第14話 湯煙温泉、2人の心
朝靄に似た湯煙が、水面に薄く張って引いていく。
まるで霧がかかったようで、温もりに満ちた白の世界。
「う~ん、んん、んっ」
お湯を囲う置き石に、背中を預けて伸びを一つ。
水音を立てて浮上した腕が、張りを増した肌ツヤを見せる。
立ち込める蒸気が寄り添うように体に触れ、時折、身じろぎを嫌って舞い上がると、不機嫌に離れて飛び立った。
かと思えば、いつの間にか再び下りて低くを這い、湯の上の肌を包むとくすぐる。
濡れた黒髪が重く垂れると額に張り付き、邪魔になったと、指で弾かれ横へ跳ねた。
「ふー」
雫が水に落ちる音。
見上げた天井に温められた息を吐き、リラックスして目をつぶる。
耳を澄ませることしばし。
開いた瞳は髪と同じ黒色で、胸の下をほどよい熱にひたらせた姿は、浴場によくある人間のものだ。
彼の立場と存在が、<魔王>であったりしなければだが。
「それにしても勇者ねぇ」
時刻は、日が中天を過ぎた頃。
以前に食卓に乗せられた議題、勇者への対応にすっかり頭を悩ませたハルキは、入浴によって気分転換を図るべく、昼の湯掛を楽しんでいる。
「はあ。疲れる」
風呂。
ある島国の民族などが発展を見せた文化であり、代謝を高め、清潔と共に健康を守る憩いの場。
彼が浸かるのは温水ではなく、泉質を備えた温泉だ。
色は優しい乳白色で、濁り湯が肌を温めてくれる。
「うーあー」
天井の中心で白いカバーをつけ、淡くした光が輪を広げる。
付けられた電灯が緩和された輝きを注ぎ、お湯の表面を煌かせた。
ハルキは手慰みに水面を打ち、童心にかえって水鉄砲など撃ってみる。
会議の場で上げたテンションを、時間による落差で沈めた現在。
思考は逃避気味に流れ、今や希少な一人の時間を、あえて無為に過ごしていた。
「五階までの初期構造で置ける罠じゃ、どう考えても足りないよなぁ。増設しようにも迷宮部分は魔力を食うし。やったとしても魔物の生産が追いつかないんじゃ、密度の不足で素通しに……。どうしたもんか」
浴場に、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
瞳の先では蒸気を浴びて水滴を張った壁が並び、彼の声を反響させた。
壁の造りは木の板張り。
床は入り口から同じ木造、濡れを落とすための『すのこ』、詰めた玉砂利に飛石を置いた露天風と、三段になって目を癒す。
主たるハルキが寝起きしている和室と合わせ、こういった『遊び』の構造が、迷宮には意外とあるのだった。
「質で賄おうにも消費がなぁ。兵士一人が30レベルじゃ、魔剣とか絶対ドロップしねー。手持ちが尽きたら終わりとか、いくら何でもキツ過ぎる」
基本的にはダンジョンから出ず、他者と交流することもなかった<迷宮の魔王>。
そのストレスへの対策の名残は、今も活用されている。
「<邪悪の樹>も、一度に強いのを造り過ぎると、今の樹齢じゃダウンするし。1フロアに十体二十体じゃあ、下手をするとエンカウントもせず終わる…………くっそ。勇者、勇者か。出来れば辿り着く前に倒すか、せめて消耗させないとな」
この異世界で彼が創造した迷宮、中枢の玉座や<邪悪の樹>に記録された────温泉水の供給を含め、どういう原理かいまだに解らないのが恐いが────情報から増設した施設は、意図されていた役割を果たし、住民にくつろぎを与えている。
「魔人は当てにできないし。オレの命令で死にに行かせるとか論外。人手が減るのも却下だ」
今やハルキの迷宮は、多くの者が暮らす一大住居だ。
こういった施設は住民に広く利用され、その手によって保たれている。
生活の中で魔人たちもそれなりに働き、あるいは工夫をしているのだった。
以前はデータとして処理された汚れは人力で除かれ、据付の家具も改良を加えたり場所を変えたり、ハルキの許可と管理の下、彼らも迷宮に馴染みつつある。
「ねぐらを作って魔人を動かす親玉か。我ながらほんと<魔王>なことで」
魔人としてもただの寄生になるのを嫌った、というより魔王にするのを恐れたようで、積極性はありがたい。
ティアなどはその筆頭だ。
彼女といえばハルキに会いに来て交流を図り、魔人の意見を汲み上げて折衝役を行い、現場の代表者に方針を伝える纏め役をし、毎日ぱたぱたと駆けている。
知恵や知識、統率の手腕はお粗末ながら、それでもあえて笑う姿は懸命で可憐だ。
魔王の目にはとにかく魔人に好かれており、彼女の方もお願いの態で出された案を持っていくため、ハルキのような経営者というより、選ばれた謙虚なリーダーに映る。
「見た感じは頑丈じゃないし、体を壊さなきゃいいけど」
初日に案内した甲斐もあり、魔人の中では迷宮に最も適応していた。
