第2話 迷宮創造
ティアリス=ミューリフォーゼは、過去最大の混乱に見舞われていた。
純粋に驚きで満たされている分、硬直の度合いは父の訃報を聞いた時より酷いかもしれない。
老執事の背中越しに見えるのは、大地に空いた深い竪穴。
内部からはもうもうと土煙が昇り、風にたなびいて揺れている。
煙に横幅はあまりなく、縦向きに細いが長く高い。
魔王と思しき人物の降臨、むしろ着弾に際して広範囲が抉れる爆発は起きず、垂直に地面が掘削された。
おかげで目にしたばかりの当人は姿を消し、今も地中に埋まっている。
頭の痛くなる光景だった。
「お嬢様」
思わずふらつく主と同じく、処理しきれない感情を含んだ執事の声にも応えられない。
沈黙の裏で、思考が完全に停止していた。
「うえぇ、土をかんじまった。不味、ぺっぺっ。運営もよくこんなデータまで作るな」
その耳が、聞こえてきたセリフにそばだつ。
生気を欠いた紅の瞳が視界の変化を捉えると、次第にそこに焦点を結んだ。
消え始めた噴煙にうっすら人影が混じり、輪郭を露に進み出てくる。
「うーむ。それにしてもノーダメージとは、流石は<負の鎧>。こういう時には特性が便利だ」
落下の時より近づいた距離や緩やかな速度、伸びた時間でようやく対象の詳細が知れる。
「それにしても汚れたなぁ。迷宮の外で動くのなんてどれくらいぶりだ?」
先ず目立つのは、体を覆う漆黒の鎧。
歪み、ごつごつと節くれ立った線形が各部を作り、外気に触れるのを阻んでいた。
両肩には角を思わせる飾り、胸には左右一対の、鮮血を思わせる禍々しい玉がはめ込まれている。
縁取りは赤く、無数に枝分かれした影の意匠が、絡み付くように描かれていた。
視線を上に向ければ露出した口元がのぞき、だが表情の過半は隠れている。
頭部を覆うのは、縦向きに空けた筋を連ねた板金を取りつけ、瞳の保護と視界を両立した、跳ね上げ式の飾り兜だ。
鎧と比較して薄黒の防具が少女の視線から装備者を守り、唯一、開かれた下部より見える口と、アゴの造作が男性ということを示唆してくれる。
聞こえた声と合わせれば、人間でいうなら20には届かず、10代後半の年齢のものか。
武器らしき物は持たずに無手で、明後日の方へ目をやっていた。
装甲された指で兜の裏を掻く様は、少なくとも威厳からは遠い。
遥か彼方といえるほどに。
「お、そうだ。もしかしてアレでいけるかな?」
ましてや一度は土中に埋まり、不気味ながらも仕立ては立派と感じる防具は、土と草とで汚れている。
どこの世界に泥をかぶってそのままでいる魔王がいるのか。
ティアリスの内心と共に、限りなく否定に近しい疑問が周囲に満ちた。
だが。
「暗き水面の底に揺れる影 久遠に臥する黒衣の王」
無造作な魔法の詠唱に、全員が目を見張る結果となった。
「汝が闇の一端を 古き夢幻の契りの下に借り受ける」
魔法。
この世界で普遍的であると同時に、最も不可思議なる事象。
万物にありて現象を構成する魔力を用い、望む内容を実現する、技術と法則の総称だ。
パターンこそ決まっているが威力や強度、発展性は術者依存。
高位の者に《拡張》し《倍加》されたモノなら、下級のものですら殺戮を叶える。
「暴食せよ漆黒 鎖せよ暗黒 触れるもの全てを冒涜すべし」
そして今、魔王が見せた真剣味のない片手間の詠唱、構築と起動に伴う魔力の波動は、驚嘆の域に値した。
色を見るならば噴出する暗黒。
膨大でありながらも確かな制御で圧縮された魔力の密度、無理も淀みもない詠唱が響く。
顕現の先触れで背後からおぞましい闇があふれ、泡の如く膨れながら空間を侵し、膨張して弾ける水泡はやがて拡散して霧化すると、人面を思わせる濃淡を広げた。
「なんという……」
術者以外、見る者の誰もが圧倒された。
儀式で消耗しているとはいえ、場の全員が及ぶべくもない魔力行使。
おまけに着込んだ鎧からして、魔導の他に接近戦もおそらくこなせる。
彼を見るティアリスとて魔王の娘であり、王の称号で呼ばれる者の実力は過去に見知っている。
そして知っているからこそ、外見や態度などによらない直接の『力』を理解できた。
これは。これこそは魔王その人に他ならないと。
「“奈落の輝斥”」
驚愕を前に完成される魔王の御業。
闇を凝縮した黒衣をまとい、物理・魔法を問わずにある程度の干渉を遮断しながら瘴気を振り撒く、防御付与の補助魔法。
暗黒の力は防具と皮膚上に浸透し、妨げになった土と草とを払い落とす。
「おおっ、綺麗になった!」
系統と位階で評すならば暗黒のⅣ。
最高位手前のスキルと魔力をゴミ掃除に浪費した魔王は、驚きを含んで楽しげにいった。
持続型の効果を維持することもなく、洗浄を終えると消してしまう。
呆れを誘う光景にも、周囲からは度を超し過ぎて言葉がでない。
よって。
「…………」
少女は無言で歩き始めた。
老執事はぴたりと付かず離れずで警護を務め、背中を預けた姫が安心して進む。
少しくすんだ気のするドレスを端をつまんで上品に持ち、衣を汚さぬように歩む彼女が足音を立てる段になると、ようやく魔王が視線に気付いた。
「あ、スミマセン。何かのプレイ中でしたよね? どうもお騒がせしちゃ────────」
