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外伝の2 魔人たちの送る日々 3






静けさに満ちた空間に、軽くペンを置く音が響いた。


「ふぅ」


記すべき文字を綴り終え、紙の上から柔らかく脇へのけられる文具。

真白い羽毛が沈黙を掻いて役目を終える。

すっかり愛用となってしまった羽根ペンを手放し、魔人の姫ティアリス=ミューリフォーゼは、気疲れの濃い吐息を紡いだ。


「これはこちらに」


今日も着込んだドレスの袖から繊手を伸ばし、金髪を揺らして紙片を取る。

仕上げた書面に碧眼で最後のチェックを通すと、やがて元いた場所へと帰した。


「…………」


天井を仰いで見詰めることしばらく、(おとがい)を引いて視線を落とせば、目に入るのは紙の山だ。

厚みを広げた机の上、艶を出された調度には書類の束が載り、サインや記入を済ませて重なる。

その殆どには図案と数値、物品の目録に要望の類が書き込まれ、修正の指示や了承の旨が添えられていた。


「これでいいですね」


頷いた顔の下、張らせていた肩から力が抜ける。

魔王ハルキから彼女に向け、過去直々に『任せる』と────本人は深く考えず────言われた種族の暮らし。

迷宮において町村のような行政単位が消失した今、『姫』たる彼女には様々な政務が押し寄せており、日々の仕事は増すばかりだ。


必要なものは全て恵まれているにせよ、その分配や規則の制定、部屋割りに交流・治安の維持、現場の監督がまとめた声に見積もりと、ティアが見るべき内容は多い。

先代魔王ソーロンの御世、最低限として授けられた教育もなければ、果たして今頃どうなっていたか。


「ん~っ!」


天井に並んだ照明(ライト)によって明るい室内、私室とは別に与えられた執務室で、力を入れた両手を伸ばす。

赤い繊毛に覆われた床は縦横に長く、壁際には余分の椅子も置かれ、必要に応じて他者を呼んでの聞き取りも可能だ。

ティアの座る席だけは、可愛い柄のクッションで底上げされていたが。

革と肘掛を張った家具から腰を浮かし、立った彼女が机から離れる。


「お疲れ様にございます。姫様」


主の休息に際しては素早く影が動いた。

背にしていた壁を後ろに歩み、そそと主へ近付く人物。

ただし照らされた背丈は低く、常として侍る執事ではない。


「いいえ。こちらこそ待たせてしまいました」

「とんでもございません。我らの暮らしは姫様と魔王様あってのもの、お気遣いには及びませぬ。ささ、一仕事終えてお疲れでしょう。どうぞお飲み物でも」


黒のローブに身を包んだ女性。

レーゼの復興に出払うグランと入れ替わった、年嵩の魔人だ。

ゆったりとした貫頭衣の上には皺の浮いた顔がある。

孫の如き年齢のティアを見る目は柔和で、グランのようにどこか尖った雰囲気もない。


「ありがとうございます」

「<迷宮>の果実を絞って作ったジュースになります。そのままでは酸味が強いので、冷やして氷を足しました。砂糖も少々。姫様にはまだお味がきついかもしれませんが、眠気や疲れは取れましょう」

