永遠に訪れない結末
ただ静かに受け止めるように『トラル』を眺めている『それ』を観察する。今までの傾向から取り乱すのではないかと思ったが、驚くほどに淡々と『トラル』を見つめ続けている。いや、瞳が微かに震えている。どうやら伝えられた中身は『それ』にとって望ましいものではないのだろう。
何が知りたかったのだろう? 何が返ってくると思っていたのだろう? 次々に開かれる頁は徐々に勢いを失っていき停止した。『それ』の瞳は変わらない。何も何も変わらない。ならば不本意であるが仕方がない。今日一日だけでいい。『それ』の記憶を消す事を考慮に入れよう。
後は同じ会話にならないように細心の注意を払い接すればいいだけだ。一度記憶を消すなら後はどうしようが失敗作には変わりない。ならばその後何度か、同じ状況を繰り返し、最適解を見つけ出そう。答えが出るまで試行すれば、きっと答えは出るだろう。
そう考え立ち上がろうとした時、動きを止めた『トラル』がふいに不自然にハラリとめくれ、新たな答えを見開いた。既に答え終わっているはずなのに、何かを『それ』に指し示した。そしてそれはきっと、おそらく私の理解を超えた何かだろう。なぜならそれが起こした変化はあまりに異常だったからだ。目を閉じ、咀嚼し飲み込むようにゆっくりゆっくりと手を離し『トラル』を見つめて。
「本当に?」
微笑んだ。確かに確かに確かに『それ』は微笑んだ。答えは得たと言わんばかりに。その時の私の衝撃が理解できるだろうか。絶望から気が触れ笑い出す男を知っている。憎悪にかられ、男を絞め殺し、穏やかに笑う女を知っている。数多くの嘆きとそこから変異する笑みを私は知っている。けれどもこれは私は知らない。『それ』の思考も行動原理も何一つとして私は理解することができなかった。
だから食い入るように姿を見つめた。立ち上がるその姿を、歩き始めるその姿を、扉に手をかけるその姿を。すべて全部何もかも、一切合切余さずに。記録し記憶し保存する。その上で記録を検索し、当てはまるものがないかを思索する。
無いということは既にわかっているのに止められない。何一つとして理解できないとわかっているのに止まらない。なぜなら知らなければならないからだ。次の次の次のために。素晴らしきもののためだけに。私は知らなければならないからだ。けれどもやはり理解できない。『それ』のすべてが理解できない。ついに書斎の扉が開き、『それ』が現れた。私をまっすぐに見つめ微笑み、私の前まで歩を進める。先程までの慟哭も、嘆きもすべて消え失せて、ただまっすぐに微笑んで。そこにはただただ『優しさ』だけが存在した。
「神様」
「なんだ」
「このかんざし、受け取れません。だからお返しします」
「何故だ、それは気に入っていたんじゃなかったのか?」
「ええ、私にとってとても、とても大事なものです」
「ならば何故」
「だからこそですよ」
「…………?」
「ふふ、それがわからないって顔なんですね。今までわかりませんでした」
「ああ、そうだ。私はわからない。今、君は何を考えている。かんざしを返すことに何の意味がある? 教えてくれ」
「嫌です」
そう言ってさらに一歩、歩を進めかんざしを私に差し出した。そのまま動こうとしないので状況を進めるためだけに私はかんざしに手を触れた。何故か一瞬だけ『それ』の震えがかんざしを通して伝わってくる。私が『それ』に視線を移すとさらに笑みを深くした。私はやはり理解することができなかった。笑顔の意味も、笑う理由も。
「神様、もしももしもですよ? かんざしをお返しした理由がわかって、それでも私に贈りたいと思ったなら、その時こそ私に贈っていただけませんか。その時は初めてそのかんざしを受け取りたいんです」
「何故だ……」
「そんな顔をしても駄目ですよ。絶対に絶対に教えてあげません」
言葉とともに微笑む『それ』があまりに奇異で理解できない。一体何を考えている。何を思いこのような行動に出ているのだ。大事だと言っていた。ならば何故そのかんざしを私に渡すのだ?
分からない分からない分からない、いかなる論理でその行動に至ったのか。何一つとして理解できない。思考を加速させ解を導き出そうともがきあがく。それでも全ては空転し一歩たりとも進まない。ああ、どれほど『願おうと』答えは出ない。どれほど『望もうと』答えは出ない。
思考にすべてを割り振り、偽装を停止させている私を『それ』が見つめているのが分かる。笑みがほんの僅かにくすみ、微かに悲しみの色を帯びているのが理解できる。しかし、次の瞬間に吐き出された言葉、その中身こそがわからない。何故何故何故なんだ。どうしてそんな声音で語りかける、語りかけることができるのだ?
「神様、貴方はこんなにも、手が届きそうなほど近いのに、こんなにも遠かった。私はやっと、分かりました。だから────」
初めての桜を、舞い踊る桜とともに笑う『それ』を幻視した。全く違うはずなのになぜかそれを思い出した。答えは出ない、それでも答えを知ろうとした。私は何が何でも答えを知らなければならなかった。次の次の次のために、素晴らしきもののためだけに。だからだからだからだから……。
「これからも、いえこれからこそ、よろしくお願いしますね」
「あ、ああよろしく頼む。必ず君にこのかんざしを返そう。これはもう君のものなのだから」
「ええ、そんな日がくれば私は幸せ者ですね。だから、いつか、手渡してくださいね。ずっとずっと待ってますから」
私はかんざしを返そうとし、『それ』は決して受け取らなかった。桜が枯れるその日まで。桜が枯れたその後も。