苦笑、といった感じで初対面のプレイヤーに接する時の必須スキル、気さくな態度で言いかける。
「アナタが魔王様、でよろしいのでしょうか?」
「へ?」
途中で挟まれた言葉には、気の抜けた声が返された。
「確かにオレは<魔王>職ですけど」
何故そんなことを聞かれるのか、不審と当惑が語調に混じる。
彼が身に着ける<負の鎧>は、<ファンタジー・クロニクル・VR>では代名詞的な専用装備。
何も知らずに聞いたならピンポイント過ぎるし、知識があるなら見て分かる装備に、あえてたずねる意図が不明だ。
プレイ中、特に戦闘終了間際、近くに落ちて迷惑でもかけたなら問題だが、一体どういう状況なのか。
そう困惑する彼に対し、少女はいきなり頭を下げた。
「はい?」
勢いよく伏せられた顔に、遅れて金糸の輝きがかかる。
落ちきった毛先が揺れるのを目に、ようやく反応の追いついた魔王が息を詰めるも、彼女は微動だにしなかった。
深く。ただ深く、頭を垂れて願いを告げる。
「お願いします」
切実に。精一杯の震わせた声で。
事態も事情も把握の追いつかない彼が、それでも口を閉ざすほど。
「どうか。どうか魔人を」
驚き硬直する魔王に、姫が希う。
「助けて下さい────────魔王様」
こうして。
姫と魔王の、ファンタジーでも古典的な組み合わせは。
姫の方が先ずは魔王を召喚することで、2人の邂逅を終えたのだった。
魔人の姫が、新たな魔王へ語り始める。
呆然とする彼に対し、滔々と紡がれるこの世界の物語。
森の広場に、しばし少女の声が響いた。
一礼の後に加えられた話を聞き、頭の中で咀嚼して────────<魔王>ハルキが思ったのは、なんじゃこりゃ、ということだった。
人と魔の混じ入るファンタジーワールド。
人間に滅ぼされつつある魔族と、起死回生の魔王召喚。
今この時にも王国とかいう敵の兵が攻め寄せてくる大ピンチで、少女の話によるところ、運命のバトンは己の手中にあるという。
今時、大抵の創作物でも多少はひねろうかというもの。
聞かされた側の反応としては。
(これなんてWeb小説?)
に尽きた。
電脳を用いたオンラインゲームが誕生した時代、かつての幻想をもう1人の自分を通して実現できることで高まり、そして当たり前となって廃れた界隈。
オンラインゲームのプレイヤーなら誰もが読み、楽しみ、やがて自身で実現するうちに忘れていく、懐古的な趣味小説。
異世界転生、転移、憑依にトリップ、そして召喚。
旧時代の夢の名残、現実で濁った<一次虚構>の一覧だ。
自身が体験したバグとも思える状況がなければ、他人がふざけて即興の与太話をしているか、何らかのクエスト導入に当たると考えただろう。
(けどなぁ)
そうだ、とは即断しなかったが。
(ありえるのか?)
ゲームとして考えた場合、彼の職業たる<迷宮の魔王>は迷宮の存在あってのもので、ダンジョンに関連しないクエストを、告知や合意なく配布するとは考えにくい。
冒険に任務、探索やお遣い、指令と試練。
総じてクエストと呼ばれるそれらは、プレイヤーの選択と同意で開始するのが鉄則だ。
フィールドにおけるボスの緊急討伐であろうと、参加をするかしないかくらいはその場で選べる。
ログアウトもできない、というのは尋常ではない。
彼女らの前で試みたGMコールの他、幾つかの機能は利用できなくなっていた。
接触による手動入力、魔法の詠唱やシステムコールによる発声入力、対象を意識、認識することで作用する思考入力。
様々な手段を試したものの、使用以前にシステムに触れることすらできず、ツールの存在が見当たらない。
まるで最初から設定のない、または消失したのが妥当に感じる手応えのなさ。
(マジか)
ここまで来ると、運営によるなら犯罪である。
ネットが現実の社会を覆った時代、合意なきユーザーの意識の隔離、強制的な運用テストは『電子的営利誘拐』に当たる。
特に戦闘やを含む場合は肉体が無事でも意識・感覚への傷害や拷問の疑いがかかり、発覚による風評被害は致命的だ。
トラウマでも負えば、民事においても裁判沙汰に発展する。
仮に何らかの過失による結果であっても、実生活にかかわる個人の時間を奪うことは損害賠償などの請求事由として認められ、可能な限りの予見と防止義務があった。
従って、運営の故意かどうかはともかく、現状はおよそあり得ない。
「か、界暦1000年超え…………」
「?」
最後に設定の矛盾、いやむしろ崩壊。
聞けば、今ハルキが居るのは<ファンタジー・クロニクル・VR>と同一、または類似した世界であるらしい。
魔法など幾つかの用語、前提となる言語は自動翻訳の可能性もあるが通じているし、グローリアという大陸の名称の他、基本的な設定周りは変わっていない。
時間的な事実に目を瞑れば。
彼の知る界暦────ゲーム内で標準採用の暦────で公開された歴史は、約700年分。
対して、目の前の少女は大雑把ながら『1000年』だという。
とすると300年分の空白があるが、たかがプレイヤー1人に振るクエストのため、世界全体の未来を決めるとは思えない。
聞かされた人類三大国家や魔族領は憶えがなく、ならば彼の知る範囲で存在していた国家群、そこでハルキ自身を含めて鎬を削っていたプレイヤーの功績も努力も、思い出の地すら気付けば滅んでいたことになる。