「わ、本当ですね。でもさっぱりして美味しいです」

「そうですか、そうですか。ほっほっほ」


今は下ろしたフードを引けば、黒子の如く控えるだろう。

配置された丸テーブル、物置用の小さな円からグラスを載せた盆を手に、主に向けて捧げ持つ。

あくまで臨時の世話役ながら、姫を気遣う声の調子がしわがれた中にはっきりと強い。


「ええ。おかげでこの後もがんばれます」

「────そちらの調子は如何でしょうか」

「今日の分の書類は終わりましたから、何とか。これから皆さんの意見を聞きにいきます」


トーンを下げて(たず)ねる老婆へ苦笑するティア。

時刻は昼も過ぎて久しく、残る仕事は各地の見回りや説得などの現場的なものになる。

ある程度なら重役たちがこなしてくれるが、彼らはあくまで担当している集団の長だ。

個々の理解は己の職域の範疇のため、魔人全体の話では逆に対立も起きる。

最終的にはまとめ役が必須であり、そういった意味で『姫』という立場は有用だった。


「それはようございました。ですがもしや、またユヴェールやティナトの所にも足を運ばれるおつもりですかの?」

「はい、もちろん」


それで済まない問題(れいがい)、というのもまた然りだが。

即答する姫に、嘆息する老婆が頭を振る。


「何も姫様がそこまで気を遣われませんでも」

「まずは話し合うことが大切ですから。レーゼもユヴェールもティナトも、他の町や村であっても、暮らしていたのは同じ仲間です」


対するティアは、あくまで柔らかな笑顔で告げる。

魔王ハルキの降臨に続く快進撃、望外といっていい領土奪還で浮上した問題。

段階的に合流し増加する多くの魔人、初期のレーゼと異なる彼らをまとめる作業は、現在最も重い負担と化していた。


「しかし」

「大丈夫です。きっと何とかしてみますから」


既存のシステムを操作するだけのハルキと違い、ティアの担当は人が増えるほど負担もかさみ、扱う数値や情報の量も膨大になる。

使える人材も同時に増えるが、とても相応とはいかない。


「それに、こちらでできることはこちらでやらないといけません。ただでさえハルキ様にはお力を示す戦闘や、<迷宮>の増築改築をお願いしています。それも住民が増えるたびに。生産の増量も快く受けて下さっていますし…………これ以上のご負担は、とても求められません」


