶ部員たちを左からゆっくり右へ、そしてもう一度二階の「映研」の張り紙を写して終わる。カメラの動きを見て宮川はカットと叫んだ。
「何したん?」
「どうすんのこれ?」
質問責めに合うも宮川はニヤニヤとはぐらかすだけで特に何も答えなかった。
「映研らしく動画で記念撮影したかっただけやし。ただの記録みたいなもんやって。」
ブースに戻ると次の撮影が待っていた。事前に宮川によって用意されていたスケッチブックには、一枚ずつに今回の映画の役や担当が書き入れられている。そこに各自で名前を書いていく。
「自分の名前は自分で書いてなぁ。空いてるとこには絵とか好きに書いていいし、好きにしてな」
指示を出す宮川に、部外者の佳奈がからかい混じりに尋ねた。
「彼氏募集とか書いてもええの?」
言葉は宮川に対してだったが、視線は少し意地悪っぽくナオに向けられていた。
「ええよ。誰かに告白してもええし。何書いてもええよ」
黄色い声ではしゃぐ後輩に紛れ、佳奈の背中を叩くナオの姿が見えた。
撮影はそのスケッチブックを胸元に持ち、前のページから自分のページへめくり、そして次のページへめくるところまでを一人ずつ十秒足らずの撮影を全員分繰り返す。各自ブース内の好きな場所を背景に選び、スケッチブックの順番に撮影が進められていった。
「まずは辻井な」
一番なのでタイトルページからはじめる。辻井は胸元にスケッチブックのタイトルページを開いて持つ。僕は宮川の指示でカメラを回した。辻井は宮川からの合図で自分のページをめくると、ほんの少し子首を傾げうっすらと笑みを作った。次の合図でページをめくって終わる。動きの少ないほんの数秒ではあったが、澱みを感じない流れるような演技に、皆息を飲んだ。
次々と撮影は進められた。スケッチブックにはピンクのペンでハートを描いている者、黒猫の絵を描いている者、赤トンボを描いている者、サインらしきものを描いている者など様々だったが、さすがに恋人の募集や告白する者は一人もいなかった。
部員全員の撮影が終わると宮川が、つぎ岡山な、と、彼の前にスケッチブックを差し出した。
「こんなんええし」
岡山は逃げるように断ったが、下級生の部員から拍手が湧いた。治らないと思ったのか渋々スケッチブックを受け取った。そこには既にスペシャルサンクス&音楽と書かれたページが用意されており、知香から渡された太いマジックで岡山は自分の名前を書き入れた。そして撮影を始めるのだが、今まで見たことのない岡山の緊張しているような、照れているような、そんな微妙な表情が菅原のツボにはまったらしく、菅原は撮影中ずっと肩を震わせ両手で口を押さえ続けていた。
岡山を撮影した後、僕はフィルム残量を確認して、いつもの岡山に戻りきれていない目の前の男子からスケッチブックを受け取り佳奈に渡した。
「そうや佳奈も入って」
そう言いながらナオは、笑顔で頷く宮川を一瞥し、マジックを持って佳奈に駆け寄った。
「一人やと恥ずかしいから、ヒロちゃんも一緒にな」
無理やり巻き込まれた後輩はブースから逃げ出そうとするも、出口付近で同級生に捕まり、そのまま手を引かれ佳奈の横に並ばされた。ナオは佳奈から一度スケッチブックを預かり岡山の次ページにスペシャルサンクス茶道部とタイトルを書き、佳奈に手渡した。そこに佳奈と茶道部二年の寛子ちゃんが自分の名前を書きたした。
映画研究部の部員と岡山は一人ずつの撮影だったが茶道部は二人で並んで撮影する。カメラを構えた僕を見て「スタート!」と大げさに宮川が叫んだ。そしてぎこちない二人の演技が終了したところで「カット!」の掛け声がブースに響くと、そこにあった全ての緊張が一気に崩れ、沢山の拍手と笑顔で満たされた。僕はカットの指示を無視し、そんな部員たちにカメラを向け余っていた十秒ほどのフィルムを全て使い切った。
