裏
私の膝の上で珍しくトラルが寝息を立て始めました。トラルが眠っているところなんて数えるほどしか見ていません。元々、眠る必要も無いそうですし。しかし、寝顔は普段のトラルらしからぬ、小さな小さな子どもみたいで服をギュッと掴んでいるその姿は本当に小さな小さな子どもみたいで、起きているときよりもこっそりたくさん撫でて撫でて。ひとしきり撫で回し、良い夢を見れるように祈ります。40分ほどそうしていたでしょうか、そろそろお膝も痛くなってきましたし、どうしても確認したいことがあったので、そっとそっと頭を持ち上げて、お膝からクッションに入れ替えます。
自由になった私の体、うーんと腕を突き上げて大きく大きく伸びをして、トラルが起きていないか確かめて、靴を持ってトラルがいつも座っている机と椅子の先にある本棚へ、抜き足差し足進みます。ああ、別に隠したいわけではないですよ? 単純に起こしてしまうと悪いですから。トラルはむしろ私がそこへ向かうのをいつものように大げさに喜ぶでしょうし。本棚の真正面、右から四十冊目の四つ下、そこから左へ七冊目、真下に九つ、三度たたき手を当て目を閉じ右へ一三冊目。目を開くと触れていた本の感触はするりと消えて、目の前に明るくも暗い通路が現れます。この時、後ろを振り向いてはいけません。最初からやり直しになっちゃいますから。
靴を履き、通路に一歩踏み出すとそこらでこぼこ石畳、天井は光すら届かぬほどに暗く遠く、壁はすべて無数の本でできています。隙間すらなくびっしりと誰にも読めないようにきつくきつく。一人しか読めないようにきつくきつく。いつかの次が読む日まで。通路は暗くとも歩けぬほどではありません。最奥から床を這うように光が伸びていますから。なのでまっすぐ光を目指して、私は通路を進みます。活版印刷の海を超え、羊皮紙の牧場をくぐり抜け、パピルスの小川を渡ります。そして至るは石版の道、足元だけは常に変わらず、しかし周囲は象形文字に楔形文字、もはや言語であるのかすらもわからないそんな物が無数に続く道を進み続けます。
全てに共通するのは二つだけ、伝えたいという強い思いと、声高らかに告げられる素晴らしいだろうという押し付けです。愛する者のために戦った。最愛の人を救いたかった。親友のため、友のため、家族のために、自分のために。すべてが願って、願いは叶い、その上で破滅にあらがった、ただそれだけの物語たち。願ってなお自分の道を見つけた物語たち。トラル風に言うのなら全てが残すべき駄作であり、私にとっては興味のない読み物です。視覚化された人間賛歌を視界の端で流しながら奥へ奥へ最奥へ、そして私はたどり着きます。たどり着くべき一つの場所へ。
石畳から花畑へ咲き誇るのはスイカズラ。陽の光が入るはずなんて無いでしょうに、そこだけは太陽に光に満ち満ちて、通路を照らすはここからこぼれたほんの一部に過ぎません。ここは一人だけの場所、たった一人だけの場所。花畑と光を除けばここにあるのは三つだけ。『奥にあるもの』をあえて無視すればまっさきに目にうつるのはきっとそれ。木製の台に置かれた一冊の本。中身は白紙で何も書かれていない本。そしてそのすぐ後ろには石棺が。大きな? いいえいいえ、決して大きくありません。私がちょうど二人入れる程度のサイズですから。中身は安らかに眠るように肋骨の欠けた綺麗に整えられた白骨と、それ以外を埋め尽くす桜の花びらです。優しく優しくまるで宝石か何かのように包み込む山桜の花びらです。そして最後、あえて最後に回したそれに、目を向けます。私はそれも嫌いですから。
それはトラルの言う『彼』であり、トラルの大切な『お父さん』。何を考えているかなんてわかりません、何を望んでいるかなんてわかりません。ただただ私達を見下ろしている。見下ろしながら眠ってる。いつか目覚めるその日まで、暗く巨大な一枚岩のその姿で。一見すると私とトラル以外が見ればただの変哲もない岩石です。けれどもそう思うのは最初だけ。もしも近づいてみればきっとすぐに分かるでしょう。無数に刻まれた爪痕に。無数にすりおろされた肉片に。何層にも渡って染み込んだ赤色に。けれども貴方はきっと気づかないでしょう。貴方は決して思わないでしょう。それがたった一人のものなんて。
まぁ、それはどうでもいいことです。今、眠っているのならこんな物いないも同然でしょうから。なので私は当初の目的どおりに、まっすぐ本へ向かいます。白紙のページはパラパラと、勝手に本はめくれています。次のページへ次のページへ、早く終わりたいかのように。私はそれをせき止めて、逆方向へめくります。パラパラパラパラめくっていきます。何か書れている場所を探して。なにかあると確信して。そして私は見つけました。私が望んでいたものを、私が望んでいない形で。
