使われない物
「おーねーえーちゃーんっっ!」
タタタタタっと走る音と、元気な声が響き渡ります。なんででしょうか、いつもどおりのお屋敷なのに、子供の声があるだけで全く違ったものに見えてきます。いいですね、いいですねぇ……。心が暖かくなる気がします。それにちょうど良かったです。私もみーこちゃんを迎えに行こうと思ってましたから。
「あ、おねえちゃんっ!」
「わっ」
「おねーちゃん、ぎゅーーっ!」
「はい、ぎゅーですね」
私を見つけたみーこちゃん。そのまま真っすぐ突き抜けて、私にがっしり抱きついて、満面の笑みを貼り付けて、嬉しそうに嬉しそうに、世界で一番幸せそうに。それがとっても悲しくて、だから私はぎゅっとみーこちゃんを抱きしめました。なんの助けにもならないけれど、なんの意味もないけれど、少しでも『何か』を変えられたらと祈りながら。微笑んで微笑んで、幸福な一時を作り上げて築きあげて、真実になったらいいと思いながら、みーこちゃんと笑い合いました。
「そうです、みーこちゃん。お風呂が沸いたから入りましょうか」
「はいるー! おねえちゃんも一緒!?」
「ええ、一緒に入りましょうか」
「うん、じゃいこっ!」
「いきましょう」
手と手を繋いで駆け出そうとするみーこちゃんを、ほんの少し抑えながら、二人一緒に進みます。しかし、元気がいいですね。お昼寝したからなんでしょうか? そんなに急いだらこけちゃいます。だから手を離さないようにしっかりと。倒れてしまわないように、くじけてしまわないように。ゆっくりゆっくりゆっくりと……。
そして辿り着いた脱衣場。元気いっぱい扉を開けるみーこちゃん。あんまり強く開けると扉が壊れてしまいますよと、たしなめると大きな声でごめんなさい。扉に向かって頭を下げて。それがとっても可愛くて、それがとってもおかしくて、私自身らしくないなと思いますけど、声を出して笑いました。笑う私を見てみーこちゃんも、エヘヘと笑い、キャッキャウフフと笑い合い、それがとっても嬉しくて、みーこちゃんがずっといてくれたらなぁとついつい思ってしまいました。
「はい、みーこちゃん、バンザーイ」
「バンザーイ!」
一緒に仲良く両手を上げて、そのまま私はみーこちゃんの上着を引っ張りあげて脱がします。しかし、そこから先は自分でやるとみーこちゃん。小さなお手手でせっせせっせと頑張ります、だから私は自分のことを。エプロンを外して、上着をかごへ、下着はさらに別のかご。バスタオルを手に取り、巻くか巻かないかで数秒悩み、必要であると判断します。みーこちゃんであったとしても、肌を見せるのはほんのり、ちょっぴり恥ずかしいです。あんまり肌を見せるのも好きではありませんし。誰かと一緒に入るのも、少なくとも湯船に浸かるのも初めてですし。温泉なるものではマナー違反と聞きますが、ここは自宅ですし、気にする必要は無いでしょう。
「……これなーに?」
準備万端なみーこちゃんはがさごそがさごそ探検中。両手に持つのはシャンプーハット、何かな何かなと不思議そうに眺めています。
「それはシャンプーハットですよ」
「シャンプーハット?」
「頭に被って髪を洗うとき、泡が目に入らないようにするんです」
「おねえちゃんの?」
「いいえ、トラルのです」
「トラルは使うのね」
「それが使わないんですよねぇ、ピカピカの新品ですし」
「使わないのにあるの?」
「使わないのにあるんですよねぇ」
正直、私も何であるのかわかりません。他にも似たようなのがあるんですよね。使われないままずっと置いてあるものが。哺乳瓶に、積み木に、ガラガラに。たまに増えたりしてますが、トラルも触ろうとしませんし、私が聞いてものらりくらりと答えてくれません。まぁ、トラルの奇行は今に始まったことではありませんし、気にするだけ時間の無駄でしょう。おっとと……、バスタオルの結びが少し緩かったみたいですね。ずり落ちそうになったので、しっかり結び直しておきましょう。
……ん、みーこちゃんどうしましたか? 私と自分を交互に見ながら、首の下お腹の上を、首の下、お腹の上を、ペタペタ触ってどうしましたか、どうしましたか?
「ママと違ってみーこと同じだね!」
「…………」
まったくもう、まったくもう、無邪気に笑っておほほほほ……。いえ全然笑えませんけどね。笑うしかありませんけどねぇっ! というか同じじゃありませんし。全然同じじゃありませんしぃ。これは決して言い訳ではなく、純然たる事実として、疑いようのない事実としてです。……違うったら違うったら違うもん、絶対絶対違うもんっ!
……落ち着け私、落ち着くのです。別に特定部位について、私とみーこちゃんに共通項があるとそう言っているとは限りません。ほら、よく見ると肌質とか似てますし、きっとそのことに違いありません。よし、理論武装完了です。と言うかやっぱりどう見ても私のほうがありますし、ママさんのことは知りませんけど。とにかくこれで問題ありませんね、これで問題ありません。さあ、みーこちゃんと手を繋いで扉を開いて浴場へ。湯煙漂うお風呂場には────
「わー、おっきいお風呂だねっ!」
トラルの姿はありませんよ、あってたまるもんですか。当然ですよね、当たり前。『私の入浴中には入ってこない』とトラルと約束してますから。
「とか『そんなことを思ってそうなまふゆんはとっても可愛いと僕は思うな』と、僕は腕だけを動かして、ページの端に書きましたっと。続いてそうだな。『トラル』ならニヤと笑って」
「まふゆんの喜んでくれる瞬間を願っていると嘯きながら、何をしようかと続きを書き記すのでした。未来のことまでしっかりと、予定調和をしっかりと、楽しいことと悲しいことと、悲惨なことを織り交ぜながら」
「天井を仰いで『うん、口で言いながら書いてみるのも悪くないね、そう思わない?』と本棚の先に思いを馳せて、いつか『お父さん』が見るであろう書物に乗せて」
「ただ『みんなの幸せ』を願いながら……」
カリカリ……、パタン、ギイっと、「ふぅ」 部屋には無音だけが残りました。




