【9.最悪な撮影(I)】
物凄く久しぶりの更新となります。楽しんでいただければ好いのですが・・・
朝から太陽の光が燦々と光輝いている、初夏の日曜日。
アヤコと壱哉は、渋谷の街に来ていた。
大勢の人間がひしめく雑踏の中、アヤコがいつものように人の洪水の中を自由に泳いで行く様を、壱哉が少し離れた位置からカメラに収めて行く。
まるで、隠し取りのように――。
渋谷に着いて直ぐに、壱哉は
「いつもと同じように、適当にブラブラしてくれればそれで好いから」
そう言い残して、アヤコの視界から消えたのだった。
撮影用の衣装も化粧もナシ。正確には、いつも渋谷へ足を運ぶ時のように自分でメイクをしていたからノーメイクではないけれど、それでもプロのソレとは全く違っているし、衣装に至っては完全にアヤコの私服だ。
先日壱哉のスタジオ撮影の様子を見学していたので、正直あまりの違いに大丈夫なのだろうかと一抹の不安を感じたアヤコだったが、いつもの街並みへ足を踏み入れている心地よさと安堵感で、いつしか彼の存在そのものも気にならなくなっていた。
だから、壱夜に「アヤコちゃん、そろそろ終わりにしようか」と声を掛けられた時も、一瞬何の事だか解らなかったくらいだった。
「アヤコちゃん、どうかした?」
「え?あ、何でもない。撮影、もう終りなの?」
アヤコは何でもない風を装って、言った。
「うん。今日の分は大体ね。今度は、また違う場所でお願いしても好いかな?」
「……解った。どこ?」
「実は、まだハッキリとは決めてないんだけど……アヤコちゃんは、海と公園どっちに行ってみたい?」
「次の撮影場所?」
「うん」
「――海、かな」
「海ね、了解。んじゃ、そのつもりで準備しといてね」
「あ、ねえ」
「なに?」
「今日は……その、メイクとか服とか自前だったけど、良かったの?」
「ああ、うん。勿論。今回のコンセプトは“自然体”だからね。あ、若しかして、プロのメイクとか体験してみたかった?」
「え?いや、そう云う訳じゃないんだけど……。私なんかの素人メイクで大丈夫なのかな、と思って」
「全然OKだよ!でも、海の時はちゃんと衣装用意するからね。濡れちゃったら洋服駄目にしちゃうかもだし」
壱哉はそう言うと、顎の辺りに手をやって少し考える仕草をしてから、何かを思い付いたかのように悪戯っぽく微笑んだ。
彼の笑顔に言い知れぬ不安が過ったアヤコだったが、触らぬ神に祟りなし……とばかりに、気付かない振りで「了解」と返事をしたのだった。
「これを着て、準備できたらこっちの砂浜に来てね。撮影始めるから」
アヤコが壱哉にそう言って渡されたのは、少し厚めの生地ではあるが柔らい肌触りの真白なコットンワンピースだった。
渋谷での撮影から丁度1週間後の日曜日。アヤコは壱哉に連れられて、横浜へと来ていた。今日は、メイクも必要ないと撮影日の連絡を受けた時に壱哉から言われていたので、アヤコの顔はスッピンのままだ。
……一体、今度はどう云うコンセプトなんだろう?
アヤコは疑問に思いながらも、壱哉の車――大型の四駆なので、中での着替えも楽々と行える――の中で先ほど手渡されたワンピースに袖を通していた。
真白で、飾り気のない、キャミソール風ワンピース。どこかの有名ブランド物らしく、確かに可愛いんだけれど、とってもシンプルなデザイン。
着替え終って何となく全身をチェックしていた時、不意にドアが開いて壱哉が顔をのぞかせた。
「あ、そうそう。言い忘れてたんだけど、透けちゃうとまずいから下着は取ってね」
にっこり笑って言い終えると、何事も無かったかのようにドアを閉めてセッティング中の機材の元へと走って行く。
あまりにも予想外の一言に、アヤコの思考はフリーズしてしまった。
「アヤコちゃ〜ん、準備できた〜?」
車から少し離れた位置でカメラのセッティングをしていたらしい壱哉が、大きな声で呼んでいる。中々出て来ないアヤコに痺れを切らしたのか、手にして居た機材を三脚の横に置いてあるボックスの上に置くと、車に向って小走りに駆けて来た。
アヤコは正直戸惑っていた。ただでさえモデルとしての写真撮影なんて経験がないのだから、壱哉の要求に応えるべきなのか判断がつかないし、内容がアヤコの想定外過ぎて、そもそもそんな要求に応えても好いのかと云う事自体の判断が付かない。
要するに、プチパニックに陥って居たのである。
「アヤコちゃん、準備――」
そんなアヤコの心情など知る由もない壱哉は、呑気に車のドアを開けながら声を掛ける。が、先程と同じ姿勢でフリーズしたままのアヤコに、壱哉は怪訝な顔になる。
「――アヤコちゃん、どうしたの?」
「……え?あ、あの……」
「なに?」
「あの、ね。さっきの……」
「うん?」
「し、下着……なんだけど」
「ああ、下着取ってねって言った事?」
「……うん」
アヤコの心許なさを反映してか、彼女の声が少しずつ小さくなって行く。その様子にアヤコの心情を察したのか、壱哉は殊更明るい声で言った。
「大丈夫。透けないように撮るから、心配ないよ」
「でも……」
「大丈夫だって。おれ、こう見えてもプロだよ?信用してよ。それに、アヤコちゃんだって下着が濡れちゃったら帰り困るでしょ?」
「それは……困るけど」
「んじゃ、おれ外で待ってるから、準備できたら出て来てね」
有無を言わせぬと云った感じで会話を終わらせると、笑顔でドアを閉めた壱哉は、またしても強引に事を進めた。最早、確信犯と言っても差支えないだろう彼の顔は、何か企むような不敵な笑みに満ちていた。
結局、壱哉に押し切られる形で車内に一人取り残されたアヤコは、少しの逡巡の後、ゆっくりと下着の肩ひもに手を掛けたのだった。
脳裏に、壱哉の言葉を反芻させながら――。
――変化を恐れてたら、何にも変わらないまま。一生、退屈なままなんだよ?――
身支度を整えたアヤコは、意を決して勢いよく後部座席のドアを開けると、小さく深呼吸をして、ゆっくりと壱哉の居る方へ向かった。