外伝の1 その後の迷宮 前編
────────暗闇に沈む森の夜気を、起こされた焚き火の熱が炙った。
「いよいよ明日だな」
「ああ」
「いや~。王国の、というとちょっと違うけど、ここまで来るのも長かったねー」
頭上には星の空、満天の煌きが広がって瞬き、遠くには枝を垂らした木々の、重なった影。
茂る緑と樹木が距離を置いた隙間、拓かれた場に腰を下ろし、幾人かの声が囁きを交わした。
「魔族の領土ったって、そうそうこんな奥地まで入らねえからな。戦争でもなきゃ普通は出される依頼でもなし、噂の<迷宮>とやらが楽しみだぜ」
「聞いた話だと宝箱があるらしいけど、何が入ってるのかしらね。場合によって中身が違うみたいだけど」
地には剥き出しの土が小石を交えて床を敷き、均しても固い感触を尻に、集めた小枝を燃やした炎、光源を据えて組まれた円座に、思い思いの言の葉が渡る。
時は夜。
とっぷりと暮れた日に代わる空の星々を仰ぎ、虫の音も絶えた静寂に、沈黙を破った各自の興奮がお互いを煽った。
「宝箱、ってのも変な話だけどな。発見されたダンジョンなんて、出遅れた奴が着いた時にはお宝なんて取り尽くし、魔物くらいしか残ってねえのが常なのによ」
「そうよねえ。でも、それをいうなら迷宮を造る魔王なんて話はアタシも初耳だし、王国の依頼といい、割と異例づくめじゃない?」
揺らめく灯火に頬を照らし、錫らしき小容器から酒精を含んだ厳つい男が、兜を脱いだ赤ら顔で仲間に応じた。
対する声の主、一人だけ引いた布の上で横にした足を揉み解し、億劫そうに露出した肩に触れる女性が、重ねて感想を返す。
「正直そこは期待したいな。信じがたい話だけど、今度のダンジョンは魔物も宝も尽きないらしいし。それが新しい魔王の力なのか、どうしてそうなるのかは分からないけど。もしも本当だったら、これはかなりの儲け話だ。偽の宝の地図なんて、冒険者にはついて回る詐欺だけど、今度ばかりはダンジョン自体が本物だからね。金銀財宝の宝箱なんて夢物語、どうしたって興奮するし、無限に出てくる魔物なんて腕試しにも、素材集めにも最適さ」
続いて厚布の肩掛け鞄を横に、旅装に身を包んだ青年が言葉を継ぎ、身振りを交えてキザったらしく口上を述べた。
「よっと」
言いたいことを言い終えると身を乗り出し、温まった火箸で木切れを転がして、串に刺した乾物を順に並べ始める。
しばらくすると、炙られた干し肉がわずかに脂で濡れ始め、枝の弾ける焼け音の中、火勢を増した炎の舞が、全員の瞳で踊りだした。
「そうだねー。どこそこの魔物を倒してこいだの、やれ薬草を取ってこいだの、この歳になるといい加減に飽き飽きするし。<勇者>みたいな英雄譚とはいかないけどさー、ここらで冒険らしいことをして、ついでに儲けも出したいよねー」
誰よりも早く伸ばした腕で木串を手に、それまで黙っていた少年に見える者が告げた。
遥か昔に小人とエルフ、妖精と人の間に生まれ、華奢な手足と低い身長、尖った耳と身軽な体、そして人生の大半における若々しさを有した、通称<半種族>の男。
どこか舌の足りない幼年の抑揚、短命として知られる天寿の背景を滲ませ、持った干し肉から小さな一口分を毟る。
「だよな」
「ええ」
「確かに」
彼らが辿り着き、背に天幕を張る土地の名を、<魔王の森>。
新たな<魔王>が現れて迷宮を造ったという魔人の領土、魔境でわずかに開けた広場で休息の憩いを一時だけ囲み、明日から始まる冒険に向け、思い思いに英気を養う。
同意の後で信頼の空気に言葉が絶えれば、聞こえてくるのは焚き火の燃え音のみならず、彼らとは別の囁きや歓声。
「こっちが調べた話だと、五階までは強い魔物はいないみたい。ただ、油断してる時に限って背後から襲われたり挟み撃ちを食らうから、休息と警戒が大事らしいよ。数は稼げるけど、浅い階だといい素材は落とさないらしいね」
「そうですか。こちらの聞いた話でも、6階から敵の強さが変わるみたいですね。ただ、5階までの相手や同じ種類の魔物でも、その時々で持ってる武器や強さが微妙に変わるのだとか。お互い、油断はしないようにしましょう」
既に王国の去った<魔王の森>半ば、宵闇に紛れて星明りを呑み、天の一角を覆って屹立する大門の周囲では、同業の者が距離を置いて屯している。
耳を澄ませば届くのは、これから死地や危地に臨む者達の、決意や交流を思わせる声だ。
「今日は星が綺麗だな。ふふ。いつもと違って見えるぜ。あんなに明るい星もあったんだな」
「オレはやる! もうちょっとで金が貯まるんだ。そうすりゃアイツも身を売るような商売なんてしなくていいし、嫁ができれば親父とお袋も喜ぶ。田舎にゃずっと帰ってなかったけど、斬った張ったはもう懲り懲りだ。自分だけの畑を買って、アイツと一緒に大きくして、いつか子供に継がせてやるんだ。たとえ農家の三男にだって、一旗上げて帰れるところを見せてやる!」