その中から「次、のりくんな」そう言い寄るナオが、スケッチブックの準備をしようとしたが、私は聞こえなかったフリをし、カメラの残量計を大げさに確認すると、わざとらしく宮川にカメラを手渡した。
「丁度フィルムなくなったわ。ピッタリやった」
「おおきに」
宮川は全ての映るフィルムの入ったカメラを胸に抱え、笑いの中に溶けていった。
ナオからの冷たい視線を感じる。彼女は僕の写真嫌いを知っている。僕がどれくらい写真に写ることを嫌っているかは語り出すときりがないほど、としておく。ナオと目を合わすことができなかった。けれど彼女にだけ見えるように胸元で小さく親指を立てた。溜息を返されたのに気付き、彼女を見ると胸には白紙のページが開かれたスケッチブックを抱え、手には黒いマジックが固く握られていた。
文化祭の閉会式の案内放送が流れると、宮川から打ち上げの話しが出た。
「前から言うてた通り、明日打ち上げを行います。河原町にある知香ちゃんの知り合いのレストランに無理を聞いてもらいました。ほんまは、昼は、やってへんねけど、映研のためだけに開けてくれはんねて」
「たいした店やないけど、レストランやし河原町やし、ちょっとはお洒落して行こな」
知香が女子を煽る。
「どんな服着て行く?」
「何着て行ったらええんかな? どんなレストランなんやろ?」
「そら、知香先輩のセッティングやから、めっちゃええとこ間違えないで。それこそドレスコードあるようなとこやと思うわ」
「心配せんでも、普通にちょっとお洒落してきたらええし」
「それが、怖いんですって」
ガールズトークで熱を帯びる教室の中、佳奈の後ろ姿をぼーっと眺めていた岡山が譫言のようにボソッと呟いた。
「みんな和服で行ったらええねん」
その小さな声に佳奈と知香が勢いよく振り向いた。
「そんなことしらた何も食べられへんやんか」
「ほんまや、何考えてんねん」
女子の攻撃を受け我に返った岡山は、やっといつもの岡山に返ったようだった。
「その分、俺が食うたやるやんけ。肥えさせて俺のこと喰うて言うてたやん。太ったるわ!!」
僕には関係ないと、人ごとだと聞き流し、床に置いたバックにカメラを片付けていると、背後から声をかけられた。
「のりとしもな。一緒に行こな」
知香からの誘いだった。体育祭の写真を渡した辺りから微妙に僕への態度が変わった気がする。写真が気に入ってくれたのか、あの僕にだけ向けられていた冷たい目を和らげてくれているように感じる。彼女のパーソナルスペースへも、つま先ぐらいならいれてもらえるようになったかもしれない。僕は振り返ったが声をかけてきた知香を見るのではなく、部長である宮川を探した。宮川は辻井と何やら話をしていて僕の視線に気がつかない。次に副部長の菅原を探した。彼はこちらに背を向け後輩たちと話しをしている。僕の挙動を変に思ったのか、知香が僕の正面に回り足を折ってしゃがんだ。
「行くやろ?」
「いいのかな? 宮川か菅原に聞かんとあかんのちゃう?」
「大丈夫。うちが言うとくさかい」
手伝いのおまけの僕が打ち上げに行くなんて気が咎める。毎日木陰で本を読んでいた僕は、役に立つようなことをほとんど何もやっていない。展示ブースの準備も、当日の手伝いも全くやっていない。部の打ち上げなので、部長や副部長からの誘いならまだしも、一女子部員からの誘いに簡単に返事なんてできないと思った。しかし僕と目線を合わせるため正面にしゃがみ、返事を待っている和服姿の女の子に、今までのギャップも手伝って、うん、と頷いてしまった。
本当はここで断るべきだったんだ。
9
次の日、週末に行われた文化祭の振替休日となる月曜日。まずは定番の待ち合わせ場所である、四条河原町に集合し、レストランへ移動することになっていた。
