『幽霊研究部』
ウォーリーを探せ! ならぬ幽霊を探せ! を目指していろいろと試行錯誤して書きたいと思います。
小学校の頃から温めていた部分もあり、霊はいるのか? 居るとするなら、この中の誰が幽霊なんだ? と楽しく考えながら読み進めて頂ければ幸いです。
放課後私たちはいつもその教室に集まって話しをしていた。とても笑いの耐えない楽しい時間に、居もしない幽霊の話しで盛り上がるのが私たちの部活だった。――私たちにとってとても異質な彼が入部して来るまでは。
小谷 涼子は左目の横にある泣きホクロがチャームポイントで、腰辺りまで伸びる長い黒髪が自慢の中学二年生だ。彼女は霊の存在は一切信じていない。怖い話しや怪談は大好きだが、みんな作り話しだと知っている。誰も本気になんかしていない。だから面白おかしくあざ笑ったところで誰からも叱責を受ける筋合いなんてない。そんな人たちが集まったのがこの幽霊研究部だ。教室の真ん中に机を六つくっ付け、その周りに椅子を並べてそれぞれ座っている部員の顔を一人一人見つめながら今日はどんな話しが出てくるのだろうかと少しワクワクする。
「なあなあ聞いたかよ? 例の山で白骨死体だって。地元じゃあの鬼の仕業だってもっぱらの噂」
涼子の目の前に座っている小麦色の肌をした松岡 達樹がそう話しを切り出した。何時も元気で噂好きな男の子で、特にこの手の話しには興味があるらしい。小麦色の肌は小学校の頃にサッカークラブに入っていた時に日焼けしたものが抜けきらないまま中学に入学したあとだ。元々細い目を一層細くして目じりに皺を寄せながら隣に座っている由美を見つめている。
「田舎だよねぇ。まだ鬼とか信じてるんだもんねぇ」
松岡の右隣に腰掛けている一瀬 由美が馬鹿にしたようにせせら笑った。その時に赤茶げた短いショートカットの髪が揺れる。正直言って由美は目立つ存在だった。私から見ても背が低くて華奢で可愛いし、隣に座っている同い年の松岡も由美にぞっこんだ。けれども由美は気付いていないのか相手にもしていない。松岡がサッカー部に入部せずにこの部に入ったのは多分由美目当ての事だったのだろう。
「でもさ、願いが叶うんならそんな美味しい話しないじゃん! 学校の成績を上げてください~とか!」
「あ~それね。僕が幼稚園の頃にも流行ってたよ」
松岡が楽しそうに身振り手振りを加えて語ると、一番上座に座っている部長がバカにした様に笑う。唯一の三年生、山崎 博は温厚そうだが非科学的なものはきっぱりと否定する男だ。黒縁の四角いスクウェアメガネが余計知的な印象を与えるのだろう。
「ぼ、ぼ、僕も、何度か手紙、書いた事あるけど、け、結局あれって、子供を寝かしつかせるために作った、い、田舎の人たちの作り話しなんじゃない、かな?」
少し吃りがちに私の左隣に座った石塚 はじめが口を開いた。元々身体が弱くて殆ど保健室登校だったらしい。先天性の少し難しい病気らしく、薬は手放せないのだそうだ。病的な青白い肌とは少し対照的で運動しないためか少しふっくらしている。クラスが隣なので彼とは部活で会うまでは存在すら知らなかった。けれども話してみると、意外に会うのだ。
「何処にでもあるよね。早く寝ないと鬼が来るよ~とかそんな感じなんだよね~」
私がそう言って笑うと、部長の正面に座っていた彼が静かに口を開いた。
「鬼は居る」
彼の言葉に一瞬部屋の空気が静まり返った。何時もなら「そうだよねぇ~」とか「くだらないよね~」とか笑い合って盛り上がるところなのに、彼はその空気を一刀両断したのだ。「ぷっ」と松岡が噴出すとそれにつられる様にみんなお腹を押さえて笑い出す。
「ばっかじゃね~の? お前小学生? 鬼なんか信じてんのかよ!」
「明神君、鬼なんて昔の人が作った偶像だよ」
松岡に続いて部長の山崎が笑いを堪えながら言う。そう、彼は今日私たちの部活に入部して来た新人なのだ。全く話しの空気は読めないが、女の子みたいな可愛らしい顔と切れ長な目がカッコイイ男の子だ。名前は……明神 彦って言ったっけ。私と同い年にしては少し垢抜けていない感じがする。
「偶像だと言う根拠は?」
明神の表情は変わらなかった。少しとっつき難い性格で頑固、というよりも天邪鬼だと思う。
「霊を見たって話しはよく聞くけど鬼を見たって話しは聞かないな。現に僕も鬼に会った事がないし見た事もない。じゃあ何故見た事がないか? それは鬼が居ないからだよ」
「じゃあ幽霊は信じるんだ?」
「僕は幽霊にも会った事がない。心霊写真は光の反射や合成だし、光る発光体はプラズマだろう。霊媒師は精神病を患ったための幻覚幻聴症状を起こした人か、ただの詐欺師だね」
淡々と部長は語ってみせた。取り付く島も無い。正直言って、部長を相手にして幽霊の存在を肯定するなんて無理だと思う。
「それは推測の域を出ないものであって明確な証拠にはなりえないだろう」
まるで探偵の様なその口ぶりに部長は顔をしかめた。
「居るわけないだろそんなもの」
「さあ? 幽霊を見たという人全員が精神疾患を患っていたと言うデータでもあるんだろうか?」
「め、目の錯覚って事も、あ、あるんじゃない、かな?」
二人の会話に意外にも引っ込み思案な石塚が少し吃りながら口を挟んだ。
「ほ、ほら、に、人間の脳って、け、結構いい加減で、だ、騙し絵なんかを見てたら、う、動いている様に見える、とかってあ、るじゃんか?」
「脳の誤作動。つまり幻覚というわけだ」
まるで部長は心強い味方をつけたかの様ににやりと笑みを浮かべてそう言ってのけたのだが、明神は顔色一つ変えない。
「なるほど、じゃあ何故脳はそんな誤作動を起こすのだろう?」
「電磁波の影響をもろに受けた場合い、頭のおかしくなる人間も居る。卵を電子レンジで加熱すると爆発するだろう? あれと同じ事が人間の脳内にも起こるんだ」
それは確かに聞いた事がある。変電所の傍に住んでいた人が電磁波の影響を受けて頭がおかしくなったとか、IHや電子レンジが放射する電磁波を受け続けると知能が低下するとかそういう話しはもっぱら何処にでもある。
「じゃあ霊を見た人達は全員脳の血管が何本か破裂しているわけだ」
その言葉に部長が口篭った。そうなれば多分脳卒中とか脳梗塞で霊を見た人たち全員がそこで死ぬ事になるだろう。死ぬ間際に見た霊の存在を一体誰に語るだろうか? 逆に、脳出血を起こした人たちが全員霊を目撃したと言う話しもない。
「じゃあ霊が居るって言う証拠を見せてみろよ」
今まで黙って二人の話しを聞いていた松岡が言葉をついた。それを聞いて真っ先に由美が立ち上がって口を開く。
「やめようよ。ねぇ、居るって証拠もないけど居ないって証拠もないから面白いんだよねぇ。居もしない霊の話しで盛り上がるのも良いけど、居るか居ないかで議論しあう方が本来の部活らしいよねぇ?」
由美の言い分は最もだ。そもそも幽霊研究部と言う名目の部活であるならば、「居もしない」と言う前提で幽霊の話しを面白おかしく貶し合うのではなく、「居るのかも知れない」と言う観点からも議論をするべきだ。
「じゃあこうしないか? 俺は霊が居ると言う証拠を君たちに提示する。その代わりに君たちも霊が居ないと言う証拠を提示する」
彼の言葉に、その場に居た全員が息を飲んだ。真っ先に部長がずれた眼鏡を直しながら口を開く。
「そんなの出来る訳ないだろう」
「霊の存在を否定するのに?」
そこまで言われると引き下がりにくくなる。彼はそこまで読んでいたのだろう。
「で、で、でも、どう、やって?」
そこに居た誰もが思ったであろうその言葉を石塚が代弁した。そもそも、見る事も触れる事も出来ない霊の存在を否定する証拠だなんて……あるわけが無い。そんな胸中を察してか、明神は部員の顔を一つ一つ見つめながら静かに口を開く。
「この学校にだってあるだろう。七不思議」
まあ、何処の学校にだってある。音楽室の壁に飾られたベートーベンの目が光るとか理科室の骸骨の標本が動くとか……そんなたわいもない怪談話だ。
「でもそれで実証するって言うのならもう霊は居ないって事になるんじゃないか? 確か一番目は空き教室で怪談話をしていると幽霊が出る。って話しだったし……」
松岡がそう言うとつられて私も頷いた。幽霊研究部が出来てからずっとこの空き教室で毎日みんなが持ち寄った霊の話しをしているが、幽霊が出た事など一度だってない。
「二番目は?」
「確か、校舎西側の二階の男子トイレだったよねぇ。一番奥のドアを四回ノックしてから開けると男子生徒の霊が襲ってくるって話しだったよねぇ」
明神に促されるまま由美がそう言った。流石にそれは女子の私たちには検証のしようがない。
「解かった。じゃあ僕がそのトイレに行って来るよ。それで何もなかったら霊は居ないと言う証明になるね?」
部長が立ち上がると、明神は軽く頷いて見せた。何もなかったら……じゃあ、何か起こったら必然的に彼の幽霊肯定論が正しくなると言う事なのだろうか?
「じゃあ明日、報告を楽しみにしていなよ」
そう言うと鞄を持って部室を出て行ってしまった。部長が荒々しくドアを閉めて出て行くのを見送ると、涼子は明神へ視線を落とした。
「三番目……」
明神が呟くと、涼子は頭を悩ませた。三番目……えと、何だっけ?