「そっちの人は<錬金術師>か<薬剤師>だよね? だったら魔力回復の<霊薬>あると譲ってくれたら嬉しかったり。できれば値段はこれくらいで……」
「あるにはあるが、こちらも在庫が厳しいな。今は金より現物がありがたい。<エレクトラ石>、はないだろうから代わりに─────」
機を見るに敏で、あるいは耳聡く、または若さで恐れを知らぬ者ども。
夜のそれとも異なる地下、深淵の暗がりへ彼らを誘う虎口の辺りで、同じ理由で此処に集った冒険者たちが、各個の絆を育んでいた。
「まあ、なんつっても相手が現役の魔王だ。持ち主の死んだ魔法使いの塔だの何百年前からの枯れた遺跡だの、シケた話とは無縁だろ」
夜気に染みる賑やかさを眺め、男が再び語り始める。
ほんのしばらく前に大陸三強国家の1つ、ヴァラハール王国から全土に発布され、仲間やギルドを通して<冒険者>の間を駆け抜けた話。
<迷宮の魔王>ハルキの降臨と迷宮の創造、王国との交戦と勝利、そしてレーゼの町の奪還に端を発する依頼と激励文。
魔王の首を獲った者に爵位と領地を与え、貴族として国家に迎えるというその内容に、大陸で戦いに生きる存在、中でも冒険者には激震が走った。
「俺らじゃ魔王は討ち取れねえだろうがな。報酬の桁は魅力だが、命がいくつあっても足りねえ」
元より冒険者といったところで根無し草の無頼漢、ほとんど全てが軍人にもなれず、ならなかった自由人か、食い詰め物や変人ばかり。
金か名誉か地位か力か、求めたものに差異はあれど、その源泉はたった一つ、抱いた夢への憧れだ。
およそ庶民には望めない、財宝にも匹敵する待遇か、あるいは引き換えに願えるだろう大金の額、自然と手に入る名誉に対し、心が逸らない訳もない。
途中で手にした品物に関する取得は自由。
更に王国は敵地たる迷宮の情報、内部の構造や魔物の詳細にも懸賞金をかけており、今や大陸では多数の冒険者が駆け出しから一部の高位まで、探りを入れつつ<迷宮>に思いを馳せていた。
「それに────────これは確認が取れてねえ話だが。実は王国の依頼で秘密裏に<焼滅>のメルリーウィが動いて、魔王に負けて退散したって噂もある」
大御所と呼ばれる人外たちこそ動きはないが、一度動けば自身で敵わぬ超人たちの沈黙を、不吉と見るか、期限付きの好機と取るか。
現在ここに集うのは、王国の触書から最初期に動いた第一陣、その成果を見て分析し、裏を取るべく奔走していた第二陣。
蛮勇よりも慎重に多くの割合を置き、しかし危険な賭けにも踏み込む荒くれ共だ。
「メルリーウィ=テスラ・アナスタシアが? おいおい、今をときめく有名人、魔王ソーロンを討った<勇者>様じゃないか」
「でも確かに、王国の依頼でソーロンを討つのに成功したって話を聞いたきり、噂も何も出てこないわね」
「わーおー。マジな話なら、ここの魔王は少なくとも先代やメルリーウィたちより強いってことかー」
最後に吹かれた口笛に合わせ、焚き火から強く火の粉が上がる。
群れ踊った火精は微かに流れた風に揺られ、彼らの見詰める宙を彩り、やがて空へと消えていった。
「国境を出る前に古馴染みに聞いただけだし、そいつも他人から聞いた又聞きなんで、確証も何もないんだけどな。ただメルリーウイっつったら、俺らが100人いたって勝てねえ化物だ。オマケにアイツらは6人パーティーだったからな。仮にさっきの話が本当だとして、魔王相手なら手抜きなんざしなかったろうし、全力でやって負けたんだろうさ」
熱を吸う夜気に緊張で冷えた声を響かせ、あえて表情を固くした男が仲間を見遣る。
一国家の軍人の数よりよほど多い大陸全土の冒険者において、頂に立つ数個のグループの長の一人。
魔王を討って現在数名の<勇者>の席に己が座を得た、その名も高き剣戟の麗姫。
達人や超人を上回る化物、参加すれば国家間の戦争ですら左右し得る決戦存在の敗北は、仮にも同業には恐ろしく重い。
「気をつけるとしようぜ」
注意の喚起には言葉より先に、唾を飲み込む3つの音が、彼への返答を済ませていた。
「魔王の首は目指さない。当たり前だが絶対だね」
「仕方ないわ。命は惜しいもの」
「異議なーし」
期待していた反応を得て、リーダーの男が破顔する。
「かっはっは。おうよおうよ、それでいい。金も名誉も地位も欲しい、だけど自分の命は惜しい。我がままなのが冒険者だ。精々しぶとくやってこうぜ」
仕切り直しとばかりに膝を叩き、掴んだ容器から最後の酒を呷る。
飲み過ぎで勘を鈍らせないため、あえて小さくした容量はあっという間に底を尽き、指で弾くと空になった良い音がした。
