外伝の2 魔人たちの送る日々
それは<迷宮の魔王>ハルキとヴァラハール王国、<勇者>メルリーウィの出会いと交戦より、月日の流れた後のこと。
異世界にして幻想の大地、グローリア大陸における一つの視点。
強大なる魔王の<迷宮>において本筋から外れた、極ありふれた生活の話────。
<魔人族>の少年テオは、その日も早くに目が覚めた。
「う……」
太陽の恵みが届かない、<魔王>の建てた地下深くにある彼らの住まい。
布団の擦れる感触に目を開き、起き出す両親が闇の中で寝具を整え、やがて部屋の一角へ向かう足音が、彼の耳と意識を立てる。
続いてパチン、と響く高い音。
明暗の切り替えに世界が照らされ、急な覚醒を促した。
「おはよう、テオ」
さっと切るように端まで現れた視界の中、ぼやけた瞳に父の声が降ってくる。
シワを深くした男の笑顔を間に挟み、上に広がる天井は遠い。
木板を張った造りと違い、風の日も雨の日も静かな、厚みと安心を重ねた壁。
取り付けられた円形の光源、魔力の通った魔法灯が生活に馴染んだ光を振り撒き、起床の時間を告げていた。
(…………今日も明るいや)
天候と時間に左右されず、いつでも点けて消すことができる、魔法にもよらない小太陽。
本来なら無縁の高級品の輝きを目に、慣れた意識でテオは起き出す。
木や藁にない弾力を持った寝台で、移動の軋みは小気味良く耳に残響し、キシキシと小さな囀りを鳴らした。
「おはよう、父さん、母さん。クレオはどうする?」
「おはよう」
「ああ、おはよう。クレオはまだ寝かせてやりなさい。朝食を先にもらってこよう」
「わかった」
立ち上がって父と母に挨拶し、軽く朝の会話を交わす。
起床と同時に労働の始まる朝から変わった、一家が個別の時間に起きる、贅沢と惰眠。
寝台から降りる彼の横、夢の中でその両方をいっぺんに味わう妹を見て、テオが頷く。
両親の使う寝具の対岸、こちらに置かれた枕の一つで寝息を立てる妹から、努めてそっと距離を取った。
「お前の分もちゃんと持ってきてやるからな」
横に寝転んで手を合わせ、可愛らしい顔を覗かせている妹の、安らかに閉じた目蓋の上。
色気に伸びるにはまだ早い髪、額にかかる柔らかな感触をふと撫でてやり、小さな<魔石>の硬さに触れる。
自分と同じ狭義の魔人、肉体的には<人間>に近い者の特徴。
コメカミから上へ斜めに走る鉱物を指に、兄であるテオは微笑んだ。
(…………迷宮の暮らしも不安だったけど、今じゃここに来る前の方が夢みたいだ)
胸中の安堵に、見詰める少年の眼差しが弛む。
妹の姿は少し前までの日常で、ある日突然に人間に奪われ、彼らの姫と魔王によって取り戻された、平和の証だ。
パジャマというらしい明るく単調な色彩の寝巻き、乱れた肩口と胸元を軽く整えてやると、愛する家族から今度こそ離れる。
「んぅ」
聞こえてきた声の調子は緩く、吐息の雰囲気は温かい。
過去に人間の焼いた故郷、追われた家とレーゼの町からここまで味わった寒空の辛さは、無縁と化して久しかった。
「よし」
家財も持てずに衣類を欠いて夜に凍え、壁なき闇を追ってくる者の影に怯え、空いた腹を叩いてひたすら逃げた日々。
生まれた土地を地獄のように覆っていく戦火、夢にまで見た悲鳴や死体。
挟んだ呟きで回想を打ち切り、気分を替えて気合を入れる。
衣服や家具の支給と合わせ、彼らの戴く<迷宮の魔王>の地下世界で、そんな苦痛や不安は排除されていた。
(ソーロン様もいい御人だったっていうけど。今の魔王様もすごいよなぁ)
新たな魔王の台頭と治世で、魔人の生活は一変している。
『故郷よりは寂しいが、家にいるより快適だ』。
最近耳にする仲間たちの感想を、思い出して苦笑した。
「じゃあ行くぞ。ほら」
「うん」
履いた靴越しに沈む繊毛の感触を踏み、待っていた父と歩き出す。
差し出された手から籠を一つ受け取ると、中からは重ねた器の揺れる、硬質な音が幾度か響いた。
「今日もお願いね」
「行ってくるよ」
彼ら一家が魔王ハルキから与えられ、ティア姫の判断によって割り当てられた、小家族用の幅広な居室。
簡易の炊事場では<冷蔵庫>という家具が開けられ、不均等な段組を前にした母が、見送りの笑顔を向けてくれる。
魔人であれば数人がかりで作って維持する氷室の機能を、箱状に収めた保冷装置。
本日のランチを想像し、父を越して先立ったテオは扉を開け、彼らの王が『ホテル』や『マンション』風と呼ぶ部屋から、今日の一歩を踏み出した。
「今日の朝メシも楽しみだなぁ。そういやお前んちのカミさん、確か今日の担当だったろ」
「ああ。おかげで昨日は大変でよ。準備が早いからってさっさと寝ちまうし、明るくしてると眠れないからってオレまで付き合わされたんだぜ? チビたちがまだ眠たくないって騒ぐもんで、寝かしつけるのが大変でな」
瞬間────────瞳の中に世界が開ける。
「坊や。人が多いから、はぐれないようしっかり手をつないでおくのよ? 他の人の尻尾や羽を踏んだり当たらないようにね?」
「うん!」
視界の左右に現れたのは、どこまでも伸びていく通路だ。
幅も広く、隅々までを照らし出され、迷宮の構造を横断する要路。
病的にはならない淡さで塗られた、白い壁の絶えない廊下。
天井に連なる照明の光点、壁に並んだ扉の数は、果てが見えないほど多い。