万事において指示をするのも面倒だし、魔人の長はティアであるため角を立てない意味もあり、大いに助かっている────────と。
そんな思考で、噂でもなく影がさす。
「どーしたのアリス?」
「いえ、その。先に誰かいるみたいなので」
「えー? だれだろ?」
「あっ、コレルさん」
感じた気配に視線が向くと、脱衣所の方で音がした。
見ればガラスに人影が一組、浮かんで扉へ迫るところ。
そこで彼の呟きを聞いたか、片方が開けるのを躊躇い────────残りが豪快に無視する。
反射的に腰を上げたハルキの耳に、カラリと響く軽い音。
「な」
「え」
「お?」
引き戸の曇りガラスが開き、合わせた視界に映ったのは、着衣を脱いだティアリス=ミューリフォーゼその人と、コレル=コーレルの2人。
「ぶっ!?」
「あれ?」
ふき出す魔王と、疑問に首を傾げるコレル。
言うまでもなくそろって全裸で、見つめ合う主従の動きが止まった。
男の方にあるナニが揺れ、水滴を落とす。
水音はいやに浴場に響き、次いで沈黙が破られた。
「まおーさまだー!」
「うおああああ!?」
歓喜と悲鳴が入り混じる。
股間を沈める魔王に向かい、突撃してくる全裸幼女、もしくは少女。
タオルも巻かないオープンな裸身が湯煙にさらされ、細い手足をぶんぶん振って走ってくる。
露出の稀な栗色の短髪。
その下で茶色の目が笑い、色んな意味でツルツルの肌が主へ向かった。
「ざっぱーん☆」
間にある砂利道を超え、ひとっ跳びで着水するコレル。
飛び跳ねた体が空中で回り、ヒザを抱えて高速で上下を入れ替えると、派手に水柱を立てた。
「ぎゃーっ!?」
「あっははは! まお~さま~!」
何も隠さぬ少女を目にして絶叫する魔王に、沈んだ熱湯から飛び出し、無邪気に抱きついていく眷族。
お湯に濡れた素肌が合わされ、押し付けながらこすられる。
「コレル! おま、ちょっ、離れろ!」
「えー、なんでー?」
「いいから!」
「いいの? じゃーもっと!」
「意味が違うっ!」
暴れる2人に水滴が飛び散り、お湯が端からかき出された。
「わーい! プールみたいっ!」
「風呂場で泳ぐなぁぁあ!」
魔王の右に両腕を組ませ、支えにしてからバタ足する少女。
ほどこうとする抵抗を抱きしめ、コアラよろしくしがみ付く。
実は主と似た筋力値。
ハルキの腕に、薄いながらも特定部位の感触が当たり、ぷにぷに押し込まれて悶える。
(ちょっと待ておい異世界だからってこの倫理規定はマズイだろうがぁぁぁあああああ!?)
純粋なまでの好意が重い。
単なる子犬のじゃれ付きかもしれないが、今のところ、この眷属が魔王唯一の弱点だった。
「まおーさまとおフロに入るのはじめてだよね? ボク、つかりながら100までちゃんと数えられるよ!」
「どっ、どうでもいい……!」
元より前衛型のため、印象に反して体術系の習熟度は高い。
振り回されつつも、だが着実に体を這い上がってくる。
抱きしめた腕からスキをついて胴体に移り、腰の浮く瞬間を見切って徐々に上へ。
当然ながらその際にはより接触が強まり、摩擦が彼を刺激する。
主に胸とか下腹部で。
「こ、こうなったら…………奥の手っ!」
そして、とうとう堪らず手を上げた。
「《召還》!」
「ふぇ?」
喚び寄せる《召喚》ではなく、送り還す《召還》。
招かれた時とは逆の手順で眷属が消え、光とともにできた隙間をお湯が埋める。
揺らめいて散っていく粒子、魔法の残滓が水面を淡く輝かせ、やがて薄らいで見えなくなった。
「はぁっ、はぁ…………あ、危なかった」
何が、とは言わずにもたらされた疲れの分、くつろぎの姿勢に戻る魔王。
嘆息すると顔に手を当て、がっくり、という風にうつむく。
緊張からの脱力に、湯が沁みこんでいくようだった。
「あの。魔王様」
そこで。
コレルのせいで彼の意識から外れていた、もう一人の少女の声がかかる。
「────────」
顔を向け、凝視してしまった。
輝く乙女。
恥ずかしそうに、それでも胸やその秘所を、手で覆うだけのティアの裸身。
波打つ金髪は後背を隠すがそれのみで、視線を遮るには足りない。
湯煙に和らぐ明かりを浴びた全身は、肌の白さを仄かに浮かせてたたずんでいる。
黄金と白と、瞳の紅と。
三色の和に頬の朱色を差した姫が、ためらいがちに魔王へ聞いた。
「私も入っても…………よろしいでしょうか?」
浴場にしばし沈黙が満ちる。
魔王の髪から滴った雫が、温水に小さく波紋を生んだ。
敵性ではない存在は、迷宮の中でも逐一動きを把握できない。
個々の位置を含んだマップは表示できるが、広大な上に三次元的表示のそれに、欠かすことなく意識を割くのは不可能だ。
モニター式の監視も同じく。