自分たちの関われない形で。
今時、何よりもユーザーの好みと願望に敏感なオンラインゲームの運営が、そんな話を用意するか。
否、というのが<魔王>ハルキの見解だった。
「それじゃあ」
一通り情報の整理と考察を終え、己の召喚者に向き直った彼がたずねる。
「お前たちが、助けを求めてオレを《召喚》したってことでいいんだな?」
「……はい」
すぼみがちな返答は、それでも確かに肯定だった。
本当の意味での異世界召喚も信じがたいが、関連する技術と法が確立された時代、運営会社が起こした問題だとも考えにくい。
「はあ」
よって、一先ず半信半疑。
なら取り敢えずは行動するのが、彼の出した結論だった。
VRゲームに親しむ以前の幼少の頃、そういう夢を抱かないこともなかったが、仮に叶ったのならどうしたものか悩ましい。
「話はわかった」
目の前の少女から聞き出せた話の内容は、『そういった妄想』の典型にハマり過ぎていて、実によろしくない先行きを見せる。
「それで、オレはどうすればいい?」
近年、長い争いの果てに魔族を大陸中央から叩き出した人類、中でも人間による王国、帝国、教国の三大国家は勢力を増しており、魔族に対しては一貫して敵対しつつも、内では三竦みの関係にある。
最大の国力を誇る帝国と王国が矛をぶつけるかたわら、自らのかかげる<創造教>で人類統一を目指す教国は、皇帝を唯一絶対とする帝国との仲がすこぶる悪い。
初期こそ宗教による箔付けと布教の利益を交換していたが、双方が巨大になり、年月を経るごとに関係の悪化が進行していた。
王国と帝国が額をこすり、教国は帝国より見込みのある王国に近づいて協力し、帝国は教国を潜在敵として戦略に乗せる。
大陸動乱期の終息以降、一定の力を蓄えた国家同士は再び戦争の予感をさせ、後顧の憂いを断って国力を増すべく、先ずは魔族に標的を定めた王国が魔人の王を討ち、一気呵成に彼らを根絶やしにかかったのだった。
「滅びかけてるのをどうにかするにしても、そのために戦うにしても、細かいところは色々あるだろ。そっちはオレに何をやって欲しいんだ?」
以上の簡単な説明、というよりも彼女たちの言い分を聞き終わった後、態度を硬化させたハルキは、敬語をやめて話している。
原因が運営か、万一これが現実であっても彼女側の事情によるなら、特に下手に出ることはない。
事によっては彼の方が被害者だった。
「は、はい!」
が、長い気をもみながらの会話を終え、ようやくの具体的な反応に少女、ティアリスの方は望みの叶った笑顔を浮かべる。
緊張に固くなっていた表情が雪どけるように綻んでほどけ、森の広場に花咲く笑みを開かせた。
(────!)
同時に、魔王の見せていた険しさが和らぐ。
強張っていた少女の頬が柔らかく膨らみ、まなじりが下がって天真爛漫といった風に崩された、屈託のない相好に惹かれた。
年頃のものとしか思えない態度と容姿に、ハルキの脳裏でプレイヤーやNPCの可能性が目減りしていく。
(可愛いな)
久し振りの、そして素直な感想だった。
優れた容姿が珍しくないオンラインゲーム、作られた美なら見飽きた彼の経験をして、そう思わせるだけの華がある。
「えっと。おま……いや、君は?」
その気になれば人物登録から好きなパーツを組み合わせ、細部に至るまでデザインも変わる仮想現実。
電脳の世界で用意されたツールがあれば、誰もが『それなりの美男美女』を合成できる。
結果、多くのMMORPGでは始まりの町、下手をすればプロローグやチュートリアルの時点で『美しい』という言葉がゲシュタルト崩壊を起こし、万人総美形から容姿の競争が起き、高位のプレイヤーほど食傷気味になるのだった
「あ! す、すみません。ご紹介がおくれました」
キャラ作りまで考えれば、外見と性格のいずれにせよ、電脳においての美しさとは自然の対極。
生れ付きの性格美人や容姿の持ち主でもなければ、そこには演技を伴った、無意識レベルの違和感がある。
「私はティアリス。前魔王ソーロンの娘、ティアリス=ミューリフォーゼと申します」
だからこそ。
目の前で名乗る少女の見せた微笑みは、とても尊く感じられた。
朗らかな小顔に差す朱の中、紅の双眸がゆるく細まる。
陽の光を受けて照り映える、柔らかに波打つ金の頭髪。
雪色をしたドレスを纏い、また別の白を浮かべた肌。
緊張が溶けるような、鼓動が高鳴る心境をハルキは自覚した。
何もかもを疑って自然に映るなら、それは真に本物か、本物に至った偽者か。
そのどちらかしかないのなら、生きた人間────彼女の話を信じるなら魔族だが────のそれと思う方が、よほどいい。
仮想現実は、そんな夢こそ持ち込む場所であるのだから、と。
そう、魔王の肩書きに合わないことを思う。
「よろしければティア、とお呼びください。アリスやミューリとも呼ばれています」
「ならティアで」
「かしこまりました」
「おほん。……お嬢様」
割り込んだ咳払いが間を置かせ、両者の視線がそちらを向いた。
「失礼を。私めはグラン=ダグラスと申します。お嬢様の執事を務めておりますので、以降、ご用命の際はどうか私めに」
「あ、ああ」
言って腰を曲げる執事服の従者。
