間違い
四六度目の桜を咲かせながら、かつての疑問に再度向き合う時が来た。状態は改善せず、むしろ悪化していっている。『それ』の表情は笑みが陰ることが増えてきた。話し始めれば今までの『それ』と同じように装っているが、やはり悲しみを隠しきれていない。
さらにふとした瞬間に、今にも泣きそうな顔をするのだ。今、私の隣で桜を眺めている『それ』も喜びを表しきれていない。あれ程喜んでいた桜なのにだ。わからないわからない、理解できない。どれほど考えていても答えが出ない。できればとりたくはなかったが、最終手段を使うとしよう。
「何がそんなに悲しいのだ」
「……悲しそうに見えます?」
「見える、違うとでも思うのか」
「……違いますよ」
「ならば何故そんな顔をしているんだ」
「答えないと駄目ですか」
「……私は答えてほしいと思っている」
「貴方は、時々ずるいですよ、本当に」
そう言って『それ』は顔を伏せ、答えを求めるように膝の上においた『トラル』を撫でる。最近はあまり開くこともなくなったが、それでも肌身離さず大事に持ち続けているそれを。何故か私はその行動が救いを求めているように見えた。なぜだかは理解できないが。
「悲しいと言うよりも私は怖いんです」
「……」
私らしからぬ表現だが、直感的に非常にまずいとそう感じた。一刻もはやく原因を取り除かなければならないと。もしも失敗すれば私は願いを叶えられない。ここまでの時間すべてが無駄になる。けれども答えは出てこない。どれだけ思考を行おうとも決して答えは現れない。どうすればいいどうすれば、私はなんと答えればいいのだろう?
「貴方は本当に変わりませんね」
「私……? ああ、私は変わらない、永遠にこのままだ」
「でも、私は変わります」
「……当然だろう?」
何を当たり前のことを言っている? そんなことは知っているし、必然だ。口に出すまでもない。今この状況になんの関係があるのだ。私の思考は疑問で埋め尽くされ、なんの解も出すことができないでいる。まずいのはわかっている。それでも答えが出てこない。
「貴方は初めて会ったときから変わらない。けれど私はどんどん変わっていってしまう。貴方の顔を見上げるのは今も変わらないけれど、ずっと近くなって、最初のうちは貴方に近づいていくのが嬉しかった。でも通り過ぎてしまった……。通り過ぎてしまったんですっ!」
泣いていた。ここまでの年月で泣いている姿を見たことは何度かあった。けれども、これは知らない。こんな顔をする『それ』を、私は知らない。涙を流しながら取り乱す『それ』を私は知らないのだ。状況がわからない。状況が理解できない。何故『それ』が取り乱しているのかわからない。
冷静に思考を回転させることができていないでいる。目の前で起こっている現実に、私自身が対処できていない。ああ、『それ』の記憶を消せれば楽だろうに。『それ』の精神を自由に操れれば楽だろうに。しかし、それはできないのだ。私は『それ』の願いをまだ聞いてはいないのだから。
「貴方は若々しいままなのに、私はあっという間に老いていってしまう。せっかく近づいた時間はあっという間に離されて、あっという間に届かなくなってしまうんです。いえ、届かないのは悲しいけれど、まだ我慢できます。けれど、老いていく姿を貴方に見られてしまうっ!!」
叫んでいる、『それ』は私に向かって叫んでいる。悲鳴と言ってもいいだろう。やめてくれ、その考えを理解できないんだ。老いていくのは当たり前で、年老いていくのは当然だ。そしてそれを恐ろしいと思うところは理解できる。人間というのはそういうものだ。
不老不死を願うものなどごまんといる。事実そういう願いを叶えてきたことはいくらでもある。その殆どは現在も地の底でもがいているか、水の底でもがいているが、そんなことはどうでもいい。問題は何故それを私に見られるのを恐れているかだ。わからないわからないわからない。何を考えているのか理解できない。
「嫌なんです、嫌なんです。怖いんです。醜い姿を見られるのが、それを貴方に見せるのが。貴方はこんなに若々しいのに、貴方は綺麗だった私を知ってるのにっ! でも、今の私は全然違う。あの頃の私は過ぎ去って、枯れ果てる。あの咲き誇る桜のように、貴方のように永遠じゃないんです」
それがどうした、どうしたというのだ? 永遠じゃない、当然だろう? 生物である以上限界があるのは当たり前だ。それぐらい『トラル』から知識を得ているだろう? 何故いまさら取り乱す。知っていて、理解していて何故取り乱す?
死ぬのが怖いと言うなら理解できる。だが、老いた姿を見られるのが怖いだと? 人とともにあるのならば理解できる。しかし、ここではお前は『一人』だろう? 何故だ何故だ、何故なのだ。お前はどうして泣いている?
「醜く老いた私を見て貴方が変わってしまうのが怖いんです! 貴方は言ってくれましたよね。私の髪が綺麗だって、私の瞳が愛らしいって。でも、変わってしまう。変わっていってしまう。髪も瞳も、白く白く濁っていってしまうんです。貴方が綺麗だって、可愛らしいって言ってくれた私のすべてが変わってしまう。私は貴方に、醜いと思われたくないんです。貴方に、嫌われたくないんです……」
この時、やっと私は理解した。そういうことか、そうだったのか。それなら私も理解できる。確かに人間であれば当然の判断基準だ。なんだなんだ、そんなことだったのか。そんな単純なことで嘆いていたのか。ああ、やはり希少種といえども人間だな。初めて明確に『それ』を理解できた気さえする。
さあ、伝えよう。全ては杞憂であることを。『それ』の嘆きにはなんの意味もないことを。私は笑顔を形作る。いつもの笑顔、いつもの表情、いつもの仕草で語りかける。何百何千何万と行った、その動作でをもって『それ』に告げる。
「そんなことで悩んでいたのか。ならば、気にすることはない。君が若くとも年老いても、私は態度を変えたりしない。君に対して私は何も変わらない。そう、『初めてあったあの時から私は何も変わっていない』」
私にとって当然の事実を『それ』に伝える。しかし、これはきっと間違いだったのだろう。何故ならば、あんな『それ』の表情を私は見たことがなかったからだ。