「そ、それなら、ぼ、僕が調べて来るよ。ど、どうせ保健室登校、だから保健室には、ま、毎日、行くし」
石塚の言葉に、涼子はやっと思い出して口を噤んだ。そうだ。保健室のベッドの下に隠れていると男の子が床を這って追いかけて来る。と言うのが確か三番目だ。
「四番……」
「なあ、もうやめようぜ!」
彼の言葉を遮る様に松岡は立ち上がった。
「くだらね~よ。居もしない霊の検証だなんて!」
何時もくだらない霊や鬼の話しを持ち込んで来る松岡がそんな事を言うのが少し意外だった。
「私は面白そうだと思うけどねぇ」
由美がそう言うと、松岡はふてくされた様な顔をして鞄を持つ。どうやら彼の話しに夢中になっている由美を見ていられなくて帰るらしい。まあ、もう部長も居なくなってしまったこの部室に私たちが止まる理由は無いのかもしれないが。
「ぼ、僕も、か、帰るね。じゃあ、明神君、明日の部活、わ、忘れないで、ね」
石塚も鞄を持って立ち上がると、それに便乗して私も鞄を手にした。松岡は未だ鞄に手を伸ばさない由美に視線を送る。
「由美、帰るぞ」
「私は四番目の怪談を明神くんとこれから検証に行って来るねぇ」
由美の言葉に松岡が驚いた様な顔をした後、唇を噛み締めていた事に気付いていた。今日入部して来たばかりの彼に松岡の前で色目を使うのはどうかと思う。
「勝手にしろっ」
ふてくされた様に部室を出て行くと、私も石塚も部室を後にした。彼も帰る準備をしていたので検証が終わればそのまま帰るつもりなのだろう。もし、由美と一緒に四番目の怪談を検証して何も起こらなかったら、彼はどうするつもりなのだろうか?
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山崎 博は憤慨していた。あの今日入部して来たばかりの新人にみんなの前でコケにされたのだ。そう思うと、足音高らかに歩きながら無意識の内に言葉が零れていた。
「幽霊など居るわけがない」
そんな非科学的で何の根拠も無いものの証明だなんて本当にバカげている。だからこんな検証さっさと済ませて、明日どんな風にあの新人を罵倒してやろうかと思案してやる。今までの様にみんなで居もしない霊を貶し合うのも一興だが、彼の様なバカな人間を見下して罵るのもまた一興だ。彼の悔しさに歪む顔を想像するだけで笑みが零れる。
ふと、夕日の反射で眼鏡の汚れが気になって外すとポケットから眼鏡拭きを取り出して丁寧に拭きながら歩を進めていた。
博はとても寂しい人間だった。毎日毎日勉強にテストに塾、そして家に帰れば家庭教師に付きっ切りで缶詰にされていた日々から逃亡するために作った暇潰しの部活だった。この前の学年テストの順位が三位から五位に落ちた事で母は塾を増やすと言っていた。
「一番でなければ意味がない」
と有名大学の法学部を主席で卒業している母は呆れた様に言った。学校でも友達は出来ず、居たとしても友達と遊ぶ時間すらない。いつもテストの順位を気にせずに学校生活をエンジョイしているクラスメイトが羨ましく、嫉ましい。部活だって本当は入る必要は無いと言われていた。だから僕はたった一人きりの部活を作ったのだ。あの使われていない、小さな教室で。元々は倉庫だったらしく、教室の半分弱程の広さしかない。入って右側に文集とかが並んだ本棚があり、何時も暗幕で閉ざされていて、使われない机と椅子がその窓の前に積み上げられ、埃っぽい個室だった。鍵は開いていた。その時初めて、自分の秘密基地とでも言える、落ち着ける空間を手に入れた気分だった。
最初はあの空き教室で独り言の様に霊の話しをするだけだった。七不思議にあつらえたあの教室で、一人で霊を小バカにしているとストレス解消になる。
「幽霊なんて居ない。そんな非科学的なものバカげている。居もしないものを恐れるような奴は頭の悪い下等生物だ」
それは学校の先生や学校生活が充実しているクラスメイトや両親への鬱憤を全部霊と言う居もしないものに押し付けているものだった。その独り言を偶々、廊下を通りがかった時に最初に耳にしたのが一学年下の石塚だったのだ。あの内気な石塚が、恐る恐る戸を開けて教室を覗き込む姿を今も覚えている。
最初は軽蔑されるかと思っていた。「根暗な先輩だな」とか思われるんじゃないだろうかと思っていが、彼は自分の言動に共感してくれたのだ。霊など居るはずが無いと賛同してくれて、僕は力強い仲間を手に入れた気分だ。友達も居ない自分を理解してくれる後輩が一人でも居る。それから毎日二人で怪談話をしていると、自然と部員が増えて今では六名になった。同じ話しを理解し合える仲間が居ると言う事はとても嬉しい事だ。只一人、今日入部して来た彼は違う。
「……追い出してやる」
何が目的なのか知らないが、彼は急に部に入って来て霊の存在を肯定した。霊を証明する証拠まで提示すると……とんだはったりだ。
そうこう考えているとそのうち例の男子トイレの前に来た。拭き終わった眼鏡をかけ、眼鏡拭きをポケットの中へ突っ込むと軽く咳払いをしてトイレの中を覗く。左側の白壁に小便器が三つと、右側に並んだ緑色の個室が同じ数だけ並んでいる。一番奥の個室だけが洋式になっていて扉が閉まった状態になっているが、手前二つは和式なので普段から扉が開いている。昼間でも薄暗くて少し湿気ていて、そんな何時も通りの何の変哲も無いトイレだ。特に変わった様子はないし、自分達だって毎日使っている場所だ。それに、博はこのトイレの個室には以前お世話になっていた。それは部を創設する前で、テストで悪い点を取ってしまった時などはよくココの個室に入って頭を抱えたものだ。何故、あんな簡単な問題を間違えてしまったのだと自暴自棄に陥りながら休み時間の大半をそこで過ごす。その頃には確か、そんな噂は無かった様に思う。まあ、他の事に耳を傾ける余裕がなかったせいかも知れない。だから僕はこの七不思議の二番目が嘘だと知っている。
コンコンコンコン……
個室の扉を四回叩くが、特に変化は無い。当たり前だ。何時も自分がこの個室で頭を悩ませていた時、霊など一度も現れた事など無かった。だから検証する前から僕の勝ちは決まっている。
「バカバカしい」
ギイッ……とドアを押し開けると少し開いた所でドアが止まった。何かに引っ掛かったらしい。少しその隙間から中を覗くと、黒い学生ズボンが見えた。
「……」
誰かが入っていたのかも知れないと思いつつも、そのズボンの位置に不自然さを覚える。少し視線を落とすと、そのズボンの下から見えるシューズが確実に地面から数センチ浮いた場所にあるのを見て息を飲む。
はは……そういう事か。これが彼が言っていた霊が居る証明と言うやつか。どうせ人形にでも学生服を着せて個室に吊り下げているのだろう。こんな子供だましが通じるとでも本気で思っているのだろうか?
博はドアを力強く押して個室に入った。個室の壁に紐を掛けてそこで首を吊っている人形が居る。博はその人形を剥ぎ取って翌日の部室に持って行き、みんなに幽霊の正体を見せ付けるつもりで居た。
「……!」
――目の前が一気に真っ暗になった。
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「……何か心配だなぁ」
溜息混じりの小谷の声が廊下に響くと、石塚 はじめは隣を歩いていた小谷を見つめた。
「そ、そうですよね。ぶ、部長怒ってた、から」
僕はそう声をかけたが、小谷は何も言わなかった。もしかしたらこの時の呟きは部長をさしていたのではなく、別の事を気にかけて発していた言葉だったのかも知れない。それも確かめたかったので、はじめはもう一度確かめる様に涼子に話しかけた。
「ね、ねえ、ちょ、ちょっと様子、見に行か、ない?」
「え、男子トイレに?」
小谷の言葉にはじめは首を横に振る。
「な、中の様子は、僕が見てくる、から。た、多分もう、帰っちゃっただろうけど、ぶ、部長の事、小谷さんも心配してるみたい、だから……」
そう言うと、小谷は何かを考える様な素振りをしていたが一緒に見に行く事になった。どうやら自分の考え過ぎらしい。そのまま二人は校舎西側の男子トイレに足を運んだ。
「ぶ、部長……?」
昼間でも薄暗いそのトイレの入り口から声をかけてみたが返事はない。一応個室の中も確認してみたが部長の姿はなかった。特に何時もと変わった様子もない。
「き、きっと、何も起こらなくて、さ、さっさと帰っちゃったんだね。あ、明日の部活、楽しみだね。明神くんは、どんな証明を、持ってくる、かな?」
「ん~……霊を肯定する証拠か……」
はじめは考え込んでいる小谷の横顔を見て少し笑った。はじめには今まで友達と呼べる人間が居なかった。それは病院通いが多かった事と、保健室登校だった事も要因なのだろうが、人と話すと吃る癖があって上手く喋れず、人から誤解される事が多かった。聞かれた事にテキパキと答えられる人たちが羨ましい。そんな人たちの中に混じって部活が出来る事がとても幸せだった。みんな自分の事を変な目で見たりしないし、一緒になって霊の悪口を言うのも楽しい。まるでそれは、自分よりも立場が低い誰かの悪口を言っている様で、自分が優位に立っている様な錯覚に浸る事が出来る。
玄関ホールへ向かう階段を下りながらふと、はじめは気付いた様に口を開いた。
「そ、そう言え、ば、み、明神くんって、小谷さんの、クラス?」
階段を下りかけていた足が止まり、小谷は目を丸くしてはじめの顔を見た。
「え? あんな目立つ子居ないよ。てっきりはじめくんのクラスだと思ってたんだけど……」
小谷の言葉に、はじめは少し瞳を泳がせた。自分は長らく保健室登校だが、体育の授業を見学している時には姿を見かけなかったと思う。だからてっきり隣のクラスの子だと思っていた。何せ田舎の小さな学校だからクラスは二クラスしかないし、一クラスもせいぜい三十五人程だ。その半数が大体男子生徒だったとして、その中に彼が居れば目立つと思う。だってあまりにも彼は男の子にしては可愛らしい顔をしているからだ。
「て、転校生が来たなら、噂くらいは、なると思、うんだけど……」