ハルキの方は何か返そうとして、躊躇ない一礼に気圧される。
頭を下げる作法が実に堂に入っており、老練の雰囲気も手伝ってまるで隙がない。
既に老境にいることは明白だが、練られた覇気は無意味に発されず全身を包み、静かな生気をたたえている。
シワ一つない執事服の、折り目をつけない姿勢の維持も見事だった。
オールバックの銀髪は白筋を混ぜつつ均一に流され、老いてなお保たれた光をギラつかせている。
体勢を戻した顔にはモノクルが知性を添えるが、かえって頬のシワと刻んだ、年月の重厚さを隠し切れない印象が強い。
「爺」
「お許し下さいお嬢様。しかし魔王様へのご説明も終え、既に時間がありません。王国の者共はすぐここまで押し寄せるでしょう。その自覚だけは促させていただきたく」
ティアが声で咎めるが、執事は柳に風で返した。
年齢の差が見た通りなのか、両者のパワーバランスが垣間見える。
慇懃無礼な気配はないが、諫言の類を秘める臣でもなさそうだった。
「幸い、魔王様も即座に否とは仰らないご様子。今は単刀直入に願うべきかと」
提案より断言のニュアンスで水を向ける老執事。
受けた主は拗ねた表情を浮かべたが、魔王の目を意識し、頭を小さく左右に振ると、気を取り直して整えた。
「……そうですね。わかりました。確かに爺のいう通りです」
吐息を紡いだ唇をかむと、姿勢を正して魔王へ直る。
反応した彼が微かに肩を動かすのと、ティアが口を開くのは同時。
「いたぞおぉぉおおおっ!」
静寂を切り裂く無粋な大音声も、丁度。
「!?」
「っ」
「来たか!」
会話に参加しなかった魔人、魔王まで含めて全員の視線が一ヶ所に集まる。
声と共に森の広場の外周、密集した木々や小道との境に現れた影。
鎧を着込み、長剣をたずさえた兵士に誰もが目を剥く。
恐れで、怒りで、困惑で不安で、あるいは全てで。
普遍的な体格であり特徴のない、強そうにも見えない標準の人型。
共通の基準そのままの────────ただ純粋な人間が、敵意も露に存在していた。
「前線は壊滅したか」
短く、深い哀切を沈めた執事の声が混乱にまぎれた。
「そん、な」
姫君が手で顔を覆い、口から切れた息を漏らす。
儀式の前から予想された、敵の到来。
意味されるのは自らの危機と、それを終えた仲間の最期。
時間稼ぎで森に散った、100名以上の魔人たちの、一体どれだけが死なずに済んだか。
ローブの老体をはじめとした魔人が魔王側へ駆け、両者が綺麗に二陣に分かれてにらみ合う。
兵士は奥の陰から続々と現れあっという間に隊列なすと、前列に出た1人が魔人を指差し、老人に執事、姫君、そして魔王と、タイミングをつけて巡らせていった。
「一、二、三…………なんだ、随分と少ないではないか。まったく、期待外れな。薄汚い魔族なぞ10や20殺したところで、我が家の誉にならんというに」
左右に抜剣をすませた兵士を控えた、飾りつきの騎士甲冑。
板金を連ねた鎧は様々に装飾され、毛皮をあしらった赤いマントを後背へ流し、兜からは区別を図った角状の突起を鋭角に生やす。
ただ。何より周囲と比して異様なのは。
「あ、あ、ああぁ」
「ふん」
蒼白になった姫の見る先。
下半身を滅茶苦茶に切って落とした骸、血を失って断面も乾いた魔人が胸を抉られ、見せ付けるように槍で刺して吊るされていた。
千切れた血管と臓物の欠片がこぼれだし、引っかかるように肉の先で揺れている。
「何ぞ魔法の発動を感知したから来てみれば、この人数で一体なにを企んでいたのか。まあよい、武功は武功だ。魔石も軍費の足しにはなる。これで全員でもあるまい。他にくれてやるのも惜しい故、さっさと殺して進むとしよう」
指揮官、と思われる人物は独り言を済ませると、隊列の後方まで響くよう、奇妙に延ばした大声で叫んだ。
「魔族どもに告げる!」
宣告に合わせ、魔人側もようやく動く。
「魔王様っ。あれが、彼らがっ!」
「お嬢様後ろへ!」
惑乱した様子のティアを、グランが庇って距離を取る。
他の魔人は手に手に己の武器を取り、体で姫への射線を断った。
「魔王様っ! どうか……どうかっ……!」
事態に感覚が追いつかず、動けないハルキが両陣の間に取り残され、結果として意識と注目、敵の矛先が向く。
「王国の版図に貴様ら魔族の居場所はない。さっさと死ぬがいい────────殺せぇっ!!」
「「「「「うおおぉぉぉぉおぉおぉおぉおおおお!!!」」」」」
宝石の象嵌された鞘から剣を抜き、指揮官が轟く叫びを上げた。
従う兵が手柄を前に殺戮を許可され、森を揺るがす咆哮を重ねる。
率いる者の言葉に滲む、魔人を人間と、同じ命と思わぬ殺意。
ギラついた視線と音声が巨大な圧力と化し、受ける側を青ざめさせた。
「魔族を殺せ! 我らが王国に栄光と勝利を!!」
「高位を狩れば出される褒美は思いのままぞ!」
「出遅れるなよ! 一番槍は我等のものだ!」
小隊の隊長が発破をかけて欲望を煽り、逸る者が競争によって加速する。
駆け足で飛び出す王国兵たち。
鎧を纏い、鉄靴を履いた集団の進撃は大地を揺らして大気を震わし、刃を握り、波打つように押し寄せる。
目を血走らせたその形相は、狩人ではなく獣を狩る獣。
無秩序をルールに駆け寄る先頭は槍を構え、後続の兵士は剣を抜き出し、後方の射手が矢をつがえ、魔法使いが杖を握る。