「ぶはぁ。それに、宝のあるダンジョンってだけでも儲け物だ。ここだけは誰に聞いても話が共通してるからな。ついでに魔物が湧くとなりゃあ、金を稼ぐにゃ持って来いよ」
自己を戒めながら、しかし諦めることはない。
円座を囲む仲間も反対することはなく、彼らはあくまで見据える<迷宮>攻略に向け、互いの顔を向き合わせた。
危険はある。不運も起こりうる。時には絶望すらありうる。
だが目指すべき成功、己の抱いた夢がその先にしかないこともまた、冒険者は知っていたのだった。
そして件の迷宮が、魅力的であるのも同時に。
「お宝かぁ。うふふ。なんだかワクワクしてくるわね。ダンジョンの奥に財宝だなんて、すっかり詐欺だって思うようになってたけれど」
────────大部分が主の名も知らない、魔王ハルキの新迷宮。
その最大にして類を見ない特徴は2つ、既に焚き火の談笑に混じった、尽きない宝と魔物の群。
掘れども届かぬ財貨の底、枯れることなき魔の源泉。
「そうだなあ。冒険や英雄に憧れて飛び出したのなんざ、もう何年前のことだっけか」
「そこは十何年じゃないのかなー」
「うるせえ」
今、こうして話す彼らがわざわざこの場に来ているように、一般においてダンジョンに付物の宝と敵は、実際の現場では遠い。
宝があれば先着順で獲り尽くされるのが当然で、幸運にも動けた第一陣や、発見者以外は手に出来ないのがダンジョンの常。
二番手以降に約束される成果はなく、あるとすれば先ず攻略に時間がかかる、何らかの難所であった場合だ。
それだけに、経験にない言わば金の鉱脈に、彼らも興奮を隠せずにいた。
奇怪なことに、迷宮にわざわざ置かれているらしい宝箱。
何度開けても次回には中身が補充され、その内容も金銭から道具まで様々。
新人冒険者がよく引っかかる『宝の地図』や詐欺話でもなく、幾人もの証言が伴う、確かな実のある情報だ。
怪しむ部分はあるにせよ、これで惹かれない冒険者はいない。
「兎に角、儲かる分にはいいさ。安定のない冒険稼業、稼げる時に稼がないと、あっという間に餓えてしまうよ」
「老後の金は自分で獲るか、老いる前にくたばっちまうのが冒険者だからなぁ」
加えて眠る財宝のみならず、聞けば、その迷宮には数多の魔物が蠢いている。
形のない魔力が淀み、複数の要素が合わさって生まれる魔物は、その性質から同じ場所で生まれ続けることがなく、狩れば終わる存在だ。
人工的に補給を続けても物質化に失敗する上に、単に魔力を圧縮しても、生み出せるのは魔石が精々。
魔物の誕生は法則にして自然的な現象であり、その解明はされていない。
よってその素材を大量に手にする機会もなく、強力な代わりに高価な魔物素材の装備は、冒険者には実力の証でステータスだ。
死亡に伴い飛散する魔力の一部が凝固し、物質化した魔物の一部。
存在の核になる特徴的かつ強力な部位は、貴重品で、数を揃えるのが難しい。
たとえばヴァラハール王国の場合、兵士の装備が鉱物系で揃っていたのが背景を語る。
通常、同種の魔物は現れても群の単位が限度なため、倒してなお────あたかも無限に生産されるかの如く────数の減らない場合があれば、異例中の異例だった。
「騙し騙し使ってる装備もあるし、ここらで一つ、いい素材を揃えたいところね」
尽きせず湧き続ける魔物という、架空や仮想に等しい状況。
倒しても魔物の数が減らず、何度でも挑める場所があるなら、急速な鍛錬と金策が可能だ。
売却の利益のみならず、質と数を揃えた素材は鍛冶場へと持ち込み、戦力の向上をももたらしてくれるだろう。
そういった意味でも、魔王ハルキの擁する迷宮は異質と言える。
「何にせよ、気を引き締めて行こうぜ。美味い話にゃ嘘か危険のどっちかがある。魔王の相手なんてのは、英雄や勇者に任せりゃいい。俺らは稼げるだけ稼いで、ヤバくなったら尻尾を巻いて逃げ切るさ」
長い大陸の歴史にも存在しない、不自然なほど冒険者に利した特性のダンジョン。
仮に玉座の主が口にするなら、それを冒険者ではなくプレイヤー、と言っただろうが。
「久々のダンジョン攻略、それもこれまでにないデカい話だ。みんな、気合入れていこうぜ!」
「「「おー!」」」
距離を置いて星々と地表の間にそびえる、迷宮の口を男が見据える。
まるで意図して誘い込むかのように、美味い話を閉じた門の、不気味な影。
夜森の闇に浮かび上がる漆黒を見上げ、とある冒険者の一団が、夢に燃える気勢を上げた。
束の間、宵に灯る焚き火の赤と冒険の炎。
似た光景は広場の各所に広がっていき、明けた朝の希望を脳裏に、各自が士気と戦略を練る。
たとえ罠や危険があっても、本物の宝と冒険もあるだけ、詐欺の類や怪しげな依頼よりはマシと。