従って、ハルキの知覚が敵対判定を持たない者、ティアとコレルの接近に気付けなかったとして、<迷宮の魔王>失格というわけではない。
と、一応の弁護はできる。
「コレルさんに、『一緒にお風呂に入ろうか』って誘われまして」
降りかかる水滴が床を打つ。
備え付けのシャワーを浴び、ティアは経緯を説明した。
「それにしたっていきなり裸で入ってくるやつが」
「ここは入浴の場ではないのですか?」
「いや。そうだけど」
「?」
タオルを帯びてお湯に直接入るのは、伝統のマナー違反といえる。
和式の浴場で文句はいえない。
手拭いや軽く拭くものくらいは必要だが、用意がないのは誘った者が言わなかったか、知らなかったか。
彼女はハルキの眷属なので、立場的には魔王に非がある。
それでも出てきた理不尽への思いも、真っ当な疑問で両断された。
「それにしても。先に体を洗ってその湯船? に入るのですね。申し訳ありません。食事の時もそうですけど、魔王様たちの作法に対してまだ不慣れで」
男性よりも長い髪にお湯を含ませ、丁寧に器用に洗っていく姫君。
置かれたボトルから薬液を出して金髪に馴染ませ、毛先まで揉み込み、泡立てていく。
(ゲームの中じゃ別だけど、外人にいきなり手馴れた箸捌きをされてもな。見せられた日にはこっちが驚く。知らなくたってしょうがないし、知ったばかりで慣れろってのも無茶な話だ)
特徴的な形をしている風呂椅子に腰かけ、慣れない様子で時折臀部に触れながら、シャワーを浴びて身を清めるティア。
すぐそばには桶もあるものの、ハルキが何も言わないため、必須でないと判断したらしい。
常識のすり合わせというものは片方に非があるのでもなく、相互理解が必要で、先ずどちらかが歩み寄らなくてはならない。
そしてそれは、譲歩や考察だったりする。
(さ、先に出とけばよかった……!)
たとえば、ハルキを見た瞬間に出て行くことをしなかったあたり、この世界の羞恥心が己の常識とは違う、ということは気付ける。
あの執事がいないと考えると、混浴が普通でもなかろうが。
「ふぅ」
呼気の温度を上げたティアがシャワーを止め、続いて体を洗い始める。
濡れて艶めく肌の白さ。
薄皮の表を指が伝って手を当てると、塗りつけたボディソープが泡を立て、全身をゆっくり包んでいった。
(和式の経験がないだけで、道具の扱いには慣れてるか。入浴自体はするもんな)
ふと見れば、脇の横に張り出す膨らみを水滴が滑り、光沢を引いて落ちていく。
ティアリス=ミューリフォーゼ。
彼女の姿は人間で言うなら思春期のそれで、身長も高い方ではない。
ただ、外見に似合わず意外と、コレルと比べれば遥かに胸があることを、ハルキは初めて知ったのだった。
「魔王様」
「!?」
呼ばれて目が合い、凝視に気付いて反転する魔王。
熱くなったお湯をかいて前後を入れ替え、首まで沈める。
「な、なんだ?」
すのこや玉砂利を挟んだ距離はそれなりにあるが、2人きりの浴室の中、互いの声はよく響いた。
「よろしければ、お背中をお流ししましょうか?」
「ぶっほぁぁあ!? げっほ、がほっ!?」
まさかの申し出に体をすべらせ、湯の中に落ちて復帰する魔王。
飲んでも良いという温泉水を含んで咳き込み、振り返ろうとして脳裏に過ぎったヌードに止まる。
「ど、どうかされましたか!?」
「いや大丈夫、大丈夫だからっ! それよりも、何でいきなりそうなるのかを教えてくれっ!」
「は、はあ」
混乱の勢いで押し切るハルキに困惑するティアだが、強くは出れない立場もあり、浮かしたヒップを置いて口を開いた。
「裸の付き合い、でしたでしょうか? コレルさんからそういう親愛表現や、感謝の示し方があるとうかがったもので。私も私たち魔人も、魔王様にはとても感謝しています。ですから、よろしければ私から魔王様に、と」
「頼む。もう金輪際アイツの言うことは信じるな。せめてオレかデカラビアに確認してくれ」
「魔王様がそう仰るのでしたら……。でも、コレルさんにはよくして上げてくださいね? 一緒にお風呂に入るって約束したんです」
「分かったよ、ちゃんと後で召喚し直す。ただしオレが出てからで」
絶対に悪気はない子供を内心で呪い、額に手をやる。
連続で上下するテンションに、早くものぼせそうだった。
(頼りになるんだけどなぁ)
コレル=コーレル。盾役としての《召喚》以前の貢献もあり、決して嫌いな相手ではない。
人格を持ち合わせてからは、子犬のようで可愛いとさえ思っている。
向こうのじゃれつきが酷いため、表に出すことはないが。
ただ、その言動は躾前の犬の如く。
何をしでかすか分からないため、飼い主的には恐ろしい。
(それにしても召還か。オレの場合はどうなるのやら)