僕は集合前に寺町に寄り買い物を済ませ、徒歩で待ち合わせ場所に向かった。五分ほどで到着した阪急百貨店の入口前には、気取ってスーツを着ている宮川と、長い付き合いの中でも、見たことのないシャツで精一杯背伸びの岡山を含む私服姿の数名がすでに集まっていた。皆ここぞとばかりにお洒落に着飾っている。女子は少し化粧をしているように見える。改めて私服に対する自分のセンスの無さを実感するが、特に落胆などしない。僕は皆に軽く会釈をして、デパート入り口のガラス扉の横にもたれかかった。相変わらず、小さな辻井は後輩たちに囲まれている。そこにナオと佳奈が到着した。僕の前を通り過ぎようとした二人だったが、佳奈が僕に気づきナオの腕に自身の腕を絡ませナオを引き止め立ち止まる。
「今日はあれ言うてくれへんの?」
「あれってなに?」
と、聞き返した僕を一瞥したナオが佳奈に向かって「もうええって」と言って逆に佳奈を引っ張った。引きずられながら佳奈はこちらに向き「あほ」と一言投げつけてきた。僕に対するあいつの言動はいつも意味不明だ。
その先で二人を見つけた岡山が興奮した声で叫んだのが聞こえた。
「似合ってるで、めっちゃ可愛いやん」
暫くして菅原と知香が到着した。相変わらずいつもの二人だ。寄り添ったり、手を繋いだりはしていないものの、醸し出す雰囲気は恋人同士のそれである。
「ブレへんなぁ」
「ほんまにな」
言いながら近づいてきた岡山に僕は大きく頷いた。
全員が揃ったので約束の時間より少し早かったが、打ち上げ会場のレストランに移動することになった。お店の場所は河原町を上り、西へ入った辺りだ。そこは知香の父親が経営する会社の取引先レストランで、もちろんそのコネで今日の会場を用意してもらったそうである。
「えっ、ここ?」
「ほんまに?」
知香以外は全員同じようなリアクションだったに違いない。
「なんか場違いやな」
「ほんまに入ってええのかな?」
店の前でヒソヒソと囁かれる声を気にすることなく、知香はまるで自宅に帰って来たかのように扉を開き、ひとり中に入っていった。そこに一人の店員が近づき知香と何やら話を始めた。窓越しに時折向けられる二人の視線を正面から受けられる者は誰もいなかった。そしてそのウエイターによって扉は開けられた。
「いらっしゃいませ。どうぞ中へ」
あとで知香から聞いたのだがその人が店長だそうだ。通常は夜からの営業のため、この時間に他の客はいないが、なかなか足が進まない。
「ただいまお席をご用意いたしますので、少々お待ちください」
知香以外のメンバーは入ることを躊躇した重厚な扉の内側でお互いを肘で突き合っている。そんな光景を微笑ましく思ったのだろう、店長が優しくエスコートしてくれた。
「お待たせ致しました。此方へどうぞ」
僕達は店の一番奥まで通された。
「うわ予約席やて」
「ほんまや、なんか偉なった気分」
予約席と書かれた札は、高校生を「自分達のためだけに世界が動いている」と、勘違いさせるのに十分の力があった。
案内された一角には、長く繋げられたテーブルに、白いクロスが掛けられ、銀製のナイフとフォーク、背の高いグラスが並び、一人一人に用意されている皿の上には銀のリングに通されたナプキンが置かれていた。
席順はテーブル奥から、辻井・宮川・菅原・知香・ナオ・佳奈・岡山の順で座り、彼らと向かい合うように一年と二年が並ぶ。その端、つまり岡山の正面に僕が座った。
大きく綺麗なお皿に乗ったまるでデコレーションケーキのように盛り付けられた料理が次々と運ばれ、パーティーの準備が整っていく。そしてグラスにはシャンパンに見立てたサイダーが注がれる。盛り上がるテーブルに下級生達の言葉数が徐々に減っていった。
僕から一番離れた位置に座る辻井が宮川を肘で小突くのが見えた。刹那宮川はサイダーの注がれたグラスを持って立ち上がった。