「ほっほ、今朝もよく寝たわい。最近は朝が早くての。メシの時間が待ちきれんようになってきた」
「あの『まっと』や枕はやわらかいからのぅ。慣れるまでは寝つけんかったが、慣れてみると老いたワシらにゃ優しいわい」
「こらこら。勝手にジジイ仲間にしないでくれんか」
「なあに、こうしてメシを食いに行く元気のあるうちは、お互いまだまだ大丈夫さな」
そんな長大な通路の床と壁面を、起き出してきた魔人の姿が埋めている。
手を引かれた子供から話し合う大人、あるいは背を曲げた老人や、連れ立つ家族に夫婦と男女。
テオと同じく目覚めを迎え、思い思いに歩いて移動する仲間たち。
互いの翼や腕の接触に気をつけつつ、彼ら彼女らは今朝も済ませる用に向かい、あるいは終えて戻っていた。
がやがやと辺りに満ちた喧騒、行き交う者達の人いきれが、目に耳に肌に活気を伝える。
「おっ、テオ坊! 今日も早えな!」
何度か拡張された通りは手狭さはなく、利用する人数こそ多いが、壁と壁の間は遠い。
と、その対岸に当たる『お向かいさん』から顔が覗き、中年の魔人がにっかと笑ってテオを呼んだ。
「ディックさん。おはようございます」
「ディック、今日は元気そうじゃないか。奥さんとは仲直りできたのか? 近所付き合いは大事だからな。叩き出されたらいつでも我が家で匿うから、遠慮なく言ってくれ」
「ふふん、あたぼうよ。ウチのかーちゃんが、そういつまでもヘソを曲げる女かってんだ。まあ、ヘソを横に曲げないかわり、腹はすっかり出ちまったがな! がっはっは!」
挨拶に続いた相手の声が、往来を超えてよく響く。
赤い肌にたっぷりのヒゲと、額から鋭い角を生やした『亜人型』の魔人の男、近所の大黒柱が豪快に笑った。
「おらディック、今朝もうるせえぞ! そんなに元気が余ってんなら家にきて、ウチのジイさんに分けてくれや!」
「あらテオちゃん、またクレオちゃんの分まで食事を取ってきて上げるの? いいわねえ。やっぱり男って、下に女の子がいた方がいいのかしら? 我が家の悪たれどもに見習わせたいわ」
そうする内にも両家の間に人波は続き、中にはご近所や顔見知りもいて、会釈をしたり声をかけたり、反応は様々だ。
(うう)
衆目の視線は少しばかり気恥ずかしいが、各自が移動の流れは止めず、足早に去るのがまだ助かる。
早朝の動きはその日一日の要であり、農民だろうと町人だろうと魔人だろうと、重要性は変わらない。
かつて故郷の町に住んでいた頃と同じ賑わい、毎朝のざわめき、人々の交える声と呼気。
ダンジョン生活も一月以上。
しかし迷宮の朝、起き出す時間の活気だけは、いまだに過去から続いていた。
「おはようございます」
「やあどうも、みなさん。今日も迷宮は明るいですな。外の天気が分からないのは難点ですが、お互い元気にやっていきましょう」
父と2人で見知った顔に挨拶を返すと、そこに混ざって歩き出す。
流れの片方、『行き』の方向を目指す魔人の表情は明るく、一様に期待に満ち満ちている。
(今日のご飯も美味しいといいな)
これから口にする朝食の献立。雑踏から零れた会話にも混じった、興味と楽しみ。
新たな<魔王>がもたらしてくれた諸々の中で最も早く、魔人の心を胃袋から掴んだ暮らしの変化。
今日の食事に歳相応の想像を膨らせ、少年にして成長期であるテオもまた、足早に歩を進めるのだった。
遠く高い<迷宮>の空に、白くたなびく炊事の煙が上っていく。
「うん? なんだ今日はみんな早いな、少し遅れてしまったか。仕方がないな。テオ、急ぐぞ」
「そうだね。早くしないとクレオと母さんの分がなくなっちゃいそう…………あ、いい匂い」
開いた扉から目に入る<草原>の上、緑の大地から晴れた蒼穹に幾筋も伸びる、朝餉の香をふんだんに乗せた縦向きの雲。
どこからか吹く風が煽って曲げる道筋の下、煙を立てる調理場の横には順番を待って並ぶ者の列があり、その長さに気付いたテオと父は、2人で頷いて足を速めた。
「人数分がなくなることはないはずだが…………今日も忙しそうだな。母さんが当番じゃなくてよかった」
目指す先には三角の屋根を大きく張り出し、四隅や各所を木肌の粗い柱で支えた、壁を持たない炊事場がある。
蛇口のついた流し台にまな板や包丁、鍋類などを乗せた台が縦横に多く敷き詰められ、女性の魔人が各自の調理にかかっていた。
「ほらできたよ!」
「次はそっち切って! 早く!」
それぞれの家庭にあるキッチンを最小限にして切り出し、机やテーブルのように配置した作業所。
<魔王>ハルキの現実であれば旧い習慣、調理室や宿泊学習の体験で、カレーの一つでも作りそうな光景だ。
野外に建って石っぽくザラつく床の灰色、調理台の鈍い銀色、突き出た梁に煙を受ける大きな屋根と、どこか懐かしさの薫る場所に、それを知らぬ魔人の親子が向かっていく。
「ちょっとぉ、このペースじゃ火力が足りないわよ?」
「だったら魔法を使えばいいでしょ!」
「それじゃ加減ができないでしょうが! 焦がしたらどうすんのよ!? 作り直しのヒマなんて絶対ないわよ、もうっ!」
聞こえる声は甲高いが、髪を結ったりエプロンを着けたり、コックを務める女手の容姿はバラバラで、年齢も広く多様だった。
複数の腕で包丁を握り、額の瞳で火加減を見、翼で扇いで煙を晴らす。