先ほどの技能を思い出す。
眷族と小悪魔に問題ないのは確認済みだが、ハルキの場合は事情が別だ。
<魔王>を喚ぶため、調整された専用魔法。
魔人は彼を既存のそれと考えているが、事は異世界召喚に当たる。
加えて電脳上のデータと、リアルの意識の掛け合わせ。
仮に試してみたとして、帰還の定義も難しく、《召還》自体が発動するかもかなり怪しい。
(戻れるかと、戻りたいかは別だけど)
確認のために命をチップにする気はないし、彼はそれでいいと思う。
事後承諾だが喚ばれたことには納得したし、何より現状にも満足だ。
混乱を考えて自分が異世界の存在であり、おそらく故郷に帰れぬことも、いまだ誰にも告げていない。
直すに無意味な勘違いだし、あえて教える意義もなかった。
(多分、知ったらティアは気にするだろうし)
その性格を思ってうなずく。
同時に、向けた背の後方で、シャワーの音が強まった。
「…………」
薄くした目を向けると、泡を落としたティアがお湯を切って立ち上がり、ハルキのいる方へ歩いて来る。
幸い、重要な場所にはその手と腕。
色付いた頬は少し固く、緊張の様子を覗かせている。
表情はハルキも同様だったが。
「お、お風呂の床が木でできてるなんて、私たちからは変わっていますね。……でも、何だか落ち着く香がします」
足音を立てて簀子に着き、敷き詰められた砂利を見る。
流石にコレルのような跳躍はできず、困ったような顔をした。
「そ、そこは砂利じゃなくて、置かれた石を踏んで移動するんだ」
「こ、こうでしょうか?」
説明されておっかなびっくり飛石を踏むが、その度に胸の膨らみが揺れる。
堪らず目を閉じた魔王の五感に、しばらくすると水面の波紋と、足を差し入れる音が伝った。
見ると、濡れた頬を火照らせたティアが、ハルキに向かって微笑んでいる。
つられて顔の温度が上がった。
(~~~っ!)
ティアが半身浴派でなかったのと、お湯の濁りが幸いだ。
温泉の底は見えないが、深さは様々になっていて、つかる高さを調節できる。
胸の先まで湯を浴びているティアの裸身は、ハルキから見て際どいラインを守っていた。
微かに揺れるのに合わせ、時たま桜色の突起が、ギリギリのところで見えそうになる。
「お邪魔します、でいいのでしょうか?」
「あ、ああ。ちょっと違うけど。いいんじゃないかな」
姫と魔王、召喚した側とされた側の会話。
片や日本産の魔族の王、片や西洋風の魔人の姫。
黒髪と金髪、男と女、黒瞳と紅瞳の2人が、くつろぎの和気で見詰め合った。
「温泉、でしたね。私、入るのは初めてです」
「感想は?」
「……温かいですね。お湯に不思議な感じがします」
コレルとその後の会話で出る機会を逸したため、逃亡するのはハルキも既に諦めている。
いざとなれば“迷宮転移”と装備の呼び出しで離脱はできるが、まだ必要は感じない。
むしろ下手なことをして、他人のいる場で理由を問われる方が恐怖だ。
異世界にきての混浴に、気分が悪くないのもある。
彼もまた男であるので、金髪美少女と入浴できる幸運には、ある種の幸福を覚えるのだった。
「んっ」
浅く、色付いたようなティアの吐息。
鼻にかかった声は甘く、肩を寄せてもじもじと揺らした。
「もしかしてお湯が熱いか?」
「は、はい。でも、これが魔王様には丁度いい温度なのですよね?」
「そういう風に個人設定してあるからなぁ。あ、そうか。とすると風呂系の施設はどこも同じになってるな。魔人も人によって好みがあるだろうし、あとで調整しとかないと」
温度は少し熱めを好む魔王××歳、である。
「そこまでしていただかなくても。いざとなったら魔法で調節もできますし」
「んー。確かに入る面子でも変わるだろうし、自分たちがくつろげるように調整してくれればいいけど。辛くなったらここの温度は下げるから、ティアは無理せず言ってくれよ?」
「だ、だいじょうぶです」
ぐっ、とお湯の上で両手を握る少女。
少し強がるような動作が可愛らしく、ハルキは彼女に対して久しぶりに、歳相応の雰囲気を感じた。
と、そこで渡すべき物に思い至る。
「そうだ。ティア、これを」
主にコレルの衝撃で失念していた装備品、<星降る加護の腕輪>を取り出す。
虚空に溢れる魔法光。
ゲームの<魔王>はトレード行為が不可能だが、この異世界では問題にならない。
渡すタイミングが適切でない自覚はあるが、ここを逃すと機会を逸する恐れもあり、銀の腕輪をティアに差し出す。
湯煙を浴び、淡い光を照り返す装具。
温もりの満ちた水面に、宝石の色が輝いた。
「これは?」
「幾つか耐性をくれる装備品だ。名前は<星降る加護の腕輪>。ここで身につけなくてもいいから持ってて欲しい。万一の時、きっとティアの身を守ってくれる。そんな機会は、できるだけ作らないようにするけど」