目標は、彼らが魔王と知らぬハルキだけに。
ティアが何事かを叫び、執事が飛び出さぬよう主を抑え、残る魔人が魔法の詠唱や防御を始める。
「死ねえぇぇぇっ!」
接触を待つ攻防の距離は瞬く間に縮まり、先頭に立っていた兵士の1人が雄叫びを共に、魔王へ向けて渾身の穂先を突き出した。
「────────いや。まあいいんだけどさ」
同時、戦場が凍結する。
「「「「「!?」」」」」
氷に閉ざされたような停滞の中、彼の声だけが余韻を以て響き渡る。
動きを止めた王国の兵、予想外に硬直した魔人。
そのどちらにも属さぬ異界の魔王だけが、籠手先の指で頬をかいた。
「一先ずイベントクエスト、とでも思っておくか」
兜の奥から光が漏れる。
降り注ぐ陽射しより輝かしく、また美しい七色の燐光。
虹の眼光が敵を遍く射抜いて止め、呪縛して固く縫いつけていた。
「《魔眼》解放、【石化】のみを封印処置。【威圧】・【呪詛】、【重圧】・【呪縛】で付与判定」
あえて発声を行う意識が手順を淀みなく消化し、望んだ効果を具現する。
「あ……!? か……っ!?!?」
眼光にとらわれて呼吸すらも満足にできず、小刻みに痙攣する兵たちが。
喉を絞った驚愕が、口からか細くこぼれ出た。
震える全身は見る間に肌から汗を滲ませ、鎧の各部を噛み鳴らし、手にした武器を取り落とす。
冷や汗と浮かべる表情は、理解の及ばぬ恐怖の一色。
あれほど猛っていた兵が、心身共に戦う術を喪失していた。
「王国兵ねえ。街中の衛兵とそう変わっては見えないけど。ノーマルタイプの鉱物装備に、支給の武器か。精錬の度合いが高いとしても【高品質】のわけでもなし、《連携》と《陣形》で30レベル相当ってとこかね」
魔王は明らかな異常事態を何事もないように観察し、居並ぶ者たちの実力を《看破》、彫像と化した敵兵に向けて静かに語る。
「新兵以上精鋭未満。NPCの平均の範囲じゃ精兵かな? けど足りない。仮にも<魔王>と戦いたいなら、最低20は上げてこいよ。でなきゃ《魔眼》で全滅だ」
起動した眼光を解除すると、対象の情報を取得するスキルで敵陣を睨めつけ、ご新規に対する親切さでわざわざ解説を始める。
本来なら《隠蔽》でもない限り視認した時点で表示される名前が見えず、詳細においても思考式で脳裏に浮かぶのが不自然ではあったが、今は置いておくことにした。
「弱者は魔王から逃げられないし、戦えもしない。基本にして鉄則、のはずなんだけどなぁ。NPCでもないのにこれなら、やっぱりそういうことになるのか」
《魔眼》。
<ファンタジー・クロニクル・VR>においては一部の魔物や種族・職業が持つスキルで、様々な効果を、場合によっては複合して持つ。
ファンタジー系のゲームでは状態異常としてお馴染みの効果は、《魔眼》に搭載されると長距離の射程と範囲を持ち、主にボスエネミーに対してパーティー以外の戦力を足した人海戦術を禁じ、努力を推奨するリミッターだ。
誰もが対策を講じて臨むにせよ、初手から壊滅の危険を与える凶悪さは、魔王が最強に数えられる一因でもある。
「一応、【石化】はかけてないから動けるはずだけど…………おかしいな。それともレベル差があり過ぎて、【重圧】の負荷を筋力が突破できないのか?」
内容には通称で上位と下位があり、上位状態異常への耐性は獲得が50レベルからとなるため、便宜的にそう呼ばれるある種の区分けとされる。
仮に【威圧】に耐性があっても上位の【重圧】耐性がなければ後者は素通しになり、対象が下位────49レベル以下────の存在であった場合、保有している効果次第で無敵にすらもなれるのだった。
有り体にいって、彼らの行動は新手の自殺に他ならない。
(これは上位魔法で大惨事だろうな)
殺そうと思えばすぐにでも殺せる。
実行しないのは本当の意味での殺人を一応危惧するからで、やる気になれば詠唱数秒で虐殺可能だ。
逆にいえば現状維持に徹する限り、遠からず《魔眼》の効果は消え、彼らは動き出すことになる。
「ふう」
どうするか、と近しい未来に溜息を吐き、気分を変えるべく兜を脱ぐ。
防具にかかり、上げられて落ちる彼の頭髪。
男性の基準で適度に伸ばされ、圧迫でクセのついた黒髪がさらされると、小さく森の風に揺れた。
「!?」
唐突に、息飲む気配が周囲から生まれる。
初めて露になった彼の容姿、魔王の素顔に、はっきりとした恐怖の視線が寄せられた。
「く、黒だ……」
「闇の色だ」
「暗黒の髪と深淵の瞳」
西洋風の世界観でそれ以外、特に和風の容姿というのは珍しい。
一生に一度と見なくてもおかしくはない程度には、このグローリア大陸、彼が知るのと似た大地でも同様だった。
黒髪に黒瞳、同色の兜と色彩の鎧。
黒と闇と影と夜と深淵と、漆黒と暗黒との具現。
この世界の住人からすれば、その外見はある種の悪鬼に見えるのだろう。
確かに、目にする範囲で黒髪の者は他にいない。
(しまったな。外人のプレイヤー相手なら、日本人の黒髪キャラとか大はしゃぎなのに)
金髪美人と大和撫子は等価値で、どこの国でも、自分にないものを求めることに変わりはない。
(いよいよもって異世界人って感じだけど。こりゃ、やり難くなったかな?)