「みんな、ありがとな。文化祭が成功に終わったのはここにいるみなさんのおかげです。本当にありがとうございました。半ば色々あったけど、映画も展示もいい評価を沢山頂きました。部長として誇らしく思います……えっと……それとですね……」
言い淀み、視線を手にあるグラスに落とした宮川を見た菅原が口を挟んだ。
「もうええやんけ、乾杯しよ乾杯」
「早よ食わせろよ、死にそうやねんけど」
と、岡山のいつもの軽口に空気がほんの少し和む。宮川の進まない挨拶にしびれを切らしたように見えた菅原だったが、三年生には言い淀む宮川のことも、割り込んだ菅原のことも理解しているに違いない。
「それでは部長に代わって、かんぱーい」
グラスを持ち上げる菅原に、皆、グラスを合わせる。
宮川は手に持っていたグラスに軽く口をつけ席に着いた。
和らいだ空気に下級生たちが長く吐いた息が混ざると、入るのを躊躇した異空間が、いつもの居慣れた場所に少し近付いたようだった。
「残したら悪いさかい、遠慮せんと食べよな」
知香とナオが料理を取り分け始めると後輩たちもそれに倣った。知香は手際よく料理を取り分けて行く。真似る後輩たちの覚束ない手と比べると大人と子供以上の差が感じられる。一人ずつに盛り付けられた皿を見ても然りである。
「ほんまはな、コースにしよと思てんけど、男子と女子で食べる量が違うやろうし、いっぱい食べて欲しいからって、店長に言われてやめてん」
「それって苛めやろ。これ以上緊張させてどうすんねん」
「いい勉強になると思ったんやけどなぁ」
「出た、知香のSモード」
菅原はいつものことのように呆れ顔。宮川は料理を取り分けるために立っている知香の顔を見上げる。
「絶対嘘や。目ぇわろてるやん」
「ばれた? 部室散らかす男子へ復讐したろ思たのに」
「知香先輩、私らを巻き込まんとってください」
他の客のいない店内は気兼ねなく振る舞える。部室のようにとはいかないまでも、学校で見るような雰囲気の笑い声は絶えることがなかった。
僕の席は下級生側の一番端になるので自ずと下級生が取り分けたお皿が回って来ることになる。
「先輩どうぞ」
「ありがと」
そう言って受け取るも、彼女達に先輩と呼ばれることに、未だになんだか抵抗を感じる。僕はこの部の先輩ではないのだから。まだ名前を呼び捨てにされる方が落ち着く。今横で料理を取り分けてくれた彼女からは特にそう思ってしまう。
皆との会話に入っていけず、目を向けた少し歪んで見えるガラス越しの通りには、ガイドブックを見ながら歩く修学旅行のグループを、縫うように通り過ぎる急ぎ足のサラリーマンの姿が見えた。
ここでも僕は写真係・記録係を買って出た。今日はスナップショット用の小さなカメラだけを用意してきた。その小さな箱の中に学校では味わえない時間と空間を切り取っていく。僕はそんな作業が大好きだ。
デザートは白く背の高い帽子をかぶったシェフ自らの手で運ばれてきた。その中の一つの皿にはチョコレートで彼らの作った映画のタイトルが書かれていた。
デザートも食べ終え店を出る時間となった。
「みんなで店の前で写真撮ろ。店長とシェフも一緒に入ってください」
宮川の誘いに二人は快く応じてくれた。僕は宮川から事前に集合写真のことを聞かされていたので、フィルムが二枚残っていることを確認し宮川にVサインを送る。緊張で近づくことすらできなかった異空間への扉は、いつのまにかレストランの入り口に変わっている。その扉の前で店長とシェフを含めた十五人が並んだ。
「はーい。こっち向いてー、撮るでー」
シャッターを切る。
「ほな、もう一枚な」
最後の二枚を使い切った、つもりだった。そのままフィルムをケースに巻きとればよかったのだけれど、いつもの癖で巻き上げレバーを動かしてしまった。レバーは最後まで移動し、僕の指が離れるのを待っている。僕は二回の瞬きの後、何事もなかったかのように指を離した。つまりもう一枚撮れることを明らかにしてしまった。店長はさすがだった。僕の指がレバーから離れ、勢いよくレバーが戻ったことを見逃さなかった。