「いただいても、よろしいのでしょうか?」
「そのために作らせたんだ」
「…………では」
言い切る魔王に遅れ、おずおずと少女の手が伸びる。
受け取った姫はやがてまじまじと見詰め、持ち手や角度を変えての観察を始めた。
謙虚な子供が思わぬ貰い物に対し、どう相応しい礼をすべきか、物の価値を測るような。
その思考が失礼とまでなぞったティアが顔を上げると、あげたものだからお好きにどうぞ、という顔の魔王に赤くなる。
「ありがとうございます」
今にも沈みそうな語調で言うと、贈られた品を胸に抱きしめ、感触を刻んで虚空へ還した。
アイテムボックス。
彼女らの方では世界の祝福や恩寵とし、<流浪の座>と呼んでいる空間。
様々な制約も持つそれを開き、名残惜しそうに見送ってから、ティアはハルキへ向き直った。
「……」
淡い光に真紅の瞳を照らし、潤ませた目をしっかりと定める。
濡れ髪を分けた額には、青の<召喚石>。
一方で視線の確かさとは別に、双眸の奥は憂いの色で曇ってもいた。
「……私は。魔人たちは。魔王様から、本当にいただいてばかりですね」
合わせた目を伏せて語る彼女の、声の温度が下がったことは、ハルキにも分かる。
「は?」
贈り物をして嫌がられるのならともかく、嘆かれるのは予想外だった。
「今の腕輪は、かなり高級に思えました」
「まあそこそこは」
レベル50台の腕輪は、中級上位の装備に位置する。
ハルキの知る魔人で届くのはグランだけであり、彼女たちにはまさに宝物と言える価値だ。
そんなことに今さら気付く。
更なる装備をグロス単位で持つ彼と彼女の、立場とレベルのギャップであった。
「魔王様には、本当に感謝しています」
頭を下げた礼の言葉に嘘はなく、だが一方で生気も薄い。
「召喚され、十分な時間もないまま襲われて。それでも王国の兵士を退け、守ってくださったばかりか迷宮まで。魔王様はあの日からちゃんと、安心で安全な暮らしを与えてくださいました。私たちに。約束通りに」
身じろぎに合わせて水音がする。
すっかり馴染んだお湯は温度を忘れさせ、かすかな揺れで2人の間を渡るに終わった。
「でも、何だか申し訳ないです。ここまでよくしていただいているのに、私は何も返せないまま。私たち全体も、まだ最低限の働きをするだけで、貢献しているとはいえません。更にはあのような品まで、惜しげもなく渡されて」
「そうはいってもオレは別に構わないし、必要もあってのことだから」
「それはそうかもしれません。ですが」
本当の意味で苦労をするのは小悪魔くらいなもので、ハルキとしては過去と変わらずシステムに乗った部分が大きく、あまり感謝をされてもそれに相応しい実感がない。
頭で分かっていたとしても、いざ目の前で言われると、ついつい遠慮が出てしまう。
「何か。せめて何か、お礼をしないと……」
そんな彼の前で、後になるほど詰まっていく声。
ティアの憂慮は現状の彼への依存による、機嫌を取る打算ではないだろう。
短いながらも共にした日々、彼女の気質は理解している。
(不安ってよりは単純に申し訳なさ、か?)
優しく温和で、父の死という悲劇からの重責を背負い、逃げ出しもせずにハルキの召喚に踏み切った少女。
魔人たちに慕われるだけの振る舞いを含め、その人格は、下手な『人』よりよほど正しい。
人間に追われた魔人に用いるのもな何だが、『人が良すぎる』といえた。
あるいはこれが彼女の求心力の源泉、若輩の身で代表に立つ理由としても。
そのため思い詰めるところがあり、余人に読めない部分があった。
「……私ではダメでしょうか?」
「はあ?」
驚くよりも頓狂な声が上がったのは、むしろ幸いだったかもしれない。
「ですから、その! そういえば、契約の代価もまだ取り決めていませんでしたし。魔王様へのお礼を、私で支払うのはダメでしょうか?」
私が、ではなく私で、ときて。
お話の世界でよくあるような、現実でおよそないような。
魔王に対する報酬を、己の体で支払うのだと。
初日の会談でも言いかけ、執事に遮られた言葉。
我が身という名の唯一のチップ。
目の前の少女の提案に、魔王の方が面食らう。
「ばっ……!」
「不足なのは承知しています!」
反応を断って姫君がいった。
ずい、と。
満たされた湯で立てようもない擬音を見せ、少女が男へと詰め寄る。
近づいた裸身の、濁り湯を帯びた光沢に目をそらし、気圧された魔王が後ろへ退こうと、囲みの岩肌に張り付いた。
「私は歳も魔力もまだ若輩で。魔王様への捧げ物として、不足があるのは分かっています。でも私には…………お父様と違って、私以外に何もありません」