更に手間のかかることに。

ティアの率いたレーゼ以外は各地の代表や<職>の長も存在しており、中には過去の地位に固執する者、釣られて反発する者もいる。

戦災に続く環境の激変はそれ自体が不安を呼び、特に後発組はティアたち先にいた魔人に従い、相手の都合で人員を分けられ、住処や作業を割り振られる立場だ。

一定の軋轢や説得の手間は避けられない。


大抵は姫と<迷宮の魔王>の関係を見せ、彼の力や方針を示せばその場で黙るが、それはティアの本意ではなかった。

身内で不和を囲うのも、そんなことで王にお出ましを願うのも。

魔人族が窮地の頃なら鉈を振るうのも是とできたが、余裕が生まれた今となっては、かえって避けるべき選択になる。


「今は身内で争う時ではないはずです。話せばわかってもらえるとは言えませんが────それでも、先ずは話し合いましょう」

「姫様……」


だが事と次第では排除もあり得、主の抱えたままならぬ無言の苦慮を察し、(さが)を知る従者が呟いた。

王国の侵攻からいまだ続く、本来であれば大人が負うべき責と立場。

大任を背にしてなお前向きに歩む少女へ、老婆は深く腰を折る。


「あいわかりました。でしたらこちらで向こうに打診しておきましょう。夜には話せるように調整しておきますじゃ」

「ありがとうございます。よろしくお願いしますね」

「しかと承りましてございます。今のところは『妙な動き』も耳に入っておりませんし、姫様に出向いていただければ何とかなるでしょう」


そういってわずかに瞳を浮かせ、予定の計算をし始める従者。

幸いなことに既に<迷宮>内部において、治安や人心維持の組織は機能している。

元からあった自警団などは各所を見回り、トラブルの解決から喧嘩の仲裁、施設の監視、ちょっとした便利屋まがいの仕事をこなしていた。

当然ながら他の住民と接することで、生の噂や情報を集めることも含む。


「さて。そうなりますとそちらは後に回すとして、残りは今日の視察ですが」


考えをまとめた老婆は一つ咳を払うと、呟きながら腰に手をやる。


「っ! ええ!」


途端。

聞いた言葉に少女の耳がぴんとそばだち、空気と表情が華やいだ。


「えっと。今の時間は────────」


言って視線を下げた先、焦点に合うのは手首に巻かれた腕時計。

<迷宮>を統べるツートップ、姫と魔王の足並みを揃えるべく贈られた、アナログ式の時刻装置だ。

魔物のものらしき白色の革が細腕に沿って輪を描き、円く切られた盤の形を銀が縁取る。

部屋の明かりに12の数字と秒針、短針、長針が浮かび、3つの針が担う時間を刻んでいた。


「もうこんなに。急がないと」


その位置を確認し、俄かに慌て出すティア。

碧眼を流して机上の書類を再び検め、残務のないことを確認してから老婆へ直る。


「お召し物はそのままでよろしいでしょう。いつも通り御髪だけ整えさせていただきます。<香水>も出しておきますじゃ」

「よろしくお願いします」


そうする間に(くし)を持った従者が近付き、朝よりほつれた主の金糸を()かしにかかった。

背に回ってから伸ばした頭髪を恭しく持ち上げ、その輝きを損なわぬよう、丹念に当てて通していく。

照明の下でほのかに光るブロンドの連なり。

受けるティアは慣れたようにするに任せ、一方で珍しいことに、そわそわしながら幾度となく腕の時計を見た。


「ほっほ。姫様はすっかり魔王様との日課(・・・・・・・)を楽しみにされてますのう」

「そ、そう見えますか?」


髪を取る老婆の手の横で、不意の質問に耳朶が染まる。

顔にはさっと鮮やかな朱が差し、振り向かせようとしたのを止め、思わず少女は手の平をそえた。


「はい。この老いぼれの枯れた目には、それはもう楽しそうに映ってございます」

「か、からかわないでください」

「いえいえ。誓ってそのようなつもりはありませんよ」


願う声は火照りの熱に浮いてか細く、恥ずかしそうに肩を縮めた主を見詰め、応えた侍従が笑みを深める。

書類的な整理を終え、これから始まる彼女の仕事。

魔王と2人で<迷宮>を歩む『視察』の時間は、少女の密やかな楽しみだった。


「魔王様と姫様の仲がよい分には、我ら魔人に益するところ。憚ることはございません。グランなぞはあまりいい顔をしませんが、この婆は応援しております。思えば姫様の周りには、長らくご友人も用意できませなんだ。王国を退け一時の平穏も得られた今、お歳の近い異性と触れ合うのもよいでしょう」


他方、老婆の声は諭すような詫びるような、低い響きを帯びている。

執事の留守を任された老女は重役の立場でこそないが、過去にはティアに仕えていた一人だ。

魔人においては『姫』であろうと民と変わらぬ身分だが、内実までも同様ではない。

たとえ明文の規定がなくてもある種の威光とゆえの境遇があることは、種族を率いる現在の立場が証明している。


(姫様も変わられましたからな。恋か愛か。いずれもあっておかしいものではありますまい)


ヴァラハール王国との開戦から今まで(こちら)、『流石は先代様の娘』と守られた側の多くはいうが。

一時でも近くにいた者であれば、一人の少女がどれだけの覚悟でそこに立ち、態度と心とそして笑顔を凍らせていたか、痛いほど身に沁みている。


(力の強大さも寛大さも…………今代の魔王様の存在は、姫様にも得がたい救いでしたな)


ティアリス=ミューリフォーゼ。

かつては誰もが知り讃え、魔人の土地に広く言われた可憐な姫。

華の如き彼女の笑みを取り戻したのは、他ならぬ新たな魔王である。

側仕えは無論、重役級の魔人であればティアの様子から知るところだ。


(魔王の《召喚》。強力な存在たればこそ、よもやこのような幸運があろうとは。誰もが思いませんでしたな)


人間に追われて数多の魔人が抱えていた不安、悩みに恐怖。

そのほとんどを一息に払った<迷宮の魔王>は、それによって曇っていた彼女の心をも晴らした。

民の守護と庇護下における豊かな生活、暮らしの中の細やかな慰撫に決して驕らないその姿勢は、魔人からは名君と言える。

これが制御できずに暴れ狂う魔王なら勿論、敵の屍を積んで誇る手合いであっても、果たして同じ結果となったか。


(違いましょうな)


否、というのが老婆の所感だ。

根源は違えど民を────迷宮(そこ)に暮らす誰かを────想う姿勢なくして、姫は心を開くまい。

協調はできても共感ができない。

侍従が見るに憧れの色こそ強いものの、主が抱く感情の種類は異性へのそれだ。


(色恋沙汰も主の成長には欠かせぬもの。小僧(グラン)にはそこが分かっておらん。仮に仲を違えたとして、ハルキ様なら我らの扱いも変えはすまい。王国の者や冒険者には容赦ないが、<迷宮>内ではまこと仁君であらせられる)