所詮は明日をも知れぬ冒険稼業、死に行く足は持たずとも、己の力で道を拓く気概だけは、常に胸の中にある。
それは、諸国の民において異質なる者。
年齢、性別、人種を問わずに如何な時代にも現れる、平穏を捨てた異端児たち。
「さあ。魔物を倒して宝を取って、明日も稼ぎと冒険だ!」
入り口となる門を通し、地下に広がる迷宮の闇。
夢と金と地位と名誉と、そして何より冒険のため。
<魔王>のもたらす深淵に挑む者達が、揃って声と拳を上げた。
もっとも。
いまだこの時点では。
既に得た情報と分析。
その内容が正しくとも、それがいつまでも通じる保証などないことに────────誰もが気付いていなかったが。
現実たる異世界、このグローリア大陸において、最新にして最も逸脱した魔王。
戦争を仕掛けた王国でもなく、動かされた<勇者>でもなく。
普遍的な冒険者たち、数多のただ人が彼の権能、<迷宮>の真なる恐ろしさを味わうのは、今、これよりのこととなる。
爆熱の閃きが、<迷宮>の静寂を焼き払った。
「“火神の尖塔”ッ!」
視界を照らし出す熱線の炸裂。
巨大な土壁が空間を囲う大広間に、次々と開く火の大花。
石切の床に連続して紅蓮の塔が立ち、天を衝いた炎の群が、拡がる光熱で境界を引く。
「今だっ! 一旦下がれ!」
視界の端から生じて走り、高々と燃える火の赤壁。
内部に明るい黄色を孕み、熱風の最中に揺れる焔。
決死の瞳にその色を納め、地に焼けた影の手を振る青年、リーダーらしき鎧姿の声に従い、<冒険者>たちが距離を取る。
「クソっ、王国の連中め。こんな話は聞いちゃいないぞ」
剣や盾、杖にローブと姿や性別も様々な武装の集団が駆け、離散を経た足音が、素早く戦列を直した。
後衛の前に立つ戦士、鋼の籠手先に幅広の剣を握った男が、熱された息吹を軋る歯で切り、数名の仲間の命を背に、判断の間の愚痴を零す。
「オオォォォォォ」
「ひっ!?」
「落ち着け!」
呼応して轟く唸り声が、部屋の壁面に反響した。
青年が正面に据えた視界には、面積の限られた広間の床を、猛々しく燃えて分かつ炎。
狂おしく踊る火精の乱舞に焼けた世界で咆声が渡り、仲間を叱咤するのに遅れ、紅蓮の防壁に滲み出す、此岸の存在の輪郭が映る。
「そんな……これで効かないなんて」
現れた光景に喉を鳴らしたのは、仲間の一人、金属杖を手にした魔法使いだった。
今この瞬間に彼らを追い詰めている脅威、徐々に眼界を占めて迫り来る存在。
大火の天幕に蛇のような首を巡らし、翼を広げる敵影を見て、頬から冷えた汗が落ちる。
仲間内では最大火力の砲台役の、渾身による魔力行使。
火神の憤怒にたとえられる業火の壁、逆さに昇る灼熱の滝に、絶望を映す切れ込みが入った。
「クルルルルル」
彼らを守る境界を裂いて現れたのは、恐ろしく巨大な、そして巨大で済ませるには余りにも特異な、一匹の大蛇。
「嘘、だろ」
高熱に生じた陽炎に身を歪め、熱源において荒れる熱波の酣に、胴を伸ばした異形が立つ。
「コオオォォォォ」
無色の透身をなすのは、無欠なる金剛。
割られた火柱が左右から噴いて巨体を赤く照らし出し、輝きが煌びやかに弾ける。
床をのたくって這い進む蛇腹は火炎の鼓と熱獄を断ち、硬く不快な音を立てた。
うねらせる全身、尾までが一本でありながら鱗を持たない体には、無数に生えた紅玉に蒼玉、翠玉や紫水晶の角柱が連なる。
頭では金銀の塊が双眸をなし、口から下に伸びるのは、そこだけが白く艶やかな牙。
肉体に骨はなく透明、背では樹氷の如き水晶の翼が大きく閃き、目下の全てをその美と威容で圧倒する。
「ほ、本気で効いてないのかよ!?」
「コ、ココ。コココココ」
最大の火力になおも健在な敵を目に、並んだ冒険者の一人、短剣を握った小男が叫んだ。
歪めた表情は汗だらけで、ただ夥しい四肢の震えが、原因が熱気にないことを語る。
巡らせた瞳には地を這う長い尾が焼き付き、目を逸らして広間の天井を仰げば、中途に相手の顔があった。
対象の動きに反応し、舌を鳴らす蛇の口から、坑道で壁を打つ様な、硬い音が漏れて響く。
「逃げる………逃げるぞ! もうそれしかねえ! こんな化物、相手にしてられるか!」
「グォォォオオオオ……ッ!」
蒸気を噴くような大蛇の呼気の音に合わせ、不意に硫黄の臭いが漂う。
鼻をつく臭気に煽られた恐怖に耐えかね、また一人、盾持ちの男が仲間へと喚いた。
瞬間、火の滝から這い出た蛇は瞳の輝きをもたげ、相手の弱気と逃げの姿勢に、追撃の構えへ身を移す。
「ゴギャァアァアァアァアァアァァァアアアアア────────ッッ!!!」
ダイヤモンドの全身を数多の宝石で飾り、金と銀の眼球をはめ、水晶の双翼で羽ばたく巨大蛇の名を、<グローツラング>。
鉱脈を守護するとされる蛇の精霊。