生えた角や手足の突起に次の材料や容器を引っ掛け、駆け足で運ぶ。
毎朝数百人分の食事────テオの属する居住区では────を用意する集合キッチンは、傍目にもまさに戦場さながら。
「ちょっとそこ、水をそんなに勢いよく出しっ放しにしない!」
「えー。でも蛇口の水っていくらでも沸くし、いちいち開け締めする時間も惜しいし。水の魔法にわざわざ手を割く暇もないでしょ?」
「それはそれ、これはこれ! 魔王様に感謝して迷宮のものを無駄にするなって、ティア姫様に言われたでしょうが!」
「む。それを言ったら、先ずはご飯を出さなきゃ迷宮の生活が回らんでしょ! 仕事に向かう野郎共を空きっ腹で送れってーの!? ウチの旦那はこれを楽しみにしてんのよ!」
「おいあんたら! もめてるヒマがあったら黙って手ぇ動かしな! ケツひっぱたくよ小娘共が!」
言い合いの火力を高めつつ手元の刃も操り、肉厚や薄い道具が素早く、時に豪快に素材を切る。
刻まれた食材は即座にまな板ごと運ばれ、横の鍋やフライパンに投入された後、炊事場の脇にある配給所へ移されていった。
「ほらほら慌てない慌てない、チビたちが怪我をしちまうじゃないか。大人はちゃんと並びな! 親は子供がはぐれないよう見てるんだよ!」
「今日は熱々のシチューでーす! 皆さんちゃんと深皿を持ってきましたかー? 食べるときに急いじゃって火傷しないよう、周囲の人にも確認してあげてくださいねー!」
並んだ魔人たちの先頭、出来た料理の集積地では皆が持ってきた食器を手に、皿を満たす朝食を、嬉しそうに受け取っている。
テオと父も以前に支給された深皿────事前に発表された献立による────を提げた籠から出し、しばらく順番を待つことにした。
「あら、テオくんおはよう。今日もお母さんとクレオちゃんの分も?」
「はい、おはようございます。お願いできますか?」
「はーい! それじゃあ籠をくれる? こっちで入れちゃうから」
「えっと……ありがとうございます。じゃあ、これ」
やがて炊事場の脇で大鍋や食材の山を背にした配給所、長テーブルによる仕切でテオが着いたのは、近所のお姉さんが受け持つ列だった。
「テオくんは偉いわね。んふふ。ちょっとオマケしてあげるから、たくさん食べてもっと大きくなるのよ~?」
「あの、もうすぐ成人なんですけど…………」
白い翼を生やした彼女はそういい、テオより年上なのにどこか子供っぽい、ほわほわした笑顔を彼に向ける。
用意されたエプロンを着て毛落ちを防ぐ頭巾をし、金の長髪をまとめて背中に垂らした姿は、朝の陽気と活気に馴染んで優しげだった。
「今日のメインは、シチューはシチューでも牛肉のシチューなの。どう? 美味しそうでしょ? 力作だから、あとで感想を聞かせてね?」
ただ、渡した皿と容器の中にシチューをよそい、添える果物やパンを籠に入れる時に、突き出た胸が主張をする。
逸らした視界の端で布地を押し上げる膨らみに、少年の目は懸命な抵抗を行っていた。
「は、はい、分かりました!」
「? テオくんは今日も元気でいいわね。担当は畑だったっけ? 私たちも材料がないと料理できないから、大変だろうけど頑張ってね? お姉さん、応援してるから」
「がっ、頑張ります!」
身を乗り出し、ぐっ、と手を握って顔を寄せる彼女。
布で隠れても胸部の接近は刺激的で、テオは赤面を冷やすのに必死だった。
相手の瞳は声の調子に似て柔らかで、若干の垂れ目は美という形容から遠い。
ただ、まだ十分にハリのある肌は性の余地ある若さを乗せ、気遣いを足して『母性的な近所のお姉さん』として、意図せず少年の緊張を招く。
「おや、これはいつもありがとうございます。テオどうした? 後がつかえているだろう。受け取ったなら早く行くぞ」
「あ、ごめん父さん。それじゃ、ありがとうございました。失礼します」
「じゃあまた夜か明日。クレオちゃんにもよろしくね?」
「はい!」
一方、販売所染みた横長のスペースでは他にも女性の魔人がおり、隣で食事を受け取った父がやってきて、会話はほどなく中断となった。
当然ながら2人の後にも列は続き、振り向けば腹を空かせた魔人が、今か今かと待っている。
(あちゃあ)
同じ区分に属する住民は顔見知りだが、無駄に待たせるのは悪い。
気の早い者だとその日の配給の一番争いもあるそうで、慌てて離れた少年は、周囲で空いてるスペースを探した。
「今日はビーフシチューか。いい匂いだな。クレオも喜ぶ。お前もちゃんと食べて、しっかり働くんだぞ」
「分かってるから大丈夫だよ」
地形としては<草原>に属する配給部屋、辺りでは生えた緑の小波が地表をさらい、たまにむき出しの地肌が覗く。
そんな風景の各所にはあちこち先客がおり、朝の仕事を前にしつつ、食事の味や歓談の時間を楽しんでいた。
あえて調理場に限定せず、空間を広くしたことによる慰撫と交流。
草の感触を踏んで歩けば賑わいが聞こえ、吹く風は緩く暖かく、天に仰ぐ光は優しい。
テオたち親子も適当な場所で腰を下ろし、食事の盛られた皿を置きつつ、籠から副食やデザートを取り出す。
「よしっと」
やがて広げたシートの上に、簡易の食卓が完成した。
「今日も美味そうだな」
並べた食事のメインとなるのは、匙を入れた深皿を満たす、コクとトロみがある液体。