その声に熱情があったなら、魔王の対応も違ったのか。
「ですから」
冷え切った声音は温度と異なる寒さに震え、紡がれる吐息は千々に乱れる。
「私は魔王様に対して、私しか─────差し出せるものがないんです」
魔王が相手を誘う例は数あれど、されるケースは珍しい。
それも空手形とはいえ、相手を好きにできる内容。
嘘をつく娘でないことは、十分なほど承知している。
だからこそ。
(なんというか)
過ぎた真剣味に、聞く方が脱力してしまった。
(ジャンルが違うよな)
カモネギ、と彼の脳内を感想が巡る。
のぼせた頭に回るのは、ネギに野菜に薬味に鍋、後で入れる米や麺まで背負ってきた、丸々と肥えた鴨の姿だ。
据え膳どころか、手酌に『あーん』が付いている。
(けど)
直後に失礼だなと思い、苦笑して余裕を取り戻す魔王。
手を突き出すと、近づくティアをやんわりと止めた。
「とにかく、そういうのは止めてくれ。オレの方が望まないから」
「で、ですが」
「いいんだよ。元々無報酬で受けた、いや、こっちが襲われたのを撃退したのが始まりなんだし。迷宮を司る身としては、遣り甲斐のある仕事だしさ。こっちはオレが満足できればそれでいい。ティアが感謝してくれるなら、それで十分やる気も出るよ」
湯煙に紛れるティアの吐息は、断られての不満より、申し訳なさを含んでいた。
そんな彼女をいい子だな、と感じるからこそ、魔王も始めから譲歩していた。
「では」
顔を俯かせたティアがなおも食い下がるのは、少々以上に予想外だったが。
「それなら、魔王様は」
水面を切った視線を魔王に捧げた少女は、硬く揺らぎのない声で問うた。
「魔王様は。一体、何をお望みなのでしょうか?」
「────────」
魔人の姫にして契約者たる、彼女だから知るべき標。
過不足の問題ではないんだが、と。
喉を出掛かった応えが、語調の真剣さに引っ込む。
突かれてみると、意外な悩みどころだった。
(オレの望み、か)
《召喚》などを受けた時点で、ある種の望みは叶っている。
ティアやグラン、一部の魔人が魔王に感じる、不気味なまでの無欲さの一因。
熱中している幻想の中にずっと居たい。
この時間に、いま感じているあの世界に。
真実、現実、本当のものとして存在したいと。そんな願望にして渇望。
かつて誰もが抱いただろう夢を今、ハルキは確かに手にしている。
それすら叶ってしまった上で、己が何を欲するか。
沈む思考が自身の内を探るうち、この世界での記憶が浚われ、求める答えは其処にあった。
「そうだな」
ティアに向かって切り出しながら、すとんと、結論が落ちていく。
「じゃあさ。オレのことは、名前で呼んで欲しい」
「……? 魔王様を?」
「うん。だからさ。それじゃなく、名前で」
浴場に二度目の苦笑を響かせ、目を瞬かせた相手に告げる。
「初日に名乗った気がするけど、オレの名前はハルキって言うんだ。魔王魔王って役職みたいに呼ばれるのは正直慣れないし、出来れば名前で呼んで欲しい」
本当は、不慣れというのは少し違う。
言うには気恥ずかしいだけで、確かな彼の願いだった。
かつて巨大なる迷宮に座し、独りの戦いに明け暮れていた頃には無縁の、他者との触れ合い。
この異世界に新たな喜びを見出したからこそ、彼は願う。
皆で食事をした時のような、あの温かな団欒に、見て、触れてしまったから。
自身が確かに『ここ』にいると実感したい。
ただの<魔王>などではなく、間違いのない自分自身として存在していたいと。
魔人の前で、人間としての名前は無理だとしても、せめて。
「────────ハルキ」
ティアが鈴を鳴らす声で呟き、湧いてくる想いを留めるように、その響きを含んだ。
不意に名を紡いだ唇を魔王が見詰め、両者の瞳が視線を交わす。
「よろしい、のでしょうか? 本当にそれだけで」
「うん。それがいい」
言外に『そんなことで』と姫がいう。
そして美少女に呼ばれるシチュエーションで、内心くすぐったそうな魔王の雰囲気に気付き、頬に浮かぶ照れの色を見て横を向く。
「ハルキ様は、不思議な方ですね」
顔に続いて姿勢を移し、半身を見せると肩を上げ、湯の中にたゆたう金髪をすくった。
手入れをされた金糸の束から雫が落ち、数回、水音が静寂に染みる。
すっかり温められた顔には喜色が戻り、はにかむ笑みが湯煙に咲いた。
「様付けは……いや、いいか」
その笑顔を一つの報酬として。
彼女や魔人を、しばらくは守って見せようと、ハルキは誓う。
「じゃあ、そういうことで」
お湯の中から手を浮かばせ、ハルキが差し出す。
振り向いたティアも一拍置いて意図に気付き、わずかな羞恥を込めながら、魔王の手を握った。
「改めて。これからもよろしくな、ティア」