だが<ファンタジー・クロニクル・VR>で現されるその存在は、彼らのいる迷宮第一階層、適正レベル20の枠から逸脱した、40レベルのボスモンスター。
<魔王>ハルキの迷宮が王国と交戦し、彼と魔人がレーゼの町を奪還してよりはや一月、ヴァラハール王国の布告に釣られ、迷宮の闇に寄って来た冒険者たちを出迎えた、数ある絶望の一つだった。
「ねえ、どうするのよ!?」
「~~~!」
王国により布告された報酬に動いた彼らが見た、迷路と化した通路の奥、フロア毎の四隅の一つに設けられた、不自然な空間。
大部屋の中央に菱形の大きな結晶が浮かび、下に書かれた魔法陣と合わせ、魔力の集積を果たすと思われた魔導装置。
後に王国が『依頼』という形で全冒険者に告げた内容には、迷宮の重要情報を掴んだ場合、それ自体に十分な報酬を払うとあり、よって周囲を警戒し、話し合った上で調査すべく踏み込んだ彼らの頭上、死角となる広間と通路の接合点の直上に張り付き、訪れる侵入者を待ち続けた蛇が、直後に来襲したのだった。
陣形を蹂躙され、瞬時の反撃も残らず堅固な外皮に弾かれ、振るわれる尾や角柱の一撃は、いとも容易く床を割る。
対峙する側からすれば、それは悪夢に他ならない。
過去に魔王と眷属の会話に上った、迷宮に関する設置設備とその守護者。
<邪悪の樹>において最下層たる『無神論』から産まれ、その強大さで迷宮各フロアの一定領域を支配する、個体でありながらパーティー相当のボスモンスター。
王国との接触から十分な時間で用意した魔王が配備した、明確に敵を倒すための魔物が、その長大な牙を剥く。
「キュオオオオオ……ッッ!」
「ちくしょう、退却だ! 後衛を抱えろ! 退避、退避ーーーっ!」
翼を広げたグローツラングが、不気味な咆哮で喉を鳴らした。
炎の添える朱色の中、透き通った総身から集約し、口元で合わさる反射の輝き。
駆け巡る光の軌跡が金剛のレンズに刻印され、砲撃と化した光熱が、炎を押し退けて広間を照らす。
「うぉぉおおおおおお!」
戦闘の発端、突然の襲撃と乱戦からの位置取りが幸いし、いまだ空いている距離を背に、冒険者たちが駆け出した。
向かう先は生還に通じる、侵入に用いた通路の出口。
此処に着くまで身を擦ってきた土壁を目指し、出足の遅れる仲間を抱え、リーダーを務める青年が走る。
「王国の連中め適当な依頼を出しやがって! 生きて帰れたら憶えてろよ!」
ヤケクソのセリフを捨て去る背中の後ろでは、ほんの数秒を遅れ、影を払う閃光が開いた。
「ギャァアアアアア゛ア゛ーーーーーンンッッッ!!!」
────────光線の圧縮を経て放たれた、莫大な量と幅の砲光。
土流の如き閃きの雪崩が背後で空間を押し潰し、床を断ち割って石片を巻き上げ、衝撃を撒いて薙ぎ払う。
弾かれた物体が破壊の勢いそのままに飛び、突風に混じって走る彼らの背を押した。
「おわ……!?」
「チクショウ! 地図は当てにならないし、敵は強いし、一体どこが美味い話だ。こんなダンジョン、二度と来るかぁ!」
爆風を受けて間一髪で通路に飛び込み、そのまま駆け去る冒険者たち。
憤怒や憔悴、疲労に安堵、ギリギリ生き抜いた各自の感想を顔に浮かべ、侵入者たちが足早に動く。
目指す先は来た道を戻り、迷宮の外へ。
その姿はやがて味わった恐ろしさを同業者に語り、王国の名を下に、迷宮と新たな魔王の名を、更なる高みへ運ぶものと思われた。
「…………」
縄張りへの侵入者を退け、沈黙したグローツラングが翼をたたむ。
広間に灯された炎は既に消え、外敵も去った後に油断なく警戒をすると、やがて尾を翻し、部屋の中央へと蛇行して行った。
目的地には人ほどの大きさがある菱形の結晶が赤く浮かび、床の魔法陣と呼応して、変わらず魔力を集めている。
反応によって照射される光はどこか宝石のようで、精霊でもある蛇の守護者は、巻いたとぐろで石を囲むと動きを止めた。
「────────」
<魔王>に出された指示に従い、傷一つ無い全身で、微動だにせず一帯を見張る。
散った敗者に興味はなく、ひたすらに次の獲物を待ち、蛇竜は座して時を過ごした。
人魔混合、剣と魔法の冒険に満ちたグローリア大陸。
この異世界では滅多に見かけない強大な魔物と、当てにならない事前の情報。
<迷宮の魔王>ハルキのダンジョンにおいて、以降この2つが、最も早くに知られた洗礼となる。
新たにして異界の魔王から王国、そして人類への。
それは、ある意味で無言の布告だったのかもしれない。
その光景を見て、迷宮の深淵に冷えた空気を、左右に振られた手が乱した。
「いやいや、明らかに『何かある』って場所に、自分で突っ込んでそれはないわ」
光源の篝火と無骨な石柱に囲まれた、迷宮深部の<魔王の間>。