<ニンジン><ジャガイモ><タマネギ><牛肉>、その他の食材が端材ではないサイズで覗き、食感への期待を煽っている。
周囲を彩るのは丸く厚い白パンと、透明な瓶に注がれた牛乳、赤い色の果実が一つに、包み紙をした<菓子>類。
「「…………」」
中年の大人と半ば子供といえない少年、2人の男がツバを飲む。
「さ、さあ。戻って温め直してもいいが母さんも気を遣ってくれてるんだし、冷める前に食べてしまおう」
「そ、そうだね」
「うむ。それでは」
最初から部屋に持ち帰ってもいいが、食事時とは交流に向いた時間であり、寝ている子供の様子を一人は見るとして、出られる場なら出た方がいい。
この世界の共同生活で男手が篭もるのは問題で、集まる機会にコミュニケーションを図るのは、迷宮でも推奨されていた。
と、そんな表向きの理由を探り、納得するような間を置いて。
「「────────今日も<迷宮>の恵みに感謝を」」
待ちわびた食事を前に背を伸ばし、両の手を合わせる。
「「魔王ハルキ様」」
そして彼らの王の名を呼び、静かに頭を垂れた。
「「いただきます」」
瞑目して拝むこと数秒。
姿勢の真剣が沈黙をもたらし、折しも風の絶えた草原に、凪の静寂が停滞する。
「…………これでいいな」
「ちゃんとやったよ」
お互いの動作を確認し、胸に溜めた息を吐く。
<魔王>ハルキからティア姫に、そして彼女から広まった、食前の儀式。
迷宮の恵みをもたらす王に、民が感謝して捧げる祈り────と彼らは解釈している────を済ませ、2人で箸ならぬ匙を手にした。
どこか理解の及ばない、だからこそ神秘的な作法を済ませた後は、慣れたご馳走が待っている。
「では」
「それじゃあ」
顔を見合わせ、手に取った食器から立ち上る湯気を、何度か吹いてじれったく冷ます。
呼吸の度に鼻を通って胃の食欲を誘うのは、じっくりと火を入れ整えられた、ビーフシチューの凝縮した香だ。
深皿を満たす濃い色のルウにゆっくりと匙を先端から沈め、ワインやソース、肉自体の脂から染みた旨味を煮込んだ、柔らかな具を一掬い。
スプーン越しに己の手に乗った肉の重みを、金か宝石のように見詰めて。
「「~~~~っ!」」
我先にと一口。
噛み締め、頬張り、舌に乗せてぎゅっと味わう。
そして。
「「美味い……っ!!」」
生きて食べられる食事の美味さ、<人間>に追われた戦火の日々から生き伸びての喜び。
何よりの幸せを口に含み、親子は<迷宮>の天へと叫んだ。
現在、迷宮における<食糧>事情は、複数の配給で成り立っている。
一つは小悪魔の赤は<道具屋>、広く物品を扱う販売所から用立てた、食器を含む生活用品。
一つは同じく緑の<食糧>、彼女の扱う神秘の道具と管理する家畜、指導の下の畑から獲れた野菜、肉類、その他食材。
これらは一先ず魔王ハルキが購入し管理し、総量や収穫量の予測をティアに伝えて試算を行い、受け取りの上、魔人側で具体的な分量・種類・間隔を決めて配給していた。
食事に関しては『食事』そのものと『食材』の2つの場合があり、仕事が始まる前の朝と終わった夜は、テオたち親子が味わっている形式となる。
人と物、作業の場所の集中による効率化であり、住民同士のコミュニケーションのためでもあった。
昼食に関しては作業中だと一律の切り上げに不都合が多く、各家庭が配られた食材で調理を行い、自主的な用意で対応することを前提にしている。
迷宮の設備使用の慣れへの促進で、日に2食だった魔人の生活が魔王に付き合うティアから変わり、腹の空いてる時間が減るなら歓迎と、受け止められた結果でもあった。
一部専任と交替の手伝いで維持する配給の調理に対し、個人が使用した食器の洗浄は各家庭で行い、持ち主本人が配給所に来る必要もない。
元が同じ町や地区の仲間であり、身分や家族構成の保証があることと、何より────────中には王国に追われた時に手足を失い、動けない者もいるための、避難的な措置だった。
<錬金術>による<霊薬>は過去に振舞われたが、四肢の欠損や臓腑の腐敗など、どうしようもないこともある。
それでも魔人一同が恨みもなく、折に触れて魔王ハルキへの感謝を示すのは。
恩讐において後者が王国へのものであり、魔王への前者が限りなく大きいからだろう。
住まいに道具、食事、衣類、安全に設備。
生活の全ては迷宮と魔王が担っており、地下の暮らしで何気ない行動一つをとっても、魔王その人の影響がある。
土地も住居も家具も空間も、着る服も飲む水も食べ物も、何もかもが迷宮を通じた魔王の恵み。
今や<迷宮の魔王>の命運は、種族のそれとほぼ同義だ。
利益にして恩義、分かち難い2つの表れは魔王ハルキの手腕の下、ダンジョンの完成度を示す指標として、魔人の暮らしを向上させている。
生活の変化とその影響には慣れたとしても、重なる日々の移ろいの中、感動させられる機会は多い。
よく煮込まれた数々の具材から染み出し、溶け合わさった旨味の汁。
とろけた肉の柔らかさを噛み締め、魔人の親子の頬がほころぶ。
「…………ああ。朝からこんなに美味い肉が食べられるとは、前は思ってもみなかったなぁ」
その材料、牛肉一つでも安定した供給が大変なことを、彼らは十分に経験していた。