王国の声は聞こえ難いが、どちらも勝手に言ってくれる。
魔人たちの恐怖が比較的薄いと思えるのがまだしも幸いか。
少し落ちこんだ気を直し、考えを巡らせてどうするか決める。
固まったままの兵士たちに背を向けると、魔王は逆側に歩き始めた。
「魔王様っ!」
距離を置き、事態を見守っていたティアから声がかかる。
何となく手を振ると、遮る執事を押し退け────────ようとして無理なので、例によって背後に連れて駆け寄ってきた。
「そういうお顔だったのですね」
「? いや、まあそうだけど」
純粋な感想、といった柔らかな雰囲気。
周りの反応からの予想外さに呆気に取られ、曖昧に頷くと、深い一礼が返る。
「強力な魔眼をお持ちなのですね。ありがとうございました」
「別にいいよ。それより」
彼より背の低いティアが頭を下げると、随分と位置が低くなる。
垂れた金髪から覗くうなじに目を逸らすと、首を振って切り出した。
「あまり長くは続かないから、今のうちに聞いておきたいことがある」
「……はい」
纏う空気を変えた魔王に、姫も表情を変えて応じる。
「それじゃあ教えてくれ。君がオレに何を願うか」
ハルキの瞳が、彼女の双眸を真っ直ぐに映した。
実際に襲われたとなると、いよいよ以て彼女らの話を聞かなくてはならない。
プレイ中のオンラインゲームで光に呑まれ、見知らぬ場所でログアウト不可。
運営会社へのコールも出来ずに放置され、少女と出会って敵が襲撃。
あまりに話が出来過ぎていて、なのに周囲の反応が自然に過ぎる。
ここまでくると、ネット上の電脳都市伝説の類だ。
デスゲームの開始に召喚転移、転生憑依、飛び出しトラックに神様のミス。
ある日ふといなくなるネットの友人。
連絡が全く取れなくなり、誰が探しても見つからない。
あるいは事故や接続超過で脳をやられた廃人が、最期していたゲームの記録が見つからないとか。
ギルドの仲間が聞いた話を又聞きした、証明できる証拠のなさを、否定もできない証拠不足に置き換えた、もしももしもの怖い怪談。
そこにおけるもしかしてを、念頭に置く必要が出てくる。
「私は」
だから先ずは何よりも、彼女の意図が重要だった。
己を招いた召喚者の。
「私の願いは」
言いかけて。
少女は一度、顔を伏せて胸に手を当て、握った衣にシワを作る。
そして拳を解き、呼吸に合わせて目を閉じ、開いた瞳で名前も知らぬ魔王を見た。
「助けてください────────魔王様」
繰り返しの言葉はなめらかに少女の唇から謳われ、おとがいを上げた顔の下、伸ばされた喉が緊張を飲む。
「私たちを、守ってください」
願いに二度目の邪魔は入らず、姫の声が魔王に届く。
願いを聞くのは魔王よりも魔法使いの領分だが、かつての挑戦者曰く『性格の悪い』魔王の彼は、己にすがる少女を前に、薄く笑うに止めておいた。
「へえ。自分たちを守ってか」
愉快そうに。
それこそ無自覚に肉を得た現実だからか、爆発しそうな生気を込めて。
「何か侵略されてるノリだったけど。敵を殺せ、とかじゃなく?」
「いいえ。……いえ、違いますね。奪われた領土を取り戻すには、それも必要かもしれません」
対するティアは、周囲にいる仲間に目をやって続けた。
「けれど。それでも、最初はみんなを休ませてあげたい」
ハルキの知ることではないが、彼女に従う魔人たちは、誰もが酷く疲弊している。
前魔王の謀殺と人間の強襲、各個撃破される拠点。
寸断される情報網を繋ぎ、王の死という絶望から戦い続けてきた彼らは、成程、消耗の極致にあった。
守られ、指示を飛ばす姫と執事は別として、残りは相次ぐ敗北に終わった防衛戦や、撤退戦の生き残り。
物資より体力より何より、人員が先ず消耗している。
ことが魔法の分野とはいえ、召喚の中心になった一団の長が、枯れた老体なのが証拠。
戦場に出られる若者や、壮年のベテランから死んでいったということだった。
「だからどうか、もう私の仲間が傷付かなくていいように」
単純に、そんな状況の中で。
急死した父親の後を年端もいかない娘が継がされ、直後に様々な困難に襲われたなら、彼女は一体どれだけの地獄を見るだろうか。
それはきっと、ゲームのように『遊び』があるものではないだろう。
彼女が口にする皆の中に、己の家族はいないのだから。
「みんなが安心して暮らせるように」
だからその声には、鍍金にはない重さが乗る。
演技や偽物、疑いの余地を越えて届く真実が宿る。
異世界の魔王────────他世界の人間にすら届く。