「はい。よろしくお願いします、ハルキ様」
お互いのことを知って名を告げ、信頼を交わした、真の契約が成立する。
電脳を種族を現実を越え。
魔王と姫。
人間の物語では結ばれぬだろう2人の絆が、ここに確かに生まれたのだった。
日の当たらぬ迷宮の夕刻。
「不思議な方ですね」
諸事を済ませ、割り当てられた私室に戻った魔人の姫ティア────────ティアリス=ミューリフォーゼは、腰掛ける椅子で呟いた。
魔王と共にした湯浴みは疾うに終わり、今は従者である執事も下がらせ、休息の時を過ごしている。
疲労してのことではなく。周囲の声に従って。
年若い彼女は魔人たちの気遣いもあり、働き通しになることは少ない。
執事は勿論、居合わせた者が必ず止める。
今も小休止の途中で、先代魔王の頃からの近習、敬愛する爺の嘆願によった。
「本当に。不思議な方です」
独白した彼女は身に着けたドレスの裾を寄せ、ぴんと背を伸ばして座っていた。
椅子の背もたれと肘掛から離れ、両手を膝に置いている。
ハルキの手によって生み出された品に、彼の影と影響を感じてしまうのか。
眉を下げ、憂うような照れるような表情を浮かべた少女の姿を、魔石を加工した照明が彩る。
「……裸、見られちゃいました」
辺りには様々な家具あり、衣類棚や化粧台、大仰な姿見や額入りの絵画に客用のイス、歓談のための小円卓、幅広の枕を添えた寝台などが安置され、清潔を保った色や反射を見せていた。
そのいずれもが質を別に、華美な模様や装飾は持たない。
魔王と相談して────彼が彼女の好みを聞き取り────置かれた調度は、角のない丸みや素材の趣が空間に調和し、仮宿といえる迷宮住まいで、彼女にささやかな安息を供した。
その一つ一つを目にしても、ティアの魔王への感想は、やはり不思議な方、となる。
「魔王様────────ハルキ様」
思い出し、思い返し、そして想う。
彼を《召喚》して種族を救われ、迷宮に護られ、共に過ごしてのしばらく。
彼や眷属、小悪魔たちと言葉を交わし、同胞を束ねて再興のために駆け回る日々。
魔王の感じていた温かな暮らしは、ティアの胸の奥底に、奇しくも似た熱を宿していた。
似て非なる、そして近しく募るものを。
「何故、なのでしょう?」
少女には、魔王の優しさがありがたい。
一方的な召喚に応じ、無償といっていい契約を理由に、魔人を助けた新たな王。
何処とも知れぬ彼方から現れ、滅びに瀕した彼女の仲間を、救ってくれた彼の姿。
まるで御伽噺のような、厚意と力を携えた存在。
<魔王の間>で見上げた顔に、<魔王の森>で見た背中に、憧れにも似た想いを抱く。
「どうして」
絶対とも思える権能で麾下の勢力を盛り立て、殺害すらせず敵を倒す。
殺さず、殺させず。
《召喚》の日から数える死者、敵味方に並ぶその『0』は、力の差よりも方針の結果だ。
「もしかしたら」
頬に片手を触れさせたティアが、思案げについと天上を仰いだ。
実のところ、一度本人へ訊ねた際に、相応の答えは得られている。
殺して終わって取り尽くすより、生かして帰してまた来させれば、なお儲かると。
迷宮の経営サイクルのみを優先する、ともすれば魔王らしい言葉。
聞かされた時には尊敬と共に頷いたティアが、真実に気付いたのは後だ。
(ですが)
最初に殺して取れるだけを取るよりも、退却を許して補給した物資を、何度も収穫する方が良い。
一聞して実利的な案は、あくまで通常の場合に限った。
聞けば効率こそ今一だが、既に王国の探索は、迷宮の上層を暴いている。
地の利は失われないまでも、低下の一途を辿っていた。
今や勇者も危惧される状況、些少の利益は情報の対価に吊り合わず、方針を替えるべきといえる。
「本当に。どこまでもお優しい方…………なのでしょうか」
であれば。
もしやその手法の固持は、損得以上に性格ではないのか。
およそ魔王に似合わない形容。
しかし疑問の符も置かず、ティアはそれを口にした。
信じたいと。彼女自身の願いもあって。
「私が喚んだ、私が望んだ魔王様」
────────魔人の姫、ティアリス=ミューリフォーゼは血を好まない。
それ故に長に担がれた彼女の人格は、多く育った環境によった。
大陸動乱期に産まれた世代より聞かされた、<人間>と『戦争』の恐ろしさ。
その後の平和に生まれたからこそ、それは想像の不気味さを併せ、意識に深く根付いている。
殺された魔人と殺し返した人間を数え、嬉々と恐々と語り明かす大人たち。
普段であれば厳しさと慈愛で接してくれる彼らの姿は、幼心に恐怖となった。
無論のこと。
現状でなおも非戦や停戦を訴えるほど、彼女は仲間を蔑ろにしない。
今や魔人は滅亡の手前だ。