「本当だね。牛も豚も放し飼いするとすぐに魔物に襲われるし、かといって魔法や柵で壁を作るのも大変だし。食べるために育てた牛肉なんて、前は高級品だったのに」
「少し強い魔物が群になると、ただの石や土の壁では簡単に越えたり壊すからな。飼うのが数頭ならいいが、あまり育てる数が増えると、土地が広がって手が回らない」
口にする料理の味に絡み、湧き出る感慨をより深める、庶民ならではの感想。
彼らの語る大陸での畜産の歴史は、血と苦渋との連続だ。
「ニワトリくらいなら家や小屋で飼えるけど、大きいのはすぐにエサが足りなくなるからね。緑の小悪魔様のところで少し手伝ったけど、牛も豚も結構食べるし。一回皆で<森>のドングリやキノコを拾いに行ったけど、魔物が出る場所じゃとてもじゃないけど無理だったよ。危ないし、1人2人じゃ採ったり運びきれないと思う」
「そうか。家畜は並の<人間>より弱いし、普通は森に入れられないからな。人間の場合だと野犬や狼相手でも、自分の命が危ないらしい。前に聞いた話だが、少数で森に入れるとなると、専門の猟師くらいだそうだ」
ただの家畜、食われるためにある存在というのは必然に弱く、狼どころか怪物の集団すら生まれる世界で、その安全は無に等しい。
魔物が一匹出ればたちまち逃げ出すし、ばらばらに散るので追いきれない。
餓えた獣の群の場合、単純な脅威は同等以下でも偵察をしてこちらを捕捉し、下手をすれば包囲されて一網打尽だ。
一匹二匹で回避できる異形と違い、確実な被害の厄介さがある。
「そう考えると、今の魔王様は本当に凄いね」
「そうだな。安全という意味では前代のソーロン様…………ティア様のお父上も得難い名君だったが。ここまで広範なお力となるとな」
称賛するテオと納得する父、元が農民ではない親子だが、常識くらいは知っている。
魔人の力も守るに向いているわけではなく、平均で劣る人間の場合など更に悲惨で、並の村落だと大型の家畜はほぼ持てない。
「家畜の天敵の魔物を遠ざけるどころか、逆に支配してお使いになっているからな。あの方が姫様の《召喚》に応じて下さったのは、不幸中の幸いだった」
「うん。枯れた遺跡の話なら聞いたことあるけど、こんなダンジョンがあるなんて考えもしなかった」
食肉方面の畜産といえば最低でも中規模レベルの集落、護衛に割ける戦力を保持する地域で叶う、庶民の夢の贅沢といえる。
老いた乳牛を潰したのでもない専用に育てた肉となると、町にいた頃でも食べるに稀な高級品だった。
それも今より旨味に欠けており、脂も乗らず筋張って固い。
「違いない。私たちなんぞに仕組みが分かるはずもないが、こうして地下で手を伸ばした先に空があるなんて、今でも信じ難いからな。部屋は暖かいし、扉を閉めれば外の音もほとんどしないし、夜でも明るくしていられる。風や雨や雷に悩むこともない。魔物の姿も私たちの周りにはないし、自分たちが今も本当に<人間>に脅かされているのか、疑問に思うことがある」
「大変なのは<勇者>が来たっていう日の揺れくらいだったし、壊れた部分も元通りになったっていうからね。仕方ないよ。クレオもすっかりちゃんと眠れるようになったし。コア様の手伝いとか仕事もちゃんとあるし、いいこと尽くめだよね、んぐ、本当。自分で作った野菜がこんなに美味しいなんて、前は思わなかった」
言いながら、今度は野菜も掬って一匙、含んだ滋養をじっくりと味わう。
口にする肉の質は変わらず、共に煮込まれた作物にしても────彼ら親子は詳細までは知らないが────ただのニンジンやジャガイモではなく、迷宮で育てた<甘蜜人参>、<雪解け馬鈴薯>、<陽光玉葱>といった諸々が、野菜クズと違ってそのまま使われていた。
魔王経由で緑の小悪魔が種を撒いた、農業スキルで促成可能な魔法植物。
テオたち魔人も携わった収穫の成果は、なおのこと舌に味わい深い。
「母さんには悪いが、食事は本当に美味くなったからな。はっはっは」
「それ、家では言っちゃダメだよ? 母さんのお昼も美味しくなったからいいじゃない…………材料が変わったからだけど。<コンロ>とか<ヒーター>とか、頑張って慣れるようにしてるんだから、父さんが応援してあげなきゃ」
「あれは魔法と違って火力に調整が利くし、普通に燃やすよりあっという間に点くからな。水の出る<蛇口>といい、魔法要らずなのは楽でいい。人間ほど劣るやつはいないが、魔法の属性は何かしら苦手があるからな」
<迷宮>という地下空間の中、地下9階の生活層に造られた、各ラインの生産ブロック。
地下9階は十字に走る通路を中心に構成され、頂点たる東西南北の北に<小悪魔の部屋>があり、そこから交差地点までが生産用の拠点となる。
レーゼの町に続く奪還や防衛戦の結果、既に迷宮の人口は増え、残る三方位が居住区に割り当てられたからこそ、生産部門は重要な生命線に位置する。
その大部分は<平原>、<草原>、<丘>、<森林>などを基礎に耕作や放牧に供され、農業区として開墾が進められていた。
「何にせよ食事が楽しめるのはいいことだ。父さんが子供の頃はこんなに柔らかくて上等な肉、食べたことがなかったからな。どれ、お前もまだ伸びる歳だ。少しだが分けてやるから、しっかり食べておきなさい」
「わわ、いいって! 夜か明日になればまた食べられるんだから! どうせだったらクレオに上げようよ」