「魔王様。私たちに、どうか安全な場所をください」
言い終える。
屈した背中は、長く元には戻らなかった。
数呼吸分の時間が過ぎてようやく、恐れるようにゆっくりと上がる。
願いの先を目にした少女は、そこに満面の笑みを見た。
「いいんだな?」
「え……? えっと、どういうことでしょうか?」
「だから」
意図がわからずに聞き返すティア。その言葉に、ハルキが飛びついた。
「いいんだな? 『安全な場所』を提供できれば」
魔王が笑う。
運命の一致に。非現実の悪戯に。
「はははははっ!」
哄笑が広場に響き渡った。
「いやもう、本当は専用のクエストじゃないのかこれ? ははっ! ハマりすぎだろう!」
安心した暮らし。安全な場所。安定の構図。
「そういえば言ってなかったな。じゃあ名乗ろうか」
引かれた図面には、迷宮、と書き込まれていた。
「オレはハルキ。魔王ハルキ。<迷宮の魔王>────────ハルキだっ!」
名を明かして宣言する。
「安全と安心? ああ、だったら守ってやるさ。防衛しよう、守護しよう。侵入者が来たら攻撃して迎撃して撃退してやる。<魔王の間>に<宝物庫>、居住区画に最深部。人間の来れない場所ならいくらだって作れる!」
おそらく異世界にまで来ての、奇妙に過ぎる特性の一致。
彼が最高のそれを求めて戦いに明け暮れ、今また少女が求める場。
叶える手段は無数にある。
製造されるモンスターに設置するトラップ、ダメージエリアに隠し部屋。
彼の力をもってすれば、迷わせるのも戦わせるのも、自由自在だ。
「ほ、本当なのですかっ!?」
「お嬢様」
姫の瞳が色めき、落ち着かせるため執事が言って咎めるが、願った希望の光を前に、主の心は冷え切らない。
「本当だ。その点に関してはこのオレの、<迷宮の魔王>の誇りにかけて約束できる」
「でしたらっ!」
1人が跳び上がり、1人がそれに応え、互いの熱が引き寄せ合う。
身長による差を縮めた顔は、気付いた魔王が姫の頭に手を置くことで離したものの、触れられた方は拒みもせず、むしろ自ずから繊手を添わせ、膨らみのある胸元で包んだ。
「っ!?」
「でしたら、どうかお願いします。魔王様。どうか、私たちをお守り下さい」
温もりを受け取る側は相手の言うに任せ、招き手はただ祈りを捧げ、執事も今は沈黙を保った。
「わかったよ」
魔王が、召喚者の願いに契約する。
遅れて頭の中に火花の散るような感覚があったが、高いテンションに混じったそれは、一瞬で余韻もなく消え去り、回る思考に飲まれていった。
「じゃあ、それでいいんだな?」
「はい」
確認を終えて今度こそ離れる。
少女の顔は喜びに明るく、男の顔は上ってきた血に赤かった。
握る手に残る柔らかな感触。
悟られぬように背中を見せ、頭の後ろを指で掻いて向き直る。
「?」
男に胸を触れさせたのに気付かないのか、気付いた上で分からないのか。
ティアが疑問符を浮かべると、ハルキは嘆息して歩いた。
硬直している王国軍とは逆の方へ、魔人の団体を割って進む。
ひとりでに開いていく集団は、中途で様々な視線を投げた。
その全てを揺らす肩で切って広場の上方、森の奥へと道の手前にやって来ると、足を止めて手を掲げる。
夜色の篭手に包まれた、魔王の右腕。
高く、誰もが無言で見守る中で太陽を握った掌は、沈黙を断って振り下ろされた。
「“深化・逆天宮の創造”ォオッッッ!」
呪文を唱えた瞬間────────には何も起こらなかった。
彼方で鳥が鳴き、周囲の見詰める視線が呆ける。
注目と大仰な身振りがすかされ、全員の意識が空隙に満ちた。
直後に。
「きゃっ!?」
「な、なんじゃ……!?」
本当の驚愕は予想を上回られた時に、前後の落差が大きいほど生まれる。
魔王に向いた瞳が例外なく地に落ち、続く衝撃に見開かれた。
「地面がっ……!?」
地が揺れる。天が鳴る。木々がざわめく。
両の足から伝わる振動が胸をつき、混乱に鼓動を速めさせる。
「み、見ろ!」
誰かが差した指の先、地中から突き上げた何かが、荒く森を裂いた。
ガラガラと鳴る崩壊の音。
砕け、盛り上がる土の上で深く張った木の根が千切れ、幹が折れ、枝が潰されて葉が舞い落ち、弾かれた石が四方へ飛び散る。
「とっ、扉!?」
地表を裂いて現れたのは、巨石の柱を左右に備えた金属の板だ。
ただし、途轍もなく巨大な。
鉄板が陽光に鈍く輝き、見る間に樹木の高さを越えて古い大樹の身の丈へ届くと、塔というべき境界に達する。