ダンジョンの増築によって地下9階に位置することになった玉座で、<魔王>ハルキが溜息をつく。
「オマケに迷宮の構造がずっと同じとか、考えが甘いにもほどがある」
続いて口を衝くのは、最近になって激増した迷宮への侵入者、それも敵対する王国ではなく、<冒険者>たちへの感想だった。
「客が多い分には経営者として嬉しいけど、生憎『お客様は神様』とかいうレトロ主義は、ウチじゃ扱ってないんでね」
彼が音頭を取って力を貸し、率いた魔人と魔物がなした、領土奪還より数週。
追加で2つの町を取り戻して防衛線と生存圏を広げ、増産した道具を配備し、復興を進めつつ更なる魔人を擁することになった迷宮は、現在、空前の────といっても彼が異世界に来てからのものだが────侵入者ブームに沸いていた。
「その分サービスは欠かさないけど」
彼によって一敗地に塗れ、頼りの勇者すら己の策謀で失った王国が、新たに取ったらしい対策。
王国全土に立てた触書で民間の冒険者を雇用、ですらなく成功報酬をぶら下げて迷宮へ誘導し、ある種の動員を行っていることは、既に掴んでいる。
これが頼みの綱か時間稼ぎかは不明だが、現状においては一応有効な手といえた。
「ふっふっふ。構造変化に新設のトラップ、設置した設備に領域守護者。王国には間に合わなかった分、たっぷり味わってもらおうか」
晒した黒髪の下で同色の目を細め、愉快そうに彼方の者へ告げるハルキ。
魔王としての漆黒の武装に身を固め、今は一人きりの玉座で、侵入者たちの監視と観察に興じている。
敵の真剣を喜び、娯楽に落とし込む姿はまさに画に描いた魔王さながら、今日も今日とて過去と同じく、己が敵を迎え撃つ。
その姿は何処となく稚気に溢れ、篝火を映す瞳は純粋に輝いていた。
腰かける玉座から背を離し、乗り出した身と握られた両手。
脳裏に展開した迷宮内部の知覚と図形、目まぐるしく変わる数値の群に、活き活きとして思考を捻る。
かつて仮想であった頃と似た状況。
王国主導とはいえ国家の都合や策ではなく、あくまで自由意志で<迷宮>を求める侵入者たちに、ハルキもまた在るべき<迷宮の魔王>として応じていた。
「勿論、持ち帰るお宝もな。持て成しはきっちりしないと、リピーターと口コミが増えないし。硬貨と回復アイテムのパターンはそろそろ飽きただろうから、今度は素材系でも工夫してみようか」
故の悩ましさもあるが、それもまた彼の楽しみでもある。
以前にティア────魔人の姫、ティアリス=ミューリフォーゼ────に聞いた話の比較で判明した、大陸の歴史上皆無、空前絶後の<迷宮>の特色。
宝箱の設置と、生産する魔物。
魔人に提供した生活部分とは異なり、ハルキとしては常識に等しい迎撃関連のこの2つが、彼の座する居城の闇に、俄かな活気を呼んでいた。
「うーん、それにしても魔物の数に宝箱か。正直当たり前すぎて、電脳の頃は考えたこともなかったな」
現実で考えれば敵を利する者などなく、無限に産まれてくる生物もいない。
「ダンジョン自体、朽ちた遺跡や過去の施設、そこに住み着いた魔物が主、か。そりゃ管理者がいなけりゃ宝なんて置かれないし、魔法使いの実験塔だの外敵の排除が目的なら、他人を呼び込む要素なんて逆効果だもんな。魔物も宝も、補充する誰かがいなけりゃ尽きるだろうし、取って終わりの先着順なら、継続的には人が来ないか」
彼が誇り、そして有する、およそ実際や防衛としては破綻する要素を多く抱えた、ダンジョンという異例の構造。
言葉こそ共通しているが、異世界におけるその定義は極めて現実的で、面白味のないものだった。
宝箱など最初からなく、財宝の類は取れば終わり、倒した魔物は復活せず、やがて緩やかに全滅に向かう。
それでは金銭も経験も、冒険者全体には回らない。
比較すれば、今この迷宮の状態に対しても頷ける。
魔王ハルキの過去にある、無数のプレイヤーが存在し、魔物が湧き、奪い合う必要もなく宝や素材が行き渡り、生産職が装備を鍛え、本質的には死ぬこともない超人同士が鎬を削った、<ファンタジー・クロニクル・VR>の時代。
大陸では列強たるヴァラハール王国の精兵たちの弱さといい、以前にハルキを襲った<勇者>、人類屈指の強さを誇るパーティーに結局は完勝したことといい、電脳から実体に変わったハルキのいる環境は、奇妙なことに、むしろ仮想の時よりも温い。
「<ダンジョンマスター>がいない世界、か…………ランキングみたいな張り合いは無いけど、それはそれで面白いか」
そのために。
恐るべき<魔王>としての権能を保持し、異界の法則を持ってこの地に顕現した彼の力、それによる迷宮の存在は、他者にとって煌く財貨の山だった。
王国の出した触書に釣られ、初期に押し寄せた第一陣。
あえて先行を他者に譲り、安全なままに情報を得た第二陣。