はじめの言葉に、小谷は何かを考える様な素振りをしていた。転校生だったならきっと、幾ら保健室登校だったとしても噂を耳にするだろう。それが無かったと言う事は元々自分達と同じ様に中学に入学して来た事になる。二年に上がる時にクラス替えがあったが、その時にも気付かなかった。そんな事が本当にありえるだろうか? 体育祭や文化祭など、幾らでもクラスが合同になる機会はあったはずだ。
「……そうだね。確かに少しおかしいかも」
小谷は少し青い顔をしていた。僕も、考えたくはないが無意識にその結論へ急ごうとしてしまう。
彼は七不思議に出てくる一番目の怪談なのでは無いか? と。
「ぼ、僕、思うんだ、けど、み、明神くん、て、幽霊、なのかな?」
幽霊の存在を否定する証拠を持ってくる様に言われていながら、そんな事を口にするのは自ら負けを認めるようなものだった。
「そんなのあるわけ無いでしょ。きっと明神くんが嘘付いてるんだよ。例えばほら、隣町の学校から遊びに来てるとか……」
それはありえないだろうと思ったが、小谷がそう言うのでその場では頷いて見せた。隣町の中学校まで車を飛ばしても二十分はかかる。そんな所へ、部活のためにわざわざ来る生徒が居るだろうか? そもそも、彼がこの部活へ入部した目的は一体なんだろう? 二人はそのまま沈黙してとぼとぼと静かな階段を歩いていた。
はじめと小谷が二人で玄関へ向かうと、ふとはじめは今日渡されたプリントを保健室に忘れた事を思い出した。小谷が玄関で靴を履き替えている姿を見ながら言葉を探す。
「ぷ、プリント、ほ、保健室に置いた、まま、だった」
「じゃあ先に帰っちゃうね。どうせ家の方向違うし……」
「う、うん。ま、また、明日」
本当はもう少し色々と話しをしたかったのだが、もう靴を履き終わっている彼女を引き止めるのは心苦しい。一緒についてきて欲しいとも、待っていて欲しいとも言えなかった。何だかそんな事を言ってしまったら嫌われてしまうんじゃないだろうかとか、嫌な顔をされるんじゃないだろうかと思うと気が引ける。だから僕はさっさとプリントを取って来て、直ぐに彼女に追いつこうと思った。
「一緒に帰ろう。」
と自分から言い出せば良かったのに、部長や松岡君や一瀬ちゃんにも……友達と一緒に帰ると言う行為が僕にとっては憧れだったのだ。
保健室は玄関から程近い所にあった。玄関ホールにある階段を横切って二室先にあるのが僕の通い慣れた保健室だ。扉を開けると手前に長椅子と小さなテーブルが置いてあり、その奥に先生の机が置かれている。右手には消毒液とかが並べられた棚があって、その裏に、僕の机はひっそりと置かれていた。その机の更に奥に二つベッドが並べられていて、薄い黄色いカーテンが風に靡いていた。
松岡は自分の机を見た。確か、机の上に置いといたと思ったのだが見当たらない。机の中も空っぽだ。
「あ、あれ?」
風に飛ばされて落ちたのだろうか? 机の下や、床を見回す。そう言えば、前にもこんな事があった気がする。そうそうこないだ、同じクラスメイトに鞄を隠されたんだっけ……
何時も体育や授業を休んでいるはじめの事をみんなが温かい目で見ているわけではない。シューズだって ゴミ箱に入れられた事があるし、挨拶をしても無視された事もある。
「あ、あった」
石塚は窓側にあるベッドの下に落ちていたプリントを見つけた。這い蹲って手を伸ばすがどうしても届かない。ほふく前進でベッドの下へ入るとプリントに手が届いた。
「センセ~カットバン下さ~い」
聞き覚えのある男の子の声にはじめは驚いてベッドの下に隠れた。その声の主にはよく、後ろから突き飛ばされたりしている。だから出来る事なら顔を合わせたくない。
「何だよいないのか……勝手に貰いま~すよ~」
ガタガタと棚の扉を開閉する音が聞こえる。はじめは息を殺して早く出て行ってくれないだろうかと身を縮め、ベッドの下から体操着姿の彼の足を見つめていた。
「あ、ナメクジの鞄だ」
男の子の声に一気に背筋が凍る。「ナメクジ」は自分に付けられたあだ名だった。病気のせいで滅多に外に出ないので日焼けをしないその肌はまるでじめじめした所に湧くナメクジの様だとクラスの男の子たちが話しているのを聞いた事がある。
「そ~だ! いいこと思いついた」
男の子の足がはじめの机の前に行き、その後自分が隠れているベッドの真横に回って鞄が床に叩きつけられた。男の子の足が鞄を蹴飛ばすとベッドの下に鞄が滑り込む。そのまま男の子が保健室を出て行くのを見送るとはじめはホッと息を吐いた。彼が蹴飛ばした鞄を自分の傍へ引き寄せていると、また誰かが保健室に入って来る気配を感じて息を飲む。今度は学生服を着た男の子だ。
「……?」
黒い学生ズボンを履いた男の子の足が、自分の机の前で一瞬止まる。
誰だろう? 僕に用があるのかな? それともさっきの彼の様に、イタズラをしに来たのだろうか?
そう思うと、じっとそこで様子を見ている事しか出来なかった。
男の子の足は右往左往していた。パイプ作りのベッドの横や、保健の先生が使っている机周りまでうろうろと歩いて何かを探している様だ。
何か捜してるのかな?
はじめは声をかけようか迷ったが、相手が誰だか解からない上に、いきなりベッドの下から自分が現れたら相手はどう思うだろうかと考えて思い止まった。そのままうろうろする足を見ていると、いきなり跪く様に膝小僧が床に引っ付いた。
ガシャンッ……
先生の机に並べられていた鉛筆や書類が床に散らばる。男の子は膝をついたまま何かを探している様だ。
「う、うう……う~……う~……」
何だか苦しそうな、呻く様な低い声が聞える。
ガシャン、ガラガラガラ……
消毒液とかが並べられた棚が倒れて薬品の瓶が僕の目の前まで転がって来た。そして次の瞬間、彼は僕の目の前に倒れた。
「……えっ?」
僕は意外な展開に何が起こったのか解からず、目を丸くした。彼はじっと僕が抱えている鞄を見つめて手を伸ばしている。僕はあまりの驚きにその場から動けなかった。
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一瀬 由美はワクワクしながら薄暗い階段を登っていた。一歩一歩上る度にショートカットの髪が揺れる。
「ねぇ明神先輩って、付き合ってる子とか居るんですかねぇ?」
階段の中程で一度足を止めて振り向くと、後ろから付いて来る明神を見つめながら由美はそう声をかける。相変わらず無表情だが、またそこがミステリアスで良い。
「……興味無い」
「え~カッコイイのにねぇ……勿体ないねぇ」
私はそう言いながら階段を駆け上がった。私はこの学校で一番自分が美人だと自負している。涼子先輩の長い髪なんて真っ黒で重たくて目じゃない。まあ正直、あの色っぽい泣きホクロは羨ましいがそれだけだ。私一人だけでも目立つけど、隣にカッコイイ彼氏が居ればそれこそ文句無い。羨望の眼差しで私を見つめる男たちの姿が目に浮かぶわぁ。
「あのさ」
ふと、屋上の扉に手を掛けた私に明神が声をかけた。由美はにっこりと笑いながら振り返ると、相変わらずつまらなそうな顔をした彼が立っている。
「本気で人を好きになった事ある?」
彼の問いに、私は条件反射で「勿論!」と答えた。私に言い寄ってくる男なんて今まで何人も居た。自分をよく見せるための引き立て役だったり、アッシーだったり、みんな良く尽くしてくれた。けれどもみんな、何故か知らないけれども長く続かないのだ。直ぐに飽きると言うか……使えなくなると言うか……そうそう、中学に入学したあの日、私は先輩達の中に一際目立つ人を見つけたのだ。あの時はもう素敵過ぎて何が何でも自分の彼氏にしたかった。三年生の彼はバスケ部のエースで、背が高くて女子の憧れだ。あの人となら、一緒に町を歩いていても恥ずかしくない。私に引けを取らないと思った。それこそ恋愛小説に出てくるような美男美女そのもののカップルになると思う。
由美はそう考えながら屋上へ出た。一気に風が顔に当たって前髪を攫う。咄嗟に乱れた髪を手ぐしで整えると由美は徐にフェンスへ向かった。
「綺麗な夕焼けだねぇ~」
そうそう、あの日もこんな……まるで血みたいな空だった。振り返ると、少し離れた所に明神が立っている。
「ねぇ、明神先輩、私と付き合って下さいよ」
勿論OKだと言う自信があった。自分よりも綺麗な女の子は居ない。自分をふる男なんてありえない。だからあの日も、先輩を呼び出してココで告白したのだ。
「悪いけど……」
明神の静かな言葉に由美は一瞬顔が強張った。何故か、全く背格好の似ていない明神の姿と、憧れの先輩の姿が重なって見える。
「え?」
夕日に照らされて赤く濡れた彼の顔が私の瞳に焼き付いていた。
「ねぇ、何で?」
「……生きてないから」
一瞬、彼が何を言っているのか理解出来なかった。何? 生きてない? どう言う事? そう言えば、入学式の時に彼の姿を見た覚えは無い。彼ならきっと目立つはずだ。転校して来たと言うのならば噂になってクラスでも騒ぎになると思う。だってそれくらい、彼は異彩を放っているからだ。けれども由美は一通り考えを巡らせて笑って見せた。
「先輩! からかわないで下さいよねぇ! そんなんじゃ騙せませんからねぇっ」
由美がそう言ってフェンスに持たれかかると、明神は軽く溜息を吐いて近付いて来た。
「悪いけど、こっちも暇じゃないんだ」
急に、明神に肩を押されて身体が仰け反った。
あれ?
自分が背にしていたはずのフェンスが消え、足がコンクリートから離れて身体が空に舞う。由美は明神の腕を掴もうとしたが不思議な事にすり抜けてしまった。真っ赤な夕日が目に焼きついて、自分の頭上に地面が迫る。その時に、由美は下校する生徒の中に見覚えのある背中を見た。
――あ、先輩だ。背が高くて、三年生のバスケ部エースの先輩だ。
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小谷 涼子は石塚が行ってしまうのを見送ると玄関を出た。茜色の空が眩しい。涼子は赤く染まったグランドの真ん中辺りに人が立っているのを見て目を細めた。右手で夕日を遮って、よくよくその人物を見ようと目を凝らす。
あ、達樹くんだ。何してるんだろう?