白亜の石柱は天へ進撃の最中に素材の色とは対照の、悪魔を模した翼を生やした。
板金、というには厚すぎる2枚の鋼板は、合わさる中央に縦向きの線を切り通し、開閉が可能だと語る。
メートル法で表せば、縦横が何十mに達するケタ違いの門扉。
自然に満たされた森に、人造の境界線が引かれる。
森の一角を丸々と呑み込み、深き地獄の門が建造された。
「開く、のか?」
およそ誰かが立ち入るものとは思えない、空へ屹立する大門。
度外れたその重厚さが、物言わず不気味にそびえ立つ。
仮に横からの視点で見れば、鉄門の上からは同じ材料で作られた線が右側下方へと伸び続け、やがて大地と交わると、巨大な三角を作っていた。
扉の存在と合わせて示すのは、開いた先の、地下へと続く道である。
「開くさ」
魔王がいう。
己が玉座に敵を招く片道の入り口。
自らが出ることはなく、相手を出すこともなく。
ただ開かれる地獄路は、故に閉じ切ることがない。
異界、魔境、死地、戦場。
魔王の住まうダンジョンへの扉は、くぐれるからこそ意味がある。
勇者を選ぶ試しの門。
不意にこみ上げてきた懐かしさが、彼の目を細めた。
(あーあ。これが一つ目、か)
いざ実行に移してみると、思考の入力に近い形で無意識に判る。
過去。
召喚前に有したダンジョンとの繋がりが、既に完全に断たれていた。
脳裏に浮かぶ保有数のカウントは、たった今に0から1へ。
(薄々覚悟はしてたんだけどなぁ)
彼が<迷宮の魔王>である限りある反応のロストは、先の召喚された直後、ログアウトなどを試した時には判明していた。
ゲームシステムが存在し、通常の稼動をしているなら、<迷宮の魔王>がその迷宮から切り離されることはない。
設定上、何があろうと2つは不可分。
迷宮を離れても侵入者がいれば頭の中で警報が鳴るし、迷宮そのものとのリンクによって様々なことをモニターできる。
(はあ。鬱だ。伝説の『ドラ○エのセーブデータが消えた時の気持ち』っていうのはこんな感じか)
それこそゲームとよく似た舞台に異世界転移、でもなければ説明がつかない。
従ってこの時点で、一人のプレイヤーとして生きてきた鷹風 晴樹という人格は、これが現実的問題であるのを諦めた。
あくまで半分程度であるが。
異世界召喚という、非現実な問題と認めたのだ、ともいえる。
「開門」
我が家のように慣れ親しんだ玄関口、新しくも長い付き合いとなる門を縁に、精神を立て直して開門を命じる。
「おお……!」
背後のどよめきを浴びながら、重々しく門扉が開かれた。
2枚の厚板が軋みを上げて離れ始め、内側に封じていた闇を、差し込む陽の下にさらけ出す。
払われた闇は奥へと続く通路を現し、光を遮る構造によって濃い色の影をたたえた先には、地下への階段が薄っすらと見えた。
「色々と話したり考える時間も欲しいんで、悪いがとりあえず入ってくれ。後方に残ってる連中だっけ? そっちも当てはあるから、安心してくれていい」
横に向けて数歩ズレた彼がいう。
どうぞ、と言いたげな片手は手の平を上に迷宮を示し、この短時間で起こったことを考えれば、さながら悪魔の誘いにも映った。
「残っている者も、どうにかしてくださるのですか?」
「ああ」
前に進み出たティアが問う。
魔王が短く答えると、逡巡の様子を見せた後で振り返った。
「行きましょう。みなさん」
「ひ、姫様」
歩く。
ゆっくりした速度は秘めた緊張の故なのか、率いる者に決断の時間を与えるためか。
とはいえ、元より疑う選択肢などない。
先代の遺品は使いきり、これ以上の逃げ場はなく、敵の兵は既に来た。
相手の数は100近いが、森の中にはこの10倍はいるだろう。
ヴァラハール王国の騎士団の一つ、その一部隊が精々か。
もはや退けず戦えず。ならば残るは進むしかない。
「う、む。皆よ、行くぞ」
ローブの老体が発言し、ようやく全体が動き始める。
先導に従い、ぞろぞろと迷宮に向かう魔人たち。
「お嬢様もお早く」
「ええ。でも、みんな一緒に。それに魔王様も」
迷宮の前、木々の倒れた地面を鉄門が均した上に立ち、集団を待つ主に執事が促す。
応えた主は微笑んで、ただやんわりと断った。
途中、自分への視線を挟まれた魔王は曖昧に手を上げ、移動する魔人に注意を置く。
恐らくは敬愛しているのだろう姫にいわれた一団は、待たせてはならぬと歩を進め、次々と境界線を過ぎる。
全体の半分が通り終えると少女も動き、魔王本人が最後を飾った。
「ま、待てい……!」
そこに、後ろから制止の声が響く。