連携こそしないが続々とやってくる敵勢に、迷宮は今日も機能を回転させている。
「オレだけの、現実の<迷宮>。世界に一つしかない、一人だけの魔王のダンジョン」
誰の手にも触れていない、未開封の宝箱。
この大陸で彼だけが持ち、そして与える報酬は、まさに誘蛾灯の如く。
夢と宝に熱を上げる冒険者たちを、早くも強烈に引き寄せていた。
「いいね。開拓者にはやり甲斐がある」
<邪悪の樹>の産む魔物と合わせ、その魅力自体は自身が遠くに感じながら、ハルキは迷宮の管理者、挑戦者ならぬ支配者の視点で、己がダンジョンを見ていた。
大陸全土を俯瞰しても、他にない特徴。
唯一たる強みとそこから予想される飛躍は、今なお<迷宮の魔王>としての彼を、実に心地よく満たしてくれる。
「────────と。あまりこっちに拘束されるのは、ティアや魔人に悪いんだけど」
そこで唐突に表情を改め、気まずそうに頭を掻いた。
「けどまあ、迷宮の外に関しては、オレも出来ることが少ないからなぁ」
最近になって頭を悩ませる事態を、思考の端で転がしてみる。
迷宮の活気が表の利益なら、かける労力は裏の不利益。
今や本物の<魔王>である彼に、立場上の差配や考えは付き物だった。
「現状で下手に留守にして、万一にでも玉座を押さえられたらコトだし。気は進まないけど落ち着くか強化が終わるまで、ティアには我慢してもらわないと……」
己の求める利益に釣られ、次々と侵入してくる冒険者たち。
国家の事情に絡まない彼らは、魔人の領土を荒らすことこそないものの、それだけに全てを迷宮のみに注力し、結果的にハルキのリソースを削っている。
現時点では微々たる物だが、迷宮に対する操作や監視の時間が増えれば、結果として彼は拘束され、魔王や魔人全体の動きも鈍るのだった。
過去、仮想であった頃の数値とは比べるべくもないが、それでも既に数十組、平均5人ほどの冒険者チームが、ひたすら迷宮に侵入してくる。
「はー。<魔王の森>か。立地がこんな一等地でなければ割と詰むか、オレや眷属で蹴散らして、迷宮内が阿鼻叫喚の嵐になるとこだった」
ハルキ個人としては嬉しい限りながら、魔物の生産や強化、罠の設置や装置の敷設に魔力を食われ、不足することこそ無いものの、運用は多少シビアになる。
迎撃部分に関する要素は、ダンジョンにおいて最も魔力を消費するため、当初の予定には下方の修正がされていた。
王国から複数の町を取り返し、更なる装備や物資の用意、人員の収容に慰撫と、やることが増えたのも大きい。
「『拡張』さえ我慢してればなぁ」
余裕のあった時に第二階層を追加したのも現状に拍車をかけており、そこにきて侵入者の能力が、迷宮に適したものであるのも響いている。
軍のような<兵士>ではなく<冒険者>。
<盗賊>を始めとした探索向きの人員が混ざるようになり、相手に強いる消耗の効率が落ちていた。
対策は既に打っているが、抜本的な解決にはならない。
「いっそ、8階の魔物でガチガチに防衛線を引くスタイルでもよかったかね。守護者以外は、できるだけ適正レベルで揃えたいんだけど」
先ほど、『地図が当てにならない』と叫んだ冒険者がいた。
それもそのはず、勇者による儀式魔法の大破壊から復元を済ませ、同時に<魔王の間>までのルートを把握された迷宮は、現在、内部の構造を変えている。
<ファンタジー・クロニクル・VR>において過去の作品、いわゆる数多の『ダンジョンもの』から着想を得、システムを組まれたシミュレーション要素。
<迷宮の魔王>を始めとしたダンジョンマスターは、その権限でダンジョン内部の諸々を自由に変更でき、設備や罠の配置、果ては各フロアにある部屋や、通路の形状を自在に変えられるのだった。
「やっちゃったものは仕方ないか。消費した魔力分の時間は稼げそうだし、混乱も思ったより大きかったし。ダンジョン攻略者は、やっぱり等しく地図書きでもないとな。大昔なんかは、『方眼紙にエンピツ』とかいうので直書きだったらしいし。ご先祖様も苦労したもんだ」
『入るたびに形が変わるダンジョン』とまでは行かないが、攻略するプレイヤーの情報収集や共有で内部を丸裸にされ、容易に落とされることを防ぐために、ある程度の可変はシステム的に許されていた。
ただ相応の魔力は消耗する上、変形に伴い罠や設備、宝箱は飲み込まれて消え、魔物は移動させねばならないため、短期間で繰り返すと、回収してないコストの方が上回るという難点がある。
こればかりは既存の物理構造の変化なので、空間の拡張のようにはいかない。
以前、ハルキが王国兵に地下3階まで探索されても隠匿のためと殺さなかった理由の一端────『殺さなくてもいいなら手を汚すよりは放置』という、相応にそれらしい倫理観の寄与した部分も大きいにせよ────の現れでもある。