どうやらグランドから屋上を見上げているらしい。由美と明神が怪談の検証に行くと言っていたから多分、それで屋上を見ているのだろう。そりゃあ、松岡は由美にぞっこんだから明神君と二人きりで居るなんて思うと気が気でならないだろうが、覗きは悪いだろう。そんな事をするくらいなら、自分も一緒に行くと言って強引に付いていって二人が仲良くならないように割って入るべきだ。涼子がそう考えて校舎を見上げようとすると急に空から何かが落ちて来た。
「わあああああああ!」
松岡の声がグランドに響くと、涼子は驚いて身体が硬直した。グランドのおおよそ中央に立っていた松岡が凄い形相で一気に校舎に向かって走ってくる。何が起こったのか解からなかった。私が石塚と別れてから玄関を出た時、確かに屋上から何かが落ちた様な気はしたがそれが地面に着地した音は一切聞こえなかった。落ちる直前にビックリして目を閉じてしまったのが悪かったらしい。
松岡が校舎に入ると靴を履き替えもせずに階段を登って行く姿が見える。何が何だか解からないまま直ぐに松岡を追いかける様に階段を登って行くが、日頃の運動不足が祟ってか思う様に駆け上がれない。この時ばかりは体育のマラソンを真面目に走っておくべきだったと後悔した。三階の踊り場で一度足を止めたが再び屋上まで駆け上がった。やっと屋上に着くと松岡が明神の胸座を掴み上げて怒鳴りつけている所だった。
「てめぇっ由美に何をしたんだっ!」
止めに入ろうとしたがもう息も切れて足もへとへとで近付く気力すらなかった。周りを見渡すが、由美の姿が見当たらない。
「霊が居ないと言う証明が出来ないから消えた」
「ふざけるな! そんな事人間に出来るわけ……」
松岡が言葉を詰らせると、明神は軽く溜息を吐いた。
「人間には、出来ないだろうな」
明神の言葉に松岡は眉間に皺を寄せていた。涼子には二人が何の話しをしているのか全く解からなかった。何が起こったのかさえ状況が飲み込めない。
「鬼になら、出来るんだろうな」
明神が無表情でそう言うと、松岡はその場に崩れる様に座り込む。私は息を整えながら松岡に近付いた。そんな私たちを彼は醒めた目で見ていた。
「達樹君……」
涼子が松岡に声をかけるが明神は何も言わずに屋上から出て行く。彼の小さな背中が見えなくなると、私は松岡の様子を伺ったが、何かを考えているのか一時放心状態だった。
「何があったの?」
涼子が問いただすと、松岡は唇を噛み締めて立ち上がった。彼は階段を下りながら静かに語り始める。
「由美が四番目の怪談の検証にあいつと行くって言ってただろ? 気になって、グランドから屋上を見てたんだ」
確か七不思議の四番目は、屋上から赤いセーラー服を着た女の子が飛び降りてくる。と言うものだった。
「そしたらいきなりあいつが……由美を突き飛ばしたんだ」
松岡の言葉に背筋が凍りついた。彼が? どうして? まさかこれが、彼が言っていた霊が居る証明と言うやつなのだろうか?
「でも、私も何かが落ちる所は見たけど、落ちた音とか聞こえなかったよ?」
「地面に叩きつけられる寸前で由美の身体が消えたんだ!」
まさか! と言いたいが、彼が嘘をついている様には見えない。これが劇だったなら彼は俳優になれるだろう。目の錯覚……な訳はないか。
「鬼になら……か」
「絶対に取り返してやる」
松岡の言葉に涼子は息を飲んだ。取り返す? どうやって? 目の前で消えたと言う由美をどうやって取り返すのだろう? 何かトリックを使ったんじゃないだろうか? 例えば屋上から人形を落として地面に落ちる前に消える様な何か……
「……鬼なんかに何を願ったんだよ……」
「信じてるの?」
「信じちゃいね~けど、何かトリックを使ったにしてはしっくり来ない。とりあえずあの鬼の文献を調べてみる。」
松岡はそう言って由美が落ちたであろう辺りの植木を見つめていた。何かが落ちたような跡は無い。屋上を見上げてももう誰も立っていない。
「私も調べてみるね」
そう言うと松岡は静かに頷く。その後はそれぞれ家路につく事となった。ふと、涼子は石塚の事を思い出してグランドから保健室の方を見つめた。彼はプリントを取ってくると言っていた。玄関からもそれ程離れて居ない所に保健室がある。だから直ぐに戻って来るだろうと思っていた。松岡の声も聞こえていたと思う。
「入れ違いになったのかな?」
松岡の声が聞こえていたなら、私の様に驚いて出て来たと思う。気付かずに、帰ってしまったのだろうか? そう考えると無性に不安になった。由美は四番目の怪談を検証に行くと言った。そして明神君によって消された。じゃあ、部長は?
涼子は急いで学校へ舞い戻った。玄関ホールから、保健室の表札が小さく見える。靴だけ脱いで保健室まで駆けると保健室のドアを力強く開けた。
「……」
必死に息を整えながら保健室の中を見渡す。薬品棚の後ろやベッドの下まで覗き込んだが石塚の姿は無かった。
「帰った……のかな?」
涼子は大きく深呼吸すると玄関ホールへ舞い戻って靴箱を見た。
「隣のクラスの……あった!」
『石塚』と書かれた名札を二つ見つけるが、その靴箱には両方とも運動靴が無かった。一方の靴箱の名札には石塚の横に小さく『高』と書かれているので何も書かれていない方がはじめの靴箱だろうと予想出来る。運動靴が無いので多分、帰ったのだろう。次に三年生の靴箱を覗いた。
「えと……部長は……」
何組だったか覚えていないが、二クラスしか無いので一つ一つ確認する事にした。一組には無い。反対側の二組の靴箱を上から順に見つめると最後の方に『山﨑』と言うネームプレートを見つけて安堵した。
……あった!
やはり、この靴箱にも運動靴は無く、どうやら帰った後らしい。涼子は自分の考えすぎだと思いつつ、再び二年生の靴箱を一つ一つ確認した。
「明神……明神……」
一通り見て、もう一度後ろから確認したが、明神の靴箱は無かった。涼子の脳裏に、石塚の言葉が思い起こされる。彼は幽霊なのでは無いだろうか……?
******************************
松岡 達樹はとぼとぼと家路についていた。何であの時止めなかったのだろう。無理やりにでも、由美の腕を引いて帰るべきだった。もしくは、自分もついて行くべきだった。それなのにオレは……自暴自棄に陥りながら夕闇の道を歩いていると小さな病院が見えてきた。結構昔からある病院で老朽化が進んでいる。近々立て直すらしいが、今の松岡にとってはそんな事どうでも良かった。
「嘘つき!」
急に、そんな子供の声が聞こえて病院の敷地の方へ目を向けた。そこには小学校低学年くらいの男の子と、その隣に何故か明神の姿があった。
「あいつ……」
「願いを叶えてくれるって言ったじゃないか!」
男の子がそう怒鳴ると、明神は松岡の存在に気付いたのかこっちに視線を送った。松岡は状況が飲み込めなかったが、恐る恐る二人に近付いた。すると明神は男の子の肩を掴んで松岡が居る方へ顔を向けさせた。男の子は松岡を見て少し目を丸くした様に驚いている。そして少し目を伏せると明神の手を振り払った。
「何だよお前にも居るんじゃんか友達!」
「友達なんかじゃね~よ!」
カッとなって松岡が怒鳴ると、男の子はビックリして黙り込んだ。明神はそんな子供と松岡の表情とを見比べて溜息を吐く。
「そうだ。友達じゃない。これからお前が辿る未来だ」
明神がそう言うと、男の子はじっと松岡を見た。松岡には明神の言っている事の意味が解からなかった。
「あと三年小学校に通って卒業したら中学に通って、高校へ行って、大学に行って就職するだろう。好きな人でも出来たら結婚して家庭を持ってそれなりに幸せに過ごすだろう。そう言う未来の通過点だ」
「中学や高校に行っても虐められたらどうするんだよ! もう嫌だっ学校なんか行きたくない!」
男の子がそう喚いて駆けて行くと、明神は少し溜息を吐いた。松岡は男の子の後姿を見送ると目を細めた。
「学校って楽しいと思うけどな」
ポツリと呟くと明神は松岡の顔を見て再び息を吐いた。松岡には学校がつまらない場所だという意味が解からなかった。そりゃあ、授業はつまらないし、ウザイ先生も居る。でも、体育の授業や休み時間、放課後の部活は大好きだ。友達とわいわいたわいも無い話しをして、遊んで、好きな子の姿を眺めて……放課後にはその好きな子の隣で彼女の好きな話題を持ち寄って話すのだけが楽しみで学校に通っている。そんな楽しみが、きっとあの子には無いのだ。
「それより、由美を帰せよ!」
「霊を否定する証拠が見付かればな。」
「お前っ……」
松岡が明神を殴ろうと拳を握ったが、明神の両瞳が碧く光った様に見えて気後れした。
「何者なんだよ」
松岡の言葉に明神は言葉を選んでいる様だった。
「鬼だと言ったら信じるのか?」
そう言うと明神は病院へ入って行った。そんなものは居るわけがないのだから信じられる訳がない。
オレは頭を悩ませながら明神の後を付いていく。三階まで上って集中治療室の前に来ると、ガラス越しにベッドに横たわっている子供の姿が見えた。幾つもの管に繋がれて、ベッドの周りによく解からない機械が沢山並べられている。
「生きているって事は奇跡なんだと思う」
明神が呟く様に言うと、松岡は顔をしかめた。由美を屋上から突き落としておいてそんな言い草は無いと思う。
「お前ならどうする? もう直ぐ死にそうだけど生きたいと願う者と、寿命はあるのに死にたいと願うものとが居たとしたら、その二つの命を取り替えるべきだろうか?」
明神の言葉で、さっきの男の子の姿が脳裏に思い浮かんだ。学校に行きたくないと言っていた彼が死を望んで今ガラスの向こうで横たわっている誰かが生き続ける事を望んでいる。もしもこの二人の運命を取り替えてやる事が出来る能力があると言うのなら、オレならそうするかもしれない。
「良いんじゃないか? 別に知り合いじゃ無いし、オレには関係無いし……」
松岡の意見に同感しているようだった。静かに頷いて目を細めている。
「……そう、自分には関係無い人間だから屋上から突き落とす事も消す事も出来る」
明神の言葉に背筋が凍った。松岡の脳裏に、由美が屋上から落ちてくる残像が甦る。唇を噛み締めると明神は溜息を吐いた。
「例えばこの子は、何万人に一人の確率の病気で、もう直ぐ死んでしまうけど彼女の死によって飛躍的に研究が進み、他の同じ病気に罹った人を救うことが出来る新薬が出来るかも知れない。そして彼は虐め時代を克服して医者になり、その薬で沢山の人を救うかも知れない。その二人の運命を引っくり返すと、新薬が生まれるのが先延ばしになり、彼が救うはずだった患者はみんな死ぬ事になるだろう」
松岡の脳裏にさっきの男の子の姿が思い浮かぶ。あの子が、これからどんな人生を歩むかなんて誰にも解からない。
「そんなの、解からないじゃないか。もしかしたら殺人鬼になって刑務所に入るかも知れないし、この窓の向こうに居る子だって、病気が治れば弁護士とか国会議員とかになるかも知れないじゃないか」
「そうだな。それは誰にも解からない」
明神はそう言うと廊下を歩き始めた。松岡はそんな明神の背中を見つめながらついて行く。こいつは本当に人間なんだろうか?