「次は私が撮りますから、あなたが入ってください」
この時は自分の癖を無茶苦茶呪った。どうにかしてこの場をやり過ごさなければならない。絶対写真には写りたくない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
僕はレンズにキャップをしてカメラを革のケースにしまい、ケース越しにシャッターを押した。手に微妙な振動が伝わり微かな音を伴った。その音は街の雑踏に消されて誰にも届いていないはずである。
しかしもう一人フィルムの残りに気がついた奴がいた。
「もう一枚撮れるみたいやん」
彼女が大きく手招きをする。
「撮れへんて。丁度なくなったから」
僕はもう一度ケースからカメラを取り出し、巻き上げレバーが途中で止まることを大袈裟に見せた。そして今閃いたと言わんばかりの仕草でフィルムをカメラから取り出し宮川に渡した。裏蓋が開かれるカメラを見てナオは前に突き出していた手をため息とともに下ろした。
食事を終えた一行の次の行き先はショッピングだった。女子が勝手に決めたことで予定にはなかった。男子は無理やりという感じでそれに付き合わされた。ショッピングといっても目的があるわけではない。河原町・新京極界隈をあてもなくブラブラした。彼女たちは男子が入ることができそうにない店にも入る。そういう店では男子は外で待つしかない。
「これも、知香の復讐っていうやつかな」
「かもしれん」
店の入り口横で宮川と菅原がしゃがみこんだ。
女子の買物というものに初めて付き合った。付き合ったというよりただただ後ろを追っていただけなのだけれど。特に目的のないウインドショッピングには疲れしか残らない。
「なぁ、次はビブレに行こ」
「あそこやったら本屋とかレコード屋もあるし」
「まぁ、ええか」
「行ってやってもええで」
ナオは優しく答えたが、上から目線で意地悪な知香に頭をさげる宮川は部長の威厳が感じられない。
「是非にお願い致します」
懇願する男子に女子達は恩着せがましく了承してくれた。
ビブレの入り口には掲示板があり、最上階にあるライブハウスの予定表が貼ってある。それを熱心に見るのが岡山のお約束だった。
その後、僕と岡山は本屋で立ち読みをして時間を潰す。その隣の雑貨店では宮川がショーケースを真剣にのぞいている。
僕の横で岡山は特にこれといった目的がないのか次々と雑誌を手に取りパラパラとめくっては棚に戻すことを繰り返している。何冊目を手にとったところだろうか、岡山の手が止まったことに気がついた。岡山を横目で覗き込んだが、彼は手に持つ本ではなく雑貨店の方を見ていた。彼の視線を追うとその先には、佳奈がそのショップのロゴがプリントされた小さな紙袋を、宮川の前に差し出しているのが見えた。宮川は両掌を佳奈に向け小さく振っていたが、無理やり佳奈に摑まされるようにそれを受け取った。再度岡山を覗き込んだが、彼は微動だにしていない。僕はゆっくり自分の手に持つ雑誌に目線を落とした。岡山はそんな僕の動きには気付けなかったようで、手にしている雑誌を棚に戻すと別の雑誌を手に取り、パラパラとページをめくった。
「次はどこ行く?」
ビブレを出て相談をしていると、下級生が帰宅の意思を示した。
「私らそろそろ帰ります」
「じゃぁ私も、帰ろうかな」
辻井も帰宅するようだ。
「今日はありがとうございました」
下級生たちにとっても充実した一日だったのだろう。生き生きした声で挨拶する後輩たちを先輩たちは笑顔で見送った。
ここが最後のチャンスだったかもしれない。でも、言い出せなかった。もし誰かが、お前はどうする? と聞いてきたなら、帰ると言っていたに違いない。