「はっは。そうかそうか、そうだな。しかしテオも贅沢なことをいうようになったな。昔は肉一切れで兄妹喧嘩をしたこともあったが。懐かしいなあ」
「もう」
上向いて噛み締めるように呟く父親に、皿を置いた息子が腕組みする。
不満の両腕は太くはないが痩せてもおらず、行き渡った栄養の豊富を物語っていた。
「コア様の…………魔王様の家畜は何度でも肉が取れるんだからさ。町にいた頃からは贅沢な話だけど、アレを見たらもう食事の心配はできないよ」
「見てない父さんには信じ難いが、殺しても生き返る山羊や豚だったか? まるで御伽噺だな。この迷宮のことでなければ信じなかったかもしれない」
「そっちの世話はまだ任せてもらえないけど、解体するところは参考に見させてもらったから。ただ生き返るだけじゃなくて、肉を取っても新しい肉が出来るから、ずっと食べられるんだ。コア様が料理するとすっごく美味しいらしいし、いつか食べたいなぁ」
その時見た光景を思い描き、解いた腕を後ろにして草の上に置き、空を仰いで少年が零す。
背を反らした姿勢の先、遥かな頭上で魔王の造った太陽が輝き、朝餉の中で生気を増してきた頬に照った。
「クレオにも食べさせてやりたいし」
「お前は妹思いのいい子だな。なあに、仕事を頑張っていれば機会をいただけるかもしれん。私も菓子か何かを手に入れられればいいんだが」
普通、絞めて食べれば終わりの家畜も、<迷宮>で同じとは限らない。
過去に魔王自ら訪れた小悪魔の農場、広大な敷地で放牧される神話の山羊や牛、鶏、羊に豚たち。
たとえば北欧神話でトールの戦車を引き、殺して食べても<ミョルニル>で後に復活するという2頭の山羊、<タングリスニ>と<タングニョースト>や、ケルト神話の蘇る豚。
豊富な食をもたらす聖獣たちは、無限に湧き出る乳や蜜酒、調理されても蘇る体、滋味に溢れた卵によって、迷宮の住人に豊富な栄養を供給している。
それら食材は天にも昇ろうかという美味で、《料理》スキルの低い彼らが手をかけてすら、<人類>における上流の味を保っていた。
「もう当たり前に食事につくけど、こういうお菓子も珍しいしね」
食事を並べたシートの上、デザートでついた包み紙入りの甘味を取り、少年が軽く振って見せる。
主食から離れた嗜好品ほど貴重で価値が高いのは、本来どこでも共通のことだ。
「はっは。父さんもこの歳になって甘い物をこんなに食べるとは思わなかった。子供の頃は、一度でいいから両手一杯の菓子を食べたいと願ったものだが」
「母さんは違うけど、小さい子供がよくねだって、泣き止ませるのに使ってるよね」
卵や牛乳、砂糖に小麦粉その他の材料。
それらの生産と製造もまた、迷宮の内部で行われている。
神獣に関しては技能が要るため緑の小悪魔直轄だが、普通の家畜はそうでもなく、<道具屋>経由で購入した魔王が一部のフィールドと解放し、魔人に酪農を営ませていた。
「人間に町を追われて、ソーロン様が殺されたって聞いてどうなるか不安だったけど。ハルキ様が《召喚》されてよかったね」
「全くだ。死んでいった者のことは忘れられんが────辿り着いた先が<迷宮>で、本当に良かった」
頷きあう親子の目には、無理も偽りもない。
今や常食で<魔人>より恵まれた民はおらず、その肉体は日々非常な活力に満ちている。
安心して安全に、ゆっくりと、美味い食事が味わえる幸福。
更には乳の一滴、肉の欠片、実の一つにまで特殊な効果を持つ食材は、強壮を超えた成長までをも与えて已まない。
「それじゃ、父さん」
「ああ」
具体的には透明な容器に入れられ、今も無造作に配給所で配られている牛乳。
並の<霊薬>に勝る価値を持つ液体は、北欧神話の始祖にあたる巨人を育てた<アウズンブラ>の乳であり、飲んだ者の肉体性能を強化する。
白パンの素材には豊穣の力で生命を強める<デメテル麦>が使われ、赤い果実は同様の効果を持つ<冥界ザクロ>、包装された菓子は、魔法力を微量に高める<神食チョコ>となっていた。
「ハルキ様」
「魔王様」
食材そのものは決して欠かさぬようにしつつ、その付与効果や供給量を管理する、魔王ハルキのダンジョン運営。
傷病の食事療法ならぬ、全面肉体改造だ。
成人した魔人はそれだけで並の人間、フル装備の新兵に匹敵あるいは凌駕すると言われるが、これで訓練を施した者に彼が装備を与えた場合、一体どれだけの戦力が生まれ、魔王と姫に従うのか。
「「今日も────ごちそうさまでした」」
そして。
いつしか親子の食事が終わった頃、再び彼らの手は合わされ、頭が下る。
迷いなく。憂いなく。安全に健やかに。
捧げられる感謝と、満ちた幸福を糧として。
魔王ハルキ<迷宮>の運営、魔人のために行う強化計画は、裏で着々と進んでいた。
今日も変わらぬ晴天を映す迷宮の一角、自然に満たされた農業区。
平野に広がる土草の上、振り上げたクワの先端を、固い地面に突き立てる。
「よい、しょっと」
雑草を潰し、小石に当たる感触を交えて深く埋まった刃を浮かせ、腰を引いて掘り起こす。
空気を入れた土壌は引き換えに欠片を落とし、出来た土塊を適度に崩して均してやると、それなりの柔らかさに馴染んだ。
(ミミズがいたら殺さないように。固過ぎず柔らか過ぎず、だっけ?)