「一瀬もどうだったんだろうな」
「は?」
急に由美の名前を出されて目を瞬かせた。
「果たしてお前と付き合って、後に良妻になっただろうか? 若しくは今まで通り、色々な男性と付き合って捨てた男に殺されてたか、嫉妬した女に執拗な嫌がらせを受けて自殺していたかも知れない。後者なら今消えて正解だっただろう。そこに居ても周りに迷惑しかかけられないなら居なくなるべきだろう」
「てめぇ……」
「お前も」
明神が振り返ると、松岡は明神の顔を見つめた。身体に刺さる様な視線が自分に向けられている。
「……まあ、関係無いけど」
少し間を置いてから明神はそう言った。何だよこいつ……松岡はふてくされた様に明神の背中を見つめていた。
******************************
涼子は家に帰ると父の書斎に入った。六畳程の部屋の四隅に背の高い本棚が並べられていて、その本棚はどれも綺麗に本で埋まっている。窓の前だけ机を置いているが、殆ど本に囲まれた部屋と言うのがふさわしい様な部屋だ。父は地元の伝承とかを紐解くのが好きで色々な歴史書を集めていたのだが、私が小学二年生だった頃に行方不明になってしまったのだ。ニコニコしながら「世紀の大発見だ!」と騒いでカメラを持ち、玄関を出て行く後姿を私はまだ覚えている。あの日から父は一度も帰っては来なかった。結局行方不明のまま母は私を養うために仕事に出て帰ってくるのも何時も遅い。
ギィギィギィ……
家の梁が軋む音がしてふと天井を見上げたが再び本棚に目を落とした。古い家なのでよく家鳴りはする。天井裏には鼠も居るし台風の時には二階が揺れる事だってある。
「えっと……鬼の文献……」
私は父が居た頃から全く変わっていないその本棚に目を落とした。定期的に母が掃除しているので埃は被っていない。あまりの本の量に圧倒されてどれから手を出せば良いのか解からずに居ると、棚の一番端から古びた手帳を見つけ、何となくその手帳に手を伸ばして開いた。
――ああ、父の字だ。
そこには父が調べていた文献の数々が綴られていた。
この町の近くには『月鬼山』と呼ばれる高い山々があった。その山には昔から鬼が住んでいるから月鬼山と言う名前だとか、山の何処かに鬼が住む城があるからだとか諸説あるらしい。その鬼に宛てて手紙を出すと願いを叶えてもらえる。なんてメルヘンチックな話しまであった。
「私も手紙出したなぁ……」
父が行方不明になってからその伝説を信じて何度か手紙を出した事がある。けれども今考えれば馬鹿な事をした。住所も名前も解からない相手に手紙を出すのだ。相手に届くはずがないし、そもそも手紙を書いただけで願いが叶うのならば世の中叶わない願いなど存在しないだろう。
鬼の伝説は一番古いもので平安時代から伝わっている。その姿形があまりにも人とはかけ離れた姿だったために人々から疎まれ蔑まれて来た鬼は、多くの人々を殺し、一晩で村一つ消してしまったと言う話しも残っている。鬼に願いを請うた者は皆悲痛な最期を迎え、その残酷さから人々は鬼を忌み嫌った。
そう言えば、幼い頃に公園で夜遅くまで遊んでいると、近所のおばさんが来て
「月鬼山から鬼が来るぞ。」
と脅されて走って家に帰った覚えがある。あの頃は鬼と聞いただけで訳もなく怖かった。どう怖いのかと聞かれると上手く言葉が見付からないが、とにかく得体の知れない何かにとって食われるんじゃないだろうか? と言う漠然としたものだった。
ただ、鬼が治めていたとされる山の北側には別の伝説が残っている。
「山の北側?」
ああ、鬼背の里の事か。確か、あの月鬼山があるせいで日照時間が少なくて元々作物が取れにくい地域であるにも関わらず何故か人がその場所から離れなかった。とかそう言う話しは聞いた事がある。手帳によるとその理由は山の北側を治めていた鬼の恩恵によるものだったと書かれているのだ。日照り続きで作物が採れず、村人が困って手紙を出すとたちどころに雨を降らせてくれた。とか現世を彷徨っていた霊をあの世へ案内した。とか不治の病に苦しんでいた村人の病を治していた。など、まるで鬼の所業とは思えない様な事が伝承されているというのだ。
何故、山の南側と北側とで伝承が180度違っているのだろう? 例えば、本当は鬼でも何でもなくて、ただその地域を治めていた偉い人が後の人たちによって神格化みたいにされた様に語り継がれたとか、それが気に入らなかった山の南側に住む人たちが悪い噂を立てていたとか……もしくは、北側と南側とでは全く別の人物の事を指していたのが語り継がれるに連れて同一視されるようになったとか……
「……解かんない」
そう呟いて視線を宙に泳がせると明神の姿が脳裏に浮かんだ。彼は鬼なのだろうか? それとも七不思議の一番目の怪談なのだろうか? どちらにせよ、彼が幽霊研究部に入って来た動機が良く解からない。
「あ~もう! 違うっ幽霊なんて居ないってば!」
私は自分にそう言い聞かせて再び頭脳を働かせた。
学校の生徒でない彼が何故うちの部に入部したのか。第一、あの部は部長が勝手に創設したもので、先生の許可は取っていない。言わば非公認の部活だ。だから隣町の中学校まで噂が広まるとは考えにくい。じゃあ、彼は何処でこの部を知ったのだろう? 仮に友達伝いに聞いたとして、車で二十分もかかる様な隣町の学校までわざわざ来る理由は……
「……」
仮に、仮にだよ! 百歩譲って明神君が一番目の怪談だったとしたなら、私たちが毎日幽霊の存在を否定してあざ笑っているのを聞いて気を悪くして出て来たのかも知れない。だったら、私たちに霊の存在を肯定させようとする意味も納得がいく。……で、霊を否定出来る証拠が見付からなければ消されてしまう……この場合は霊が新たな仲間を求めるために殺していっていると考えるのが妥当だろうけど、そうなると消えた由美は本当に死んでしまったのだろうか?
「……死体が無いって言うのが怪しい」
そう、松岡は明神が由美を突き飛ばした所を見たと言った。私も、屋上から何かが落ちてくる影を見た。でも、由美の死体は誰も見ていないのだ。なら、生きていると言う可能性は捨てきれないだろう。生きていたとしたなら何故、明神はこんな茶番を起こしたのだろうか?
涼子はそう考えるが、今一纏まらないのでもう一つの仮説を立てる事にした。
仮に明神が伝説の鬼だったとしたら、誰かが彼に手紙を書いた事になる。その手紙の内容は……多分廃部的なものではないだろうか? だから彼は急に現れて、私たちに霊の存在を否定する証拠を提示する様に求めた。証明出来なければ居もしない霊を冒涜する理由が無くなる。そうなれば私たちは部活で霊をあざ笑う事が出来なくなって……
「そもそも廃部に意味あるのかな?」
元々非公認の部活を廃部にした所でメリットのある人物など居るのだろうか? 部室だって元々使われていなかった教室だし、学校から部費を頂戴しているわけでは無い。となると廃部説は安直過ぎる。彼の目的は私たちに霊の存在を肯定させる事だ。肯定する事で何が起きるだろう? そもそもテレビでだって霊の存在を批判している人など幾らでも居る。その全ての人に肯定させるのは無理な話しだ。どうして私たちだったのか? と言う観点から考えるのも一つの手かもしれない。
「……年齢が近いから……とか?」
それなら私たち意外にも居るだろう。全く解からない。誰がどういう目的で手紙を書いたのかも、明神の目的も全く意味不明だ。
「ん~……これらを踏まえてまた別の仮説を立てるとなったら……」
由美が元々、幽霊だった場合い。そう考えれば、地面に落ちる寸前で姿を消したと言う松岡の証言も納得が行く。それなら、私たちが部活をしている時に霊が混じっている事に気付いた誰かが、彼に除霊と称して手紙を出したのだろう。彼が霊の存在を肯定させようとしていた理由も納得がいく。
「……ま、それはないか。幽霊なんていないもんね」
ふと、そう呟いて壁に掛けられた時計を見ると二十一時をさしていた。
「お母さん、今日も遅いなぁ」
何時もの事なのだが、そう呟いて手帳を閉じた。続きは明日にしよう。明日松岡と調べた事を持ち寄ってそれから由美の居場所を捜そう。
ギィギィギィ……
また家が軋む音がしたが涼子は気にする事なく父の書斎を後にした。
******************************
翌日の放課後、松岡 達樹は真っ青な顔をして廊下を歩いていた。結局、消えた由美を救う術が見付からないのだ。手紙を書けば帰してもらえるかもしれないと思い、何通か書いてみたが返事は無い。そもそも、ちゃんと届いているのかも怪しいものだ。その上、古い新聞を調べていて意外な事実に辿り着くと正直生きた心地がしない。
「あ、松岡くん、部室あっちだよ?」
ふと振り返れば小谷先輩の姿が目に入った。
「もう少し、図書室で調べてから行くから、部長に遅れるって伝えといてもらえます?」
必死に平静を装ったつもりだった。小谷は「そう。」とだけ言って部室へ向かって行く。達樹は息を飲んで図書室へ向かった。図書室は玄関ホールを挟んで丁度保健室と反対側に位置していた。一番角の教室で直ぐ横を公道が走っている。松岡は図書室のドアを開けると、幾つも並んだ本棚を横目に、左手の窓側に設置された腰くらいの高さの本棚から分厚い本を取り出し、棚の上に広げた。
鬼と言う言葉には二通りの意味があった。一つは民話などに出てくる日本の妖怪で、悪い物、恐ろしい物、と言う意味がある。もう一つは人の力を超えたモノ、と言う意味がある。確かにあの月鬼山の南側では世にも恐ろしい鬼として伝説が残っているが、北側では呪術の鬼才として伝承が残った。彼は生まれながらの才能に恵まれていたが、親の愛情には恵まれなかった。母は三つの頃に他界し、父は彼を犬と呼んで蔑み、人に愛されるという事を知らぬまま育ってしまった彼の性格は酷く歪んだものになってしまう。良い事も悪い事も願う者が居ればどんな願いでも叶えるが、その報酬は決して安くない。報酬が払えない者は命を奪われ、それでも足りなければ家族の命まで奪っていた。それは自分には得る事の出来なかった家族や愛情と言うものに嫉妬しての事だったのかも知れない。
「…...」
つまり、何を願っても命を取られるのだ。一昨日の朝刊にも、六年前から行方不明になっていた男性の白骨死体が見つかったと書かれていた。六年前の新聞も調べてみると、彼は行方不明になる数日前、鬼の墓を捜すと周りに漏らして山へ入ったらしい。だとするならば、この男性も鬼の逆鱗に触れて命を落としたと考えた方が妥当だろう。そして今朝、その男性の奥さんが自宅で首を吊っているのを近所の人が発見した。と言う話しを耳にした時には伝説を信じずには居られない。しかも、その首を吊った人には娘が居たのだが、つい最近不慮の事故で死んでしまっているのだ。
鬼の墓を捜していた男を筆頭に、娘が事故死し、その後男の白骨死体が発見され、その翌日に男の妻が首を吊っている。例えば、山に入った男が鬼に出くわして願いを請うたが、その代償に家族全員の命が奪われた。と考えれば、伝説と告示する。
「由美は、生きているんだろうか?」
ポツリと呟くが直ぐに首を横に振った。きっと生きている。まさか由美まで、六年も経ってから白骨で発見されるなんて事は無いだろう。そうだとしてもそれだけは阻止しなくてはならない。
松岡は古い新聞が綴られた分厚い本を捲った。昨日、白骨死体で発見された男の娘の事が気になって新聞を調べていた時に、意外な名前を見つけた。
ほんの二ヶ月程前、あの白骨死体の娘は、某中学校の階段で足を滑らせ転倒し、後頭部を強打して亡くなっている。問題はその少女の名前だ。同姓同名と言う可能性だってある。だって現に、自分は昨日も今日も彼女に会っているじゃないか!