それもあって魔王の娘という象徴に加え、思想的にはハト派のティアが代表をしている部分もある。
恨みに任せて突撃し、残った者まで全滅しては意味がなく、己の親や子や伴侶を、この状況で見捨てる者も多くはない。
しかし、彼女自身は既に流血を浴びている。
撃たれれば護らねばならない。攻められれば押し返さなくてはならない。
殺されたら、殺されるなら、殺してでも守りきらなくてはならない。
失ったレーゼの町の防衛戦、<魔王の森>までの撤退戦。
己で立てた乙女の答えは、父の頃より決めていた、間違いのない彼女の覚悟。
そうしなければ殺される。己が、仲間が、種族が全てが殺される。
《召喚》の場に来た敵指揮官の言動が、相手の全てを語っていた。
「ハルキ様。もしかしたら、アナタも。同じお気持ちなのでしょうか……?」
いまだ迷宮に転がらない骸、殺戮をあえて命じない魔王に姫は思う。
呟きはどこか案じるように、縋るように漏らされた。
身に秘めた決意のため、彼女には魔王の不自然に隠す懊悩が見える。
それはきっと魔人の中で誰より多く、彼と対等に語らったから。
主として仰ぐ眷族も、力を願う魔人たちも、おそらく気付いてはいない。
想像して共感する痛みに、切々とした吐息が漏れる。
「だとしたら。お優しいにも、ほどがあります」
殺し合うことが避けられずとも、その数だけは減らしたい。
微笑を浮かべて少女が言う。
自ら招いた救済の王がそのような徳まで備えていれば、どれだけよいかと心中に巡らせ。
思い起こす彼の顔に、共にした湯殿の熱を覚えた。
「ハルキ様……」
仰ぎ、泳がせた視線がゆっくりと目蓋に隠される。
温度を上げた呼気が、緩く紡がれて溶けた。
俯くと、赤くした頬を手の平で包む。
「本当に不思議な方です」
恩がある。感謝がある。義理がある。
頼らざるを得ない状況があり、助けてくれる器量がある。
ティアの願いで招かれ、彼女の仲間を殺さんと迫った敵を蹴散らし、《契約》の通りに安全な暮らしと庇護をくれた。
人間の側からすれば堪ったものではないが、種族を救って復興させる活躍は、まるで無欠の英雄だ。
人間に追い詰められるうち、ティアが幾度も願った憧れ。
きっと当人は知らないだろうが、ある種の箱入りで育った彼女に、親身に接してくれる初の、身近で年頃な異性でもある。
最初の印象から強烈で、惹かれるものがあったといえば嘘にはならない。
眷属などとのやり取りを見れば意外に普通の性格で、ティアに色々と話してくれる、稀有な男性でもあった。
「何もかも、急過ぎたのかもしれませんね」
魔人の窮地も召喚も、事後の諸々も含めて。
浴場の中で迫った時、彼女は本当に自分を差し出すつもりだった。
結果はあえなく断られたが、その後にされた申し出により、代わりに一つの確信を得ている。
名で呼んでくれと。
あの状況でそれだけを求めた彼の心は、きっと強くも邪悪でもなく、ただひたすらに正しいのだと。
今はまだ、こちらが頼りっぱなしだが。
いつか。いつか。
その恩義には報いた上で、対等あるいは正式に付き合い、彼を王として戴きたい。
そう、ティアリス=ミューリフォーゼは考えていた。
だからこそ。
「いざという時には、私が」
魔王の召喚者として、己が取るべき刃を担う。
きっと、魔王の敵に自分では及ばないけれど。
もしも魔王が殺すことを嫌っていて、誰かに命じてやらせることでも、痛みを感じるのであれば。
せめてそれは、彼を喚んだ自分自身が受けようと、ティアは思った。
「この力とこの手で」
前髪を払い、額の<召喚石>を撫でる。
既に火蓋は切り落とされた。
騙まし討ちで開戦した以上、王国は決して諦めない。
新たな魔王を戴いた魔人も、そう易々と負けはしない。
これが泥沼の戦いとなるか、または一種の革新となるか。
「だから。今しばらく」
魔王ハルキを召喚したことで魔人が救われ、そのために大きな歴史の乱れに身を投じるなら、先ずは己が覚悟を決める。
「どうか、私たちをお守り下さい…………ハルキ様」
そう、彼を<魔王>よりも一個の存在と見始めた姫は、確かな意志と曖昧な感情を胸に抱き、しばし安息へ身を委ねた。
思い描く彼の腕に抱かれるように。彼の迷宮に守られながら。
異界の魔王と魔人の姫、想いはここに結ばれた。
互いの糸は知らずとも。敵の意図を知らずとも。
かくて日は落ち────────────────決戦が始まる。
次回「第15話 そして襲い来る光」は12月18日(水)18時を予定。
それでは皆様、ありがとうございます。
※掲載同日に後半部、ティアの部屋からの描写を修正。
「アジア」表記になっていた部分を「ある島国」に修正しました。作者のミスです。感想でのご指摘、ありがとうございます。