しかし自分からは言い出せなかった。
10
「ちょっと座りたいなぁ。どっかでお茶せぇへん?」
「せやな。平野屋行くか」
「ええなぁ、あそこ行ってみたかってん。行こ」
「決まりやね」
三条河原町にあるそのカフェバーは、高校生だけで入るにはちょっと敷居が高い。しかし今日の昼食での経験が高校生たちを一気に大人にしていた。ほんのちょっと背伸び出来るようになっただけで、自分たちはもう子供じゃないんだと勘違いしているだけのだけれど。
あのレストランほどではない扉は、何の迷いもなく躊躇することもなく、開けることができた。足を踏み入れた店内には、アンティークのテーブルと椅子が並んでいる。薄暗い間接照明と壁にかかった小さな絵画が雰囲気を盛り上げていた。案内されたテーブルには、革で装丁されたメニューが置かれている。男子と女子で一冊ずつをそれぞれ覗き込み、注文を決めようとしていたが、結局、僕以外はメニューに挟まれていた「平野屋スペシャル」と書かれた写真付きの別紙から選んだ。僕はジンジャエールを頼んだ。
お店を出る頃は飲み慣れないドリンクにみんなハイテンションだった。
「酔っ払ってるのかな?」
うっすらと赤い顔の知香が頬に手を当て言った。
「なんかようわからんけど、気持ちええかも」
ナオも知香と同じように両手で頬を覆った。男子三人は彼女たちのその仕草を覗き見てますます赤くなったようだ。アルコールを飲まなかった僕にも、そんな二人がちょっと可愛く見えた。
「涼しいから散歩しよ」
佳奈の提案に、鴨川行くか、と宮川が答えた。
「あそこアベックばっかやん」
そう言う岡山に菅原が首に腕を回し絡んだ。
「嫌やったら付いて来んでもええんやで」
「誰も行かへん言うてへんやん。ちょっと石投げたくなるだけやん」
「犯罪者の友達になりたないから、岡山が石拾たら全員が全力で止めるから、安心せぇ」
「お前は一緒に投げてくれると思てたのに」
「仲間にせんとってくれ。俺は座ってるアベックの後ろから頭に水かけるくらいしかせぇへんわ」
佳奈が両手を開いて前を歩く岡山と菅原から少し距離を置くよう指示した。
「あんたら今から友達ちゃうし」
鴨川土手に着いた。アベックが等間隔に並び座るのを左に見ながら、そしてくだらない話しをしながら四条方面へ下っていく。
河原に降りてから宮川と佳奈はずっと二人で話をしている。他の全員のことが全く目に入っていないのか、まるで今日一日二人きりでいたかのように並び歩いている。二人だけで来たデートのように。宮川の手には小さな紙袋が揺れる。
「なんかあの二人雰囲気ええんちゃう」
今までに聞いたことのない岡山の普通のトーンで囁かれた自虐的なセリフが妙に気になった。
みんなダラダラと歩いていたが、それよりも宮川と佳奈の歩くスピードが遅くなっている。二人は徐々にみんなから遅れ出した。
「早よ来いよ」
先斗町公園の横を過ぎたあたりだろうか、五人は立ち止まり、菅原が二人に声をかけた。しばらくして追いついた二人だったが話に夢中になっていて、歩き始めるとまた遅れだす。その後も他の五人と距離を取ろうとしているのか、ますます歩くのが遅くなる二人だったが、そのうち追い付くだろう、追いつかなければまた待てばいいと思っていたのは、僕だけではなかったと思う。
一行が四条大橋の下に着いたところで二人が来るのを待つことになったのだが、なかなか二人は近付いて来ない。ダラダラと歩く二人がなんとか視認できる距離のところで、宮川と佳奈が向きを変え三条方面に引き返し始めた。
「おーい。何やってんねん。どこ行くねん」
大声で菅原が叫んだが、二人には聞こえているのかどうかわからない。こちらに背を向け遠ざかって行く。岡山はベンチに座り、平静を装っているようだったが、呆然と立ち尽くす知香は、今にも涙がこぼれ落ちそうなほど瞳が潤んでいる。
「戻れー!!」