だからオレは他の新聞も一通り目を通す事にした。 何か見落としているんじゃないだろうか? 何か……重大な事を……。
ガシャンッ!
いきなり窓の外で大きな音がして身体が強張った。車のクラクションの音がけたたましく鳴り響いている。図書室の隣には道路があったが、車の交通量は多かった。だから多分、その道路で今、事故があったのだろう。図書室の窓からグランドとその横を通っている道を見ようと窓に張り付くと、道路から人影がグランドに転がった。骨が折れているのか、よろめきながら不恰好に身体を起して歩き出す。
「……」
救急車……いや、警察に……でも、事故を起こした運転手がもう連絡しているかもしれない。道路の方をよく見てみると、灰色の煙がもくもくと赤い空に上がって行っている。事故を起こした運転手も無事ではないのかも知れない。ふと、フラフラとグランドを歩いていたその影がどんどんこっちへ近付いて来る。頭から血を流して、右腕は不自然なくらいだらんとしている。多分、腕が骨折しているのだろう。酔っ払いみたいな千鳥足でよたよたとこちらに近付いて来る。彼の唇がゆっくりと松岡を見つめて動く。
「……た、す、け、て?」
唇の動きを見つめながらそう呟くが、松岡はその場所から動けなかった。早く先生か誰か呼んで手当てしないと……けれども何故か、テレビでも見ているような、まるで自分とは全く次元の違う所で起こった現象を見ている様で身動きが取れない。人影がどんどん近付いて来て、もう窓一枚向こうまで来ている。
「助けて……いやだ、死にたくない……」
血に染まった彼の左手が図書室の窓に貼りつくと松岡は目を見開いた。自分の目の前に置かれた新聞が勝手にページを捲り、あるページで止まる。オレはそこに書かれている事件を見て目を疑った。
「助けて……誰か……死にたくない、死にたく……ない……」
窓の外から彼の悲痛な願いが聞こえてくる。けれどもオレにはどうする事も出来なかった。
******************************
涼子が部室の扉を開けるとそこには明神が一人椅子に座っているだけだった。彼は私を見るなり、無表情で読んでいた参考書を机に置く。私は驚きを隠せなかった。
「みんなは?」
「どうやら霊を否定する証明が見付からなかったらしい」
明神が徐に立ち上がると、涼子は明神の言葉に身震いした。何故、部長がココに居ないのだろう? 部長だけじゃない。石塚も、勿論由美も……まさか本当に消えてしまったと言うのだろうか? 頭の中で否定しながらも怖くなってその場から走り出した。誰も居ない廊下に、自分の足音だけが響いている。
図書室に松岡が居るはずだから彼に話して、一緒にみんなを探そう。きっと見付かる。きっとみんな何処かに居る。
「わあああああ!」
図書室を目前にして松岡の悲鳴が聞こえた。一瞬驚いて足が竦んでしまったが恐る恐る図書室の中を覗く。けれどもそこに松岡の姿は無かった。
「達樹君……?」
グランドの見える窓側の本棚の上に本が一冊開かれたまま放置されている。涼子はゆっくりとその本に手を伸ばした。それは過去の事件が載っている新聞だ。白黒の小さい丸写真が目に入ると息を呑む。
「あと一人」
後ろから明神の声が聞えると涼子は驚いて入り口に目を向けた。そこには明神がつまらなそうな顔をして立っている。
「……どう言う事?」
「五年前の入学式の日に彼は交通事故で死んでいる。よっぽど中学校に通いたかったんだろう」
「ふざけないで!」
そう言いつつも、再び新聞に目を落とすがそこには確かに松岡の顔写真が掲載されていた。こんなのきっと誰かの……明神のイタズラよ! 何でもかんでも鬼や霊の仕業に格好付けて私たちを驚かしているだけよ!
「六番目はそこの階段なんだけど。」
六番目……その言葉を聞いた時鳥肌が立った。確か七不思議の五番目は図書室からグランドを覗くと血まみれの男の子が彷徨っている姿が見える、と言うものだった。彼は一体、ココから何を見たのだろう? そして六番目は図書室横の階段を一人で上っていると長い髪に足を引っ張られると言うものだった。
「怖い? 霊の存在を否定していたのに?」
「そんなわけないでしょ!」
涼子は息を呑んで言い放った。そんな筈ない。一人で階段を上ったところで何かが起こる筈がない。だから図書室横にある階段を私は彼の前で、一人で上ってみせる事にした。一段一段足を踏み出す度に心臓が口から飛び出る思いだ。何も起こる筈がないのに。霊なんていない。幽霊なんているもんか。そう自分に言い聞かせてやっと階段を上り切るとほっと息を吐いた。不意に笑が込み上げてくる。
「ほらね。何も起こらないじゃない!」
涼子がそう言ってのけると明神も階段を上って来た。今度はどんな屁理屈を言われるのだろう? そもそも、全ての元凶は彼だ。彼さえ居なくなれば、みんな戻って来るんじゃないだろうか? みんな彼が部に居るから部活に来にくくなったってだけで、彼さえ居なくなればまた今まで通り楽しく部活を続けられるんじゃないだろうか?
「さあ、幽霊が居るって言う証拠を見せなさいよ!」
否定してやる。私一人でも否定して彼を部から追い出してやる。けれどもそんな私の思惑とは裏腹に彼はこう言った。
「証拠ならココにある」
「何言ってるのよ!」
私は彼を突き飛ばそうと手を伸ばす。本当だったら少し肩を小突いて、彼の体がよろけるんじゃないだろうかと考えていた。けれども私の手は、明神の身体をすり抜けたのだ。ふと七番目の七不思議が脳裏を過ぎる。七不思議の謎を解いた者は消される。
「え……?」
足が階段から放れて私の身体は宙に浮いた。やっぱり彼は七不思議の一番目の幽霊だったのでは無いだろうか? 私たちが面白おかしく霊をバカにして話し続けていたから怒って出て来たんじゃないだろうか?
階段が自分の顔面に迫って来るその瞬間、自分の目の前に長い黒髪の少女が頭から血を流して倒れている姿が目に入った。左目の横にあるその泣きホクロを見て息を飲む。その少女の顔は紛れもなく私の顔だ。これは本当に、只の幻覚や脳の誤作動なのだろうか? 私の身体が霞みの様に消えると、私は目を瞬かせた。脳裏に階段を踏み外した時の記憶が甦る。
幽霊は、居た――。
ふと、父の手帳に書かれていた一文が脳裏を過ぎる。現世を彷徨っていた霊をあの世へ案内した。
そうか。私たちは自分が死んだ事を認めたくなくて、霊の存在を否定していたんだ。そうする事で自分たちは生きているのだと信じたかったから……受験ノイローゼに陥った男子生徒がトイレで首を吊った話しも、先輩にふられて屋上から飛び降りた女の子の話しも、保健室登校だった男の子が虐めっ子に薬の入った鞄を隠されて死んでしまった話しも、何時の間にか七不思議と言う怪談になってしまったのだ。そう思うと、急に身体が軽くなって目の前に誰かの手が浮かび、落ちかけた私の身体を抱き締めた。
「ありがとうございます」
あれ? 母の声だ。
顔を上げると涙を流しながら私を抱き締めている母が居る。私は目を瞬かせながらまだ階段の上に立っている彼を見た。
「旧校舎の解体業者から除霊を頼まれていた。あんたの願いを叶えたつもりは無い」
彼の瞳が、薄っすら碧色に輝いていた様に見えた。
「本当にありがとう。そしてすまなかった」
ふと、母の隣に男の人が立っていた。私の記憶が正しければ紛れもなく父だ。母よりも大分若い様に見える。
「他人の墓を暴きに来て勝手に死んだ奴の事など知らん。さっさと逝け」
彼がそう言うと、父と母は何度も彼に頭を下げていた。私の腕を引っ張るとどんどん空へ身体が上がって行く。母の話しでは私が事故で死んだ後、父の死体が山で見つかったらしい。
「涼子の手紙、届いていたぞ」
薄っすらとヒゲを生やしている父が私にそう言った。手紙?