私はゆっくりそれを眺めます。ほほをほんのりぷっくり膨らませながら。そのページには可愛らしい絵が書かれていました。赤いクレヨンで大きな大きな飴玉と、たくさんの色のクレパスで、かわいい可愛い女の子が。期待とちょっぴり違ったけれど、ある意味予想通りな心のかたち。とても大切な心のかたち。わたしはそっとぎゅっと、本を抱きしめます。強く強く暖かく。ちらりと目に写った背表紙を優しく優しくそっとそっと撫でながら。『名もなきトラルの物語』と、そう書かれた背表紙を。
ひとしきり抱きしめた後、再び絵を眺めてふと、気づきました。さっささっさとめくっていたせいでしょうか。一ページだけピタリとくっついておりました。絵のすぐ後ろの1ページだけ。気づいたからには剥がします。だって気になりますからね。パリパリ音が周囲に響きます。糊付け? いいえ違います。ほんのり香るは水彩絵の具、乾く前にピタリと次のページへ行ったのでしょうか。今までこんなパターンはなかったので私は興味津々です。最後にパリッと鳴り終わり、現れたのは……。
「……女の子」
白の背景に白の絵の具。白で作り上げられた女の子。私と髪と同じ白い白い女の子。それを見て、私の頬は上気し、口元はこらえきれずに緩みきり、体は熱に浮かされて、心がバクバク跳ね回ります。衝動のまま、包み込むようになんてまどろっこしく、こらえきれずに力の限り強く強く、本を胸に押し当てます。そのままじっとしていることができなくて、ぴょんぴょんぴょんぴょん跳ね回り、とてもではないけれど私は全く全然落ちつけません。だって恥ずかしいんですもん!
それでも必死に落ち着こうと私は石棺に腰掛けて、ゆっくりゆっくり深呼吸。いつもの無表情はどう頑張っても作れなくて、喜びの形に固まって。落ち着かない体は、本を両手が真っ白になるほど強く強く抱きしめることで押さえつけます。それでも全然落ち着きません。書いてあるのは私の絵で、書いてあるのは私のことで、私のことを見てくれて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。今にも叫びたくって堪らなくて。だから私は私は……、そのまま体を後ろに傾けました。少し体を捻って、石棺の中にピッタリしっかり収まるように。
重力に従って私は落ちて、カシャンと棺の中の骨の音と、ふわっと広がる山桜。甘い香りとともに、世界を淡いピンクに染め上げて、熱を帯びた体と心を、ほんのりちょっぴり落ち着けます。だってこの桜の花びらはたった一人のものですから。花びらを見て浮かび上がるのは私の最初の記憶、小さな私はトラルに手を惹かれ、ここに訪れた大事な記憶。トラルは本を指差してこう言ったの。大事な大事な僕の真冬、君はいつか必ずこの本を暖炉に焚べて終わらせる。それが君の役目なんだと。私は意味がわからなくてトラルに何でと問いかけます。すると、トラルはいつもの不愉快な笑みで、僕は終わらないといけないからね、僕が消えないと『彼』が目覚められないからと、棺の中の桜をすくい上げ、私にふりかけながら言いました。
宙を舞う始めてみた桜はとてもきれいで、トラルの言葉はとてもとても気に入らなくて、私はムスッと黙って心のなかで誓ったの。絶対に本を燃やさないって。でもトラルはそんな私を眺めながら、不愉快ではない優しい笑みで、それでも君はいつか燃やすだろうね、それは正しいことだからってトラルらしくない穏やかな声で私をなでながら言ったんです。その時からずっと私はトラルのことが嫌いで『彼』のことが大嫌いになりました。つまり最初から、私はトラルが嫌いなんです。
不愉快でありながら、何より大事な事を思い出したせいで、心はいつも通りに凪のよう。ほんのり朱に染まっているけれどいつもの私、いつもの無表情。跳ね上がったピンクの花弁は降り積もり、世界はいつもどおりの黒色へ。一分二分と、そのまま桜のベットに身を任せ胸の本から手を話し、左へ首を傾けます。そこには私の重みで傾いた髑髏の相貌がありました。暗い眼窩からは何も読み取れず、私と同じ無表情……。私以外が見たならばきっとそう思うでしょうね。でもでもこれは違います。無表情ではありえません。だって『彼女』はこんなに優しく微笑んでいるもの。末期の笑みを絶やさずに。たった一人だけに向けたその笑顔、貴方だけに向けたその笑顔。私は幸せでした、私は幸福でした、貴方と共にあれて幸せでしたと、ただそれだけを伝えたかったと思えるたった一つだけのもの。私は目と目を合わせ、互いを見ずに。私は彼女に……、私は『私』に問いかけます。
「貴方も私と同じ気持ちだったんですか」
私は『彼のトラル』が嫌いです。けれど『私の僕』を愛しています。
三つの物語と幕真が終わりましたので、次回から最終章です。
ここまでお付き合い頂いた感謝と、よろしければ最後までお付き合いを。
それではまた次回!