大気を切るというには鈍く、金属の重さを刃先に乗せた、木柄の農具。
呼吸を入れて一振りすれば目の前の地表に切先が沈み、焦げ茶の土が地肌に覗く。
「ふう」
何となく額に手をやるが、特に汗はかいていない。
気温と気象を保たれた空間は快適で、時折の風が彼方から寄せて空へ上ると、牛の鳴き声が何処からか響いた。
ふと方向を視線で探り、少年テオは首を傾げる。
(今夜の肉はアイツだったりするのかな)
見はるかす大地で目に映るのは、なだらかな丘や緑樹の森、牧草の波に魚影の流れる澄んだ川が並存する、地下に造られたダンジョンの一室。
土を耕して石や草や木の根を除き、雄大な自然を少しずつ、魔人の手によるものへ変える。
現在は午後に割り当てられた農作業中で、収穫を目指して丹念に土に入れるのは、持たされたクワと精魂だ。
「はいはーい! 気合入れてくれるのは嬉しいですけど、深く掘り過ぎないように注意してくださいねー!」
「こうっすか? コア様」
「おお? ふんふん、オッケーです。そうそうそんくらい。土は土で繊細ですから、野郎共は女体を耕すつもりで腰使いに気を付けましょう! 何なら桃色ほどはありませんが、上手くできたらワタシの胸でも触らせてあげましょうか? げっへっへ」
「すんませんコア様っ! カミさんが恐いんで勘弁してください!」
テオの横にもクワを持った仲間が並び、100人以上もの魔人────大部分が体格のいい男────によって<畑>となっていく土地に、指導に立っている緑の<小悪魔>が声を張る。
動きに合わせて左右に踊るウサミミに、目立つよう広げられた翼。
ただし格好はバニースーツではなく、濃い青のオーバーオールを着込み、手には軍手、首にはタオル、足には黒いゴム長靴と、農家的なスタイルだった。
日除けの麦藁帽こそないが、その点だけはウサミミマスコットの矜持か。
「さいですか。あ、小石はやり過ぎると水のはけが変わるんで適度に、どけるのは雑草や木の根っこメインで頼みますよ。はい掛け声! オッス!」
「「「オッス!」」」
指示を出しながら肩に担がれたクワと、軍手の帯びたメタリックな金の輝きだけが、陽光の下で異彩を放つ。
<鍬神金鍬>と<黄金の塊の鉄軍手>という若干微妙なネーミングの装備は、<ファンタジー・クロニクル・VR>でも多少ネタ性の強いアイテムだったが、それでも付与される性能は高い。
「耕す面積は横3人、一緒に並んでクワの長さで縦3人分! 終わったら移動して繰り返し! 迷宮の土地なら枯れることはありませんから休耕地とかは気にせずオッケー、9マス編成第一です。ここ重要ですよ? 種の小袋一つ分で撒かないと、収穫の計算が手間ですからね」
今は手にない如雨露に槌や鎌と合わせ、魔王が与えた<農耕者>技能を補正する道具。
遡ること彼女が指揮を始める前、『手本を見せます』といった小悪魔がぐっとポーズしてクワを振った瞬間、目の前の土地が爆発し、畑が一つ出来上がるという事態があった。
レーゼの町ではなく他から合流した魔人もいたので、魔王に加え、配下の力も広く知らしめた瞬間である。
「今日の疲れは明日のご飯! お腹が空けばメシも美味い! 気合を入れれば土も野菜もちゃんと応えてくれますからね。愛情一本根性注入、手だけは決して抜かないように!」
「分かってますって。迷宮の野菜はすぐに育ちますからね。テメエのガキが食うかもしれない食い物に、親の愛情は欠かせませんや」
「その通り! 愛情根性友情努力は大正義。お兄さん分かってますね、その調子で頼みます! きっと美味しくできますよ?」
「へい!」
言われ、新たに振るわれた刃先が土を掘って開墾していく。
能率的には彼女一人でいい気もするが、魔人が自主的に迷宮で働き、自身の食料を生産することに意味があるので、これといって文句は出ない。
会話の掛け合いを行いながら、全員が楽しげにクワを振るう。
中には半裸で上着を腰にした者もおり、陽の穏やかな日差しの下、妙に暑苦しい光景もあった。
(緑のコア様や皆のノリはよくわからないけど。声は大きいけど変に急かしたり叩いたりしないし、やり方もちゃんと教えてくれるし。いい人だよね)
テオも手にしたクワを上下させつつ、未来の糧へ精魂を込める。
彼女ら小悪魔────相手からは親しみをこめてコアと呼ぶよう言われるが────は5人全員、<迷宮>の機能を司る代表だ。
小さく可愛らしい外見に反し、権限と影響は極めて大きい。
隔離されて実感しにくい迎撃部分と違い、魔人たちの生活と生死に直結している。
その実感と、働くこと自体は当然という習慣意識が、彼の手を止めずに動かしていた。
「はいそこ、クワはそんなに高くまで上げずにいいですよ! 別に冬場に耕してるわけじゃありませんからね。先っぽだけ綺麗に当たるように意識して、刺したら引く前にテコの動き…………あー、柄のこっち側を押し上げて、クワの先が軽く土を盛り上げるようにしてから引いてください。土が塊だったら適当に崩して。気合は大事ですが体力をムダにしないように。リズムよく、ペースが乱れたら休憩を入れて再開しましょう」
「うっす! 姐さん、ありがとうざいます!」
指摘しながら駆け寄って指導し、実際に触れてやり方を教える外見少女。
緑の小悪魔に関していえば、現場に出てきて直接指揮や監督をするので、中でも親しみが持ちやすい。
自分や家族が食べる食材の生産者、そのやり方を指示してくれる存在はとてもありがたく、本人の性格も相まって、ある意味で最も魔人との距離が近かった。
「こればっかりは魔法に頼れませんからね。ワタシが一人で全部やっても意味がなし、魔王さまにもクギを刺されちゃってますし。まあ土がよくなりゃ収穫の時に量と味で返るってことで。今日も頑張っていきましょうか野郎共ー!」
「「「「「おおーーー!」」」」
迷宮に輝く太陽の下で発破に応える魔人たちは、クワ一本で徐々に畑を耕していく。
全体的に魔法に優れる<魔族>だが、土の魔法は戦闘に使えても農業に向かず、雑草を除き石を砕き、適度に空気や湿度を入れ、栄養を増すような加減は利かない。
あらゆる魔法は発動時点で基準とされる威力があり、火を起こそうと水を生もうと、0から少しとは行かないのが原則だ。
爆発的な食料増産が起こらない理由の一つであり───専用技能と適性を持って現れる生産者職がいるなら別だが────魔物による農業被害や流通圧迫と合わせ、『種』の拡大を抑制している要因だった。
「皆さーん! 美味いメシが食いたいかー!」
「「オッス!」」
「嫁さんや子供に美味いメシを食わせたいかー!」
「「「オッス!」」」」
そんな歴史をあっさり覆した、拳を掲げて場を盛り上げるウサミミの小悪魔。