「お父さんな、どうしても諦められなくてこっちに止まってまだ研究を続けていたんだ。その時に彼の元に届いたお前の手紙を見た。まだ生きていると信じているお前の事を思って、お父さんの死体を見付からないように隠していてくれていたんだ」
「え、じゃあ……」
「そう、涼子が死んでから父さんの死体が見つかったのは彼の手引きだったらしいわ。まさか、私が首を括るとまでは思っていなかったから少し責任を感じていたみたい。だからついでだ。なんて言ってたけど、本当はとっても良い子よ」
私が死に、父の死体が発見されて絶望に駆られた母は首を吊った。けれども私が死んだ事に気付かず彷徨っている事を知って彼の元を尋ねるたらしい。彼は報酬を払えない者の願いを叶える気は無いが、他の依頼のついでと言う事で今に至ったのだそうだ。
私は彼を空気の読めない天邪鬼な新人だと思っていた。それから幽霊をバカにしていた私たちを消そうとしている幽霊だとも思っていた。けれども、本当は違ったのだ。じゃあ、彼は一体何者だったのだろうか? あの月鬼山に住む願いを叶える鬼だったのだろうか?
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小学校三年生の萩野 隆はイジメを受けていた。訳も解からず忌み嫌われて、蔑まれて、僕はひたすらそれに耐える事しか出来なかった。今朝なんかはシューズの中にゴキブリの死骸を入れられていた。だからゴキブリの死骸をゴミ箱に捨ててそのシューズを履いて教室へ入ると、
「ゴキブリの踏み心地はどうだ?」
とクラスの男子がせせら笑う。女子はそれを聞いてまるで僕をゴキブリでも見る様な目で見てこそこそとささやきあうんだ。同情なんかじゃない。みんな寄ってたかって僕を痛めつけて喜んでいるのだ。そんな毎日が僕の人生の全てなんだと思い始めていた。放課後は虐めっ子たちに万引きをさせられるのが日課だった。だから警察にも親にもそんな自分を知られたくなくて、相談出来なかった。一生虐めっ子達の後ろを金魚の糞みたいに引きづられて、このままつまらない人生が続くのだと思うと嫌気が差していた。だから今直ぐにでもカッターナイフで腕を切り落としたかったけど、怖くて出来なかった。殴られただけでも痛いのに、自分で自分の腕を切るだなんて、きっと想像を絶する痛みなのだろうと思う。
何度か、お父さんに相談しようかと思った。お母さんよりは、お父さんの方が話し易い様な気がしたんだ。でもとある旧校舎の解体が上手く進まなくて悩んでるみたいなんだ。僕にはよく解からないけど、期日までに解体しなきゃ不渡り? とか言うものを出してしまって大変なんだって。そんな時に僕は、両親が話しをしているのを聞いたんだ。
「そんなに困っているなら、手紙を出したらどうかしら? 幾らなんでも、ココまで事故や怪我人が相次いで工事が進まないなんておかしいわよ」
母の言葉に僕は聞き耳を立てた。手紙?
「あんなの只の御伽噺だろう」
「怪しい霊能者に頼んで百万円でお祓いしてもらうくらいなら、その前に手紙を出すくらいは只なんだから良いんじゃない? 返事さえ来なければ何も起こらないらしいし」
お父さんは渋っていたみたいだけど、徐に手紙を書いていた。その手紙をどうやら屋根の上に置いているみたいだった。
「お父さん、何してるの?」
僕はそっと自分の部屋から顔を覗かせて手紙を置き終わった父を見た。
「なあに、大した事はない。この辺りに伝わるおまじないさ。手紙を書いて屋根に置き、返事が来たらどんな願いでも叶うと言う民話があるんだ」
父の言葉に、僕は電気が走った様な衝撃を覚えた。だからその後、父が何を言っているのか解からなかった。「願いを叶えてもらった者は皆悲痛な最期を迎えたとされている。」なんて部分は僕にとってはどうでも良い事だった。だから直ぐに手紙を書いて屋根の上に置いたんだ。「僕を殺して下さい」ってね。でも直ぐに返事なんて来なかった。また何時もの日常が始まろうとしていた朝、僕は知らないお兄さんに声をかけられた。
「萩野 隆君だね?」
登校途中に話し掛けて来たお兄さんが何故僕の名前を知っているのか気になった。だって何度見ても、お兄さんの顔に見覚えは無かったから。
「お兄さん、誰?」
僕の問に、お兄さんは徐にポケットから昨日僕が書いた手紙を取り出した。僕は目を輝かせた。もしかして、本当に噂の願いを叶えてくれる鬼?
「この手紙の事、詳しく聞かせてもらえるか?」
お兄さんは僕の問には答えてくれなかった。だから只単に、手紙を拾った近所のお兄さんだったのかも知れない。手紙を読んで、心配になって相談に乗ってあげようとしてくれているのかも知れない。でも、あの手紙に僕の名前は書かれていなかった。
僕はその日初めて、学校をサボった。最初は後ろめたい感じがしていたが、お兄さんも学生服を着ているので多分サボっているのだろうと思うと、なんとなく親近感が湧いてくる。
「僕、学校でいじめられてて、もう学校に行くのも嫌なんだけど、親には知られたくないし……それで死のうと思うんだけど、何だか怖くて……」
初めて僕は、自分の気持ちを誰かに伝えた。お兄さんは僕の隣のベンチに座って、ぼうっと景色を眺めているみたいだった。
「それで、手伝って欲しいんだ。僕、あいつ等の目の前で派手に死んでやるんだ。後悔するくらいに!」
お兄さんは僕を一瞥して何かを考えている様だった。徐にポケットからもう一枚手紙を出すと僕に見せてくれた。「娘を助けて下さい。」と丁寧な字で書かれていた。
「この人の娘は今、病院で必死に自分の身体を治そうと頑張っている。でも手術をする金がなくて俺に手紙をよこしたんだ」
僕はお兄さんの言葉の意味がよく解からなかった。そんなの関係なかった。僕は、自分の願いさえ叶えてもらえれば、他の誰がどんな風に生きていたって、死んだって良かったんだ。
「お前との契約が成立するなら、俺はお前の願いを叶えて派手に殺してやる。でもその報酬にお前の寿命を彼女に与える事でこの人の願いを叶えようと思う。それ以上の事は俺は何も手を下さない」
これまた、お兄さんが何を言っているのか今一解からなかった。それで良いじゃないか。それでみんな丸く治まるならそうすれば良いじゃないか。そんな僕の目の前に、白い封筒を差し出した。僕が受け取ろうとするとさっと取り上げてみせる。
「三日の間にお前の気が変わるなら俺は何もしない。でも三日経って、それでもお前が俺の返事を受け取ると言うなら願いは遂行しよう」
そう言ってお兄さんは何処かへ行ってしまったんだ。三日……僕はあと三日も待たされる羽目になったのだ。あと三日、僕はあいつ等に虐められ続けろと彼は言うのだ。僕は早くその日が来るのを待ちわびていた。
それから彼は何度か僕の目の前に現れた。三日なんて待てないって頼んだけど、彼は首を横に振った。病院にも連れて行ってくれた。集中治療室で横たわっている女の子を見ても、僕は何とも思わなかった。だってその子は色んな管に繋がれていて、髪の毛だって全部抜け落ちてて、傍から見たら女の子かどうかなんて解からなかったし、僕の知り合いじゃないし……何より、その子が生きていたって死んでいたって、僕には何の関係も無いから……
「嘘つき! 願いを叶えてくれるって言ったじゃないか!」
僕はもう堪らなくなって病院を出ると声を上げた。だって、彼の行動の意味が全然解からないんだもん。願いを叶えると言っておきながら、彼は何だかんだ理由をつけて願いを叶えるつもりは無いんじゃないだろうか? 若しくは最初から願いを叶えるつもりなんて無かったんじゃないだろうか?
そんな僕を彼はある人物に目を向けさせた。僕の両肩を掴んで、無理矢理その人が立っている方向へ身体を向けさせたのだ。正直腹立たしかった。その人も、お兄さんと同じ学生服を着ていたから。
「何だよお前にも居るんじゃんか友達!」
「友達なんかじゃね~よ!」
ふと、その人がそう言うと、僕は目を丸くした。意外な言葉に少し戸惑う。
「そうだ。友達じゃない。これからお前が辿る未来だ」
一瞬、自分が見ていたその人の身体が透けていた様に思えた。
「あと三年小学校に通って卒業したら中学に通って、高校へ行って、大学に行って就職するだろう。好きな人でも出来たら結婚して家庭を持ってそれなりに幸せに過ごすだろう。そう言う未来の通過点だ」
彼の言葉に、再び頭に血が上る。
「中学や高校に行ってもいじめられたらどうするんだよ! もう嫌だっ学校なんか行きたくない!」
僕は叫んでその場から走り出した。本当に嫌だったんだ。早くこんな現実から逃げ出したい。彼は逃がしてくれると言った。けれども彼は何度も確認するように僕にこう言った。「本当に良いのか?」と。
やっと旧校舎の解体作業が進み始めたらしい。父は喜んでいたけど、僕はやっと三日目の朝を迎えてホッとしていた。その日の朝、僕が家を出る時に家の前に立っていた彼の姿を見た。僕は流行る気持ちを抑えながら彼に手紙を催促したが、別の用事が終わってからだと渋られた。その後僕の家に入って行くのを見たから多分、父に用事があったのだろう。父も彼に手紙を出していたから……
僕は学校に着くと、机の中に彼が見せてくれた封筒が入っているのを見て正直ホッとした。これでやっと僕は、このつまらない毎日から解放されるのだと。
理科の実験中にアルコールランプが倒れて不自然なくらい一気に炎が僕の身体を包んだ。熱いとか、痛いとか感じる間も無く、僕は何時の間にか意識を失っていた。
次に目を覚ました時には自分の部屋に居た。ココが一番落ち着く。虐めっ子も居ないし、傍観者も居ないし、両親だって滅多に入って来ない。だから落ち着く……
「どうしてお金くらい払ってあげなかったのよ!」
階下から母の声が聞こえる。泣いているみたいな声だった。僕は何が起こったのか解からずに階下に下りると、父と母が喧嘩していた。
「そんな事言ったって、あの子供が本当に除霊したお陰で工事が進んだなんて証拠は一つも無い!」
「返事が来た時点で契約は成立しているのよ! 熱傷による循環血液量減少性ショック死って何よ? 教師が傍で見ていながら間に合わなかったってどういうことよ! あなたが報酬を渋ったから隆は殺されたんじゃない!」
両親の会話の意味が一瞬解からなかった。どうやら父は願いを叶えて貰ったのに、彼に報酬を払わなかったらしい。そのせいで僕が死んだのだと両親は勘違いしている様だ。
「お母さん、それは違うよ」
「その上秘書にお金を持ち逃げされて会社は倒産ですって? もうあなたみたいな人と付き合ってられないわ!」
お母さんに僕の声は届いてないみたいだった。母さんは何も気付かずに僕の身体をすり抜けて大きな鞄に荷物を詰め込んでいる。
「お母さん、ねえ何処行くの?」
お母さんは大きな鞄と、白い箱を持って立ち上がると早々と玄関へ向かった。
「隆は私が連れて行きます。さようなら」
母が出て行ってしまうと僕は少し頭を悩ませた。僕はココに居るのに、何であの白い箱を持って行ってしまったんだろう?