変形が終わるまでの時間や収支のバランスがネックだが、その調整も、<迷宮の魔王>が誇る腕の見せ所だった。
「よし」
そんな魔王の挑戦にも、冒険者たちは各自の形で応えている。
戦闘での機転や結果的なスタンドプレー、チームワーク、事前の準備に計画など、内容は個々で様々だ。
<グローツラング>に負けた冒険者にしても、格上相手に撤退を成功させている。
今日は負け、または敗北する前に退いた者も、次は更なる対策や研鑽を積んで来るだろう。
あるいは入り口たる門の付近でキャンプを張り、情報の共有や交換をしての対策会議、アイテムの売り買いに物々交換をする者たち。
団結して数の暴力で攻めるなら別だが、難関ダンジョンに長期の計画で臨むパーティーの存在や、集団化の流れはゲームでも実際よくあったので、ハルキも今は微笑みつつ放置を選択していた。
おかげで《感覚共有》した地上の魔物から遠隔でいくらか情報も取れるし、決して悪いことばかりではない。
この辺りは相手が絶対敵たる王国でなく、真剣にダンジョン攻略を目指す集団であり、ゲームを思い出す在りようのための差配でもあった。
「さて。他のチームはどうしてるかなっと」
困難と栄誉、試練と報酬、悪辣と補助、魔物と宝、ムチとアメ。
正負の要素は共に用意され、与え奪うべき諸々を脳裏で計算しながら、ハルキはまた別の戦いに意識を向ける。
「7階の方は……お、来てる来てる。好都合だ」
国家でもなく、ほんの一握りの英雄でもなく。
数多の敵が侵入してこそ発揮される迷宮の、魔王の本領を見せるために。
「善戦してるなぁ。くっくっく」
関節の動いた漆黒の鎧が、篝火の赤を籠手の先に鈍く映した。
細めた瞳が揺らめきを切ると、微かな軋りが静寂を渡り、頬の横を過ぎた手指が、虚空を滑って爪を弾く。
かつて電子であった頃と異なり、燐光を生まない手動入力。
意図を乗せた一刺しの指が、迷宮の王の権能を介し、ダンジョンに一つの変化を生んだ。
「負けっぱなしで客が減るのも困るからな」
彼方に移り、とある一団を映すハルキの意識には、迷宮の通路を駆け抜ける者たち。
新設をした第二階層、土と石と枝葉の隘路で魔物に追われ、応戦しながら振り切りに掛かる。
階層適正レベル30から40、一人前からベテランの域の戦技が閃き、伸びた蔓や種子の弾丸を弾き落とした。
追撃はせず即座に反転、慣れない場所で連携の取れる大きさの部屋を探しながら、背後の脅威を引き離しにかかる。
「いい感じに侵入者も増えてきたし」
彼らの至近にある一個の小部屋。
そこに設置された宝箱に手を加え、<迷宮の魔王>が笑みを浮かべた。
「これも広報戦略ってことで」
既定の決定を告げる口調で無遠慮に、懸命に戦う冒険者たちの、成否を分ける操作を加える。
「利用するようで悪いけど」
ダンジョンとは、その支配者の手にした卓だ。
参加者なくして成り立たないが、盤面は常に主が決定を握っている。
相手と並んだ対戦者ではなく、状況を与える運営者。
横暴な真似をすれば続かないだけで、適切な数なら不意打ちで襲う絶望も、考えられない幸運も、共に用意するのが腕だ。
与えるだけでは足りなくなり、奪うだけでは来なくなる。
敗者が出れば勝者も生まなくてはならない。
攻略されないのが迷宮の目的意義とはいえ、同時に宝なり経験なり、得る物がなければいずれ寂れた廃墟と化す。
そうならないため、勝つか負けるか、負かすか勝たすか。
天秤と結果をコントロールし、勝者の存在で希望を与え、語る口から迷宮の評判を上げていくのも、<迷宮の魔王>の仕事の一つだ。
「それじゃあ」
よって。
距離であろうと関係であろうと、迷宮に深く入ること自体が、魔王の罠と掌の上。
「そろそろ一つ────────大きな成功の噂でも、流してもらうとしようか」
そんな法則を知らぬグローリア大陸、全ての冒険者を手玉に、<迷宮の魔王>ハルキは今日も撃退に勤しみ、その迷宮を広げるべく行動するのだった。
次回更新は今週中または1月26日(日)までに行う予定です。
予定より大幅に遅れましたが、色々と書いている内に本編最長の話(第二話=30kb)を軽く超えてしまい、前後編となりました。
構成が歪になっておりますが、後編はもう少しスリムになる予定です。
説明回で申し訳ない。
作者の都合で予定がずれ込んでしまいましたが、外伝2に関しては来月上旬に投稿の予定でおります。
そちらはある程度プロットを作ってありますが、魔人の迷宮生活の話に。
お付き合いいただければ幸いです。
それでは、ありがとうございました。
※投稿十数分後、一先ずの修正分を反映しました。
一部の誤字、「沸く」→「湧く」などを訂正。