再度の菅原の絶叫に近くにいた無関係な人たちが、何事かとこちらを向く。
その時突然、知香が駆け出した。二人を連れ戻しに走ったのではない。反対方向の五条方面へ駆けて行った。それを見た菅原が動かないわけがない。
「岡山! 二人を連れ戻してきてくれ!」
そう言うと、泣きながら遠ざかっていく知香を追い、五条方面へと走り出した。
「なんでやねん。あんなんほっといたらええやん」
あからさまに拒否をした岡山だったが、佳奈のことが気になるのは事実で、三条方面をじっと見据えている。
「一緒に行ったげるから」
いつものおせっかいかと、ナオを見やった時、一瞬視線が交わった。彼女は撫でようとしただけなのに、手を引っ掻いてきた猫を見捨てるような目で僕を見下し、岡山のシャツの袖口を掴み三条方面に引っ張って歩き始めた。数歩歩いたところで岡山は、ナオの手を振り払い、うつむき立ち止まった。しかしナオは振り返ることなく三条方面への歩みを止めない。顔を上げた岡山は何かを決意したかのように前を歩くナオの揺れるポニーテールをゆっくり追い始めた。
この時僕は、面倒なことになったなぁ、と、呑気に考えていた。
そのうち戻ってくるだろうと悠長に構え、四条大橋の下で一人待っていた。
しかし誰も戻ってこない。どのペアも戻る気配すらない。時間だけが進んでいく。
どれくらい橋の下にいただろうか、僕は四条大橋の上に上がり欄干に腕をかけた。上からなら河原を見渡せる。上からの方が戻って来た彼等を見つけやすい。そう考えたのだけれど、やはり誰も戻って来ない。もう誰も、どのペアも見えない。
床に灯がともりはじめた。街灯のない河原に座るアベックの影はどれも一つになりだした。
ふと、賑やかに行き交う人達の会話が耳に入った。
「早くおいで」
「待ってよぉ」
そうだ、そういえば誰からも言われていない。誰からも聞いていない。
「待ってろ」
「待ってて」
とも。
「戻るから」
「戻ってくるから」
とも。
それより、河原に降りてから僕に向かって何か言った者がいただろうか。ナオ以外、目を合わせた者がいただろうか。誰とも目を合わせていないし、誰とも会話をしていない。そのことに今更ながら気がついた。
偶然かそれとも仕組まれた人払いか。
一人でいるのが好きだった。他人と交わるのが苦手だった。大勢のグループの中に入ることが嫌いだった。協調性がないと言われるがその通りだ。でも、決して友達が欲しくないというわけではない。積極的に輪に入ることを避けていただけ。部活のような組織に属さなかったのはそのためである。沢山の人の中で振る舞うのが苦手だった。大勢の中にいる時は、邪魔にならないようにと、そればかりを考えていた。いつも誰かの後ろでただ成り行きを見守るだけで、そこに全く関与しない。接触的に関わらないように努めてきた。
今までの自分のスタンスをここ十日間もぶれることなく続けた結果として今がある。あえて自分から手は出さず、一人本を読むことで近づくなオーラを出し、自分の意見を言わず、言われるがまま人の後に付いて行き、全く意思を伝えない。一緒に写真に写らず、写されない状況を自分から何度も作り続け、社交辞令も読み取れない。その上、何度手を差し伸べられても掴もうとしなかった。
結果として当然の結末である。それを絶対的に望んでいたわけではない。この状況に悲観などしないが、後悔はする。なぜあの時行くと言ってしまったのか、なぜあの時帰ると言い出せなかったのか。
一人でいるのは楽だ。けど楽しくない。
自分のことがよくわからない。
どうしていいのかわからない。
一人はとっても楽なんだ。でも、やっぱり楽しくはない。
だけれども、これが僕なんだ。
彼らが今日一日で大人になった。僕はそんなに早くは変われない。
変わらないこと、同じでいること、それもそれでいいんじゃないかと思う。