「お父さん、お母さん行っちゃうよ!」
お父さんにも声は聞こえてないみたいだった。僕は家を出て行った母の事が気になって後を追った。電車に乗って、白い箱を抱えて泣いている。どうして母が泣いているのか良く解からなかった。僕は今も、お母さんの隣に座っているのに……
特に、何処に行くって言う予定は無かったみたいだった。フラフラと何日も只歩き続けて、海の見える砂浜に辿り着くと、母はふっと溜息を吐いた。
「隆……」
お母さんの言葉に元気は無かった。だから何処か悪いのかと思った。
「ねえ、お母さん、お父さんの所に帰ろうよ。きっと心配してる」
「……隆……」
やっぱり聞こえてなかった。母が白い箱だけを抱えて海に入って行くと、僕は必死に母の身体に抱きついた。
「お母さん、帰ろうっ風邪引いちゃうよ」
どんどん母の身体が海の深い所まで入って行く。僕は寒さなんて感じなかったけど、母の身体は小刻みに震えていた。母の身体が海の底に沈んでから少しして白い箱と母の身体が浮き上がってきたけど、不思議ともう一人の母は海の底で苦しみ続けているんだ。僕はそれが一体、どう言う事なのか解からなかった。とにかく早くお母さんを助けなくちゃ。そう思って家に帰ったんだけど、もうそこは僕の家ではなくなっていた。『売り家』と書かれて夜なのに電気も点いていない。家の中を捜しても父の姿は無かった。
「お父さん……お母さんが……」
誰も居ない家の中でそう呟いても返事は無い。僕は必死に町中を徘徊して父を捜したんだ。もう雪が降ってきていたからきっと冬なんだと思う。きっとお母さんは海の底で寒がっていると思う。だから出来る事なら早くお父さんにこの事を知らせて、お母さんを助けて欲しかった。
ふと、見覚えのある少年の姿を見つけた。お兄さんだ。願いを叶えてくれるお兄さんだ!
「お父さんを捜してるの……」
僕がそう言うと、お兄さんはそっと手を差し出した。お兄さんに腕を引かれて歩くと、商店街から少し外れた路地に汚い服を着た男の人が座り込んでじっと何処か遠くを見ているみたいだった。一瞬、誰だか解からなかった。だって僕のお父さんはふっくらしていて、何時も綺麗な背広を着こなしていたんだ。だからこんな痩せこけたおじさんがまさか僕のお父さんだなんて夢にも思わなかった。
「……鬼だ」
お父さんは虚ろな目をしてそう呟いていた。僕の姿は見えていないみたい。
「確かに、報酬は頂いた」
お兄さんがそう言うと、少しだけ父が首を振った様に見えたが、そのままもう動かなかった。父の目は後悔と怨恨を含んだまま静かに呼吸が止まった。それなのに、やっぱり父も僕に気付かないまま、只そこに蹲って恨み言を唱えているだけだった。
「何も息子の命を奪う必要は無いじゃないか。会社の金を持って行く事は無いじゃないか。妻の死体が海に上がったと風の便りで聞いた。離婚したのだから妻には関係無いじゃないか。あの鬼が……どれだけわしを苦しめれば気が済むと言うのだ……」
父にはお兄さんの姿も見えてないみたいだった。
「何がいけなかったのかな?」
自分の命は自分だけのものだと僕は思って居たんだ。まさか自分が死ぬ事で、父や母がこんな死に方を選ぶだなんて夢にも思わなかった。
「お母さんも、どうしてずっと海の中で苦しんでるの?」
「死んだ事に気付いてないんだろう」
僕は俯く事しか出来なかった。もう学校にも行かなくて済むし、虐められる事も無い。ずっと両親の傍に居られると思っていた。自分一人が世の中から居なくなったって、働き蟻の一匹が潰れたのと同じで、今までとなんら変わらない時間が流れるのだと思い込んでいた。けれどもそれはあまりにも浅はかな考えだった。
「お前が生きていたなら、会社が倒産したところで両親が死ぬ事は無かっただろう」
生きていたなら……けれどもそれはまさに生き地獄だった。毎日毎日、訳も解からず忌み嫌われていじめられて、かと言って自殺する勇気も無い。親にも相談出来ない。だから僕は手紙を書いたんだ。いじめっ子の前で、派手に僕が死ぬ事を。後悔すれば良いと思っていた。けれども結局いじめっ子たちは次ぎのターゲットを見つけて同じ様に虐め続けるだけだった。後悔も反省も微塵も感じられない。僕はそんな奴等のために自分の命を犠牲にして、両親の命まで奪ってしまった。
「僕たちは、これからどうなるの?」
「……さあ? 何処かの親切な霊能者にでも見つけてもらって除霊してもらうか、幽霊のまま彷徨い続けて怪談話になるか、自らの置かれた状況に気付いて勝手に上に上がるか、それは誰にも解からない」
まるで他人事の様に彼はそう言った。僕は期待していたんだ。彼が何とかしてくれるって。母の自殺も、父の死も止めてくれるって。でも、彼は何もしなかった。解かっていたのに……こうなるって解かっていたなら、僕は止めたのに。
「……助けてよ」
お兄さんは僕の自分勝手な言葉を聞いて目を細めた。
「報酬の払えない者の願いは叶えられない。お前は永遠に、自分が選択した今を悔やみながら両親が苦しみ続ける様を見続けるがいい」
それがお兄さんとの最期の会話だった。僕は酷く後悔した。生きている時も地獄だったが、死んだらもっと地獄だった。じゃあ、僕はどうすれば良かったのだろう? 生きている間に、僕はどうすれば良かったのだろう? もっとちゃんと彼の言葉に耳を傾けるべきだったのだろうか? 引き返すチャンスを彼は何度も与えてくれたのに……僕は虐められ続ける事が怖くて、逃げる事しか考えていなかった。
じっと座り込んで居る父の隣に腰掛けると、僕はそっと父に声をかけた。
「お父さん、僕ね……学校でいじめられてたんだ」
ポツリと呟くが返事はない。目頭が熱くなって来て、涙がぽろぽろと頬を伝う。脳裏に父と母と三人で暮らしていた温かい家が思い浮かぶ。去年の今頃はお父さんがサンタクロースの格好をしてプレゼントをくれたっけ。そうそう、お母さんが僕の大好きなシチューを作ってくれて、三人で過ごしたクリスマス……あの時、あの瞬間だけは学校の事もいじめの事も全部忘れられたんだよ?
「こんにちは」
ふと、急に聞いたことの無い声が響いて顔を上げた。そこには五人の中学生が立っている。一人は髪の長い女の人で、泣きホクロが真っ先に目に入る。
「私たち、幽霊研究部って言うサークル仲間なの!」
そう言って長い髪を揺らすとにっこりと笑っていた。そのメンバーの中に、以前見かけた事のある日焼けしたお兄さんを見て目を瞬かせる。そうそう、あの人に会った時、彼は僕にこう言ったんだ。これから自分が辿る未来だと。その通りになってしまった。
「起こっちまった事はしゃーねーからさ、どうすれば幽霊に幽霊だって気付かせる事が出来るかみんなで考えようぜ!」
「ねぇ、落ち込む必要なんて無いねぇ。」
「ぼ、僕、思うんですけど、ヒ、ヒントを置いて行ってくれた、と思う、です」
ショートカットの小柄な少女と少し小太りな少年が吃りがちに言うと、ずれたスクウェア眼鏡を直しながら一番年配そうな人が口を開いた。
「ま、最期の部活くらいはちゃんとやり通すべきだろう。幽霊が幽霊を研究してはいけないと言う法律も無ければ、幽霊が除霊をしてはいけないと言う決まりも無い」
不適な笑みを浮かべると、みんな頷いてにっこりと笑う。
「みんなで話し合えば、きっと良い方法が見付かるよ」
その言葉に僕は少し戸惑った。
「話し合って、良い方法が見付からなかったら?」
「良い方法が見付かるまで話し合えば良いじゃない!」
「……」
僕は今まで、話し合った事なんて無かった。いじめっ子にどうして虐めるのかとか、両親にいじめの事を話す事も出来なかったし、誰かに相談する事も出来なかった……いいや、僕はしなかったんだ。話し合う事で何かが解決されるだなんて思った事も無かったから……
「……うん」
何時かきっと又、家族三人でクリスマスを迎えられる日が来ると思う。その日が来るのを信じて僕はそのサークル仲間と話し合う事にした。きっとこの出会いは、お兄さんがくれた最期のチャンスなのだと信じて。
最後までご愛読頂きありがとうございます。楽しんで頂けると幸いですが、何分まだまだ未熟もので乱文ばかりでご迷惑をおかけしたかと思います。(よく漢字も間違えますしね。)
最後まで読んでいただいた方はもう解っているでしょうが、はい。実は「登場人物の殆どが死んでいる」んですね。
で、結局最終的に一番人間ぽくない奴が生き残っている。って終わり方なのですが、ここで今更ながら一つ訂正させて下さい。
彼は、中一です。構成上いろいろと悩んだのですが、主人公の涼子と同じ学年の方が使いやすい。ということで、涼子が勝手に彼を同い年だと勘違いした。という設定となりました。(すみませんね。)
元々これはこれで終わらせよう。と思っていたのですが、それにしたって計算が合わない……本当にご迷惑をおかけいたしております。
新人なので多めに見てやってください!(お願いします)
ではでは、また狗神の世界でお会いできることを楽しみにしております。