魔人という種族そのものの守護。契約に留まらぬ暮らしの提供。施設の創造に諸々の措置。

自身と民を救った英雄に心が惹かれぬ道理もなく、種族としても『利』に適う。

元よりどこか互いを尊ぶ空気を持っていた2人だ。

既に《召喚》から2月近く。

王国を退けて町を取り戻し、平穏の中で重ねる日々を増すごとに、両者の距離は縮まっていた。

蜜月というには公だが、視察を伴うダンジョン巡りは歓談の時間にもなっている。


「さて。御髪の方はこれでよいでしょう。姫様、こちらへ」

「はい」


そこで老婆は思考を切り、次なる身支度の手伝いにかかった。

主を促すと懐からガラスの小瓶を取り出し、虚空へ向けてノズルを付けた口を押す。

<迷宮>の産する《錬金術》の<香水>で、魔人の徒弟の習作の一つ。

香料の溶けた液が広く噴霧され、薄幕を潜ったティアの肌を残香が覆う。

生産ついでにハルキの贈った品であり、最近になって少女の覚えたお洒落だった。


「どこか乱れたところはないでしょうか?」

「ご安心くだされ。いつも通りの可愛いらしいお姿にございますよ」

「もう、婆やったら。ハルキ様に失礼があってはいけません。本当にこれで大丈夫ですか?」


問う姫は一度微笑んでから不安がちに全身を整え、着ているドレスの端を取って背を向けた。

スカートをつまんで引っ張り上げ、執務中に圧迫された臀部の布に、シワがないかをしきりに気にする。

精一杯に首を向ける姿に普段の落ち着きはなく、どちらかと言えば慌しい子犬か<眷属>の少女だ。

訊ねる声も常より上擦っていて高い。

彼女に合わない神経質は期待と緊張の裏返しで、つまりはある種の焦れったさと言える。


「ハルキ様のお召し物は変わりませんし、いただいた装備(ヨロイ)に換えても色合いが…………やはりこのままがいいのでしょうか? うう。不安です」


執務の疲れはいつの間にか綺麗に失せ、身を繕うのに気を割く乙女。

右に左に衣を引いて足踏む姿は日向で跳ねる小鳥に似ており、天井に連なるライトの下で可愛らしく映える。

動作の中に焦りはあれど過日の悲壮、《召喚》の頃の強張りは今や形を潜め、歳相応に悩める余裕に満たされていた。

当たり前とも言える姿は魔王ハルキの戻した日常、魔人と姫たる彼女の望んだ平穏にして、<迷宮>の囲いがもたらす平和に他ならない。


「本当に魔王様とは仲良くなられましたな」


笑みを誘う光景に顔のシワを深め、(ひと)()ちて頷く侍従。

何せ主のこの慌てよう、日課に合わせて既に毎日のことなので、今さら面食らいはしない。

魔王本人には見せていないが、恋愛事には不慣れ以前に無縁な境遇。

初の思春期青春期に、加減が分からないのも道理だ。

亡き先代が見たらどうするかと考え、邪推と判じた老婆は静かに口をつぐむ。


「婆や?」

「何でもございませんよ」


ティアリス=ミューリフォーゼが魔人の姫でなく(一人の乙女に)なれるのは、魔人ではない外なる魔王の御前のみ。

仕える身として皮肉な事実を、あえて言葉にすることもない。

ふとした呟きに反応した主へ穏やかに答え、従者は温かな眼差しを捧げた。


「ソーロン様のことは残念でしたが、ハルキ様と出会えたことは我らにとって幸運でしたの。皆の暮らしに関わること、心配してはおりませぬが、今日の視察も何卒よろしく願います」

「任せてください。折衝の方もしっかりこなして見せますから」


彼の《召喚》に端を発する激動の中、いまだ気付いた者は少ない姫の変化。


「今日はどんな話を聞かせて下さるでしょうか。こちらが聞いてばかりで、ハルキ様が退屈されなければいいのですが────────」


にこやかに彼の名を呼ぶ調子は、以前より馴染んで唇に親しく。

色付いた頬を手で包み、吐いた呼気には心配と別の熱がある。

艶然と無垢の中間でたゆたう怪しさは、あるいは乙女となった己を知らぬ故か。


「…………本当にシワなどないでしょうか?」

「姫様。格好よりも時間の方を気にするべきだと、この婆は申し上げますぞ」


そう言った少女は繰り返して衣を翻し、今日も優しい彼女の魔王に会うために。

仕える老婆に諌められ、身支度に更に手間かけてようやく、彼の与えた部屋を出た。


「では行ってきます」

「はい。行ってらっしゃいませ姫様」


進んだ先は<迷宮>の廊下。

目的の場所で“迷宮転移”を持つ相手、白馬の要らぬ魔王様が迎えに来るのを待つために、どこか足早に通路を歩む。


「ふふ」


表情は明るく満面の笑顔。

吐息は軽く歩みは高く。

今だけは魔人の姫と異なる素顔を見せ────────ティアはハルキの下へと向かった。








一先ず今回はここまでにて。

短くて申し訳ありません。

活動報告で書きましたが作者都合で更新が停止しておりますので、書き上げた分の一部を先行投稿となります。

残りは書き足しを終えて完成できれば2の4として投稿の予定。

テオ君視点ではありませんが、この後が外伝の2に組み込まれますのでこの扱いに。

もしもお待ちいただましたら幸いです。


ティアの好感度は第一章でそれなりに上がっているのと時間の経過、その間の積み重ねでこのようになりました。

老婆はグランと違って護衛を兼ねない上、迷宮にいる限りあまり意味がないためあくまで身辺の世話役のみに。

その他、ご疑問があれば感想などからいただけましたらありがたく。


それではお久し振りとなりましたが今回もお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

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