そう思うと、肩が少し軽くなった。ちょっとだけ気持ちが楽になった。
大勢の大人が行き交う橋の上で大きく両手をあげ伸びをした。肺に入った全ての空気を吐き出した。胸の中にあったものを全部吐ききった。
もちろん一人橋を渡る僕を、可愛い女子が追いかけてくるような都合の良い展開なんてあるはずもなく一人で帰路に着く。四条大橋を渡りきり、南へ下る緑色の電車に乗った。
数日後やっと残りのフィルムを使いきり、プリントした文化祭の写真を持って部室棟へ足を運んだ。ここに来るのは久しぶりだ、何日ぶりになるだろうか。あの日以来ここへ来ることを避けていた。もちろん彼等、彼女達と会うことも廊下ですれ違っても挨拶することも僕の方から避けた。
僕と同じように代わり映えしない、何も変わらない中庭を抜け、落書きだらけの見慣れた扉を開けて中を覗くと、二年生が当番だったらしく、使用していた掃除道具をロッカーに片付けていた。
「文化祭の写真持って来たよ」
「先輩、久しぶりです。有り難うございます」
「これ、みんなに渡しといて」
そう言って、全員分に焼き増しした写真を彼女の前に差し出した。
数年後、ここに写る部員達が、部屋の整理や引越しで、しまいこんでいたこの写真を目にすることがあった時、文化祭前後の数日間を思い出すだろう。高校生活の華やいだ一時、キラキラ輝いていた記憶の日々を、日記のようにめくり戻す。時の流れに剥がされ褪せ薄らいだ記憶の断片を、この写真を元に脳内キュレーターが修復していく。そんな思い出にふける時、「あれ? これって誰が撮ったんだっけ?」と、頭を過ってくれれば僕は幸せだ。
名前なんて思い出してほしいと思わない。まして顔なんて思い出されるのも嫌だ。誰かがこれを撮ってくれた、そこにもう一人誰かがいた気がする、そう思ってくれるだけでいい。その程度に彼らの思い出の一部になってくれていれば、僕にはそれで十分。
掃除道具の片付けが終わると他の部員たちはテーブルに映写機を置き、スクリーンをセットし始めた。用意されたフィルムは文化祭で上映した映画だが、明らかにフィルムの量が増えている。5インチのリールいっぱいに巻かれたフィルムが入っていたケースのクレジットの『カメラ』の欄に、後から書き加えられた癖のある丸い文字の名前を見つけた。
受け取った写真を手に、開かれたドアから中庭を見ていた千絵ちゃんが呟いた。
「アキアカネ、いっぱい飛んでますね」
「トンボの名前なんて、よう知ってんなぁ」
「何言うたはるんですか、先輩が教えてくれはったんですよ」
「そうやったっけ?」
「はい。先輩と一緒で楽しかったです」
後日談というか数十年後の話。
ある行事の手伝いを頼まれた。直接頼まれたわけじゃないけど、人手はあった方がいいとのことで2日間手伝った。
その行事は無事終わり、数日たったある日、慰労会の誘いがあることを耳にした。その件を主催者から直接頼まれた人が慰労会の話をしていた。たまたまその場にいた私の耳にも入り、誘われはしたけど、なんとなく乗り気じゃない。「行くでしょ」と言われ、はいとは答えたけど。
そして慰労会当日まで、私には時間も場所も告げられることはなかった。こちらから訊ねる事もできたが、そんなことはしなかった。勿論慰労会へは参加しなかった。というかできなかった。日にちは知っていたけど、時間も場所もわからないから行けるはずもない。
その後、その人達と顔を合わす機会はあるけど慰労会の話は一つも出ない。
「どうして来なかったの?」なんて私に聞く人なんて誰もいない。主催者から直接誘われたわけじゃなかったから頭数にも入っていなかったんだろう。
もしこちらから場所や時間を聞いていたら…… そこに参加していたら…… と考えるとゾッとする。何よりあの鴨川の二の舞は嫌だ。
少しは空気を読めるようになったでしょ。