彼女らの従う<魔王>を意識するにつけ、テオは思う。
「だったら元気に畑を耕し種を撒きましょう! やることやったらワタシが何とかしてやりますよ! 最近ちょぉおっと過労気味ですがねこんちくしょー!」
「うっす。コア様、ありがとうございます!」
「えー、あー、できればそこは魔王さまにで。一応もらう物もらってますし、<道具屋>を通じて投資もしてくれてますからね、魔王さま」
「魔王様、ありがとうございます!」
「よろしい!」
確保された安全の上、村一つの労働人口以上の魔人を投じて開拓の終わらないフィールド。
数を増す<畑>は土の匂いを濃く香らせ、既に作付けを終えた場所では稲穂や青葉、色付いた実が風に揺れる。
自分たち魔人、そして<人類>と<魔族>は、土を弄るにも苦労せねばならない。
対して果ての遠いこの大地、見上げる空と降り注ぐ陽射し、それらを囲った<迷宮>自体を、魔王は一瞬で作ったのだ。
その力はあまりに強大で。
恐ろしく、同時に頼もしい。
(魔王ハルキ様、か…………きっと忙しい方だろうけど)
行政面の指導者であるティア姫と合わせ、その善政は語り種になっている。
住居に食料、生活用品ともたらす恩恵は絶大で、源にある気遣いの心は深く厚い。
直接話す機会は今のところないが、テオも意見は同じである。
たとえ姿を見ていなくても、日々の暮らしで感じられるものはあった。
(いつかお礼が言えたらいいな)
最近ではテオたち農業組────分けられた生産班の一つ────はその日の仕事を終えた後、夕食の前に入浴を済ませて土を落とし、疲れを流すのが日課だ。
張られた湯に身を浸し、一人や複数でゆったりと、過ごす緩慢な時間は心地いい。
今や居住区の中には共用の浴場がいくつも設置され、各家庭の個室にもトイレや風呂はあり、移動すれば子供の遊び場や大人たちの遊技場、老人のための集会所なども多数ある。
(難しいことはよく分からないけど)
<人類>の敵たる<魔族>として生まれ、庶民として育った少年だ。
<迷宮の魔王>の恵む全てが本来どれだけ在り難いか、この世界の常識に暮らしてきたテオは、身に沁みてよく理解していた。
(気軽に使える魔法灯も柔らかいベッドも、外の音が聞こえない部屋も、<蛇口>や<コンロ>や<冷蔵庫>だって)
最初の時点こそいくつか不便はあったものの、全てほぼ初日に解決され、以降も生活面における住人の満足度────『安全度』という、この大陸で最も得がたい平穏すらも、単なる一つの前提として────の向上に、受ける側でも不思議なくらい、王は心血を注いでいる。
食事が常に美味しい。
夜にぐっすりと眠れる。
火も水もいつでも便利に使える。
日が暮れるまで疲れて働く必要がない。
家族とゆっくり過ごせる時間と場所がある。
どんな魔物や猛獣の脅威に怯えて暮らすこともない。
この世界でもしも実在するならば、当たり前に幸せになれる理想の数々。
夢のような、日々の暮らし。
魔人の姫と交わしたかつての契約を、魔王ハルキは今も誠実に守っていた。
彼ら彼女らの期待した、希望以上の幸福でもって。
その結果は多くの魔人たち、住民全員の意識に現れ、彼の愛する<迷宮>に深く根付いている。
(全部大事に使ってて。皆が感謝して、とっても便利で、珍しいし凄いって。いつか、伝えられたらいいな)
手にした結果が彼らの姫による請願か、魔王本人の気質によるのか、少年の理解では及ばない。
理解が及ばない、だからこそ。
いつか機会があったなら。
自分の感謝と、似てはいるがそこに加えた感想を、直接伝えたいと思う。
(うん。今日も明日も、これからもずっと。クレオや父さん母さんと、美味しいご飯を食べて暮らしていけますように)
そしてそのために魔王の下で働き、今は少しでも負担を減らすべく励もうと。
(魔王様、ありがとうございます。それから────────どうか僕たちを、これからも守ってくださいますように)
<迷宮の魔王>に庇護される魔人の少年テオは、他の多くの民がそうであるように。
深く静かに感謝を捧げ、彼らの王へと誓うのだった。
評価にご覧とご感想、皆様、いつもありがとうございます。
外伝の2を投稿させていただきました。
半端な区切りになりましたが、今回はこれにて。
一応続きを投稿する予定ですが、長くなり過ぎたのとあまり前後編的な表記を多用するのも躊躇われたため、ここで切りに。
残りは今週中に投稿の予定です。出来れば、後半はもう少し動かしたく。
要素や他者視点での切り出しなど、色々と本編との差異もありますので、ご感想やご指摘などをいただけましたら幸いであります。
以下は補足となりますので、ご興味の範囲でお読み下さい。
アイテムボックス=<流浪の座>があるのに家財などをあまり持ち出せなかったのは王国側の急襲と、主にレベル不足での収納限界のせいとなります。
魔人もステータス平均は強いですが、アイテムボックスの容量はレベル依存となりますのでそのように。
この世界の一般人は大体10~20レベル、兵士や冒険者を除けばほとんど30レベルに届く前に一生を終えますので(戦闘系も30に届く前に大半が死にますが)。
この辺りは生産職の場合でも、効率を上げてほぼ生産作業に「だけ」没頭が可能なプレイヤーと、それを私的な時間や人付き合いも含めた「生活」にまで広げなければならない現実の存在、手に入る素材の数やレア度他による総合的な差異となります。
また、日本と欧州、更には欧州でも国や地域によって犂など農具の違い、農法耕作法の差異などありますが、迷宮内部の気候や地質は厳密に規定していないので、鍬の入れ方やその他は適当な創作となります。
耕す道具や作物の品種からしてファンタジーだったりしますので……願わくば、どうかお目こぼしのほどを。
知識的なご指摘はありがたく頂戴致します。
肉食の文化でも脂や柔らかさではなく一定の噛み応え=硬さを重視したりがありますが、こちらは拙作では、ということで。
なお開墾などの力仕事は主に男がやり、作物や家畜の世話になると女手も関わります。
商人や一部生産系の職人は現状できることがないので農業に割り振られているイメージに。
あとは各小悪魔の下で手伝いをしたり技術を学んだりでしょうか。
魔人強化計画の続行は合流した新規がいるのと、奪い返した町を復興して帰った後でもできるだけ自前で防衛できるよう、戦力の増加で少しでも死人が減るように、というハルキ君の配慮になります。
戦闘でなくとも敏捷のステータスが上がれば、それだけ無事に逃げやすいので。
※畑を耕している部分の記述を修正しました。感想でのご指摘、ありがとうございます。
それでは、今回もお付き合いいただきまして、まことにありがとうございました!




